透明ガール
空を灰色がおおっていた。
肌寒い気候をとっくに通り越して、芯から冷える朝だった。
心底恨むような気持ちで学校に向かう僕には、ポケットに入れたカイロぐらいしか対抗する術がない。
亀みたいに首を縮めながら、歩を進めるのを押し止める億劫な気持ちにムチを打つ。しかしこれから満員電車に揺られることを思うと、心を無理矢理奮い立たせるのにも限界がやってくるのだった。
「今日はサボろうかな……」
学校では真面目で通っている僕だが、何もかも踏み倒したいという欲求は四六時中降って沸いてくる。
そういうことが出来ないのを僕自身が一番知っているので、しこりのように残る無気力を見てみない振りをした。
世の中では適度にサボれる人間こそが出世するなんて話を聞くが、だとしたら学校教育というのは大した欺瞞だ。
まあ、そういったもろもろの不条理を飲み込まなければ大人にはなれないんだろう。だからこその学校。良くできたシステムだ。
下らないことに頭を回転させているうちに駅についた。ここからは昨日買ったラノベで無心になるのが最もストレスフリーな過ごし方だ。
少し家から離れたところにある僕の高校。偏差値的に僕にあった所に行こうと思ったらこうなった。出来れば自転車通学できる高校が良かったが。偏差値自体はそこそこ良い。僕の数少ない誇れるところだ。
東京に近いところにあるだけあって、色んな所から人が集まっている。そのせいか生徒の生活水準も様々な層がある。それはこの高校の良さのひとつだと僕は思う。
眠い目を擦りながら門を潜り、ボーッとしている間に教室につく。その間にあった日常的過ぎる出来事を忘れてドアを開けた。
喧騒が室内のエアコンで温められた空気と共に広がった。友人と軽い挨拶をかわしながら自分の席に向かう。
そして椅子に座った瞬間、脳裏に違和感が走った。
「うん?」
しかし、文字通りの一瞬を経てそれは霧散する。一体何にたいして抱いた感覚なのかすら思い出せない。
気のせいか。言葉に出すほどのことではなかった。
一時間目はすぐそこに迫っていた。
三時間目が終わろうかと言う頃、僕は背中が痒くなるようなもどかしい感覚に襲われていた。
時間が経つにつれて朝感じた違和感が、じわじわと大きくなってきていた。
しかし、いくら探してもおかしなところは見つからない。いや、気になるところなら、斜め前の迫田の髪型が変とか、いつもは生徒を指名しまくる先生がずっと黒板や教科書とにらめっこしていた、ということがあった。
しかし、それに原因を求めるのが言いがかりだということを僕が一番わかっていた。
なぜなら迫田は一昨日から散髪に失敗して見るも無惨な頭をしていたし、授業の内容だって暗記が肝要な単元だったからにすぎない。
頭のある部分がこれ以上考えてはいけないと呼び掛ける。しかし、また別の部分は違和感の正体を探り続ける。それにしても、さっきから目に入る迫田の髪型が邪魔で……。
あれ? 昨日の授業中に迫田の頭は見えていたか?
電流のような閃きと共に、意識は掻き消えた。
引っ張られるような感覚と共に、僕は目を覚ました。なんだかこれまで感じたことの無い浮遊感が僕を包んでいる。なぜか懐かしさと違和感が去来した。
どうやら僕がいるのは誰もいない教室のようで、突っ伏している状態のようだ。ベッドから起き上がるかのように体をゆっくりと起こした。
……暑い。
現在僕が着ているのは冬服。さっきまではいくらエアコンのなかにいても半袖で居られるような気候ではなかった。
しかし、今はどうだ。短い間にかいた大量の汗、体の芯を責め立てる熱、挙げ句に頭を苛むセミの声。
思考する間もなく、僕は既に服を脱いでTシャツだけになっていた。
厚手のズボンも思いっきり脱ぎたいところだがさすがにパンツ一丁にはなれない。
やっとまともに頭が働くようになったと思うと、今度は疑問が山積していた。授業は? クラスメイトは?
