Mi Mancherai 7
アレツがその書類を受け取ったのは、まだ早朝だった。
週明け、リリアン達との週末をまた一つ終え、基地に帰って仕事を始める、そんな気だるい朝。
「それが明日送られてくるの新人達の資料なんだが……今回は少し変り種がいる」
上司である大佐にそう言われて、アレツはその紙をめくって目を通した。
「どれですか……と。ああ、これか」
資料にある兵士は全部で十人強、だろうか。どちらにしても、ここに送られてくる新人は最初の一週間で半分以上振り落とされるので、スタートポイントでの人数はあまり重要ではない。
「……十七歳? 冗談でしょう、大佐」
「それが本当の話なんだよ。カーヴィング、説明するから、少し座るんだ」
普段はあまり口数の多くない大佐が、珍しく饒舌に説明を始めた。
その口調からして、『その』新人に、少なからぬ期待を抱いているのが想像できる。
「一年前、テルで爆破事件があっただろう。彼はそこに居たらしいんだ。そこで、家族を全員失っている」
──大佐の説明を要約すると、こうだった。
その十七歳の少年は、一年前から軍隊に所属している。
この国では、兵役希望は十八歳からが基本だった。しかし、仕官学校に通う者や特別な事情がある者だけは、十六歳から許可が下りる。しかし、例外的なものだ。大部分は高校を終えた十八歳、もしくは大学を終えて二十一、二歳で入隊する。
しかもアレツ達のいるクレフ基地は、一定以上の経験を積み、優秀だと認められた兵士が送られてくる場所だったから、いくら早くても、皆二十歳は越えている。
平均だと、二十三、四歳辺りで配属になった。
しかし今回来る予定の少年は、なんとまだ十七歳だ。
名前を見ると、『デーナ』とあった。デーナ・フレスク。
一年前に起きた首都での悲惨な爆破事件で家族を失い、それからすぐに軍に入る事を希望したのだという。
最年少でありながら、群を抜けた成績。
エリート部隊であるここに、入隊一年目にして白羽の矢が立った……ということらしかった。
「けど、まだ子供は子供でしょう。うちに来るのは、もう数年待ってからでもいいんじゃないですか」
アレツが呆れたような口調でそう言うと、大佐は肩を竦めた。
「確かに私も最初はそう思ったよ。しかし、若すぎるせいで通常の部隊では色々と軋轢があったらしい。群を抜けて優秀だし、そんな所で腐らせておくのは惜しいと、向こうの上司が直接私に推薦してきたんだ」
「それはまた……」
珍しいケースだ。
そう思ってアレツはもう一度書類に視線を落とした。
そこには小さな照明写真が付いている。
意志の強そうな、端正な顔だ。実年齢よりは明らかに年上に見える。
「多分、通ると思うよ。今回選ばれた連中の中でも成績は最も優秀だ。そうなったら、お前に面倒を見てやって欲しいと思ってる」
「……分かりました、けど。面倒と言われても」
「色々と問題もあるんだよ。若いし、少し無茶な所があるらしい。家族全員を一瞬で失ってるんだ。奴はその中で、ばらばらになった家族の身体を必死で集めようとしていた とか……駆けつけた隊員達の話ではね」
「…………」
アレツは顔を上げると、無言で頷いた。
*
その例の少年を含めた新人たちが、アレツの元に到着したのは次の日の朝だった。
一列に並ばせると、短い挨拶と教訓をする。
いつもの事だが……今回だけはやはり、アレツの注意はその問題の少年の元へ行った。
──最初は分からなかった。とても十七歳には見えなかったからだ。
他の連中より落ち着いていて、逆に、彼の方が年上に見えるほどで。
短く揃えた黒髪に、調った男らしい顔付き。加えて長身で、年の話を聞かされなくても彼は目立っていただろう。
かといって最初から特別扱いする訳には行かない。
