9話 ~敗北~
「ふざけるなッッ!!」
激昂した竜胆は地面を踏み砕かんばかりに蹴って、彼我の間合いを飛ばす。
「やりゃ出来んじゃねぇか。でもまぁ、遅すぎるけどな」
先程まで弦月に手を伸ばしていたはずのヘイグの声が、突貫している竜胆の真横から届く。
同時に風のごとき蹴りが竜胆の左半身に襲いかかった。
「ッッ……!!」
しかしヘイグの蹴撃は左肩を掠めるに留まり、竜胆は反撃に転じた。
左下からの蹴り上げ、右拳、左拳、右足での回し蹴り。
そのことごとくがヘイグに届くことなく受け流される。
「さっきから何なんだ? テメェに攻撃がまともに入らねぇのはよ」
竜胆の必死の連撃は、余裕の表情で言葉を紡いでいるヘイグに完全に見切られている。
何発撃とうが当たる気配すらしない。
「鬱陶しい……」
盛大に顔を歪ませたヘイグは、拳を放った竜胆の肩に手刀を振り下ろした。
その手が纏う殺気と暴風は、明らかに竜胆の腕を切り落とそうとしている。
「ッッ……!」
とてつもない悪寒が背を駆けた竜胆は、とっさに間合いを取ろうとした。
しかしそれは遅すぎた。
ヘイグの手刀はなんの抵抗もなく竜胆の肩に深々と突き刺さり、その腕を吹き飛ばす。
「あ……?」
しかし、その光景はまばたきの後に一変する。
斬り飛ばしたはずの竜胆の腕は、何事もなかったかのように繋がっていた。
そのうえいつの間にかヘイグの懐に入り込んだ彼から、反撃の拳が繰り出されている。
竜胆の拳は風を切り、彼の胸部中心に命中した。
かのように思われたが、ヘイグは一瞬で赤い霧と化して拳を躱してしまった。
「なるほどな、分かってきたぞ。それは【霧化】に近ぇが、混血のテメェにそれは出来ねぇ。吸血鬼の鏡に映らねぇほどの存在の曖昧さと、人間のはっきりとした存在を応用して、テメェ自身に対する認識を狂わせてるってとこか……?」
「……!」
竜胆はヘイグの洞察力に瞠目し、自身の手の内を読まれたことに焦燥し始めた。
【霧化】が出来ない代わりに、混血である竜胆が行使できる特殊能力。
それはほとんどヘイグの考察通りのものであったのだ。
「それが分かったからなんだって言うんだ……? 認識出来ない相手を殺すことなんて」
「バカかテメェは、認識なんてする必要ねぇんだよ。 テメェが回避できない範囲まで全部攻撃すりゃ済むことだ」
そう吐き捨てたヘイグは手刀の形をとった左手で、自身の右手首を切り裂いた。
「!?」
ヘイグの思いもよらない行動に、竜胆は目を白黒させてしまった。
彼自身が切り裂いた手首からは夥しい量の血液が流れ出ており、いくら吸血鬼といえど平気ではあるまい。
「吸血鬼の能力は【霧化】だけじゃねぇ。 見せてやるよ、オレの【血流操作】」
「……!!」
吸血鬼の能力は【霧化】や身体能力強化など多岐に渡るが、その中でも特異なものが【血流操作】だ。
文字通り自身の血液を操作して直接攻撃に利用したり、硬化させて防御に用いたりもできる。
しかしその性質は個人差が激しく、目の前のヘイグがどんな能力を持っているか見当もつかない。
「【暴虐の血】」
ヘイグが呟いた瞬間、彼の足元に滴り落ちていた大量の血液が流動し始める。
それと同時、コンクリートの道路が煙を立てて溶けだした。
「ッ……!?」
その常軌を逸した光景に、竜胆の全身から嫌な汗が吹き出す。
目の前の光景から推測すれば、ヘイグの【血流操作】は血液を強酸性に変化させるものなのではないだろうか。
