第6.5話
一通りの指示を出し終え、エレアは自らの執務室に帰ってきた。
明かりも付けぬまま、ほとんど物の置いていない室内の数少ない備品の一つである応接用のソファーにうつ伏せに倒れこむと、彼女は深く息を吐いた。
ただでさえ無茶な人事でやってきた自分は心労で大変な思いをしているのに、こういう事件が起きかねないからと要求した増援をいつまでも送ってこないんだから、どうしようもない。中央の連中は、本気であの小娘のことを調べさせたがっているのか? ――なんて恨み言を頭の中で唱えようとも、どうにもならない。
差し当たり、責任を押し付けられて中央のバケモノどものための生贄になるのを防がなくては、と考えるその顔には、平時における彼女の『鎧』である笑みは浮かんでいなかった。
「あー、もしもし? お取込み中のところ悪いっスけど、ちょっとお話いいっスか?」
「!? 誰だ!」
声に反応して跳ね起きたエレアが見たのは、部屋の奥、自らの執務机。
そこに腰掛ける少年から青年になろうとしている人物は、エレアの構える杖先が向いているのに気付いていないかのごとく、にこやかなままに気負った様子もなく口を開いた。
「オイラは信仰機関の後方要員にして連絡係、ポルタっス。クラント・バルディエーリの貸し出しについての命令書を持ってきたっスよ。いやー、遅くなって申し訳ないっス」
立ち上がり、警戒する様子も見せずに近づくポルタは、エレアの眼前に一枚の紙を差し出した。
いくら月明かりしかなかったとは言え、同じ室内に人が居る中で無防備な姿を晒してしまったことに気付いて焦っていたエレアは、冷や汗を浮かべつつ、なんとか笑みを張り付けて命令書を睨みつけていた。
「……確かに、受け取りました」
窓の横の月明かりの入らない影か、執務机の下か。どこに居たかは知らないが、ポルタと名乗った相手の隠形もさることながら、自分もかなり疲れているのだと判断したエレアは、差し出された命令書を受け取ると、自らの執務机に腰掛け、完全にポルタを見送る態勢に入る。
「そういえば、随分と忙しそうっスね?」
だから、一度は身を翻した少年がもう一度振り返ってそう声を掛けてきたとき、エレアは自らの笑みを維持するために、多大な労力を必要とした。
「ええ、ちょっとした事件がありまして」
「ちょっと、っスか。ちょっと……ねぇ」
夕方頃に来れば異能者がゴロゴロ居たし、ドンパチ始まるし、クラントはとてつもなく強い化け物と死闘しているし――
「――なーんてものを見たんスよねぇ、オイラ」
と言われるに至っては、疲れているところに迂遠なやり取りをさせられたことから、エレアには一周回って自然と笑みが浮かび、
「なんだ。そこまでご存じなら、説明の手間が省けましたね」
と爽やかに言い切った。
「で。まさか、全部で百人を優に超えるような大規模襲撃が、何の兆候も、何の心当たりもなく行われた――なんて言い出さないっスよね?」
そう言いながら近づいてきたポルタと机を挟んで笑みをぶつけ合いながら、エレアは思わぬ好機に乗るべく執務机の引き出しを開けた。
本来は、何かあったときにさり気なく情報を流して信仰機関に枢機卿会議を牽制させるという、保険としての役割を見込んで信仰機関の人間を滞在させていたが、この流れならば、自然に、しかもクラントを通すよりも早く伝えることができる。
