4話 ~暗雲~
校門を出て道なりに十分ほど歩き続けたところに竜胆の家があり、そこからさらに三分ほど歩いたところに弦月の家、五分ほど歩いたところに満月の家がある。
竜胆の家は彼女たち二人の通学路上にあるので、登校時に一緒になることがままある。
弦月は毎朝律儀に竜胆の家の前で待ってくれているが、満月は遅刻ギリギリで登校してくるため大体時間が合わない。
「ん~、今日も疲れた~。あと何日行けば夏休みかな~?」
「お前ずっと寝てただけじゃん……」
「りんくんうるさいよ……!」
竜胆の呟きに敏感に反応した満月はじろりとこちらをにらんできた。
何故正論を言ったのに睨まれるのか。
「まだ春休みが明けたばかりだから三か月……九十日くらいかしら」
「やめて! 日数に直すと長く感じちゃうから!」
「あなたが何日って聞いてきたのでしょう?」
満月の問いかけに対し、弦月はわざわざ日数換算して答えた。
その返答に耳を塞ぐ動作を見せた満月に、弦月は得意げな笑みを見せた。
月が完全に現れる前には十六夜家に着くはずだったのに、満月の寄り道のせいでその寸前になってもまだ到着していない。
「だから寄り道なんてするなって言っただろ!」
「満月の言い分に乗ってしまった私にも責任はあるわ……」
「ごめん~! 撫子さんにごちそうになってばっかりじゃ悪いと思って~!」
三人は残りの帰路を駆けながら器用に言葉を交わす。
満月の寄り道の理由は夕食時の飲み物や竜胆の母、撫子へのお土産を買うためであった。
コンビニでスイーツや菓子折りを熟考している間に月が完全に顔を出そうとしていたのだ。
必死に走る三人の前に、曲がり角から一人の通行人が現れた。
「……!」「ごめんなさ~い!」「っと……!」
弦月、満月と突如現れた通行人を華麗に躱し、最後に竜胆も簡単に避けきった。
フードを目深にかぶっている通行人の顔は遠目からははっきりと見えなかったが、三人とすれ違った時に起きた風圧でその面貌があらわになった。
そこから覗くのは見開かれた瞳。しかしその色は鮮血のような深紅であった。
「見つけタ」
竜胆を赤色の双眸に収めた通行人は赤い瞳を爛々と輝かせ、口端を割いてそんなことを呟いた。
そしてすれ違いざまの竜胆の右手が物凄い力で掴まれる。
「!?」
刹那、竜胆の身体が宙を舞い、来た道の方向へと投げ飛ばされた。
「……!?」
「りんくん!?」
弦月が息を呑む声と、満月の甲高い声を宙で聞いた竜胆は、何とか体勢を立て直して見事に着地した。
「こいつ……」
竜胆は片膝を地面に着いた状態で、自分を投げ飛ばした通行人のことを見上げた。
その視線が、血のような紅の双眸を持つ通行人のものと交わる。
瞳から読み取れるものは明らかな敵意であり、竜胆を獲物として捉えている。
「お前ガ真祖ノ王ト人間ノあいのこ、十六夜 竜胆ダナ」
片言の日本語で問いかけてくる赤目の通行人に、竜胆は警戒を解くことなく問いを返す。
「お前こそ誰だよ……? なんで俺のことを知ってる……?」
「大丈夫、りんくん!?」
そんな竜胆の元に満月と弦月が駆け寄ってくる。
竜胆の顔を覗き込んでくる満月の瞳も、通行人と同じように紅に染まっていた。
「あぁ、大丈夫だ。 それより満月、目」
「あ、もう完全に月出ちゃってるね……」
忠告された満月は夜天を見上げて、そこに浮かぶ三日月を見上げた。
そしてその視線を赤目の通行人に向けなおして呟く。
「でもいいよ、この人も吸血鬼みたいだしね」
「御名答、同族ヨ。私ハ真祖ノ王ノ血ヲ受け継ぐヘイグ・ブルーハ様ノ眷属ダ」
満月に対する称賛に、しかし彼女は敵意を持った視線を返した。
都合四つの同色の瞳が、闇夜に輝きながら相対する。
竜胆たち三人が、いや竜胆と満月が日常生活で隠し続けている『人』に知られてはならない秘密とは、二人が吸血鬼であることであったのだ。