移動教室で一人おいていかれたわけではないのは、この異様な暑さが証明している。これではまるで真夏だ。
自分の記憶をたどってみると、少し曖昧だ。確か、いつも通り学校に来て……。
そうだ。違和感だ。僕は違和感の正体に気づいたのだ。
すぐに自分の列の席の数を数える。
やはり足りない。昨日までは後ろの人の頭に隠れて見えなかったはずの迫田の頭がちらついていたのだ。 僕の席は昨日よりひとつ前にあった。
誰かがいなくなっていた。
それからすぐ、僕は押さえられない焦燥感と共に教室を飛び出した。
外も変わらず刺すような光が大量の汗を喚起する。また、昼間ならそこそこあるはずの人通りもどこかに消え失せていた。できることならまず、他の人間を見つけたい。
首もとにたまっていく汗を拭い、人を探す。駅へと向かう大通りをキョロキョロしながら歩く。
そのとき僕がいつも立ち寄っている店に人影が見えた。どうしようもない安堵を感じ、駆け足になる。
「こんにちは! 誰かいらっしゃいますよね!」
そう叫ぶと、しかめっ面をした老女が顔を出した。
「騒々しいねぇ。もしかしてあんた、こっちに来たばっかりかい?」
突き放すような言葉なのに何故か暖かみを感じる声だった。しかし、その内容の不可解さを無視することはできない。
「こっち……? ってどういうことですか?」
「なんだ、知らずに来たのかぇ。珍しいこともあるもんだ。ほとんどの人はこっちに望んでくるというのに」
僕の質問にたいして、また要領を得ない答えが帰ってくる。すこし、じれったく感じながらも言葉が継がれるのを待つ。
「ここはねぇ。狭間の場だよ。死んだら行くはずのもうひとつの世界との真ん中さ」
老女の説明を要約するとこうだ。いわく、人が死んだ後は、生前いた世界と瓜二つの『もうひとつの世界』に移り、そっちで死ねばまたもとの世界に戻り……。あまねくすべての生物はそれを繰り返すのだと。
「それだと、生命の数の合計が一致するんだから人が増える説明が出来ないんじゃ……」
「ふん、知らんわ。そんなこと。それに、細菌から人間、人間から雑草に生まれ変わることもあるんじゃ。全ての生物の数を数えられるんなら数えてみな。何か人類の知らないところで生物が減って人間になっとるかもしれんじゃろうが」
まあ、確かに。と、話が脱線してしまった。本題に話を戻す。
「それで、『狭間の場』っていうのは?」
「ああ、ここは当たり前の生を疑い、不可欠の社会を否定する。そういうはぐれものが落ちる地獄だよ。ここには欲望を叶えるものは何もない。金もない、本もない、競争もない。誰も私を認めないし、私だって誰も認めない。ただ居るだけさ」
それを語る老女の姿はけして寂しそうではなく、また苦しそうでもなかった。それが何を意味するのかは僕にはわからなかった。
「しかし、どうやらあんたは違うようだ。あんたの声は私には五月蝿すぎる……」
そして、口を少し開いたまま店の天井を仰ぐ。
「あんたが落ちた穴はきっと誰かが開けた穴だ。そいつを見つけて、戻してもらえるよう頼めばいい。まだ、そんなに遠くにはいないはずだよ」
僕に背を向けて立ち去ろうとする老女に最後の質問を投げ掛ける。
「ここからもとの世界に戻ることはできるんですか」
老女は立ち止まり、僕の方を見ること無く呟く。
「あんたは帰ることができるはずさ……間違いなくね」
そして、老女は店の奥に姿を消した。
夏は細く、曖昧だ。待ち望んだ夏が来ることはけしてなく、ただただ本当の夏から遠ざかる時間を見守るだけ。
でも、ここには本当の夏があった。僕を溶けさせ、甘く、厳しく僕を見守る太陽があった。
でも、ひとつだけ邪魔なものは、僕を今居るこの場所から弾き出そうとする焦燥感だった。
海が見えた。学校から少しはなれたところにあるありふれた海。でも、僕はこんなに美しい海を見たことがなかった。その美しさを掻き消すほど、僕の胸はうるさく音をたてていた。
ここにいるはずだった。ここにいないはずかない。早く、早く見つけないと。
なんで?
