2話 ~とある少年少女の日常Ⅱ ~
三時限目、体育。
三クラス合同で行われる体育は、着替えを済ませて男女ともにグラウンドへ集合して行われた。
学年が二年に上がって数週間、体育の時間は体力測定の種目を消化していく形式となっていた。
「では今日は五十メートル走、ボール投げ、立ち幅跳びの三種目をクラスごとにローテ―ションして行います。まず一組はボール投げ、二組は五十メートル走、三組は立ち幅跳びを測定してください」
体育教師の指示のもと、それぞれのクラスが各々の測定種目の場所へと移動し、測定が始まった。
クラス委員長の提案でまず男子が走り、それを女子が測定するという運びとなった。
「七秒六」
「八秒一」
「六秒九」
その淡々とした声は測定係を買って出た弦月のものであった。
彼女は学校指定の長袖長ズボンのジャージに身を包み、ストップウォッチを握っている。
その隣には半袖半ズボンの満月が、記入係としてタイムを名簿に記入していた。
記入を終えると、スタートライン側に笑顔でOKのサインを送ってくる。
あんな服装だというのに彼女たちの美しさは押しとどめられることなく、走る男子たちのやる気を底上げしている。
「見とけよ、竜胆。クラス一の記録を出してやるからな」
そう言ったのはクラウチングスタートの姿勢で掛け声を待っている聖であった。
彼は次に控える竜胆へ不敵な笑みを向けた後、ゴールに視線を戻して真剣な表情になった。
「よーい……」
こちらのスタートライン側に立って掛け声をかけているのはクラス委員長である。
ポニーテールに眼鏡という清楚で真面目そうな印象をの彼女は、聖の準備が整ったのを確認するや声を放った。
「どんっ!」
完全に声と同時に聖の身体が弾丸の如く前へ躍り出た。
クラウチングスタートからの低い姿勢で序盤から加速し、終盤もその速度を落とすことなくゴールのラインを走り抜ける。
これは確かにクラス一の大記録が出るかもしれない。
「六秒三」
「よしっ!! 見てくれてたか、蒼井さん満月ちゃん!!」
ゴールラインを走り抜けた聖が、数メートル先の場所でガッツポーズをした。
そして折り返してくると、弦月と満月に自身の活躍を誇示するようにそう問うた。
「えぇ、測定していたのだから。このままいけばクラス一番よ」
「うん! ひじりんすっごく早かったよ!」
そっけなく(見えるだけで本人はいたって普通に)答える弦月と、元気いっぱいの笑顔を見せる満月。
それに感激した聖はこちらに向かって親指を立ててきた。
それに空笑いを返した竜胆はふと聖に問われて思考したことを思い出し、こちらから五十メートル離れた位置にいる弦月と満月を見やる。
誰もがうらやむ高嶺の花と、クラスのアイドルのような少女二人と共にいることは確かに羨望の的になるのだろう。
しかし竜胆たちはお互いを守るため、常に行動を共にしているのだ。
絶対に『人』に知られてはいけない秘密を守るために。
「竜胆君、どうしたの? 次は君の番だよ」
「!! 悪い、委員長」
俯かせた顔を委員長にのぞき込まれてはっとした竜胆は、急いでスタートラインに立った。
クラウチングよりスタンディングの方が得意な竜胆は、少し腰を落としただけでスタートの準備を完了させる。
しかし頭の方は先ほどの思考が抜けきっておらず、もやもやとしたままだった。
「よーい……どんっ!」
委員長の掛け声と同時に地を蹴る。
刹那、一際強い風が竜胆の背中を押した。
それによって加速した彼の身体は、後方から吹き付ける風と同化したかのような速度で五十メートルを駆け抜けた。
「!!」
その光景を見ていたクラスメイト達は目を見開いて驚愕し、その視線をすぐさま測定者である弦月の元に向けた。
「……ッ!」
まずい。他のことを考えながら無意識に走ってしまった。
ゴールラインを走り抜けた先で振り返る竜胆は、走ったこととは関係のない冷や汗を背に流していた。
「……六秒ジャスト」
周囲の視線を集めていた弦月が口を開くと、わっと歓声が沸き上がった。
先ほどの聖の記録を超える大記録。それに沸き上がった女子たちは黄色い歓声を竜胆へ送っていた。
「ふぅ……」
竜胆は頬を伝う冷や汗を拭いながら、弦月の元へ折り返した。