厳密にいえば竜胆は吸血鬼と人間のハーフであるが、それでも常人離れした身体能力や回復能力を持っている。
満月は純血の吸血鬼であるため抑えても途轍もない運動神経だったり、太陽に弱く日中眠ってばかりだったり、月が昇ると瞳が赤に染まるという特性があるのだ。
「ヘイグ……?」
竜胆は立ち上がりながら赤目の通行人、いや吸血鬼の言葉の中に出てきた人名を繰り返した。
真祖の王というのは竜胆の父であるヴァールハイト・アルカードのことだろう。
その血を引くということはつまり、ヘイグ・ブルーハという吸血鬼は竜胆の異母兄弟にあたるのではないだろうか。
「お前ノ義兄ニあたる方ダ。まぁ、出来損ないノお前ト違ってヘイグ様ハ偉大ナ吸血鬼だがナ!」
「ちょっと! りんくんは出来損ないなんかじゃ……!」
「いいよ、満月」
竜胆は満月の反論を手で制した。
自分が人間と敵対する吸血鬼たちからどのように呼ばれているかなど知っている。
不純な人間の血が混ざった欠陥品。
出来損ないの混血真祖と。
「で、その出来損ないに何の用だよ? まさか弟に食事のお誘いをしに来たってわけでもないだろ?」
竜胆は小さく口角を上げながら軽口を叩く。その言葉に眷属の吸血鬼は目を細めた。
「お前、何モ知らないのカ?」
「……?」
「知らないノなら構わない……」
落胆したような口調で呟いた後、眷属の吸血鬼は身体を左右に揺さぶり始めた。
「何モ知ることなく候補カラ消えてもらう!!」
そして次の瞬間、彼我の距離が一気に零になり、風切り音と共に竜胆の顔面目掛けて拳が放たれる。
「ッ……!!」
瞬き一度の間に放たれた拳に、竜胆はなんとか反応して頬すれすれの位置へといなした。
そして反撃の拳を繰り出すとともに、声を張り上げる。
「満月、弦月を連れて下がれ!!」
「う、うん!」
その指示に咄嗟に反応した満月は、弦月を抱きかかえて数メートル後方へ跳んだ。
高校生の女子が人一人を抱えてそんなことできるはずないが、彼女は吸血鬼だ。何もおかしなことはない。
竜胆の拳は満月と同じように、後方へ飛び退いた眷属の吸血鬼に寸前のところで躱されてしまう。
「出来損ないデモこの程度ハ反応出来るカ。ではこれハどうだ?」
そう言った眷属の吸血鬼の身体が希薄化して黒い霧のようになり、やがては完全に消失した。
これは吸血鬼の特性の一つである【霧化】だ。
吸血鬼は元来変身能力を備えていると言われているが、それはこの【霧化】の応用で、自身の形状を変化させているのだ。
「ッ……!」
日中であれば【霧化】した身体が日光によって目視できるものの、日が沈んだ夜闇に紛れ込まれてしまうと目で追うことは不可能だ。
したがって竜胆は瞼を閉じて視覚を遮断し、気配だけを察知することだけに専念した。
「諦めたのカ……? ならばさっさト死ぬがいい!」
その声と同時に背後で吸血鬼の身体が再構築され、竜胆の背を貫こうと手刀を放ってきた。
「諦めてなんかいない」
しかしその手刀は身を翻した竜胆によって掴まれ、眷属の吸血鬼は背負い投げの要領で地面に叩きつけられた。
「甘いナ」
だが叩きつけたと思っていた吸血鬼の身体は、接地した部分を【霧化】することで衝撃を和らげていた。
そして腕をつかまれた状態のまま、鞭のような蹴撃を放ってくる。
それを見た竜胆は、咄嗟に手を放して間合いを取ろうとした。
だがそれが眷属の吸血鬼の罠だった。
両手が開いた吸血鬼は頭の左右の地面に両手の平を付け、跳ね起きの要領で飛び上がったのだ。
「ッ……!」
その足先には後方へ体重移動し、跳び退いて間合いを取ろうとする竜胆がいる。
しかし跳び退くことが出来たとしても、跳ね起きの速度の方が速いため命中は必至。
