1話 ~とある少年少女の日常Ⅰ ~
「りんちゃ~ん、そろそろ起きなさ~い」
のんびりとした声が階下の一室から聞こえてくる。
その声は微睡んでいた一人の少年の意識をはっきりと覚醒させた。
そして彼はベッドから起き上がり、枕元に置いてあるスマートフォンを点灯させる。
時刻は七時三十分、いつも通りの時間だ。
時間を確認した彼はスマートフォンをポケットに入れ、ベッドから立ち上がってカーテンを開いた。
朝の柔らかな日差しが薄暗かった自室を照らす。
それによって寝起きの目がちくりと傷んだが、それもすぐに治まった。
朝日に照らされた部屋は簡素の一言に尽きた。
先ほどまで寝ころんでいたベッドに整理整頓された勉強机、小さいながらも本が詰まっている本棚。あとはクローゼットがあるだけでポスターやカレンダーなどは一切飾られていない。
それもこの部屋の主である少年の無趣味が災いしているのだろう。
少年はクローゼットの中にかけてあるブレザーに着替えて階下へと降りた。
そして洗面台で顔を洗い、鏡で己の姿を眺める。
少年の名前は十六夜竜胆。十七歳の高校二年生だ。
直毛の灰髪は目にかかる程度の長さで、視界を塞がないように横に流して分けられており、紫がかった黒色の眼は気持ち釣り目気味だが、見る者にけだるそうな印象を与える。
身長や体形は平均的ではある者の、日本人離れした彼の容姿はかなり周囲の目を引くものだろう。
竜胆は鏡から目を離してタオルで顔を拭いた後、リビングへと向かった。
「おはよう、りんちゃん」
「あぁ、おはよう」
リビングに入るや、キッチンにいる女性が笑顔で竜胆に朝の挨拶をしてきた。
花柄の可愛らしいエプロンを身に着けたその女性は、栗色の髪を頭頂部で団子状にまとめ、そこから後ろに流してポニーテールにしている。こげ茶色の瞳は垂れ気味で大きく、慈愛に満ちた光を宿しており、身長は竜胆よりも頭一個分低い。
彼女の名は十六夜撫子。
若々しすぎる見た目から姉と間違われがちだが、竜胆の実母である。
「りんちゃんりんちゃん! じゃ~ん! 今日はイタリア料理を作ってみたの~」
撫子は満面の笑みでそう言いながら、テーブルの上に並ぶ料理をきらきらと手で強調する。
そこにはピザやパスタ、ミネストローネやカルパッチョなどが所狭しと並べられていた。
「……母さん」
「ん、なぁに?」
豪華絢爛なイタリア料理の数々が並べられている食卓。
確かにこれほどのものを作れる撫子の腕は一流なのだろう。しかし―――
「朝からこれは重い。 それに俺たちは二人暮らしなんだ、食いきれるわけないだろ……」
そう、このフルコースと呼べるほどの量の料理は朝食として、しかも登校前の平日の朝に並べられているのである。
「ん~でもりんちゃん育ちざかりなんだから、ちゃんと朝ご飯食べないと……」
「毎日こんなに食ってたら完全にデブだよ……」
竜胆は無駄だと理解しつつも母に注意する。しかしこれは毎日行われているやり取りなのだ。
数日前はフランス料理、昨日は中華料理、そうやって毎朝フルコースレベルの量を作る。そして竜胆が毎回それを注意するが、何の効果も発揮しない。
「そうよね……。わたしたちは日本人だものね」
「……ん?」
「明日からは日本食を作るわね!」
撫子はガッツポーズを取りながら瞳を輝かせ、そんな的外れなことを言った。
「そういうことじゃなくて……もういいか。 てか俺はハーフだろ」
「そう……ね」
竜胆の小さな呟きを聞き逃さなかった撫子は、窓の外の空を眺めて儚げな笑みを浮かべた。
その表情はこれまでの彼女とは思えないほど弱々しく、しかし慈愛に満ちたものであった。