とりあえず調子を見よう……そんなつもりで、アレツは彼らの訓練を始めた。
それは、射撃のテスト訓練中だった。
それぞれにどれだけの腕があるのか見るため、三人ずつ横に並んで順番に外で的を撃たせる。
問題のデーナは、最初の三人に組み込まれた。
「一発でも無駄にしたら家に帰ってもらうからな! ……始め!」
アレツがそう怒鳴ったのと同時だった。
──予想はしていたが、デーナの的は他の二人よりずっと早く、的の中央にほぼ全て当たっていた。
その動作はあまりにも素早く、発砲開始から終わりまでが一瞬で、周囲もしばらくシンと静かになった。
アレツでさえさすがに驚いて、すぐには口を開けなかった。
「終わったんじゃないんですか」
周りが無言でいると、デーナが静かに口を開いた。
それは、思ったよりも低い声で、やはり、年齢よりずっと大人びた物言いだった。
「ああ……驚いたな、文句なしだ。ご苦労」
アレツがやっとそう告げると、デーナはそのまま表情を変えるでもなく無言で、元の列に戻ろうとした。
「お前、いくら少し上手く撃ったってだけで、その態度はなんなんや?」
しかし、列へ戻る途中のデーナに、他の新人兵から刺々しい声が掛かった。
だいたい、ここへ送られてくる兵士たちは皆から優秀だと判を押されているので、変にプライドの高い連中が多い。
しかも相手が十七歳となれば、格好の餌食だ。
最初に名前と年齢、ランクを全員に名乗らせていたので、このデーナは否が応でも同期たちの感心を集めていた。
しかし、デーナはそれにさらりと返した。
「やってから言えよ。一々突っかかるな」
──と。
デーナに声を掛けた兵士が、それを聞いて息を上げた。
「なんやと? お前、ガキのくせしてなに様やと思ってるんや!」
そう言って、一歩踏み出してデーナの前に出ると、道を塞いだ。
「関係ないだろ。そっちこそ何のつもりだ、どけよ」
「は! はいどうぞ、とでも言うと思ったか? 行きたきゃ俺を退けてみるんやな、この優等生が」
すると、その兵士はデーナを腕で押そうとした。しかし、デーナはそれを簡単にかわして、逆に兵士の方が倒れそうになる。
──と、ここで話が終わるはずだった。
けれど兵士の方も流石に鍛えられた猛者だ。転びそうになる瞬間、デーナの腕を引き込んで、二人は一緒に派手に土の上に倒れた。
そしてそのまま、地面の上で二人の喧嘩が始まる。
「このガキっ! 最初っから挨拶しても無視しくさって、なに様のつもりや!」
「ウザいんだよ、退け!」
──それは久しぶりに見る、派手な取っ組み合いだった。
この相手の兵士も兵士で、大佐に注意された一人だ。デーナに次いで優秀だが、血の気が多くて他の部隊で問題を起こした事があるとか──。
名前はダン、だった気がする。
「貸せ」
アレツはそう言って、傍にいた兵の一人から銃を奪い取った。
そして、絡み合って土まみれになっているデーナとダンの足元に、一発ずつ撃った。
至近距離だ──衝撃で跳ねた土が、勢いよく二人に当たる。
「うぎゃーっ! おっちゃん、なにするんや、死ぬとこだったで!?」
砂まみれの二人は、絡んだままの格好で動きを止める。ダンは、目を大きく見開くとそう抗議した。
デーナも流石に、驚いていたような顔をして固まっていた。
「そうだ、死ぬとこだったんだよ。的を外しちまったな、惜しかった」
アレツはそう言うと、銃をもと持っていた兵士に押し返した。その時はとりあえず、それで騒動は収まった──ように思えた。
デーナとダン。二人の衝突は結局、一日中収まることを知らなかった。
時間が経つにつれ周りも、デーナの態度が気に入らなかったのか、彼の優秀さに嫉妬したのか──。
デーナは孤立しているように思えた。
けれど本人にそれを気にする感じはなく、それどころか、わざと自分をその位置に置こうとしている感じさえした。
