Mi Mancherai 6
アレツがその知らせを受けたのは、ある晴れた春の日の夕方だった。
イリスの出産予定日を二週間後に控えて、アレツはまとめた休みを調整してるところだった。その代価として、息を付く間もないくらい忙しくしていたところで。
けれどもちろん、なんの苦も感じない──。
もうすぐ生まれる、新しい命。
初めての自分の子供。
愛し合った女性と作る、新しい家族。
なにも疑っていなかった。
なにも。
未来への期待と、護るべき者が増える、責任感とその喜び。
彼らを幸せに出来るのは自分だけなのだと思うと、身体の底から勇気と力が湧いてくるような気分だった。
そして、それは夕方だった。
春の清清しい空が夕日に少しだけ赤く染まり出す、一年でもっとも甘く優しい、そんな時間。
アレツの元に一本の電話が鳴り響いた。
『女の子よ』
──それは、イリスに付き添っていたレイチェルの声だった。
嬉しいとか喜ばしいとか、そんな月並みな台詞では表せない興奮がアレツの全身を駆け巡った。
早く、早く、早くイリスの元に駆けつけたい。付き添えなかった事を謝らなくては。それから……。
そうはやるアレツに対し、受話器の向こうのレイチェルの声はひどく震えていた。
『落ち着いて聞いて。お願いだから、取り乱さないで聞いて……』
いつもと違う彼女の声に、その時やっとアレツは異変に気が付いた。ドクン……と、心臓が強く鳴る。
──赤ん坊になにかあったのだろうか、と。
まさか『それ』がイリスに降り掛かるとは思ってもいなかった。
すべてが順調だった。順調だった、はずだったのだから。
『出血がひどかったの。とにかく、すぐにここに来て……』
*
医者の説明は単調で、あまり意味を成さなかった。
医者の声だけじゃない、他の、周りに溢れているはずのすべての音が、その時のアレツには届かなかった。
──赤ん坊の泣き声さえ。
「イリス」
明かりを落とした、殺風景な白い部屋で。
アレツが病院に着いた時、イリスはすでにそこに横たわって動かなかった。
出血が酷かったとか、なにかの塞栓症かもしれないとか、そんな事を周りは言っていた気がする。しかし、そんな事はもう、アレツにはどうでもよかった。
「イリス、なぁ、お前の言った通りだったな……女だって……」
すでに体温を失った身体には、皺一つない白いシーツが丁寧に掛けられていた。
その唇はもう、二度と開かれる事はない。
「名前は『リリアン』だろ? 二人で決めたんだもんな。きっと、お前みたいな美人になるな」
アレツは、ゆっくりとその冷えた頬に触れた。
イリスの表情はどこか、安心しているような、微笑んでさえいるような、そんな、安らかな表情を湛えてさえいた。
そっと指で唇に触れる。そして、自分の唇をそこに重ねた。
長い、長い静かなキスの後に、アレツは顔を崩して首を振った。
「嘘だろ、イリス……嘘だ。頼むよ……」
その場に膝を折ると、アレツは声を上げて泣いた。
声も涙も心も、渇き切るまで……ずっと。
*
『少しは帰って来たらどうなの? あなたの子なのよ、顔ぐらいちゃんと見てあげなきゃ……』
そんなレイチェルの声が、アレツにはいつになく煩く感じられた。
あれから三ヶ月が経ち、その間、アレツはとにかく無心に基地の仕事──訓練──に集中していた。
家に帰る事も、自分から家に連絡を入れることも、一切なく。
「邪魔なら、乳母に任せていいって言っただろ。金ならちゃんと出してる。姉さんが面倒見る必要はないんだよ」
『アレツ! 貴方、自分がなにを言ってるのか分かってるの!?』
「とにかくその話は止めてくれ。訓練に戻るから、じゃあ」
『アレツ!』
こんな電話での会話が、この数ヶ月、毎日のように続いていた。
イリスが命と引き換えに産んだ子供はやはり、リリアンと名付けられた。