「……父さんなら大丈夫だろ」
「そうよね、あの人のことだもの」
竜胆の言葉に撫子はころりと表情を変えて、今度は明るく笑った。
先ほど竜胆が口にしたように、この家には彼と撫子の二人しか住んでいない。
他に兄弟姉妹もおらず、父は竜胆が物心ついて間もない頃から単身で海外に行ってしまっている。
「あら、もうこんな時間。早く食べないとりんちゃん学校に遅れちゃうわ!」
撫子は壁に掛けてある時計に視線を移すと、はっとして竜胆の背中を押し始めた。
そしてイタリア料理フルコースが並ぶ食卓へと座らされる。
「いや、食いきれないって……。だからいつもみたいに取っといて夜に回そう」
「え~! ってことは夕ご飯は作らないってことよね? りんちゃん、わたしから生きがいを奪わないで~~~!」
何を言ってるんだこの母は。そんなことを思いつつ竜胆は頭を掻いて妥協案を提示した。
「……わかったよ。この朝飯はご近所にでも配ってくればいい。夜は弦月たちを連れてくるから好きなだけ作ってくれ」
「弦月ちゃんと満月ちゃんを連れてきてくれるの!? なら腕によりをかけちゃうわよ~!」
「ちょっと落ち着け。二人は女子だから、そんなに大量に作らなくていいからな」
「ん~、でも満月ちゃんはいつも全部食べてくれるわよ?」
「あ、あぁ……そうだったな……」
竜胆と撫子はそんな会話をしながら朝食を食べ終えた。
結局竜胆が手を付けたのはピザ二切れとカルパッチョ数口、ミネストローネ一杯だけであった。
それでも朝食としては多いくらいで、腹八分目のほぼ満腹状態で登校することとなった。
「じゃあそろそろ行くよ」
もうじき時計の針は八時ちょうどを指す頃だ。もうそろそろ家を出ないと間に合わなくなってしまう。
そう考えた竜胆は、椅子に置いてある学生鞄を手に取ってリビングから出ていった。
竜胆を追うように立ち上がった撫子は、彼を見送りに玄関先まで歩いてきた。
そして竜胆が靴を履き終えて立ち上がると、彼女は柔らかな笑みをたたえてこちらを見つめていた。
「いってらっしゃい」
そして彼女は竜胆の頭を撫でながら、慈しむような声音でそう言った。
この歳になってまでこんなことをされるのは気恥ずかしい。
しかし愛する夫は竜胆が幼い頃から別居状態のうえ、撫子は孤児院育ちで唯一血の繋がりがあるのが竜胆なのだ。
それを考えたら過剰ともとれるスキンシップにも目を瞑れる。
「そろそろ子離れしなよ、母さん」
「はっ! ついにりんちゃんの反抗期が……!」
半笑いで冗談めかして言った言葉に過剰反応した撫子は、雷に打たれたかのように硬直していた。
それを横目に、一歩進んだ竜胆は小さく笑って挨拶を返した。
「いってきます」
撫子に見送られながらドアを開けると、眩い朝日が竜胆の肌を刺した。
しかしその陽光にはそれほどの熱さはない。今は学年が変わってすぐの四月なのだから当たり前だろう。
「おはよう」
家の敷地外に出るや、十六夜家の塀に寄りかかっていた人物に挨拶を投げかけられた。
「あぁ、おはよう。弦月」
目線を合わせずに挨拶をしてきた彼女は同級生の蒼井弦月だ。
腰まで伸ばされた黒髪に漆黒の双眸を備えるの純日本人で、すれ違う者が男女問わずに振り返ってしまうほどの美しさを備えている。
猫を彷彿とさせる釣り気味の青みがかった黒目からは一見すると冷たい印象を受けるが、その瞳には優し気な光が差している。
「撫子さん、今日も張り切っちゃったみたいね」
「な、なんでそれを……?」
竜胆は朝の出来事を言い当てられ、狼狽しながら問い返す。