そして、夕食前──。
食事前に手を洗う、外の水道の脇で。
少しだけアレツが、彼らから目を離していた隙だった。
また派手な喧嘩が、彼らの間で繰り広げられていたのは……。
しかも今度は、デーナとダンの一対一ではなく、複数だ。ダンに同調したらしい複数の兵士達が、デーナに絡んで騒ぎを起こしていた。
「止めろ! いい加減にするんだ、全員失格にするぞ!」
アレツが声を上げて近付くと、デーナに絡んでいた兵士達はその動きを止めてコソコソと逃げていった。
ダンだけが、最後に「覚えてろよ」と捨て台詞を残して……。
後には、地面に腰をついた格好のデーナと、アレツが残される。
すでに日は暮れかけていて、兵士達も皆、この時間は空腹と疲れで気が立っている。兵士といっても皆、血気盛んな若者ばかりだったから、こういった諍いごとは珍しくなかったが……今回ばかりは度が過ぎているように思えた。
アレツは溜息を吐いて、デーナに近付いた。
しかし、デーナはアレツの方を見ようともしなかった。
こうしてよく見ると、デーナにはまだ少年独特の、不自然な手足の長さがあった。
そして──ああ、と不意に気が付く。
こいつはまだ、背さえ伸びきっていないんだ、と──。
デーナの身長は既にアレツのそれを越えていたが、それでも、これからまだ伸びるはずだ。体型がそれを物語っている。
幸か不幸か、外見も性格も大人びている。だから周りも気が付かない。
そう。甘えられる家族と、帰るべき家が必要な。そう、彼はまだ『子供』だ。
「おい、デーナ」
アレツがそう声を掛けて手を伸ばしても、デーナは動かなかった。
けれど、なにも感じていないから動かない訳じゃない。それは、アレツにも分かった。
『家族全員を一瞬で失って』
大佐から聞いた台詞が思い出された。無理に自分を押し殺しているデーナの姿は痛々しく、そして、どこか懐かしかった。
そうすれば傷つかないで済むと、そう思っているんだ──イリスを亡くしたばかりの頃の、自分のように。
「デーナ」
もう一度アレツが声を掛けても、デーナはやはり動かなかった。
なにかに怒っているかのように、どこか空の一点をじっと睨んだまま。
──そっくりだと思った。
あの頃の自分と。
大切なものを失ってしまった喪失感。愛する人を守ることが出来なかった自分への、飽きること無い怒り。
そのがすべてが今は消えたか……と問われれば、アレツの答えは否、だ。
今だって後悔する。それでも──。
それでも、いや、だからこそ。少しでも救ってやりたいと、そう思った。どこか昔の自分と同じ匂いのする、この少年を。
そう思うと、自然と言葉が口をついて出ていた。
「……一度失くしたからって、それきりじゃない。俺もそうだった、一度は失くしたと思ってたんだ」
アレツのゆっくりとした、しかし強い声に、デーナの少しだけ気だるそうに顔を上げた。
二人の目が合う。デーナの瞳は、大人びて力強かったが、その奥には隠しきれていない傷が深く刻まれているようだった。アレツはしょうがない、とでも言うように喉を鳴らす。
癒えることのない孤独。
──けれどあの時、自分にはリリアンがいた。失くしたはずの女性の、愛しいカケラ。
俺達の娘。あの天使の様な笑顔と、あの甘い声が。
けれどこの少年には、まだなにも無い。
「来いよ、デーナ」
下手に頭が良くて、肉体的にも精神的にも強いせいだろうか。他に責任を転嫁することさえ出来ずに、自分を責め続けているんだ。
けれど子供だ。どうもがいても、まだガキだ。
これから成長するのだろう。
『男』へと──。いつか自分の家族を作って、どこかへ旅立つ。
けれどそれまでは、安心できる場所が必要で。
そうだ。
リリアンも喜ぶだろう……?
