6話 ~漆黒の徘徊者~
「はぁ……」
撫子の突然の提案によってリビングには竜胆一人が取り残され、穏やかな静寂が降りていた。
ようやく落ち着いた彼はソファに腰かけて今日起きたこと、そして知ったことを頭の中で整理し始めた。
父が危篤状態に陥り、王位継承のため七人の子供たちにそれが知らされた。
そして第五子にあたるヘイグ・ブルーハが竜胆を狙ってこの町に来ている。
学校で噂になっていた吸血鬼事件の犯人は、間違いなく彼の眷属たちによるものだろう。
自分の身や周囲の人間を守るためにも、余計な被害者を出さないためにも、早急に王位継承の争いから降りる旨を伝えなければ。
「……?」
考えを巡らせている最中、視界の端に映る窓の外で何かが動いた。
竜胆は立ち上がって庭へと降りる大窓の方に歩み寄り、窓を開けた。
刹那、竜胆の眼前で影のような霧が結集して、無から有が形作られていく。
「……っ!」
これは吸血鬼の【霧化】。まさかヘイグの眷属がまた襲ってきたのだろうか。
そう考えた竜胆は一気に緊張の糸を張り詰めさせ、臨戦態勢に入った。
「あぁ、すまない。私はヘイグの眷属ではないよ」
影の霧が完全に人の形となったところで、竜胆の警戒心を和らげる優し気な声音が響いた。
その声に聞き覚えがあった竜胆は、臨戦態勢を解いて目を凝らす。
「あなたは確か……」
庭に現れたのは黒の短髪に夜闇の中でも輝く赤目を持つ人物、いや吸血鬼であった。
黒のロングコートをその身に纏い、夜と同化している彼は小さく笑った。
「ヴァールハイト様の側近、クドラクだ」
「あぁ、お久しぶりです。母さんのところに来た側近の吸血鬼って、あなたのことだったんですね」
「王妃から聞いたのだな……。 竜胆君……王のこと、いや御父上のこと、本当にすまない。私たちが付いていながら……」
撫子が王妃と呼ばれていることが柄じゃないと感じながらも、竜胆は頭を下げるクドラクに言葉をかける。
「いえ、死んだわけじゃないんだからそんな……。それよりどうして家に?」
「あぁ、王妃の警護のためこのあたりにいるんだが、竜胆君に一つ忠告をしにな」
「忠告……?」
「ヘイグ・ブルーハと戦おうなどとは思わないでくれ。 王の血を引く奴は強力な力を持ちながら、人間を食料としか思っていない凶悪な吸血鬼だ」
クドラクは拳を握り、険しい表情で竜胆に忠告した。
王の側近である彼にここまで言わせるほど、ヘイグ・ブルーハは強力な吸血鬼なのか。
「えぇ、大丈夫です。 俺は王位継承の争いに加わる気はないです。 そもそも俺にそんな力はありませんよ」
「そうか……。先ほどの言葉と矛盾してしまうが、君が王になってくれると私は嬉しいんだがな。まぁ戦わずして王になれるほど他の兄姉たちは甘くないはずだ。それに王妃は君が傷つくところを見たくはないだろう。その判断は懸命だ」
「混血の俺が王なんかになったら大変なことになりますよ。ちなみに兄姉の中で一番王に近いのは誰なんですか?」
クドラクの発言に苦笑いを返した竜胆は、現在王位に近いのは誰なのかを問うた。
「順当に長兄のヴラド・ヴァンピールだろうな。彼の派閥は現王の勢力に追いつきそうなほど大きなものだ。そして何より彼自身の力が強すぎる。若かりし頃の王を彷彿とさせる彼には、他の兄弟が束になっても太刀打ちできないと思えるほどにな……」
クドラクは先ほどヘイグの説明をしたときよりも、さらに険のある表情でヴラドについて語った。
「なら、ヴラドが王になってこの王位継承の争いは終わりそうですね」
「このままならそうだろうな……。 けれど彼の人間に対する感覚は常軌を逸している。自分が王になった暁には、人類を完全に統制して吸血鬼の世界にするつもりでいるらしい」
「吸血鬼の世界……」