それに小さく笑った弦月はたった一言。
「顔」
「か、顔……?」
「あなたの顔を見れば分かるわ。撫子さんが何かした日は、ほんの少しだけ疲れた顔をしているもの」
「よく見ていらっしゃいますね……」
小さな笑みをたたえながらこちらを見てくる弦月に、竜胆は表情を引きつらせた。
「何年一緒にいると思っているのよ」
「小一の頃からずっとだから、もう十年目ぐらいだな」
竜胆と弦月は本当に幼い頃からの仲で、学校もずっと同じなのだ。
間違いなく海外にいる父親よりも共にいる時間が長いだろう。
このままずっと、どれだけ時が経とうと彼女と離れるようなことにはならない気さえする。
「あぁぁぁぁ!!! やばいぃぃぃ!!」
隣り合って歩く竜胆と弦月の後ろから、高い声を張り上げながら疾走してくる人影が見て取れた。
彼女はこちらを発見するや、急ブレーキをかけて横に並んだ。
「あれ!? りんくんとゆづちゃんがいるってことは遅刻じゃない!?」
肩で息をしながら竜胆と弦月の顔を交互に見やった彼女は、額の汗を拭って深いため息を吐いた。
「満月、お前なんでそんな急いでたんだよ」
颯爽と登場した彼女は二人の幼馴染である日輪満月だ。
彼女は風で乱れた赤みがかった茶髪のボブカットを直しつつ、息を整えていた。
そしてくりくりとした、焦げ茶色の垂れ気味の眼でこちらを見上げ、八重歯を覗かせながら笑った。
竜胆は男子なのでもちろん、女子にしては高身長の弦月よりも十センチ以上身長が小さいため竜胆も弦月も見下ろす形となっている。
しかし背は小さいながらも体のラインは女性らしく、弦月よりもかなり、出るとこは出ている。
「登校時間にはまだ余裕があるわよ?」
「朝起きて目覚ましを見たら、なんとホームルームが始まる時間だったのです!」
「……ちょうど一時間ぐらいずれてるな」
竜胆は制服のポケットから取り出したスマートフォンで時刻を確認し、満月の言った時間から逆算して、彼女の目覚まし時計がずれていることを導き出した。
「家の人は誰も注意してくれなかったのか?」
そう問いかけながら竜胆は再び歩を進め始めた。
それを追うように、弦月と満月も足を動かして彼の後に続いた。
「なんか今日は朝からほとんどみんな出払ってて、数人しか会わなかったな~」
「満月の家に人がほとんどいないなんて珍しいわね」
「なんか会合? があるとかで、朝早くにお父さんがみんな引き連れてどっかいっちゃたんだよね」
満月の家はこのあたりで有名な建築企業で、様々な企業とのコネクションを持っているのだ。
彼女の父親が一代で築き上げたという日輪建築の社員は、そのほとんどがこの近くにある日輪邸に住み込みで働いている。
そのため満月の家の敷地面積は途轍もなく広い。
話によると森一つを開拓してそこにいくつかの家を建造したらしい。
「でもでも、もうすぐお兄ちゃんが帰ってくるらしいんだ~♪」
「へぇ、新月さんが」
「満月は本当に新月さんのことが大好きよね」
「まぁ一番お前を甘やかしてくれるもんな」
弦月が慈しむような笑みを浮かべながらそう言い、竜胆がぼそりとそんなことを呟いた。
「そうそう、お兄ちゃん優しいから大好き! あ、でもりんくんもゆづちゃんも同じくらい大好きだからね!」
「そう……」
「ま、まぁもう家族みたいなもんだからな」
満月のその言葉は弦月を赤面させ、竜胆を大きく動揺させた。
彼の言う通り、三人は家族同然の関係といっていいほどお互いを大切に思っているのだ。
「……そういう意味じゃ、ないんだけどな……」
竜胆の言葉に対して、満月が返した小さな呟きが彼に届くことはなかった。