これを好機と言わずして、何とするか。
「……異能者――『かもしれない』少女っスか」
「命令元の枢機卿会議との関係で守秘義務もありましたから確かにお伝えはしていませんが、『正体不明』なだけの少女の護衛。危険手当込みでも十分な報酬だったと思いますよ?」
ポルタは、エレアが引き出しから取り出した書類の束に目を通しながら、しばらく黙り込んでいた。
「やけに簡単に機密を漏らすっスね。何を企んでいるっスか?」
エレアは、喰い付いてくれたことに一先ず安心した。
勝負はここから。目の前の人間にどこまでの影響力があるかは疑問だが、まずはこの相手に興味を持ってもらわねば、その後ろに居る人間には届かない。
「身を守るためです。一遊撃騎士には、事ここに至っては、出来る限りの誠意を示して慈悲を乞うくらいしかできることがないのですよ」
「そうか。身を守るために、信仰機関には枢機卿会議と争ってもらうしかないか」
――来た。
目の前の連絡係の表情から笑みが消え、口調すらも真剣なものに変わる。
渡した情報さえ上に流してくれるなら、目の前の人間にどう思われようと挽回できる自信はある。でも、情報を流す人間が自分に好意的であれば、上との交渉にこぎ着けた後の手間が増えることはないのだ。
自然、エレアの表情からも、いつもの笑みが消える。
「別に心配しなくていい。ここ数年は、中央も常に緊張状態。こちらにも利がない訳ではないからな。そちらの望むように踊ってやるさ」
「それはそれは――」
「そんなことはどうでも良いんだ」
少なくとも最低限の目的は達成されたと思っていたエレアだが、急に話の流れが変わって頭を回す。
はて、自分と信仰機関に何か因縁でもあっただろうかとエレアが考えていると、ポルタが口を開いた。
「お前の保身には協力してやる。だから、欲をかいてお前の師匠の悲願である教会の膿の掃き出しの、そして師匠の敵討ちのための一手を打とうなんて考えるな。――いや、『プルレイア・ラシンゲン』の取り返せるだけを取り返して、両親の敵討ちの方かな?」
思わぬ情報を出されて、エレアの頭の中は大混乱に陥る。
なぜここで『敵討ち』などと言われるのか。両親も一族も、それぞれ全く関係ない状況や理由で死亡や破滅しているから、そう簡単に繋がらないはず。それも、ラシンゲンなんて中堅の名家の数年前の散発的な『事故』なんて、結論ありきで本気で調べに掛かっても、そう簡単に情報は集まらないはずだ。
「本家も分家も巻き込む、名門ラシンゲン家の内紛問題。結局、当主とその妻に二人の娘の内の長女を謀殺された分家筆頭のプルレイアだけが一人負けで財産のすべてを持っていかれて。でも、その当主夫妻の遺児が成人前に騎士叙勲を受けるとの快挙を成し遂げて数ヶ月後、プルレイア以外のラシンゲンがそれぞれの理由でことごとく破滅。今は遊撃騎士をしているその娘は、むしろウチみたいな組織の方が才能を生かせるんじゃないかと思うほどに謀略の才があるとは思うけどね。惜しむらくは、どれだけ才にあふれようと、経験も人脈も少ない少女騎士では、ラシンゲンの内紛で勝利者側の後ろ盾の某枢機卿殿に献上された財産は手が届き切らずに、枢機卿会議の他の連中にも知られずに和解したみたいだし。お前的には『ふり』何だろうけど」
――ありえない。何で『なかったこと』まで知っている?