「終わりダ、出来損ない!!」
その両足が竜胆の身体を捉える寸前、彼の姿が残像のようにぶれた。
そして瞬きの後に、その身体が足の直線上から右にずれていた。
「なんダ……!?」
眷属の吸血鬼は竜胆のあり得ない動きに目を見張った。
何故重心が完全に後ろにある状態で右に動くことが出来たのか。
斜めではなく真横だ。吸血鬼の運動能力があっても説明がつかない。
「ごめん、りんくん!」
しかし吸血鬼の動揺は、上空から降ってきた声によってかき消される。
「か、はッ……!!」
刹那、跳ね起きた眷属の吸血鬼の身体が、そこだけ重力が倍加したかのように思い切り地面に叩きつけられた。
あまりの勢いだったため、コンクリートの地面に小さいながらも亀裂が走った。
「満月!?」
「あはは、二人でやっつけた方が早いと思って」
突如現れた満月に驚く竜胆は、重心が完全に後ろにあったため、よろめきそうになったものの何とか立て直した。
そして目の前で起きた出来事が、跳躍してきた満月の攻撃によるものだと理解する。
弦月と共に距離を取った満月と竜胆との距離は十メートル近くあった。
しかし力を抑えていない状態の彼女からすれば、その程度は小さな水溜まりを飛び越えるようなものだ。
「まぁ、助かったよ」
竜胆は足元に蹲る眷属の吸血鬼を見下ろしながらそう呟いた。
仰向けで叩きつけられた眷属の吸血鬼は、腹部を押さえてのたうち回っていたものの流石は吸血鬼だ。すぐに痛みが回復したのか、未だ腹部を押さえつつも立ち上がった。
「くッ……! 流石ニ二人相手ハ厳しいか。 ……!!」
悔しげな表情で呟く眷属の吸血鬼は、竜胆たちの背後に目をやると驚いたように一歩下がった。
そしてフードを目深に被りなおして言葉を継ぐ。
「今日ノところハ退くとしよう。しかし王位ヲ継ぐのハ、ヘイグ様ダ……!」
そう言い残し、眷属の吸血鬼は【霧化】して闇夜に溶けていった。
「王位を……継ぐ……?」
竜胆は彼が言い残していった言葉に引っ掛かりを覚えて黙考する。
今現在、というよりここ千年近くは竜胆の父、ヴァールハイト・アルカードが王として世界中の吸血鬼をまとめていたはずだ。
眷属の吸血鬼が言っていた王位がそのことだとしたら、一体どういうことだ。
「よ、竜胆にお二人さん。こんな時間に何してんだ?」
思考の底に潜っていた竜胆の意識は、その声によって現実へと引き戻された。
その声の主は弦月の背後から歩み寄ってきて、こちらに手を上げて挨拶してきた。
「聖……!? 満月、振り返るなよ」
「う、うん」
その声の主がクラスメイトの伊吹 聖だと分かった瞬間、囁くように満月に注意した。
今の満月は瞳が赤に染まっている。
それをクラスメイトの聖に見られるわけにはいかない。
「これから竜胆の家で夕飯をいただくのよ。こんな時間になってしまったのは私の生徒会の仕事が終わるのを待っていてくれたから」
こそこそと話していた竜胆と満月に不信感を覚えて歩み寄ってくる聖に、横手から答えたのは弦月であった。
「あぁ、そういうことか。なんか朝話してたな」
「お、お前も来るか?」
「いんや、幼馴染水入らずのところ申し訳ないから遠慮しとくわ~。 んじゃ、蒼井さんも満月ちゃんもまた明日」
聖はそう言い残して身を翻し、自身の家がある方向へと歩いて行った。
「ふぇ~……」
聖が去ったことを確認すると、満月は情けないため息をついて脱力した。
「危なかったな。眷属も聖も」
二重の意味での困難を乗り越えた三人は小さくため息を吐く。
そして弦月が竜胆たちを追い抜いて振り返った。
「取り敢えず竜胆の家に行きましょう。今日のこと、撫子さんにも報告した方がよさそうだし」
先頭に立った弦月は深刻そうな表情でそう呟いた。
それに頷いた二人は、彼女の後を追うように帰路に着いた。