そんな呟きを弦月は聞き逃さず、しかし話題として取り立てることもしなかった。
そうして三人は仲良く登校し、ホームルームの十分ほど前に教室に到着した。
それからは竜胆の席に集まって会話をしていた。
「そういえば今日夕飯食べに来ないか? 母さんが朝作りすぎたのに夜も作りたいとか言っててな……」
「わたしはいいけど、満月は新月さんが帰ってくるのでしょう?」
「うん。でも今日帰ってくるのは今日じゃないと思うから大丈夫だよ」
「んじゃ夕飯時になったら来てくれ。準備しとく」
「えぇ」
「おっけ~!」
二人はそう返事して各々の席へと戻っていった。
そちらに戻るや、近くの席の友人たちから挨拶され、それに応えて話に花を咲かせていた。
「ほんっっっとお前は羨ましい奴だよ」
自分に戻っていった二人の様子を眺めていた竜胆の背に、恨みがましい声が投げかけられた。
竜胆はそちらに向き直ってその声の主に振り返る。
「なんだよ、藪から棒に」
机に突っ伏して腕を伸ばし、けだるそうにこちらを見上げてくる生徒は竜胆の友人である伊吹聖だ。
金に近いツンツンとした茶髪に榛色の瞳を持つ彼は、離れた席の満月と弦月に視線を移して言葉を継いだ。
「両手に花とはよく言ったものだよ! この学校一の高嶺の花である《月姫》と、誰にでも分け隔てなく接してくれる太陽みたいな《眠り姫》。どっちとも幼馴染とか、この世界は不公平すぎるだろ……!」
聖は両拳を握りながら歯を噛み締め、今にも悔し涙を流しそうなほど震えながら言った。
彼の言う《月姫》は弦月、《眠り姫》は満月のことだ。
《月姫》は弦月のあまりにも常人離れした美しさを月に例えて称したもので、《眠り姫》は満月が授業中にとても気持ちよさそうに眠るからつけられた異名である。
「仕方ないだろ。幼馴染なんて選べないんだから」
「くっそ……これだからイケメンは……。 お前もお前で女子から大人気だから、なんであんな奴があの二人とと仲いいんだよってならないんだよな……」
聖の言う通り、ハーフである竜胆の日本人離れした秀麗さはクラス・学年問わずに有名である。
それでいて弦月のように人を寄せ付けないわけではないため、一年生の頃は多くの女子からアタックされていた。
しかし弦月と満月の二人とずっとともにいることから、彼女たちのどちらかが彼女なのだろうと噂され、その数は激減したのだ。
男子の多くが弦月は正妻で満月はお友達派に属し、女子の多くは満月が正妻で弦月が愛人派に分かれていた。
「俺たちはみんなが思ってるような関係じゃないぞ」
「……本当にほんの少しも、これっぽっちも、あの二人に恋愛感情を持ったことが無いって言いきれるのかよ」
「……あぁ。あの二人は家族同然だよ」
聖のその問いかけに、竜胆はほんの少しだけ言い淀んでしまった。
あの二人をそういう目で見たことが無い、といえばそれは嘘になる。
しかし二人のどちらかと関係を進めてしまうことは出来ない。
竜胆にとってどちらも大切で、かけがえのない存在だからという彼の優柔不断さが災いしていることもあるが、三人にはもっと重大な秘密があるのだ。
すると二人の会話を遮るように、予冷が鳴り響いた。
「っと、もうホームルームが始まるのか」
聖は竜胆から目を離し、教室前方の壁掛け時計を一瞥した。
時刻は八時三十分。
担任が教室に入ってきてホームルームを行う時刻だ。
二人との関係を改めて思い返していた竜胆の意識も、予冷によって断ち切られた。
それから少しして、教室に入ってきた担任の教師が教壇に立ってホームルームを開始した。