その問に答える余裕を僕の心は持ち合わせていなかった。
いた。この『狭間の世界』にきてからたった二人目。恐らくはこの世界に落ちてきた僕のクラスメイト。名前も顔も覚えていない、僕と同じ列の人。
「こんにちは!」
僕の叫び声に彼女が振り向く。長い黒髪は揺れ、背景の海とあわせて波をたてた。
「誰?」
失礼な人だ。クラスメイトの顔を見て名前が浮かばないなんて。僕と同じじゃないか。
「僕は君がここに来るのに巻き込まれたみたいです。だけどここがどういうところかはもう知ってます」
「そう……。で?」
心底どうでも良さそうな彼女に問いかけたいことがあった。
「なんで、この『狭間の場』に来ることにしたんですか?」
彼女は眩しそうに目を細めて海を見ていた。僕のぶしつけな質問に答えが帰ってくるまで幾ばくかのときが流れた。海を見ながら過ぎる時間はとても心地よく、できることならただここに在るだけの生を満喫したかった。
「私はもう嫌になった。楽しむの苦しむのも従うのも抗うのも」
一拍開けて、足元の砂浜を蹴る。
「だから、私は。いきることも死ぬこともない狭間の場に」
美しい彼女の横顔にいろんな想像が膨らむ。しかし、それらはどれも無意味であり徒労であると理解していた。
「でも、貴方は違うみたいね。たぶんここにいる誰とも違って……まだ生きてるのね」
どうやらそのようだ。さっき老婆にも似たようなことを言われた。僕はきっと一人ではここに来ることなど叶わないのだろう。何となく彼女の顔を見つめると、この暑いのに彼女が汗ひとつかいていないことに気づいた。僕が汗だくになってるのとは大違いだ。
「もう少しここにいたい……でも、なんだかよくわからない焦りが、僕を責め立てるんです。この場所に立ち止まろうとする僕を」
この言葉は人生の中で最も自分の心に忠実なこれ以上ないほどの真実だった。
「それは無理よ。その焦燥感が有る限りあなたは立ち止まることも慈しむことも出来はしない」
その通りだと思った。たとえ、ここのように緩やかに時が流れていたとしても、僕にはきっと立ち止まることは出来ないだろう。永遠に思えるほどの間、走り続け、それが終わるのは死ぬときだ。
「なぜ、僕は立ち止まることが出来ないんでしょう」
それは自問に近かった。その答えは僕にしか知りようがないとわかっていた。彼女から返ってきた言葉もおおよそそのような意味のものだった。
「わからない。きっと、あなただけがわかることだわ。ただ……」
彼女はためらうように下を向くと、小さくかぶりを振って僕をみた。
「あっちの世界は魔法にかけられてるようだった。そう、皆気づかないうちにあるはずのものが消え失せ、ないはずのものが見えていた」
彼女は自分の髪の毛をさわりそれが風にすくいとられて、光に溶ける。でも、その黒髪が消えてなくなったわけではなかった。
「私には魔法で見せられた光景は地獄だった。ずっと、ずっと……」
僕には彼女のいっていることの半分もわからない。もしかしたらそれは彼女の言う通り魔法が解けていないからかもしれない。
僕はいつの間にか横たわっていた沈黙を切った。
「じゃあ、僕は帰らなくてはいけないんでしょうか?」
離れがたい気持ちが混ざってしまった質問に、しかし、彼女は淡々と事実のみを答える。
「そう。私に触れてから海に飛び込めばたぶん戻れる」
そう言って彼女は僕に近づいてくる。僕も彼女に向かって歩みを進めた。
白くて細い指に、僕の野暮ったい指が触れる。
その瞬間、彼女は表情を少し緩めた気がした。それはこの世のものとは思えないほど綺麗だった。
「さ、もう飛び込んだら?こんなに美しい海に飛び込むんだから、怖くもなんともないでしょう?」
「まあ、そうかもしれませんね」
僕が入ることで海が濁らないことを祈る。きっと大丈夫だろう。海はこんなにも大きい。
「じゃあ、さようなら」
「さようなら」
そして僕は暖かい海に抱かれ、意識を手放した。
目を覚ますと僕は机に突っ伏していた。耳からは教室の喧騒のみが入ってきて、何故かわからないけど寂しさを感じた。
少し勢いをつけて跳ねるように起きると、どんだけ寝てるんだよ。珍しいな。と声がかかった。
それに曖昧な笑顔と親しみを込めた悪態をつくと、いつも通りの会話に僕も混ざっていた。
ふと、思う。僕は色を欲している。そして、色はそれだけでは何色でもない。たくさんの色があって、相対化されて初めて僕は何色かになれる。
その気持ちの中にいる間は、僕には透明なあの女の子をみることは叶わないんだろう。