「それと似たような考えを持っている兄弟は他にもいる。 第三子キュルテン・ギルディン、第五子ヘイグ・ブルーハ、第六子フリッツ・ウピオル。彼らは皆、人間を食料としてしか見ていない過激派なんだ。彼らを王にするのはヴァールハイト様の意向にそぐわないだろう」
六人いる兄弟の内、四人が過激派に属していることを知って竜胆は戦慄した。そして平和な日常が吸血鬼に支配される未来を幻視した。
「他の二人は……?」
「第四子のジルドレイ・ルガド、彼は今のところ何の動きも見せていないのだが、過激派ではない。そして第二子エルゼベート・ロザリアはヴラドに次ぐ勢力を持ちながら、人間と融和的な関係を築こうとしている吸血鬼だ。 彼女が王になれば人間と吸血鬼がうまく共存する世界になるかもしれない」
クドラクは空に浮かぶ月を見上げ、自身の想いを口にした。
「王室の者が候補者に肩入れするのはあまり良くないのだがな」
クドラクは苦笑しながら過激派ではない二人の後継者を推した。
人間と融和的な吸血鬼が後継者となるのであれば、願ったり叶ったりだ。
それこそが竜胆が望む吸血鬼と人間のあり方であり、その未来が現実となることを心から願っている。
「クドラクさん、だったら俺も」
「ダメだ。君はあの方と王妃の子供、私たちにとっても大切な存在なんだ。そんな君をみすみす危険な場所へなど連れて行けない」
「そう……ですね」
クドラクの話を聞いて絶対にヘイグを止めなければならないと感じた竜胆は、彼との争いに自分も加わると言おうとしたが、それはすぐに断ち切られた。
クドラクの言葉の端々からは、本当に竜胆を大切に思っていることがひしひしと伝わってきた。
それを理解できない竜胆ではないため、それ以上無理を言うのをやめた。
「取り敢えずこの町に潜伏しているヘイグ・ブルーハの対処は私と日輪家の吸血鬼たちに任せてくれ」
「日輪家……」
「大丈夫だ、君の幼馴染の娘はヘイグとの戦いには加わらせない」
日輪家の名前が出た途端、満月の顔が過ってしまった竜胆の表情に影が落ちた。
それを見逃さなかったクドラクは、彼を安心させるように笑いかけた。
そして竜胆の肩に手を置いて言葉を継ぐ。
「君は自身の手の届く範囲にいる大切な人を守るんだ。君たちの秘密を知ってなお、傍にいることをやめなかった彼女のような人間をな」
「っ……!」
クドラクの言う竜胆にとって大切な『人間』。
その言葉を聞いて、真っ先に黒髪の少女の横顔が浮かんだ。
「はい……必ず……!」
そして竜胆は拳を強く握りしめ、クドラクの瞳をまっすぐに見つめた。
そして彼女のことは何があっても必ず守り抜くことを誓った。
誓いの色が灯った竜胆の双眸を見たクドラクは、ふっと笑みをこぼして竜胆の肩から手を放した。
「さて、じゃあ俺はヘイグ一派の根城を探すとするかな。奴らは夜半に人々を襲っている。そこで眷属を捕えて吐かせれば居場所が分かるはずだ」
「一人で行くんですか……?」
竜胆に背を向けて闇の中に消えようとするクドラクに、竜胆は小さく問いかける。
その問いに対して彼は紅の双眸を怪しく光らせ、吸血鬼特有の牙を覗かせながら自信満々に笑った。
「私を誰だと思っているんだ? 君の御父上の側近だぞ。ヘイグの眷属程度に後れを取るなどと思われては困るな」
そう言い残して影の霧と化したクドラクは、闇夜にまぎれて消えていった。
竜胆は彼の笑みに頼もしさを覚えつつも、過激派のヘイグがこの町にいることによる不安をぬぐい切れずにいた。
「「きゃぁぁぁぁ!!!」」
「!?」
その不安を、拳を握りしめることで払拭しようとしていた竜胆の元に、重なった甲高い悲鳴が届く。その発生源は浴室の手前、脱衣所からであった。
竜胆はすぐさま扉に駆け寄り、しかし開けることを逡巡する。