あの子にはずっと寂しい思いをさせ続けてきた。
マークにそうするように、きっとこいつにも甘える。
「来いよ、デーナ。……お前を俺の息子にしてやる、それでどうだ?」
そう言ってアレツは、デーナの肩に手を回した。
デーナは動かなかったが、かといってそれを振り払おうともしなかった。
「もちろん、元の様に行かないのは分かってる。これは気休めでしかない。けど、無いよりはいい。それは保障する」
そんなことを言うアレツに、デーナは一瞬だけ驚いた様な表情をした。
しかし、すぐに硬い無表情に戻り、諦めたように首を振った。
「あなたに、そこまでする義理はないでしょう。指揮官」
「なにが義理だ。大人には、子供を育てる義務があるんだよ」
「俺はもう子供じゃないですよ」
そう言ったデーナの声はひどく落ち着いていて、確かに、彼がもういわゆる『子供』ではないことを裏付けている。
「……なんとでも思いたいように思えばいい。ただ、俺には お前にはまだ庇護が必要に見える。だからそれをオファーしてるんだ。嫌なら嫌で構わないよ」
アレツはデーナの肩に回していた手を緩めて、二、三回その背を叩いた。
「立てよ。今日のはまだ序の口だ。明日からの訓練に付いて来たかったら、さっさと寝る事だな」
アレツは立ち上がると、デーナに手を差し出した。
デーナは数秒だけその手を見つめたあと、素直にその手に取って立ち上がる。
──その動作には隙がなくて、彼がこれから『自分達の一員』になるだろうことを、容易に予想させた。
「……今日は失礼しました、指揮官」
立ち上がると、デーナは制服に付いた土を軽く叩きながらそう謝った。
アレツは眉を上げたが、次の瞬間には顔を緩めて苦笑いした。
「損な性格してるな、お前は。そうやって大人びてるから、何でも背負い込む羽目になるんだよ」
それを聞くと、今度はデーナの方が苦笑いする番だった。
少しだけ口元を緩めて、まだどこか皮肉そうに。
「そうかも知れませんね。でも、性分なんで」
夕暮れだった。
赤い大きな太陽が、クレフの乾いた土に色を落としていた。
二人は何も言わずに、宿舎への道を歩いた。
隣り合う影が、長く地面に伸びる。二人の男たちの、孤独なはずの影が、並んで。
*
アレツの予想は確かに当たった。
デーナは結局、最優秀の成績でクレフ基地入隊の切符を手にし、あれから一週間後にはすでにここの一員となっていた。
「サリのおばちゃん、こいつの皿のほうが肉の量多いやん!」
「『おばちゃん』なんて呼ぶからよ。私はまだ若いの! デーナ君を見習って、ちょっとはお行儀よくしたらどうなの」
「ぬぅう……」
あの衝突の原因になったもう一人の新人兵・ダンも、デーナに次ぐ成績で結局、ここに残った。
この二人の衝突や小さな喧嘩は相変わらずだが、あれから一ヶ月以上経った今では、血気盛んな子犬達が、ふざけて噛み付き合っている。そんな様相に見えなくもない。
「おい、ガキ。ちょっと上に気に入られてるからって、いい気になるなよ」
「あんたが勝手にそう考えてるだけだ。大体、俺が何を考えてようが、あんたには関係ないはずだ」
「その態度が一々ムカつくんや。こうしてやるっ!」
夕食の時間、食堂で。
ダンは、そう声を上げるとデーナの前の席を陣取って、すでに食事を始めていたデーナのトレイを、床にはたき落とそうとした。
それは──普通の人間の感覚から言えば──驚くくらい素早く機敏な動作だった。
しかし、デーナはそれを軽く片手でかわして、何食わない顔でダンを見下ろす。
「学べよ。なんで毎回やることが同じなんだ」
「くそガキっ! 立て! 立って勝負しろ!!」
ダンが派手な音を立てて椅子から立ち上がると、同時に、周りからは面白がった歓声が上がる。
──その日、アレツが食堂に入ってきたのは、そんな騒ぎの最中だった。
「おい、また始まってるぜ、お前のとこの二人が。どうする?」
先に食堂にいたペキンが、アレツを見つけるなり耳打ちした。
アレツは溜息を吐いてから口元を歪めると、指を鳴らすジェスチャーをペキンに返した。
「ほどほどにしとけよ。ガキ達のお遊びみたいなものだろ、食事前は気が緩んでるんだよ」
