#7 霧とコインと退場と
ハルトは、その場で静かに立ち尽くしていた。
頭の中で、目の前の現実を受け入れるのを拒んでいた。
そして彼女は、無意識に呟く。
「『ラ・イル』」
それが、何を意味するものかはわからない。そもハルト自身、声を出したことにすら気づいていない。
そんな彼女の手には、どこから出現したのか、刀身が羽根を模したような形をした剣が握られていた。
彼女は剣術を習った覚えはない。しかしその剣はやけに体に馴染む。
というよりも、気がついた時にはもうすでに体が動き出していて。
柄を固く握りしめ、倒れるハンスを取り囲むクアロフ族の一人に飛びかかる。
だがそれは、そこへ割り込んだ別のクアロフ族によって阻止された。
「困るなあ、お前も死にたいのか?」
「なぜお前達はハンスさんを襲った!同じクアロフだろ、答えろアウル!」
ハルトの声は怒気に満ちている。
そんな彼女の覇気を、だが割り込んだ獣人はものともしない。
「質問に質問で返さないでくれよ。それにこんなのと同類だなんて心外だな。あと、彼を殺めることに対しては満場一致だったよ」
ハルトにアウルと呼ばれたクアロフ族は、ハルトの問いに丁寧に、ただし苛つきをあらわにまくし立てて返す。
それを聞いたハルトは目を剥き声を詰まらせた。
「なっ―――――」
「だってそうだろ、君みたいなどこぞの馬の骨をなんの躊躇いなくいつまでも住まわせてる変人だぜ?今までは目をつぶってやってたけど、お前の来た方角から察しても、広場の件の黒幕も恐らく彼だと誰でも推測できるしね」
ハルトがアウルと呼んだ男は、彼女に喋る隙を与えない。
「君も、なにもなければ丁重に出てってもらうつもりだったけど、まあ死んでもらおう」
「………やめ……ろ…」
「ハンスさんっ!!」
誰が見ても満身創痍、ボロボロの状態で倒れていたハンスが立ちあがり、ハルトとアウルの間に立ちふさがった。
「まだ生きてたの?なかなかしぶといねえ、もしかしてクアロフじゃない別のなんかなんじゃない?」
周囲からどっと笑い声があがる。その中心に立つアウルを、ハルトは睨み続けていた。
「……ハルト?」
その小さな声をハルトは聞き逃さない。
ハルトが振り向き、それにつられてアウルが見た人物は赤髪の彼女同様の謎の不審者だった。
「ハルト!ハンスさん!いったい何が………」
バンには何が起きたか理解ができない。
雷に襲われ水に呑まれ、ようやく追い付いたかと思えば倒れる男と怒れる少女とそれを取り囲む飛ぶ獣人の群れ、なるほど確かに簡単に分かるものではないだろう。
「……ああ。そういえば二人いたんだっけ…………『アクアマリン』」
「―――――ッッ」
アウルの言葉と同時、バンの上半身が一瞬にして水に覆われた。
すでに混乱していたバンは更なる困惑にもがくことすら出来ず、本能的に空気を求めて口を開け、結果大量の水を飲んだ。
「バン君!何で――――」
「僕がアウルと呼ばれる由縁さ、知ってるだろ?そいつだってその男と関わってるなら抹殺対象だ」
ハルトはアウルの言葉を聞きながら、バンを覆う水を必死に取り払おうと手でもがく。
しかし、バンを覆うよう不自然に浮かぶ水はどんなにかいても減る様子はない。
「無駄だよ。そいつはそのまま溺死だ。お望みならば君も同じように消してあげよう」
「バン君!バン君!!」
アウルの言葉はハルトには届かず、彼女は懸命にバンへ呼び掛けるが、少年の耳にもなにも届いていなかった。
「ハ……ル…ハン……ス…」
意識がとびかけていたバンは、助けを求め最後の声を振り絞る。
するとどういうわけか、バンを覆っていた水は一瞬で氷へと変化し、すぐに砕け散った。
少年はやっとの思いで水の呪縛から解放されたが、そのまま気を失って倒れた。
「は?おまえまさか………ふざけんなよ面倒だな、すぐに死ね『レイン』」
アウルが右手を掲げると、その動きに呼応して彼の周囲に無数の水の矢が出現し、三人に向けて降り注いだ。
「さ……せな………」
「えっ!?ハンスさん!ダメッ!」
男はなけなしの力で二人の前に立ちあがると、二人を庇うようにして全身に水の矢を受け、文字どおり霧散して跡形もなく消えた。
「あっと、霧化しちゃった。ほんとただの馬鹿だなぁ………―――――?」
遺体も残さず、完全に消失した男の場所には、フクロウの顔が型どられた一枚のコインが落ちていた。
刹那、アウルがコインと認知する前にハルトはそれを拾い上げ、自分の懐へと隠すようにしまう。
彼女はコインを確かに確認すると、バンを肩に担ぎ上げ立ち上がった。
「まさか逃げる気?この状況でそんなことできるわけ―――」
「黙れ」
ハルトの眼に光は一切なく、蛇のごとき睨みを効かせている。彼女の低い声に、その場にいたクアロフたちはみのけが一人を除いてよだてていた。
その隙にハルトは消えたかと思うほどの速さでその場を駆け出す。
「向こうに逃げたぞ!捕まえて殺せ!!」
一匹のクアロフが叫びあげる。
だが、すかさずアウルはそれを静止した。
「その必要はない。君たちは広場の様子を見てきてくれ」
「………わかりました」
アウルの声にクアロフたちは少しざわつきつつも、広場へ向かって飛び立っていく。
獣人はそれを見届けず、こみ上げる苛立ちとともに半壊した亡き者の家を見下ろす。
「何でここに、俺以外に3人も………」
その場に残ったアウルは、一人頭をかきむしりながら呟いた。