第3話
「ここも複合式の施錠がしてある。非魔術式だけだったらともかく、魔術式の方は僕たちじゃどうしようもないよ。だから、いい加減に帰ろう?」
迷宮のように入り組んだバルディエーリ家の地下宝物庫。大人三人が並んで歩ける程度の石造りの通路で、僕とミリカじゃどうしようもない鍵に行く手を邪魔されること、もう七回目。進めなくなるたびに道を変えながら、壁に備え付けの魔術灯を点けたらバレるからと、手持ち式のものをそれぞれ持ちながらここまで来た。
ミリカが宝物庫の中を一度くらいは見てみたいと言い出して、ミリカ(とついでに僕)の十歳の誕生会の準備に追われている使用人たちの目を盗んでここまでやってきている。
でも、これで僕たちに行ける限りの所はすべて行ったし、満足して帰るだろう。
「むう……だったら、これよ!」
そう言って妹君が取り出したのは一本の短剣。
「って、『魔力殺し』! それバルディエーリの家宝だろ!? ただでさえ近付くなって言われてる宝物庫に入った上に、そんなものまで持ち出したのがバレたら大目玉だぞ!」
「大丈夫よ。本当は痕跡が残るから使いたくなかったけど、こんな所、滅多に人なんてこないし、そう簡単にはバレないわ」
そう言って、ミリカは扉に彫られた魔術陣に無造作に短剣を突き刺した。
「ほら、簡単だっ――」
「逃げろ! ミリカ!」
何が起きているのかは分からなかったけど、刺さった短剣の刃先の辺りに光が集まっていくのを見て、とっさに妹君を抱き寄せて僕が上に覆い被さる。
続いて響き渡る轟音。直後にやってくる世界の終わりを思わせる大揺れ。
「お―いさ―――じょ―ぶ!? ――い―ま!」
時間としては一瞬とも言えるくらいに短い間のことだったけど、どうやら耳をやられたらしくて、ミリカが何かを言っていることくらいしか分からない。持っている明かりは無事だから、無事なミリカを見ることはできるのは、不幸中の幸いってやつだ。
「もったいないことに、何を言ってるかよく分からないんだ。でも、お前が大丈夫そうで良かったよ、ミリカ」
そう言うと、ミリカは呆けた表情で黙り込み、次の瞬間には真っ赤になりながら泣き出した。
何か言ってるみたいだけど、内容は当然分からない。すると、突然、膝立ちで腰に手を当てながら僕を指差して何かを叫びだした。どうしようもないので黙って見てると、今度は僕の胸の中に飛び込んで泣き出す。
「し―な―いで! 死なないで、お兄様……。何でもするから……リンゴモドキだって黙って借りてきたりしないからぁ……」
「いや、それは僕の生死に関わらずやめてくれ」
「っ! お、お兄様……?」
「ああ、やっと耳の調子が戻ってきたらしい」
そこからは大変だった。
感極まりすぎた妹君は早口であれこれまくし立てるけど、涙声の上に早すぎて何を言ってるのかさっぱり分からない。しかも、かわいらしく僕の胸をぽかぽか殴ってくるけど、威力が無さ過ぎて、ニヤニヤが止まらない。
最後には、抱きしめてそっと頭を撫でてあげたことで何とか大人しくなってくれたけど、今度は突然点いた壁の魔術灯と、こっちに近付いてくる複数の足音だ。
現れたのは、鎧のような筋肉を全身に纏った大柄な人物である父様を先頭に、バルディエーリの私兵たちがざっと十人ほど。
「クラント! 貴様、どういうつもりだ! 家宝まで持ち出しおって! いくら魔術陣を破壊できるといっても、破壊するべきポイントも分からずに適当にやってしまえばこうなることは常識だぞ!」
「父様ですか。お早いご到着で」
「何だその言い方は! 私を馬鹿にしてるのか!?」
少なくとも尊敬する理由なんて皆無だけど、それを言うとややこしくなるので黙り込む。
「それが父親に向ける目か! しかもミリカまで巻き込みおって!」
「違うわ! わたしがお兄様を無理に連れてきたのよ! お兄様は悪くない!」
ミリカが反論した途端に、父様が何も言えなくなる。だからこそ敬意なんて抱けないんだ。
「しかしだね、ミリカ。アレは――」