そうは言ったペキン本人も、その『お遊び』を楽しんでいるような顔で、口元に悪戯な笑みを浮かべている。
アレツはそのまま、掴み合っているデーナとダンに近付いた。
「おぅわっ!」
「っ!」
ゴン、という威勢のいい音が響いて、二人の若者が床に投げ出される。
「カーヴィング指揮官っ、なんで邪魔するんや! しかも首掴むとかって反則や!」
襟元を掴まれて、勢いよく頭をぶつけ合わされたせいで、デーナとダンの額が赤くなっている。
さすがにデーナの方はまだ冷静にしているが、ダンは大声を上げて抗議していた。
「なぁにが反則だ。実際の戦闘になったら、反則もくそもないんだよ。覚えておけ」
それだけ言い捨てると、埃をはたくように手を叩いて、アレツは二人に背を向けた。
ダンはまだ、立ち上がりながらぶつぶつ文句を言っていたが、デーナは黙って、しかなにか言いた気にアレツの背を見つめていた。
『息子にしてやる』
──そんな話をした後も結局、実際はなにも変わる事はなかった。
デーナとは親しく話すことも多くなっていたが、その話題には触れずじまいだ。
アレツにしてみれば、強要するべきではないし、しつこく言う必要もないように思えたのだ。
デーナとダンの成績は群を抜けていたため、二人とも、ペキンではなくアレツに就いて訓練を受けている。
相変わらず、デーナの周りとの衝突は絶えない。しかし、それはどちらかと言えばデーナ本人の責任ではなく、周りが突っかかって来るからだ。
逆に、デーナ本人の挑発的な行為は止んでいた。
それでもやはり、時折見せる危うさに……アレツは、デーナに対する考えを変えてはいなかった。
(まぁ……自然に任せるか)
そんな事を思いながら、アレツは夕食が済むと真っ直ぐ宿舎の電話がある一角に向かった。
『あれ』から十年近く経った今では、アレツの部屋に専用の線もあるのだが……やはり、なぜかここが落ち着けた。
イリスといつも話していた、思い出の場所。
「リリアン。どうだ、良い子にしてるか?」
『──お父さん!』
受話器から響く声は、すでに七歳になろうとしているリリアンのものだ。
年月が経つにつれてますます美しく成長していくこの娘は、正真正銘、アレツの宝だった。
『あのね、この前バレエの発表会があったの。レイチェルもマークも来てくれたし、写真もたくさんとってね……』
住み込みの手伝いと、レイチェルの間を行き来させるような生活をさせてしまっている。しかし、イリス譲りなのか……純粋さを絵に描いたような。そんな、素直で良い子だった。
自分が傍に居られないせいか、よくマークに懐いて後を付いて回っている。
マークもそんなリリアンが可愛いらしく、随分と甘やかしていた。
「なあ、リリアン。良い子にしてれば、次の週末はお楽しみがあるかも知れない」
『本当? お父さん、帰ってこられるの?』
「ああ、多分ね。で、ついでにお楽しみも連れてくるよ。出来れば」
この受話器の、ずっと先で。
彼女が嬉しそうに顔を輝かせている図が想像できて、アレツはそれだけで胸の奥に熱を感じていた。
『嬉しい、お父さん。でもね』
「ん?」
『お土産買ってきてくれるなら、いいの。それよりも、お父さんが早く帰ってきてくれる方が、もっと嬉しい』
こういう、少し大人びた事を言う時のリリアンの声は、イリスにそっくりだった。
この子を幸せにしたい。
それが俺の、今のたった一つの生きる理由だ──。
「……分かったよ。けど、もう遅いから今夜はそろそろ寝るんだ。いいな?」
『はぁい。お父さんも、ちゃんと寝て、ね』
「はいはい。大丈夫だよ、お休み。愛してるよ」
『私も、お父さん。お休みなさい……』
最後の声だけが、少し寂しさに曇っているように思えて、受話器を置くときにまた胸が痛んだ。
アレツは電話を切った後もしばらく無言で、その場に立ったままだった。
「カーヴィング指揮官?」
そんなアレツの後ろから、落ち着いた低い声が急に響く。
驚いて振り返ると、そこにはデーナがいた。
「なんだ、お前か。急に後ろを取られた気分だな……どうした?」