しかし、アレツはその赤ん坊の顔を、いまだに見る事が出来ずにいた。
──子供なんて持たなければ良かった。
──そうすれば、イリスはまだ自分の傍に居てくれたはずだ。
──そうだ、どうせ失うなら、その赤ん坊の方でよかった。そうすれば……
そんな、自分でも理不尽だと分かっている考えばかりが、アレツの心を埋め尽くしてやりきれなく、そこから逃げるように訓練に集中していた。
そのせいか、気が付けば三十三歳という異例の若さにして、指揮官の地位を戴いていた。
けれど、それでもまだ足りない。
とにかくもっと忙しくしたくてたまらなくて、必要のない面倒事まで抱え込んで。そんなふうに、とにかく我武者羅に、アレツはその三ヶ月をやり過していた。それだけが、イリスのいなくなった世界で息ができる、唯一の方法だった。
「──アレツ、もういい加減にしろよ」
そしてそれは、もうすぐ夏を迎えようとする頃だっただろうか。
ジャック・ペキンがアレツを呼び出して、いつになく厳しい口調でそう言ったのは──。
「お前まで説教か……俺にどうしろって言うんだ? お前に俺の気持ちが分かるか?」
基地の宿舎の隅で、すでに兵士達が寝入った人の少ない時間帯に、ペキンはアレツを呼び出していた。しかし、向かい合ったペキンに、アレツは棘のある返答をした。
ペキンはただわずかに肩をすくめるだけだった。
「分かるとは言わないよ。けど、お前は一人じゃない。ガキがいるんだろ。帰らなくていいのか?」
「帰ってどうなるんだよ。それでイリスが帰ってくるのか? あいつが戻ってくるか!?」
アレツがそう声を上げると、ペキンは少しだけ足元に視線を落とした。
そして顔を上げる。
「戻らないよ、もう二度と。けどだからこそ、その子供を大事にするべきじゃないのか?」
「知るか! あのガキのせいでイリスが犠牲になったんだ、分かるか? そんな奴を俺にどうしろって言うんだよ!」
「アレツ」
ペキンはどこか、この程度の暴言は覚悟していたようで、落ち着いたままだった。
「お前が彼女を愛してたのは知ってる。お前が辛いのも、分かるとは言わないが知ってるよ。けど最近のお前は無茶苦茶だ。周りには分からないようにしているつもりだろうが、俺の目まで誤魔化せると思うな。このままじゃお前は駄目になる。お前だけじゃない、その……お前とイリスとの子も、だ」
ペキンはそう言うと、アレツの肩に手を置こうとした。
しかし、アレツがそれを振り払った。
「……馬鹿にするなよ」
「してない。ただ心配してるんだ、お前も、お前の子も」
「違う……そんな事ぐらい、俺だって分かってるって意味だ……。けど、どうしようもないんだ。少しでも、考えようとするだけで吐き気がする」
ペキンはもう一度、懲りもせずにアレツの肩に手を置いた。
今度はアレツはそれを振り払わずに、逆にその手に自分の手を重ねる。
「考えてみろよ、その子には母親がいないんだ。父親まで逃げるなよ」
「……分かってる」
「きついのは分かるよ。俺に出来ることなら、何でもするから」
「ああ……」
重なり合った手の熱を感じて、アレツは顔を歪めた。
苦しくて悔しくて悲しくて、そして、なぜだろう……どこか、嬉しかった。
「次の週末、代わってやるから休むんだ。きっと、顔を見て抱いてみれば、迷いなんてすぐに消えるよ」
*
ペキンは確かに正しかった。
その週末、予定していた仕事をペキンに任せて休暇を取ると、アレツは三ヶ月以上空けていた家に戻った。
そこにはアレツが雇った乳母と、レイチェルとマーク、そして『リリアン』がいた。
「これ、が……?」
信じられない、とでも言うように、アレツは赤ん坊を見てなんども瞳を瞬いた。
アレツが最後に赤ん坊を見たのは生まれてすぐの時だけで、その時はまだ、ピンク色のふにゃふにゃした生き物……という感じだった。