「お兄様をアレ呼ばわりしないで! わたし、知ってるんだから。お父様が『のうきん』とかいうのだから若い頃に家を潰しかけて、お母様の『じっか』って所からお金をたくさん貰って建て直したから、お母様やお母様の子どものわたしとお姉様には強く出られないんでしょ。それで、お父様が護衛の人を『てごめ』にしてお兄様が生まれたせいでお母様が怒って『かたみ』ってのが狭くなったから、お兄様にばかり酷いことするんだわ」
「そ、そんなことどこで聞いたんだ? 大方、使用人連中が――」
「そんなのどこだって良い! とにかく、お兄様にもう酷いことしないで!」
僕の胸の中で怒りをあらわにするミリカと冷や汗をかく父様の睨み合いは、先に父様が根負けしたことで片が付いた。
「何か誤解してるようだが、私は子どもたちを平等に大切に扱っているつもりだよ。さあ、だから早く手当てしよう。頬を切ってるじゃないか」
父様が差し出した手は、しかしミリカに弾かれる。
「何が『大切に』よ。それは『バルディエーリの娘』としてでしょ。お父様だけじゃないわ。お母様もお姉さまも他の人も、みんなわたしの立場しか見てないのよ! わたしを『ただのミリカ』で居させてくれたのはお兄様だけだわ!」
唸り声を上げながら睨みつけるミリカに、父様は困惑し、私兵たちは呆れ返っている。
いつまでもこの状況を続けるわけにはいかないし、何とか僕の麗しい妹君をなだめようと頭を働かせていたんだけど、
「黒すけ! これはどういうことなの!?」
新しく現れた、これまた面倒な人が、状況を変えてくれた。
その女性がさらに近づいてきたのに反応して、ミリカはとっさに僕の服の裾を掴んだ。
「ああ、服がこんなにボロボロになって……ケガはない? ――って、切れてる……頬が切れてるわ!」
昔から『帝国の至宝』なんて呼ばれていたらしい美貌を向けられて、お日様のような明るさを持つ妹君も、何も言えずにただ黙っている。
「落ち着いて下さい、母様。かすり傷でそんなに騒ぐから、ミリカが驚いています」
「ふん。自分の主君を誘惑した淫売の息子は、こんなところに連れ込んで、自分の腹違いの妹を毒牙に掛けるつもりかしら? そうはさせないわよ!」
「誤解です。僕は、決してミリカを傷つけません」
話を聞いてもらえないくらいはもう慣れた。
最近は、もう居ない愛人が残していった子を殺しも追放もしないことに、正妻として器が小さくはないな、なんて他人事みたいに考える余裕まである。
実際は、出産時の母親の死亡率や、妊娠中に中央から兵力の供出を命じられた時の指揮官をどうするかなんかを考えれば、たった一人の直系の男の跡取り候補を追い出すことはできないらしい。お家存続だとか、周りの評判的な観点から。情報源は、メイドたちの噂話。
結局、母様の実家に頭が上がらないくせに、姉さまを生んでから九年間も子宝に恵まれなかった母様が妊娠して喜んでいたほぼ同じ時期に愛人に男の子を妊娠させてしまった父様が大体悪いそうだ。感情に任せてやらかさない母様は、立派らしい。引用元は、メイドたちの噂話。
そうこう考えている間に、一刻も早く手当をしようという母様の、細腕でミリカを小脇に抱えて走り去るという、火属性の身体強化を生かした芸当が目の前で繰り広げられている。
残ったのは、苦々しげな父様と居心地の悪そうな私兵たち。そして、僕。
父様は僕を一瞥して舌打ちを一つ打って立ち去る。私兵たちも命令が無くて困惑してたけど、誰からともなく去っていく。
残されたのは僕一人。
ふと足元を見れば、そこには『魔力殺し』が落ちていた。
取り敢えず拾っておいて、機を見て返せば良いだろう。
そう思って拾い上げて立ち上がった所で、急に目の前が暗くなる。意識が遠くなっていく……。
「兄貴、起きたっスか?」
場所は教会の客室。時間は朝。目を開けると、何がおもしろいのかにやにや笑う弟分(自称)。
「……最悪だ」
「顔見ていきなりそれは酷いっス!」
それもあるが、また昔の夢を見てしまった。
