15話 ~傷だらけの王と孤独な彼女の出会い Ⅰ~
時は竜胆たちが日輪邸を後にした直後にさかのぼる。
十六夜家のベランダでは撫子が一人、夜天に浮かぶ満月を眺めていた。
竜胆は一週間近く日輪邸で修行しており、一度も帰ってきていない。
彼の選択を尊重してしまった撫子は、ほんの少しだけ後悔していた。
竜胆は撫子とヴァールハイトの間に生まれた、命よりも大切な子供で、できることなら吸血鬼の世界に足を踏み入れて欲しくはなかったのだ。
撫子は溢れそうになる涙を、月を見上げることで無理矢理に留めた。
そこで視界を埋め尽くした月を見て、あの日もこんな満月であったな、と思い出していた。
それは十年以上も前、撫子が夫であるヴァールハイトと出会った夜であった。
◆◆◆
「はぁ……。 今日も疲れた……」
十六夜 撫子は社会人として働き始めて二年になり、職場にも慣れて重要な案件を任されるようになっていた。
しかしその分付きまとう責任が重いものとなり、彼女の心労を増加させていた。
家に帰っても一人暮らしで、迎えてくれる家族などもいない。
ストレス発散方法は料理をすることだが、一人暮らしのため必ずと言っていいほど余り、翌日の朝食や夕食にまで残る時もある。
そもそも撫子に実家などなく、両親の顔も知らない。
それどころか、家族と呼べる血縁者は誰ひとりとしていないのだ。
彼女は十六夜孤児院という孤児院の門の前に、毛布に包まれて捨てられていたらしい。
六月の暖かい満月の夜に捨てられており、孤児院の庭に植えてあったナデシコが満開になっていたため、撫子と名付けられたのだそうだ。
それから彼女は孤児院の職員に育てられ、奨学金などを貰いながら、なんとか大学まで卒業して職に就いた。
十六夜孤児院を巣立った彼女は一人暮らしをしながら会社に勤め、給料の半分を孤児院に寄付していた。
趣味と呼べるものが料理しかない撫子は、金銭の使い道がなく、使わないのなら自分を育ててくれた孤児院に使ってもらおうと、毎月のように寄付をしに赴いている。
管理人からはこんなに受け取れないと言われるものの、強引に渡して子どもたちと戯れていた。
撫子の心が唯一安らぐのは、孤児院の子供と遊んでいるときぐらいだ。
そのためこの子たちが伸び伸びと生活できるのなら、いくらでも協力したいと考えているのだ。
自分もいつか大切な人と結ばれ、愛しい子を産んで、暖かい家庭を築きたいと思っている。
しかし親の愛を知らずに育った自分が子供に愛を注げるのだろうか、といつも不安になってしまうのだ。
「まぁそもそも出会いがないんだけどね~……」
撫子は想像していた不安に、空笑いとともにそう呟いてため息をつく。
そうして人気のない夜道を歩いていると、ぞっとするような寒気が彼女を襲った。
今は真夏で、店の前などを通れば店内の冷気が流れてきてそういうこともたまにある。しかしここはただの住宅街だ。
それに一瞬ではなく、まるで冷気のドームに入ったように、冷気は今もまだ撫子の肌を撫で続けている。
撫子は身震いしながらも足を早めてこの場を去ろうとした。
そして進行方向に大きな人影を認めて足を止める。
真夏にもかかわらず真っ黒なコートをその身に纏った人影は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
人気のない夜道でそんな不気味な人影に接近されているにも関わらず、撫子は言葉を失って惚けていた。
撫子は街灯の光によって、歩み寄ってきた人影が長身の男であることを理解する。
端的に言って、その男は美しかった。
腰まで届くほどの銀髪は月光を吸収したかのような艶めきを放っており、夜風を受けて絹糸のようになびいている。
こちらに向けられている双眸は、街灯の光を通り過ぎても真紅に輝いていた。
「っ……!」
そしてその瞳に射抜かれた撫子は、氷のように冷えきった手で自分の心臓をに触れられたような怖気を感じ取った。
明らかにこの場の冷気は、目の前の男の存在が知覚させているものだ。
服装からも容姿からも、明らかに常人ではないことは察せられる。
しかし恐れを気取られないように、撫子は首を傾げて笑う。
「なぜこの状況で笑えるんだ、人間」
「ぇ……?」
「この我を前に、【白銀の冷血王】ヴァールハイト・アルカードを前になぜ笑えるかと聞いている!!」
ヴァールハト・アルカードと名乗る銀髪の男が放つ闘気に、撫子は呼吸を忘れた。
そして次の瞬間、目の前の男の姿が掻き消え、まばたきの後に眼前に現れる。
「我の前に現れたことを、後悔するんだな」
眼前のヴァールハイトはそう呟いて、撫子の首元に顔を近づける。
両手は彼女の肩をがっちりと押さえつけており、彼女の行動の一切を封じていた。
そして動けない撫子の首元で口を開き、発達した牙を突き立てようとした。
しかしそのときの撫子の行動に面食らったヴァールハイトは、思わず牙を納めてしまった。
彼女は吸血鬼に牙を突き立てられようとしているのにもかかわらず、逃げようとしなかった。
そればかりか彼女は、ヴァールハイトの背に手を回して抱き締めてきたのだ。
「どうしたの?」
撫子はヴァールハイトへの抱擁を緩めて、彼の顔を見上げながら首を傾げた。
「……何故逃げようとしない」
「え?」
「どうして自分が危険にさらされようとしているのに、抗おうとしないのだ!?」
理解できない行動を取った撫子に、ヴァールハイトは思わず声を荒らげて問いかけていた。
その問に撫子は少し考えたそぶりをしてから笑みを浮かべる。
「あなたの心があまりにも荒んでいたから……。 わたしわかるの、触れればその人がどんな想いを抱えているのか」
「我の、心が……?」
「どれほど悲しい想いをしてきたか、自分でも分からなくなってしまっているほど……」
いつの間にか、撫子を押さえつけていた万力のような力は失われていた。
逆にヴァールハイトへの抱擁は強くなっており、彼の心を氷解させるのに時間はかからなかった。
「ねぇ、わたしの部屋に来ない? あなたのお話を聞きたいの」
一分近く黙ったままヴァールハイトを抱きしめていた撫子は、再び彼の顔を見上げて笑いかけた。
「我は人間の食料とする、吸血鬼だぞ……?」
「そうかもしれないけど、少なくともあなたはわたしを食べていないわ?」
何故目の前の人間の女は会って間もない、それも吸血鬼をこれほどまでに暖かに受け入れることが出来るのか。
逆にその真意を測りかねているヴァールハイトが、言葉を失ってしまう。
「それに吸血鬼さんなんてかっこいいじゃない! お話しましょ、ご飯もいっぱい作るから」
撫子は強引にヴァールハイトの手を引き、自身が借りている部屋がある方向に歩いていく。
ヴァールハイトがその手を振り払おうと思えば簡単なことであった。
けれど凍った心を温められた彼は、彼女を拒絶することができなくなってしまっていた。
そんな事があって、ヴァールハイトは撫子に連れられて彼女の部屋まで連れて行かれてしまった。
このとき、何故こんなにもヴァールハイトと一緒にいたいと思えたのか、撫子自身にも分からなかった。
吸血鬼を前に畏怖の感情がなかったといえば嘘になる。
それなのに彼女は彼の心に触れて、共にいなければならないと思ったのだ。
孤児院を出てからの一人暮らしに慣れすぎて、彼女自身が他者の温度に触れたかったのかもしれない。