それが……
「びっくりでしょう? そっくりよね。でも、髪の色だけはあなたのだわ。あと、目の色もね」
レイチェルが赤ん坊を抱き上げて、アレツの前に差し出す。
アレツは、すぐには手を触れる事が出来ずに、ただその子を凝視し続けていた。
『ね……?』
そんなイリスの甘い声が、聞こえた気がした。『可愛いでしょう? 大事にしてね……』
大きな大きな、イリスにそっくりの宝石のような瞳。
不器用に伸びる、小さな手。
「……俺の子、か……」
アレツがそうポツリと呟くと、レイチェルは微笑んだ。
「あなた達の子、よ。本当に、両方のいいところだけ貰ったみたい。散歩に連れて行ったりするとね、凄いのよ。色んな人に声を掛けられるし……」
「……触っても?」
「どうぞ。人見知りもしないみたいなの。その辺は、貴方かしらね」
「……」
小さくて、柔らかくて、温かい。
レイチェルの言った通り、リリアンはアレツに触れられても不思議そうな顔をするだけで、泣きも騒ぎもしなかった。
そしてその大きな瞳で、アレツを見上げる。
もちろん、リリアンには分かるはずもない。
自分が何者なのか。
父親でありながら、ずっと顔さえ見れずにいたこの馬鹿な自分を──。
「抱いてみなさい。きっと、離せなくなるから」
ペキンに続いて、レイチェルもやはり正しかった。
その日からアレツの有り余るほどの愛情と保護が……その新しい命へと、注がれることになる。
*
「お父さん……ね。お母さんがいなくて、さびしくないの……?」
寝かしつけようとすると急に、リリアンがアレツを見上げてそう訊いてきた。
アレツは驚いて、彼女にシーツを掛けようとしていた手を止める。
「どうしたんだ、リリアン。急に」
リリアンの顔を覗き込むと、彼女はその大きな瞳をどこか滲ませながら、アレツを見つめ返した。
「あのね……レイチェルおばさんが言ってたの。お父さんとお母さん、とっても仲良しだったのよ、って」
「……」
それは、リリアンが六つになった頃だっただろうか。
やっと自分の立場を分かってきたのか、時々こういった質問をするようになってきている。普段は甘え好きで人懐っこい彼女が、こういう時だけは少し怯えたような表情をした。
それはどこか、出逢ったばかりの頃のイリスを思い起こさせて……アレツは思わずぎゅっとシーツを握りしめていた。
「そうだな……寂しいよ。会いたいと思う。でも、俺にはリリアンがいるからな」
安心させようとして、アレツは無理に笑顔を顔に貼り付けた。
しかし、子供は時々、大人より鋭い。
「でも、寂しい、の……?」
リリアンはそう言うと俯いて、小さな手で手元のシーツを握った。
そして、その手の甲に、ポツポツと涙が落ちる。
「お母さ……私がうまれたときに死んじゃったって……本当? 私がいなくなったら、お母さん戻ってくる の?」
「リリアン? なにを言ってるんだ、誰かになにか言われたのか?」
「学校で……ね、レイチェルおばさんがお母さんかって聞かれたから、ちがうって言ったの。そうしたら、ほかのお母さんが……」
──あれからもアレツは、クレフ基地での仕事を続けていた。
単純に、それ以外の道を知らなかったし、基地に勤めている限りかなりの給与と高優遇の生活保障を与えられていたからだ。
会える時間は少なくなるが、リリアンにとってそれが一番良いように思えた。
普段は、住み込みの乳母を家に雇っている。
幸いリリアンを自分の娘のように可愛がってくれていたし、レイチェルも時間の許す限り、リリアンの面倒を見てくれていた。
そしてこの頃になると、すでに大きく成長していたマークも、リリアンを猫可愛がりしていた。
沢山の愛情に包まれて、ゆっくりと育っていく、大切な花。