しかも、追い討ちを掛けるかのように昨日見た、銀髪少女。
「……訳が分からん」
「それはないっス! 聖都からここまで走ってきた弟分の顔を見たセリフとしての不適切さを理解できないなんて、ありえないっス!」
「聖都から? ……そう言えば、兄貴を見捨ててさっさと逃げ出した弟分(自称)が、今更になって何の用だ?」
「わ、悪かったとは思ってるっスよ。これを渡したらすぐに聖都まで帰らないといけないんスから、暴力的なのは勘弁して欲しいっス」
ベッドの上で上半身だけを起こして、差し出された袋を受け取る。
中身を確かめると、ざっと見ただけでも百万メルエは下らない現金。
「どういうことだ?」
「ち、違うっス! お腹が空いたからって、パン代を拝借したりしてないっス!」
『そうそう。今度はサンドイッチだものね』
「クラリアァー!」
『しかも、一つ六百八十メルエの特製チキンサンド!』
『貴様らぁっ! 人の金で相場の三倍を越えるような高級品を買うなぁっ!』
「別にお前の朝食に興味はない。どうしてこんな大金を渡しに来たのかと聞いている」
「き、興味がないなら離して欲しいっス!」
「こめかみグリグリはただのケジメだ。気にするな。ほら、悪さをしては団長にしょっちゅうこれをされていた昔を思い出せて懐かしいじゃないか」
「ぎゃぁぁぁっ!」
相棒がクラリアにおちょくられているのは、近くに魔術師が居ない状況での近距離での念話だし、気付かれないだろう。でも、一般人からすると一人で騒いでるだけのポルタは、いくら隔離区画らしいと言っても、そろそろ人が来そうだ。
手を離してやり、息の荒いポルタに答えを促す。
タイミング良く相棒もクラリアに言い負かされたらしい。さっきまで念話で騒いでいたが、今はクラリアの高笑いと悔しそうな相棒のうめき声だけが響いている。
「そ、それは今回の護衛任務の報酬らしいっス」
「報酬? 条件からして、相場を遥かに超えているぞ」
「そんなヤバそうなこと、知らないし、知りたくもないっス。オイラの平穏を邪魔するものは何だろうと、目を閉じ耳を塞ぎ口をつぐむっス!」
原則として完全出来高制の信仰機関に所属して以来、数え切れない仕事をこなしたが、ここまで破格の仕事は流石に初めてだ。
考えられる理由は、俺の知らないとんでもない裏事情がまだある。もしくは、こっちの本来の上司が遊撃騎士殿の事情を知って吹っ掛けた――間違いなく後者だろう。
うちの団長は、報酬を誤魔化すような不義理なことはしないが、弱っている人間を見つけたら迷わず追い討ちを掛けるタイプだ。
「そうか。それにしても、とんぼ返りとは大変だな」
「本当にそうっス。聖都とこのソディルブの街には数年前に電話線が通ったから会話は簡単にできるっスけど、物までは届けてくれないっスからね。公共交通機関の駅馬車じゃ二日掛かる二つの街を、オイラとクラリアなら一晩で一往復半できるからって、他の方面も含めて急ぎの仕事は全部オイラに回ってくるっス。今日も、至急な別件のお使いの帰り道だからちょうど良いって、ここに寄らされたっス」
前々から速いとは思っていたが、そこまでか。
駅馬車は夜は進まないから、実質丸一日で進む距離を半日で一往復半してしまうポルタは、異能者だということを差し引いても異常だ。『信仰機関最速』と言われているとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
『ところで、我らもそろそろ中庭に出ないとマズイのではないか? そこであの少女の護衛を引き継ぐ手筈だと言われたのだろう?』
そう言えばそうだった。
銀髪少女に出会ってしばらくは呆けていたが、その後、顔合わせが終わったからと部屋から連れ出されたところで確かにそう言われた。
時計を見る……。
さっさとポルタを蹴り出し、扉の外からの扱いに対する抗議の声を聞きながら着替え、最後に装備を確認して部屋を出る。