エレアとしては不本意なあの日、本家すらも滅び後ろ盾にすがったプルレイア以外の最後の分家と和解をなしたその場で、すべてはなかったことにされたはずなのである。情報の隠匿にも関わったからこそ、高が連絡係が知っていたことに驚きを隠せない。
だが、ここには枢機卿会議の『耳』がある。
信仰機関と自分が対等にやり合えるなんて、相手方に対して過小評価も甚だしいことに気付いたエレアであるが、乗り掛かった船から今更降りるわけにはいかない。このままでは、現体制に対する叛意すら疑われかねないのだから、何とかしないと。
今はまだ、正面から戦うにはあまりにも無力であるが故に。
「……敵討ちなんて物騒な――」
表情を繕う余裕もない中で何とか口を開いたところ、いくつもの手の平サイズの人形が無造作に執務机の上に投げ出される。
「……」
「偵察用の魔術陣が施された人形五体。この周辺の分を今さっき掃除した。そちらの師匠殿が詰まらん難癖で左遷されるまでは、幼くして苦労しただけあって随分と逞しい性格だったらしいじゃないか。ボクが掃除した索敵範囲外から慌てて回したとして、まだしばらくは枢機卿どもの目もない。それに、状況の停滞しているここの優先順位は高くないだろうから、もっと時間は稼げるだろうさ。――だからもう、形ばかりの信仰機関側に情報を開示させられたアピールはいらない。腹を割れ。見ていて寒々しい」
執務机の引き出し裏に仕込んでいた魔術陣を発動させ、ポルタの言うことが本当だと分かると、エレアの口から思わず舌打ちが漏れる。
人形は動きが鈍い故にそう自由の利かない『目』と『耳』と精々魔力照射の感知くらいしかできないことを利用し、壁紙の裏に仕込んで持ち込むことで部屋中に設置した索敵用魔術陣。存在を中央にも秘匿するために一度も使わなかった隠し玉を、こんな追い込まれた場面で使わざるを得なかったことに苦々しい思いを抱き、そして、エレアにはそれを隠す気も失せていた。
「ったく。これでも一応は良いところのお嬢様だから、師匠の前以外では上手く猫被ってた筈だぞ。しかも、ラシンゲン関係の一連の事件は、公式にも裏でも『なかった』はず。最奥の暗部殿は、どこまで知っているのやら」
それは、エレアの事実上の降伏宣言であった。
下手に頭を使っても、それを上回る何が出てくるかわからない。敵の総本山のど真ん中で、長年何代にもわたって組織を維持してきた異能者の集団に対して、何も考えず、本音でぶつかることにしたのである。
これなら、少なくとも裏はかかれない。そんなものはないのだから。
歯をむいた攻撃的な笑みを浮かべて黙るポルタを視界に入れながらも気にもせず、エレアは言葉を続ける。
「何を心配してるのかは知らんが、あたしだって彼我の戦力差を考慮するくらいの余裕も、好機を待つだけの覚悟もある。しくじれば自分も、あたしのところに偶々配属されただけのリーネもサーレも、場合によっては師匠も破滅する。餌がチラついたくらいで考えなしに喰い付くほどに愚かじゃない。舐めんなよ、優男。今回は、正面切って中央と事を構える気はないさ」
その返事に満足したのか、ポルタは視線を幾分か和らげた。
「それは良かった。身内が傷付けられれば、信仰機関は容赦しない。念のために言っておくが、クラント・バルディエーリを厄介ごとに巻き込むなよ」
それだけ言い残して、エレアに背を向けて一歩二歩と進む。
だが、エレアとしては、やられっ放しも気に入らない。
不要どころか、害になりうることも理解したうえで、ずっと気になっていた疑問をぶつけることにした。
「ちょっと待てよ。こっちも一つ聞きたいんだが」
ここで黙って立ち止まったポルタの行動を了承と取り、言葉を続けるエレア。
「お前、何者だ?」
「何者? さっきも名乗ったが、信仰機関後方要員の――」
「そう広い訳でもない室内で、単騎戦闘能力として最高クラスの証である遊撃騎士の肩書を持つあたしに気付かれない隠形。足音を立てない珍妙な歩き方。それにポルタは、教会領内では古くからある有名なおとぎ話に出てくる道化師の名だろう? 話の中でも、終始滑稽で苦難しかなかった役回りだぞ。本名だというのなら、名付けた人間の正気を疑うね。ついでに言えば、トップエリートの個人的事情、しかも反逆意思をうかがわせる事情を含めた危ないネタ。どう使うにしても一連絡係がそう簡単に知らされるようなものじゃあないはずだ。現に、今夜大活躍だった若手のトップエースでも知らないんじゃないか?」