しかし、さすがに学校に通い出し世界が開けてくると、どうしてもある現実に直面した。
母親がいないということ。
そして他人から漏れる、噂話。
なまじかイリスそっくりの綺麗な顔をしているせいで、それらは簡単に広まっていくようだった。
「リリアン、他の子の親が言う事なんて聞かなくていい。俺はリリアンがいるだけで嬉しいんだ。馬鹿な事は言うんじゃない、いいな?」
「で、でも……」
「でも、じゃない! もう一度同じ事を言ったら、怒るからな」
アレツがつい声を荒げると、リリアンはビクッと震えて涙を止めた。
そして顔を上げる。
見つめ返してくる潤んだ大きな瞳はやはり、イリスにそっくりだった。
アレツは両手をリリアンの頬に伸ばし、リリアンに顔を近づけた。額と額を付け合わすと、リリアンはやっと少しだけ微笑みを取り戻した。
「お母さん、きれいな人だった……?」
「ああ……世界で一番、綺麗で優しくて……素敵な女性だったよ」
「会いたいな。お父さんも、やっぱり会いたい?」
「そうだな……」
無邪気な娘の声に、アレツはしばらく答えられなかった。
けれど覚悟を決めると、ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始める。
「……我慢の必要のない愛なんてないんだよ。誰かを好きになって、たとえ愛し合うようになっても、すべてが思った通りに行く訳じゃない」
リリアンがなんどか瞳を瞬く。
たった六歳の彼女が意味を飲み込めていないのは、アレツにも分かった。
けれどその時はなぜか、きちんと大人の言葉で気持ちを伝えたかったのだ。
「……どうなるかなんて誰にも分からないんだ。だから、リリアン。誰かを好きになったら、後悔しないようにするんだ。全力で愛して、一秒一秒を後悔しないように」
アレツがそう言い終ると、リリアンはやはり首を傾げた。
──まだ理解できないのだろう。それは当然で、アレツは自分の言ってしまったことに自分で苦笑いした。
「とにかく。今日はもう遅いから寝なさい。明日も俺はここにいるから、どこに行きたいかちゃんと考えておくんだ」
「……はぁ……い」
そして一度は止めたシーツを、リリアンの上に掛け直す。
すると、彼女はそのまま素直に寝ついた。
アレツはしばらくその寝顔を見つめて、最後に額に軽くキスをすると、部屋から出ていった。
ダイニングに戻ると、アレツは久しぶりにアルコールの瓶を開けた。
大して強くはないが、かといって悪酔いもしない。
グラスに注いだそれを一気に飲み干すと、アレツは大きく溜息を吐いた。
「イリス、なあ、どう思う……?」
答えはないと、知っているのに。
時々、アレツは一人になるとこうして、イリスに話し掛けてしまう。
「早いな、子供の成長は……すぐに追い抜かれそうだ」
空になったグラスをテーブルに置くと、その音がひどく部屋に響いた気がした。それが、イリスからの返事……のような気がしてしまうから、重症なのだろう。
「可愛いよ、本当に。産んでくれて良かった……ありがとう」
そして、そのまま天井を仰いだ。
椅子にもたれ掛かるように身体を伸ばして座って、両手で目を覆う。
「けど……」
イリスにそっくりな、リリアンの幼い声と疑問が、アレツの脳裏になんども繰り返し響いた。
『でも、寂しい、の……?』
そうだ、寂しい──。イリス、君に会いたい。
どうすれば君に会えるのだろう、そんなことばかりいつも考えている。
情けない男だと、君は笑うだろうか。
いや……まさか。きっと、微笑んで聞いてくれるだろう。少しだけ、困った顔をしながら。
君が恋しい。
もっと幸せにしてやれる筈だった。
その声が、聞きたい。
もしもう一度会えるのなら……そうだ。
一瞬たりとも君を離さない。そうしてどこかで、二人きりで、静かに幸せに……