扉を開けた瞬間の手応えと、念話で響き渡る女性の爆笑を気のせいだと言い聞かせて階段を駆け下り、人の気配のない石造りの建物の中を駆け抜ける。
目的地に着くと、丸テーブルの上の朝食を無表情のまま食べ続ける銀髪少女と、その後ろに控えて眠たげな魔法剣士のサーレ。席はまだ二つあるが、どちらかに座っていたらサーレは撃沈していただろう。
ここで懐中時計。
……ふむ、五秒前行動。悪くない。
「……あ、おはようございます」
こっちに気付いたサーレの挨拶。
銀髪少女――ミリカはこっちに目もくれずに食べ進める。
護衛と言っても教会のど真ん中。そこまで気を張る必要もないだろうと、サーレの横に並んで立って、気軽に声を掛ける。
「後は俺とリーネが引き継ぐのだし、もう休んだらどうだ?」
「リーネが来たら休みますから」
部外者で異能者。戦力であると同時に不穏分子。逆の立場なら俺でも警戒する。
それなら、お目付け役らしいリーネが来るまでこのまま待たせてもらおう。
一応は周囲に気を配りながらも、朝食を無心に消化していく少女にふと目を遣る。
服装はシャツもスカートも中産階級の一般的な少女が着る程度の質。清潔でもある。
食べているのは、ハムにスクランブルエッグ、白パンとミルクに何種類かの果物。こっちはむしろ上等な部類。
正体不明の銀髪少女の待遇は悪くない。それどころか随分と良い。
もふもふ、と小さな口で頬張る姿は、どこにでも当たり前に居る少女。敢えて言えば、将来有望な容姿くらいだろうか。
『その娘が気になるか?』
『あんな目をする理由が思い付かない』
『分かっているとは思うが、その娘はミリカであっても、お前のミリカではない』
『……』
『別に、分かっているのなら、それで構わんのだがな』
唐突に目に入るのは碧。
銀髪の少女の瞳だと気付くのに時間は掛からない。
はて、目の前の碧眼が食事を中断するまでに興味を引く何かがあったのか?
「言いましたでしょう? ミリカは異能者らしい、と。念話も聞こえるのですよ。魔術師と違って、くっきりはっきりと」
後ろから声を掛けてきたのは遊撃騎士殿。
司教の着る紺色の法衣を身に纏い、左手には杖を、右手に持つお盆には大皿に載った様々な種類のサンドイッチに、サラダが二皿。そしてティーセット。見るからに後衛型とは言っても、二人前と思われる量の朝食を片手で軽々持てる程度には鍛えてあるらしい。
そんな彼女は相変わらずの笑みを浮かべ、テーブルの上に朝食を置いた。
「……うん? エ、エレア様!?」
寝ぼけ眼の見習い魔法剣士は、ようやく上司の出現に気付いたらしい。
リーネが来るはずであったし、予想外の展開に慌てているようだ。
「ど、どうしてエレア様がここに!?」
「彼女に割り振っておいた仕事で少々トラブルがあったらしく、そちらを優先させました。短時間で何とかなりそうではありましたが、サーレは丸一日以上も寝ていませんからね。リーネが来るまでは私が引き継ぎますよ」
恐縮しきりのサーレも、さらに二、三の問答を重ねるが、睡魔には抗えずに去っていく。
それを見送ると、こちらに声を掛けてきた。
「どうぞ、空いている席に着いて下さい。一緒に朝食を食べましょう」
「いえ、仕事中ですので、座る訳にはいきませんから」
「ふふ。ここは教会のど真ん中ですから、敵の奇襲に即応できない危険よりも、空腹で足手纏いになる危険の方が大きいのではないですか?」
そう言って腕を引き無理に俺を席に着かせた遊撃騎士殿は、慣れた手つきで二つのカップに紅茶を注ぎ、一つを俺の目の前に置く。
「で、魔術師の眼前でわざわざ何を話していらしたんですか?」
「言うほどのことではありません。下らない世間話ですよ」
遊撃騎士殿は、一杯、二杯と紅茶に砂糖を注ぐ。
「へえ。世間話、ですか」
六杯、七杯と続き、十杯目で手を止める。
「今回は下らない世間話とやらの中身までは聞きませんが、非協力的な行動は控えるようにして下さいね。ここは、残念ながらあなたたちにとっては味方拠点であると同時に敵地なのですから」