ただの意趣返し。プライドの問題。
知るはずのないことを知っているのはそっちだけじゃないんだ、と。そう言いたいがためだけの行動である。
背を向けたまま微動だにしないポルタに、言葉を続けるエレア。
「ふふん。この狭い室内で気配を消し切ったのはともかく、歩き方に気付かれたのは意外だ ったか? あたしも、あんたがやったことだけ見ても、少し前に同じ雰囲気を持つ敵と戦ってなければ気付かなかっただろうさ。そして、ちょっと腕が立つくらいのただの連絡係なら、こっちへの警告のために限定的に情報を開示されたのかとも考えたがね。どこまでがこっちへの牽制でどこからが無意識なのかは知らないが、運が悪かったな、暗殺者さ――」
「まず一つ」
背を向けてそう言って、ポルタは硬い表情で口を開く。
「情報は、知るべきものが知るべきで、知らぬべきものが知るべきじゃない。そして――」
わざわざ発言を遮り、この場でどんな言葉が飛び出すのかと構えるエレアの前で、ポルタはここで一気に表情を緩ませる。
「オイラの名前は、ポルタ。信仰機関の後方要員で連絡係。これじゃあダメっスか?」
なんて振り返って笑顔を浮かべるポルタに、エレアは、思ったよりもこの情報は重いことに気付く。
いくつか候補は考え付くが、この情報自身が知られるとまずいのか、付随してまずい情報と繋がっているのかは知らないが、おそらくはポルタからの警告である雰囲気の変化に、ここが引き際だとエレアは理解した。
「……まあ、良いでしょう。それではよろしくお願いしますね――色々と」
何事もなかったかのように元通りの笑みのエレア。
交渉はここに終結した。
「任せてほしいっス。正体不明の少女関係のさっきの書類と、今からの裏取り。合わせれば、明日の朝一番までには枢機卿連中に軽く一発かませると思うっス」
「おや心強い。そんなに急ぐなら、ここの電話を使いますか?」
ここでポルタは苦笑い一つ。
「試してもらわなくても大丈夫っス。教会の最高権力者たちに喧嘩を売ろうなんて話、教会の管理する通信手段で伝えるほど間抜けじゃないっスよ。わざと情報を漏らす理由もないっスから、時間がない分は向こうの連中に対する奇襲の効果で補うっス」
と言って、振り返らぬまま手を振りながら出ていく。
ここで一息吐き、背もたれに深く腰掛けたエレアだが、「そういえば、言い忘れてたっスけど」とひょっこりポルタが戻ってきて、慌てすぎたせいで椅子ごと背後にひっくり返りかけていた。
「今回の件を受けて人事異動が行われると思うっスけど、今回限りはこっちで何とかしておくっス。栄転――までは保証しかねるっスけど、左遷にはならないっスから、安心して事後処理に集中してほしいっス」
「ありがたいお話ですが、あなたの一存で決めてしまえるようなことなのですか?」
「敵の敵は味方、とも言うっスから。信仰機関をこれからもご贔屓にしてもらえるなら問題ないっスよ。ウチの団長から事前に言われている条件と現状からしても、これくらいは請け負えるっスから」
それだけ言い残し、ポルタは再び出ていく。
数分間、戻ってこないことをじっと待って確認してから、もう一度ため息を吐いて背もたれにもたれかかる。
今から駅馬車で二日はかかる聖都に戻って上司に報告して、情報を纏めて最高権力者に喧嘩を売るのが朝一番まで。日付が変わるのもそう遠くはないにも関わらず、である。
まったく、うらやましい限りの組織力。その上、連絡係にありうるかも知れないと知らせるくらいには、この状況も想定の内。
「むしろ、奴らは何を知らないのかが気になってくるな」
そう呟いて、ため息一つ。
実は、自分が知らせた程度の情報はすでに知られていたのではないか、と考えて、その想像を慌てて振り払う。
ラシンゲンの内紛の時のように枢機卿個人ではなく、枢機卿会議全体で動いての最高機密。
そこまで暴かれているのなら、むしろ、なぜ信仰機関が大人しく異能者を敵視している教会秩序に甘んじているのかが分からなくなる。 異教徒や教会領の利権を欲しがる周辺国などに機密情報を無造作に垂れ流し、教会内で内紛を煽るだけで、簡単に教会なんて潰せてしまうのだ。
そこで余計なことを考えるのを止め、もうしばらくしたら来始めるだろう事後処理の書類に備えて、今残っている仕事に手を付けた。
ご覧いただき、ありがとうございました。