「いえ、通りかかっただけです。ご家族ですか?」
デーナがそう言って、アレツのすぐ後ろにある電話機を顎で指した。
「ああ……不肖の父親だけどね」
アレツが苦笑いすると、デーナは逆に真剣な顔になった。
「指揮官、その話ですけど」
「お前は……。こういう話の後にするか、それを」
「……嫌なら止めますよ」
「いや、変に気を回すなって事だ。どうだ、考えたか?」
「ええ、まあ一応……」
そう言ってデーナは、一息置いた。アレツを見つめるその瞳はどこか、相手の真意を見抜こうとするように鋭く、そしてやはりどこか、脆かった。
「……正直、こんな話をするのは貴方が初めてです。けど」
「…………?」
「貴方の言う通り、俺はガキです。正直に言って怖いんです。もう一度、同じ事になるのが」
「…………」
『家族全員を一瞬で亡くして』
『バラバラになった家族の体を、必死で集めて』
本人から聞いた言葉ではない。
多分、聞いても答えないだろう。けれど、その断片的な情報と、いま目の前にいる少年の瞳が、すべてを物語っている。
「デーナ」
「はい」
「俺は行かないよ、どこにも。少なくとも、お前が一人前になる前には、絶対にね。だから安心していい」
「……はい」
そして、数歩歩み寄ってきたのは、意外にもデーナの方からだった。
──思ったよりも大人なのかも知れない。そうは思ったけれど。
柔らかく笑ったその顔はやはり、少年のものだった。アレツもつられて微笑む。
「じゃあ手始めだ。この週末、休みを取っておけ。会わせたい奴がいるんだ」
「……はい」
*
そしてそれは、その週末が始まる前日の夜だった。
アレツは上部からの報告書を持って、宿舎のペキンの部屋を訪れていた。
「この前、捕まえた奴等がいるだろう。あれが逃走したらしい。だから警察なんかに任せて置けないっていったんだ」
その知らせに、ペキンが深い溜息を吐く。
「あいつら……人の苦労をなんだと思ってるんだ。行方は分かってるのか?」
「分かってたら捕まえてるよ。あいつらじゃなくて、俺達が、だけどな」
「くそ……」
一ヶ月ほど前、クラシッド国軍が──正確には、アレツ達が──国境付近で捕まえた、隣国からの不審者達。
武器を複数携帯していた彼らは、明らかに一般者ではなかった。
結局、彼らの身柄は警察に預けられたのだが……。
「とにかく。明日には、またなにか知らせが入ってくるはずだ。よく寝ておけよ」
「分かった。全く、とんだ災難だな。明日は週末だってのに」
デーナとリリアンとの約束の週末を控えていた、その夜。
例の不審者たちが警察の輸送車から逃走したという知らせが入ってきた。
国際法上、彼らが自国に戻ってしまったら手出しが出来なくなる。多分、明日の朝にはまたアレツ達に『出張』の知らせが来るのだろう。
「俺はテロリストより、シーラの方が怖いよ。なんて言い訳すりゃいいんだ?」
今はペキンにも、リリアンと一つ違いの娘がいた。
年が近い女の子同士という事もあって、よく一緒に遊ばせたりもしている。
シーラとは、ペキンの妻の名前だ。
「そう思えるだけ幸せだよ。それを忘れるな」
「……悪い。そういう意味で言ったんじゃないんだ、アレツ」
「分かってるよ」
それぞれ形は違っても、家族があって、想う相手がいた。
完璧とはとても言えない。それでも、お互い守るべきものを抱えて。そうして真剣に生きていた。
そんな、毎日──。
アレツはペキンの部屋を後にすると、自室に戻った。
そしてペキンに言った通り、自分も早めに眠りにつく。明日は長い一日になるかも知れない、そう思って。
そして、深夜。
アレツは妙な夢を見た。
イリスが遠くで泣いているのがぼんやりと見える、そんな夢だった。
声を掛けて慰めてやりたいのに、手が届かない──。
そして気が付くと、イリスだった筈のその姿が、リリアンと入れ替わっている。
ハッとして目が覚めた。
反射的にすぐに身体を起こすと、心臓が高鳴っているのが自分でも分かった。
(なんだ……夢? それにしては、リアルな……)
枕もとの時計に目を移すと、すでに深夜の二時を過ぎていた。
(イリス……リリアン……?)