だが自分たちを取りまく状況を考えると、本当に危険なことに巻き込まれているかもしれない。
そう考えた竜胆は意を決して脱衣所の扉を開けて中に飛び込んだ。
「どうした!?」
「っ……」
「り、りんくん!?」
竜胆が脱衣所に足を踏み入れるや、まず目に入ったのがそれぞれ水色と橙色のバスタオルで自身の肢体を隠す弦月と満月の姿であった。
浴室から上がったばかりなのか、髪が水分を多分に含んでおり、上気して薄っすらと朱を差す体中に水滴を浮かべていた。
弦月のすらりと伸びた細身の肢体は無駄なものが何一つなく、その流麗なスタイルはバスタオルの上からでも他者を魅了する。
美の女神が現世に顕現するならば、彼女のような完璧な肢体を選ぶだろう。
その隣の満月は弦月に比べて肉付きがよく、しかし太っているわけではない。
適度についた肉は鍛えられた筋肉でありながらも、女性らしい柔らかなもののように見える。
そしてバスタオルを押し上げる双丘は弦月とは比べ物にならないほどに主張していて、視線を釘付けにする。
「りんくん、見過ぎだよぅ……」
「っ……!」
「わ、悪いっ!」
湯上り姿の二人につい見とれてしまっていた竜胆は、満月の恥じらう声と、頬を紅潮させてこちらを睨みつける弦月の視線にはっとして、二人から目を背けた。
「りんちゃん助けて~~~!!」
次いで胸の位置までをタオルで包み隠した撫子が、目尻に涙を浮かべながらこちらに走ってくる。
満月ほどではないが、それなりに豊かな双丘がバスタオルを押し上げ、肢体もみずみずしさを失っていない。
実母ながら化け物じみた若々しさだと竜胆は呆れつつ、自身の胸に飛び込んできた彼女の身体を受け止めた。
「な、なにがあったんだ?」
「奴が、奴がいたのよ……!!」
「奴……?」
やはりヘイグ派の吸血鬼が竜胆の身近な人間を狙って現れたのか、と考えた竜胆は一気に警戒心を強める。
そして浴室の方に目を向けてみるが、そこに満月と弦月以外の存在は確認できない。
「奴だよ奴! ゴキ」
「その名を口にしないで!」
満月が必死になって説明しようとしたところを、弦月もまた必死に遮る。
この反応、なんだか読めてきたぞ。
「奴は一目見たら三十の軍勢を引き連れているとされている、漆黒の徘徊者……」
弦月が目を見開き小刻みに震えながらぶつぶつと呟く。
「ゆ、ゆづちゃん、キャラが崩壊してるよ!?」
言葉を遮られた満月は隣で弦月の様子を見て汗をかく。
普段の弦月と声の調子は変わらないのだが、言葉選びが究極的に残念になっている。
「要するにゴキブリだろ?」
三人が奴と呼称するものの正体を竜胆が言い当てた瞬間、黒光りする生物が物陰からものすごい勢いで飛び出した。
「いやっ……!」
それを目にした瞬間、弦月は両手を耳元に当てながら瞼を強く閉じ、現実から逃避した。
「あっ、ゆづちゃん!」
それによって押さえが外れたバスタオルが重力に負けてひらりと、弦月の身体から剥がれ落ちていく。
当の本人は未だそれに気づいておらず、隣の満月は自身のバスタオルを片手で抑えて、空いた方の手で弦月のものを押さえようとするが、それはもう後の祭り。
「「あ……」」
弦月から水色のバスタオルが完全に剥落し、彼女のしなやかな肢体があらわになった。
遅れてそれに気づいた本人は瞼を持ち上げ、竜胆と全く同じタイミングで声を上げた。
そして二人の視線は交錯し、弦月は身体を見られたことによって目を白黒させていた。
竜胆は脳裏に焼き付いてしまった彼女の肢体を振り払おうと頭を振り、言葉を継ぐ。
「取り敢えず三人はここから出てくれ! その間に俺が何とかしとくから!」
竜胆は頬を紅潮させながらも三人をこの場から退却させ、たった一人で黒光りする生物との戦いに興じた。