「死ね、出来損ない」
吐き捨てるような言葉と同時に放たれたのは高速の手刀。
しかし二人の間にはかなりの間合いがある。
それでも竜胆の身体は警鐘を乱打していた。
刹那、横薙ぎにされた腕に纏わりついていた血液が、長大な刃と化して竜胆に襲いかかる。
横向きで放たれた刃は幅広く、数メートルはあるだろう。
ヘイグの認識を狂わせたところで、こんなものどうにもならない。
息を呑んだ竜胆は地面を蹴り砕いて跳躍し、横向きに飛んでくる血の刃をなんとか回避した。
「刃に気を取られすぎだ、バカ」
その声は竜胆の頭上、真上から聞こえてきた。
直後、鈍重な痛みとともに、竜胆の身体が強制的に地面へと叩きつけられた。
「がッ……!!」
数メートル上空から、思い切り地面に叩き付けられた竜胆の呼吸は一瞬停止し、直後口から少量の血をこぼした。
「寝てる暇なんてねぇだろ!?」
「くッ……!!」
のたうち回る暇すらないまま、上空からヘイグが襲いかかってくる。
その拳には強酸性の血液が纏わりついており、まともに受ければ致命傷は免れない。
竜胆はとっさに転がりヘイグの落下点から逃れ、その勢いで立ち上がる。
先程まで竜胆がいた位置はヘイグの拳によって粉砕され、強酸性の血液によってどす黒い煙を上げていた。
「もう終わりかぁ!?」
挑発するような声とともに、煙の中から血の刃が乱射される。
竜胆の動体視力を全開にして、なんとか視認できる速度の刃が弾幕のように迫り来る。
竜胆は全てを回避することを捨て、致命傷だけを避けることを選択した。
そのため急所ではない脇腹や二の腕、太ももや頬が血の刃に切り裂かれる。
「ぐ、あぁぁ……!!」
しかしその考えは甘かった。
これがただの刃であったらそれほどのダメージではなかったはずだが、ヘイグの血の刃は物質を溶かす性質を備えている。
ほんの少し掠っただけでも筋肉が内部から溶かされ、言葉にならない激痛が全身を駆け抜ける。
竜胆はあまりの激痛に手をつくことすら忘れて前のめりに倒れこみ、意識を手放しそうになった。
しかしすんでのところで持ちこたえ、地べたに這いつくばりながらヘイグを睨んだ。
「オレの血は完全に回避する以外どうしようもねぇんだよ。 掠っただけで、もうまともに立ち上がることさえできやしねぇ」
這いつくばる竜胆を見下したヘイグは、気を失っている弦月の元へと歩いて行った。
「待……て……!!」
「この女、人間の割には上玉だな。オレ専用の食料にしてやるよ」
「ふざ、けるな……!!!」
溶けた筋肉が悲鳴を上げていることすら無視して、竜胆は無理矢理に立ち上がった。
そして血走った瞳で、ヘイグを射殺さんばかりに睨みつける。
「それだけは、させない……」
全身の血液が沸騰したかのような熱を持っている。
その熱が体外に出ようと暴れまわり、血の刃に切り裂かれた傷口から噴き出す。
それは溶けた筋繊維を強制的に修復し、竜胆に再び立ち上がる力を与えた。
「あ? 感情に呼応して吸血鬼の血が機能してやがるのか」
「お前は、俺が、止める……!!」
傷が修復した竜胆は、一気にヘイグとの間合いを詰めて肉弾戦に突入した。
これはヘイグの【血流操作】による遠距離攻撃を防止する作戦であり、接近戦であれば竜胆の能力も十全に発揮できると考えたのだ。
「あぁ、もういいよ」
竜胆ががむしゃらに繰り出した拳は、霧化したヘイグによってあっさりと躱されてしまった。
そして流動した赤い霧は竜胆の背後で結集し、血を纏った手刀が放たれる。