彼女がこちらに冷たい視線を送ってきているのがひしひし感じられる。
「五秒ジャスト。やり過ぎよ、抑えなさい……」
「悪い……助かった」
弦月の計らいによって加算された一秒によって竜胆は羨望の眼差しを送られる程度にとどまった。
五秒ジャストなど日本記録どころか世界記録すら超えてしまっている。
「りんくん、ちゃんと抑えないとダメじゃ~ん!」
「お前にだけは言われたくないな……」
竜胆は呆れたような半目で満月を見つめて嘆息する。
そして二人の元から離れてスタートライン付近に戻ろうと歩いていると、恨みがましそうな目でこちらを見ている生徒がいた。
「お前、俺の記録をあっさり抜きやがって……!」
聖である。彼の記録もかなり良いものであったが、直後の竜胆のタイムによって完全にかき消されてしまった。
「ほんとほんと! めっちゃ早くて、六秒どころじゃないように見えたよ~!」
「十六夜くん、一年の頃からこんなに速かったっけ?」
「ちょっ、お前ら……!」
竜胆の前に立つ聖を押し退けて、クラスの女子数人が彼の周囲に群がる。
「運良く追い風が吹いただけだよ。普通に走ったらきっと聖の方が速い」
嘘は言っていない。竜胆の計測の際に追い風が発生していたことは事実だ。
そう笑いかけてクラスの女子からの追求を躱し、男子が並んでいる場所まで戻った。
「眉目秀麗、頭脳明晰。そのうえ運動神経抜群で謙虚さまで兼ね備えてる。王子様とはまさに竜胆くんのことを表すためにあるような言葉ね」
「でも私たち凡人じゃ手の届かない人って感じだよね~。それにあの二人がライバルなんて可能性ゼロだよ」
竜胆の背にうっとりとした表情を向ける女子と、呆れたような笑みを浮かべる女子は弦月と満月の方に目をやって小さなため息を吐いた。
「りんくんは今日も大人気だね~」
「……そうね」
呑気な満月の声に、弦月がほんの少しだけむすっとした表情で答える。
その様子を見た満月は、にやにやとした表情で弦月の顔を覗き込んだ。
「もしかして妬いてるの?」
「ちっ、違うわよ」
「もぉ~、ゆづちゃんは可愛いな~!!」
満月は焦って否定した弦月に抱き着きながら、頬を摺り寄せた。
その行動に弦月は鬱陶しそうな表情を浮かべるが、心の底から嫌がっている素振りは見せない。
「ちょっ、満月、離れなさい……」
クラスのアイドルと学園の高嶺の花がじゃれ合っている姿を遠巻きに見て、クラスの男子たちは呆けた表情を浮かべている。
中には男子たちと同じような状態に陥って、背景に百合の花を咲かせている女子もいた。
その後、二回目の測定を終えた男子と入れ替わりで女子が計測することとなった。
ちなみに二度目の計測で竜胆は大幅に下がった六秒九という記録を出して、一度目が追い風によるまぐれだったということを示していた。
「よ~い、どんっ!」
委員長に代わってスタートの合図を送っているのは聖だ。
そして弦月からストップウォッチを受け取ったのは竜胆である。
「九秒三」
「八秒九」
「九秒六」
女子の計測は何事も無く順調に進んでいき、次は弦月の番となった。
「ゆづちゃん、頑張って~!」
クラウチングスタートの体勢の弦月に、満月がエールを送る。
それに無言の肯定を返した彼女は瞼を閉じた。
「よ~い……どんっ!」
聖の掛け声と同時に弦月が完璧なスタートを決める。
彼女のフォームは完成されており、これまでの女子とは明らかに異なっていた。
風になびく黒髪からはさらさらと音が聞こえてきそうで、周囲の男子が呆然と彼女の疾走を眺めていた。
「……八秒一」
そして竜胆は彼女の記録を言い渡す。
女子の平均タイムをかなり上回る好記録といえるだろう。
それを聞いた弦月は、少し不満そうな表情をしながら折り返してきた。
「七秒に乗らなかったのね……」
「いや、女子でこの記録は相当速い方だろ。お前は何を目指してるんだ」
「満点よ」
「体育ごときでそんなにむきになるなよ……」
弦月の負けず嫌いは今に始まったことではないが、何でも一番にならなければ気が済まないのだ。
だがその上昇志向は竜胆にはない美点である。
「次はもっと速く走るわ」
「はいはい、しっかり測りますよ」