警告、ということだろう。優雅に紅茶を飲む遊撃騎士殿の目だけが笑っていない。
何と言うか、見るからに甘ったるい液体を流し込みながらしていることに敬意を表したくなるほどに激辛な視線だ。
『ふん。小娘が偉そうに』
途端にさらに鋭くなる視線。
「相棒が、今後は気を付けると。謝罪の意を伝えて欲しいそうでして。ハハハ」
視線が緩むが、アレは完全には信じていない目だ。若気の至りで、広い意味でならばちょっと婚期というものに含まれることについてポルタと語っていた時に、いつの間にか後ろを取っていた信仰機関のお姉様方に事情を説明させていただいた際に同じ目を拝見させていただいたことがある。
俺の出任せがバレてるはずのミリカの方は、すでに興味を朝食に戻し、無表情に口を動かし続ける。
重い空気に耐え切れず、適当にサンドイッチに手を伸ばす。
良く確かめずに一口食べると、卵サンドの中に、シャキシャキとした歯応えとほのかな酸味と甘み。
「リンゴモドキ?」
「そうですよ。開発者の名を取って、正式名称『シャンテの実』。百二十年前にこの街で開発された、年に四度の収穫期を迎える、画期的な新品種。急いでいたので一番速く用意できるものを頼んだのですが、それが入っていてちょうど良かった。リンゴモドキが世に出るようになったころから出されている、この教会の食堂のちょっとした名物なので、ぜひ食べていただきたかったのですよ」
気付くと、また碧。
「ミリカはリンゴモドキが大好きですからね。それに反応したのでしょう」
皿の上から新しい卵サンドを取り、黙って差し出す。
すぐには受け取らない。長々と黙って見つめてから恐る恐る手を伸ばし、相変わらずの無表情でもふもふ。
「好きなのか?」
「……ん」
「そうか」
「……ん」
本当に好物なのかは一片の疑念が残るとしか言い様のない態度。内気だとか、そんなものとはまた違う、何か恐ろしいものに怯えながらも必死に手を伸ばしているような様子。でも、受け取ってからは迷わずもふもふ。
目の前の少女の頭の中では、いったいどんな感情が移り変わっていったのやら。
そして、流石に今度は空気を読んだらしい相棒は沈黙したままだ。さっきの発言の時と同じような状況だからとまた相棒に釘を刺されていたら、面倒では済まないことになっていただろう。
それにしても、リンゴモドキ……。
「どうかしましたか?」
「いや、別に何でもありません。それより、どうして法衣なのです? いつもはユーベルリッテのローブだったでしょう?」
「礼拝ですよ。一応ここらで一番偉いものでして、主宰せねばならないのです」
「礼拝? 確かに信徒は毎朝やっていますが、礼拝堂で行う本格的なものは、七日に一度の休息日だけではありませんでしたっけ?」
それを聞いた遊撃騎士殿が苦笑し、疑問に答えてくれる。
「一般信徒はそうですが、教会の神官や騎士、兵士は毎朝やっているのですよ。まあ、騎士でも、信仰機関の方々は無縁でしょうがね。むしろ、神の敵とされる異能者が礼拝している図というのも、なかなかにシュールなものですが」
その言葉に二人で穏やかに笑っていると、唐突に沈黙が訪れる。
居心地が悪いといったことはないのだが、遊撃騎士殿は黙って一口紅茶を飲み、相変わらずの笑みで再び口を開いた。
「クラント殿は、ミリカについてどう思いますか?」
「どう、と言われましても。あいまい過ぎて、何をお答えすれば良いのやら」
「公にはできませんが、私は、聖都に近すぎず遠すぎないこの街で、異能者『かもしれない』この娘の力のことを、それこそどんな些細なことでも良いから調べろ、と言われてここに居るのです。しかし、どうにも取っ掛かりすら見つからないのです……」
「あー、申し訳ないのですが、『敵』である異能者関係の研究は、教会が最先端であって、私のような末端では知ることができないものも少なくないでしょう。ですから、お役に立てないと思うのですが?」