「あぁッッ!!」
踏み込んで拳を放った竜胆は重心が完全に前になっていたものの、強引に回し蹴りを繰り出しヘイグの手刀を弾いた。
そして回し蹴りを放った足が地面につくや、ヘイグに向かって突っ込んでいく。
手刀を弾かれたヘイグは体勢を崩しているにも関わらず、憐みの目を竜胆に向けている。
「オレとテメェじゃ格が違ぇんだよ」
直後、竜胆の視界に突如としてヘイグの蹴撃が飛び込んでくる。
刹那の判断で腕を交差させた竜胆の全身に、とてつもない衝撃が駆け抜け、身体が後方へ押し飛ばされる。
認識を狂わせて命中を免れているにも関わらずこの威力だ。
直撃すれば大怪我では済まない。
「王になるのはこのオレだ。 他の候補者は消えろ」
ヘイグは血を纏った右腕を高々と掲げ、一気に振り下ろした。
刹那、生まれるのは五指に対応した五本の斬撃。
そのどれもが竜胆の身長ほどもあり、間違いなく致死の刃だ。
しかし竜胆はその光景を見てなお、前へと踏み出した。
そして直撃の瞬間、竜胆は刃と刃の間隙を縫って再びヘイグへと接近する。
左右の刃が両腕を掠めたが、それを気にしている暇はない。
対するヘイグは振り下ろした腕を、竜胆目掛けて振り上げる。
その攻撃は竜胆の顎に一直線で昇っていき、しかし彼の姿が掻き消えたことによって空振りに終わる。
「オォォォォ!!」
これまでの戦闘の中で最大の隙。
これを逃せばもう竜胆に勝機はない。
「くたばれよ」
全身全霊の拳を掲げ、踏み込んだ竜胆の背が何かに切り裂かれる。
「ぁ……?」
それを認識した瞬間、竜胆の全身が痛みという感覚に支配される。
それを言葉にすることは出来ず、心の中で叫喚しながら竜胆は前のめりに倒れ伏した。
「目の前のオレに集中しすぎだ。【血流操作】の刃が放って終わるわけねぇだろ」
「ぐっ……あぁぁぁ……!!」
躱したと思っていた五本の刃をコントロールして一本に収斂させ、ヘイグは隙だらけの竜胆の背を切り裂いたのだ。
「けどアレを受けて真っ二つにならねぇなんて運がいいな。それもオレの認識が狂ってたことが幸いしたのか?」
背中から夥しい量の血液を流しながら、竜胆は辛うじてヘイグの言葉を聞き取っていた。
彼はそんな竜胆の髪を鷲掴み、強引に持ち上げた。
「ぐぁ……!!」
「恨むならテメェの中の真祖の血を恨みな」
左手で竜胆の髪を鷲掴んでいるヘイグは、空いている右手に手刀の形を取って引き絞る。
ヘイグは間違いなくここで竜胆の命を刈り取るつもりだ。
しかしもう既に竜胆の意識レベルは、辛うじて目の前の光景がぼんやりと映る程度まで低下していた。
「じゃあな、出来損ない」
狂笑に顔を歪めたヘイグが、引き絞った手刀を矢のごとく放った。
「【イスカリオテの血よ。 目覚め、加護を与えたまえ。 ―――磔刑の十字架】」
刹那、黄金の煌めきが駆け抜け、ヘイグを飲み込んだ。
それに伴って竜胆はヘイグの拘束から逃れ、地面に落下する。
着地などできようもない竜胆は、そのまま地面に倒れ込んだ。
「悪いな、こいつを殺させるわけにはいかないんだわ」
突如介入してきたその声の主は、竜胆を庇うようにして立っていた。
背丈は竜胆と同じくらいで、眩いほどの金髪が風に靡いている。
そしてその手には身の丈ほどもある十字架が握られていた。
その人物をぼんやりと眺めながら、竜胆の意識は完全に失われた。
その金色の光景が、竜胆がその日最後に見た光景であった。