弦月の宣言を軽く聞き流した竜胆は、ストップウォッチをリセットして次の測定の準備に入った。
隣の記入係がスタートラインに立つ聖にOKのサインを送る。
「りんく~ん! 見ててね~!」
「測定するのは俺なんだから、見てるに決まってるだろ……」
スタートラインから元気に手を振ってくる満月に突っ込みを入れた竜胆は、軽く手を上げて応えた。
それを見て満足げな表情の満月は、クラウチングスタートの体勢で竜胆の合図を待った。
「よ~い、どんっ!」
聖の掛け声とともに満月の身体がスタートラインから飛び出した。
一瞬で加速した彼女は、五十メートルの距離を風と共に疾走する。
「あのバカ……!」
竜胆はストップウォッチを握りながら焦った表情を浮かべる。
このままいくととんでもない記録が出てしまうだろう。
嬉々とした表情で走る彼女の横を弦月がすれ違う。
その瞬間、満月が目を見開いて驚き、一瞬彼女の方に振り返った。
直後、高速で回転する足がもつれ、満月の身体が宙を舞った。
「!!」
その様子に焦った竜胆であったが、当の満月はそんな心配を吹き飛ばすように一回転して見事な着地を決める。
両手を上げて体操選手のように着地した彼女は、天真爛漫にこちらに笑いかけてきた。
その見事な前方宙返りからの着地に、クラスメイトは称賛の拍手を送っていた。
「満月。計測中よ」
「は!」
後方から弦月に注意され、急いで走り始めるがそれはもう後の祭り。
「十秒一」
スタートから中盤までの風のような速さから一転、女子の中でも割と遅いタイムが叩き出された。測定していた竜胆は苦笑を浮かべながらも、小さなため息を吐く。
「いや~転んじゃたよ~」
「見事な着地だったな……」
満月は後頭部を掻きながら竜胆の元へと折り返してくる。
そんな彼女を竜胆は皮肉気に褒めた後、声を出さずに口の動きだけで馬鹿、と軽く罵った。
それは隣に記録係のクラスメイトがいるためだ。
「ありがと~」
満月は呑気なお礼と共に小さく舌を出していた。
ため息でそれに応えた竜胆は次の測定のため、スタートラインの方向へと向き直った。
その後、女子の二度目の測定も終了し、他のクラスと種目をローテーションすることになった。
弦月は宣言通り七秒台に乗せて五十メートル走の満点を取り、満月はその少し上をいく好タイムを叩き出した。
他の種目でも竜胆はそこそこ、弦月はそれなりに良い記録、満月はとても良い記録を出して体育の時間を終えた。
そして授業が終了して教室へと戻る道すがら、満月に五十メートル走で弦月とすれ違ったときに何を言われたか聞いてみたのだが、頑なに答えようとしなかったため諦めた。
着替えは男子が教室、女子が各クラスの隣に併設してあるもう一つの教室で行われる。
その形式上、すぐに着替え終わった女子に男子が急かされるという光景が毎回のように見受けられる。
どうして男子よりも早く着替えられるのか、毎回疑問である。
「もうゆづちゃん、びっくりしたよ~!」
「何のこと?」
体育終了後、購買へと赴いていた弦月と満月は着替えに完全に出遅れ、二人だけで着替えていた。
満月は短パンを脱ぎながら、弦月はタイツを履きながら会話に興じる。
「何って五十メートル走の時だよ! りんくんと付き合ってる、なんて……」
「あぁ、もちろん嘘だから安心しなさい。普通に止めても間に合わなかったでしょう?」
「いや、流石のわたしでも大丈夫だったよ! 逆に一回転とかして目立ってたよ!」
弦月はすれ違う瞬間、満月が言ったようなことを呟いたのだ。
それに過剰反応した彼女は振り返って転倒、一回転からの着地を決めたのであった。
「あなたも竜胆も、もう少し気を付けた方がいいわ。あなたたちの秘密が『人』にばれることは良くない……」
一足先に着替えを終えた弦月は、空き教室の扉を開けて教室に戻っていってしまった。
その背に寂し気な表情を浮かべた満月が小さく呟いた。
「わたし、ゆづちゃんに甘えちゃってるのかな……」
弦月は他の『人』に満月たちの秘密がばれないよう、とり繕ってくれている。
そんな彼女に寄りかかりすぎているのでは、と考えた満月は目を伏せて一人落ち込んでいた。