「何でも良いのです。この娘の担当になってから、前任者たちの残した報告書を熟読し、その上でやれる限りのことをしてきました。それでも結果が出ない。ですから、何でも言いのです。この娘に会わせた異能者の意見を直接聞ける機会など、教会が主導する限りではそうはありませんから」
そう言われても、俺が何か言えることは思い当たらない。
遊撃騎士殿に許可を取って相棒にも聞いてみたが、
『この娘について聞きたいのは、むしろこっちだ。異能者かとも思うが、何かがおかしい』
と返ってくる始末。
遊撃騎士殿の笑みも少し陰った様子を見せたところで、役に立つかは分からないが、普段から相棒に言われている言葉を思い出した。
「一般論として、異能は魂と深く関係する力だそうです。心が異能を強く拒絶しているから、まったく表に出ないのかもしれません」
その言葉を聞いた遊撃騎士殿は、なぜか苦笑している。
「申し訳ありません。どうにも――これは見ていただいた方が早いですかね」
そう言った遊撃騎士殿はおもむろにナイフを手に取り、そのまま投げた。
「――っ!」
ナイフは、リンゴモドキを取ろうと伸ばしたミリカの手元を掠めてテーブルに刺さった。
ミリカは一瞬手を強張らせたように見えたが、顔色一つ変えることなく、ぽたりぽたりと右手から血を流しながら食事を続ける。
――落ち着け。あれはミリカじゃない。そうだ、別人だ。
自らの心を必死に落ち着けていると、遊撃騎士殿の話が続く。
「私も詳細は知りませんが、保護される際にかなり高位の治癒『らしき』能力を使ったと聞いています。らしき、というのが引っかかりますが、だと言うのに、ご覧のような軽症ならばともかく、前任者たちのやった後遺症が残らない程度の数々の実験でも異能は発動されませんでした。本当にクラント殿の言うとおりなら、いっそ殺しでもしない限りはどうしようもないようですね」
遊撃騎士殿は、そのまま朝食に戻る。
大した理由もなく少女を傷つけたことを気にして……はいないのだろう。
善悪の問題ではない。目の前の人物に与えられた役目は、この程度で心を痛めていては遂行できないだろう。必要とあれば殺しもする人間が、偉そうに語れることではない。
「おや、私の美貌に見惚れましたか? リーネの蔵書にかなりの頻度で出てくる、『禁断の恋』とやらの始まりですかね」
この笑みは、訓練期間中に信仰機関の先輩たちによく向けられた類のものだ。完全にからかいにきている印。
「美しいのは認めますが、危ない橋を渡る趣味は残念ながらないんです。ただ、いつも笑みを浮かべているのだな、と。そう思っていただけです」
それを聞いて、柔らかな笑みに変わる。
どうやら、遊撃騎士殿の期待したような反応ではなかったようだ。
「カリカリしても良いことはありませんからね。常に平常心。心を広く持とうと気を付けていると、自然と表情も柔らかくなるのですよ」
そう言って、会話をしながらちょくちょく摘んでいたサンドイッチをもう一つ手に取る遊撃騎士殿。
そこから、デザートに入っても無心なミリカを時たま気に掛けつつ遊撃騎士殿と和やかに世間話をしていると、遠くからの声。
「司教様! 実は昨夜の案件で、急いでご相談しておきたいことが」
「おや、確か予算配分への陳情でしたか。片付いたと思ったのですが、これはまた面倒なことになりそうですね――申し訳ありませんが、ご覧の通り急ぎの仕事が入ってしまったのでここで失礼させていただきます。食器は後から厨房の方で回収してもらう手筈ですので、お気になさらず。なんでしたら、食後の運動がてらリーネを迎えにいってみてはいかがですか?」
遊撃騎士殿の話では、どうやら錬兵場が目印の二号館にリーネは居るらしい。そこまでの道順を手早く説明すると、遊撃騎士殿は初老の文官男性と共に、俺の居住スペースもある中央聖堂へと向かっていく。
後に残ったのは、異能者一人に、デザートのリンゴモドキを無表情でかじり続ける正体不明の少女一人。
お付き合いいただき、ありがとうございました。