アレツはしばらくベッドの上で、逸る鼓動を抑えながら、考えた。
──ただの夢だ。そう……
けれど、夢から覚めたときの緊張感は収まらなかった。
アレツはシーツを乱暴に剥がすと、ベッドを降りた。そして、部屋の外に出る。
そしてそのまま、下階にある電話器に向かった。
すると途中、デーナ達一般兵の眠る部屋の前を通った。
彼らはまだ今日の逃走劇を知らないはずだ。もし『出る』ことになれば、彼らからも数人連れて行く必要があるかも知れない。
(馬鹿な道を選んだよな……お互い)
そう思うとつい、デーナの顔が頭を横切った。
兵士達の事は、一人一人、いつも大切にしてきた。
兄弟のようなものだと思っている。
けれどデーナだけは、今までとは少し違う、妙な同情と愛情を感じていた。どこか自分に似ていて、あえて言うなら、息子に対するような感情……というところだろうか。そう。実際、そうなるかも知れないのだ。
彼らの部屋の前を通りすぎながら、アレツはそんな事をぼんやりと考えていた。
異変に気が付いたのは、電話機の備え付けられた一辺の、すぐ手前さった。
静かに寝静まっているはずの宿舎に、微かな足音がバラバラと響いている。
そして、その奥にある宿舎への入り口付近から、不審な人影が一つ、二つとチラついた。
アレツは、反射的に身を翻して壁の影に隠れた。
「…………!」
現れたのは数人の、覆面をした男達だった。動きも、格好も、明らかにここの兵士ではない。
しかも、肩からはライフルが下げられていた。
そして、その中の一人の顔には……見覚えさえあった。
──それは、まさに今日逃走したはずの、犯人達の一人の顔。
(……くそ、選りによって……)
どうやって基地内に進入したのか……。着ているジャケットを見ると、多分、食料の配給者を装ったのだろう事が分かった。
素早く人数を数えると、三人……。
しかも、その時のアレツは、武器になるものをなにも持っていなかった。
──けれど待っていたら、被害者を出してしまうのは、明らかで。
この先には兵士達が寝ている。彼らの狙いは、明らかにそれ、だ。
とにかく、そんな事をさせる訳にはいかなかった。
──全ては、一瞬だった。
最後の最後に浮かんだのは、やはり、イリスの笑顔だった。
初めて逢った頃の、怯えたような表情。漆黒の瞳。初めてのキス、そしてやはりまた……笑顔。
それから、リリアン。
まだ七歳……。
これからきっと、美しい娘へと成長するはずだ。それを、見届けるはずだった。
なにもしてやれなかった事が、悔しくて。
そして……デーナ。
どんな思いをするのだろう。置いて行かないと約束したばかりだった。
誰か、いつか。
あの少年を癒すことの出来る存在が、現れるのだろうか……。
そう。俺に、リリアンがいたように──
*
アレツが犯人の一人から銃を奪うと、その場で激しい銃撃戦になった。
銃声を聞きつけたペキン達が駆けつけた時には、すでにすべてが終わった後で──。
アレツはすぐに病院へ運ばれたが、時は既に遅かった。
翌日にはすぐに国葬が行われ、デーナもそこへ参列した。
──新しい家族が出来るはずだった、その日に。
幼すぎるリリアンはまだ、レイチェルの後ろでただ泣くことしか出来なかった。
結局、二人が出会う事はないまま。
そうして……十五年の時が流れる。