Mi Mancherai 4
アレツが去って行くのを見送ったあと、イリスは階段を上った。
なぜか落ち着かなくて、ドキドキして、そして、幸せな気分……。
(どうしちゃったんだろう……)
そんな、愚にもつかないような疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け回っている。馬鹿みたいだと分かっているのに、心は止められない──そんな幸せな気分だった。
(……え……?)
──と、部屋の異変に気がついたのはその時。
階段を上りきり、自分の部屋のある階につくと、見慣れたはずのその場所に、なぜか明かりが灯っているのが見えた。
(付けたままだった……かしら)
そう思って急いで記憶を巡らす。
確かに部屋を出てくる時はかなり慌てていた。朝、消し忘れたという事もあり得なくはない……が、あの時はもう昼だった。
──ドクン。
(もしか して)
急に、心臓が高鳴った。でもそれは、ついさっきまで感じていた幸せの鼓動とは違う、もっと重苦しいものだった。
「あら、思ったよりも早いお帰りね? 今夜は帰って来ないのかと思ったわ。男のところにでも行って、ね」
静かに玄関の扉を開けるとやはり、部屋の中にはイリスの思った通りの人物がいた。
居間のテーブルに腰を掛けて、煙草を燻らせながら。
「お母さん……」
「その呼び方はもう止めて頂戴。あの人が亡くなった今、あなたの母親面する理由なんて私にはないのよ」
「……じゃあ、どうして……」
──来たんですか。
そんな質問が口を出掛かったが、つい飲み込んでしまう。聞くまでもない、彼女が自分になんの理由もなく会いに来ることはない。そしてその理由も、大体は決まりきっている。
イリスが目の前の女性を見つめていると、彼女はフンと鼻を鳴らした。
その仕草は妖艶でいて、どこか品さえも感じさせるのに、冷たい。
彼女の髪は綺麗な金髪だ。まるで、イリスのその鮮やかな黒髪と、相容れない事を象徴しているように。
「お父さんのお金ならもう……ありません、私……」
イリスがゆっくりとそう言うと、彼女は無言で煙草を消した。
そしてイリスを見据える。その鋭い視線は、すぐにでも、内に込められた怒りが爆発するのだろうということを予想させた。
そしてそれは現実になる。
「生意気な口を利かないで!」
甲高い声と同時に、肌を打つ乾いた音が部屋に響いた。
「貴女のせいで私の人生は狂わされたのよ! 少しぐらい償ってくれたっていいじゃない!」
「……っ!」
二度目に頬を叩かれると、イリスは衝撃で床に倒れて膝をついた。
逆に、女性の方は椅子から立ち上がり、イリスを見下ろす。
三度目のそれが来る、そう思ってイリスはキュッと目を閉じて、出来る限り身体を硬くした。
(我慢すればいいの)
だってそうでしょう?
この人は可哀想な人なの。私たちのせいで辛い思いをさせられた……。
いつも、そう思って堪えていた。今もまた、同じように我慢すればいいだけだ。
そう、心の中で反芻させながら。
けれど、いつもはすぐに続く筈の『それ』は、数秒経ってもイリスを襲うことはなかった。
代わりに女性の声が響く……「何をするのっ!」 と。
イリスが驚いて目を開いて顔を上げると、そこには手首を掴まれたその女性と、その手首を掴んでいるアレツが立っていた。彼女の手はイリスの頬を打とうと振り上げられていたのだろう、高い位置で拘束されたままだ。
アレツの目はまるで獲物を射抜く獣のように鋭くて、怒りに満ちているようで、優しい彼の表情しか知らないイリスには衝撃だった。
「カ、カーヴィングさん……」
イリスは震えた声を出したが、それがアレツに届いているかどうかは謎だった。アレツはそのまま手首を掴んだ腕を後ろにひねり回すと、低い声で唸るように言った。
「何のつもりだ、場合によっては許さない」
「な……っ!」
それでも女性はまだ、後ろ手に腕を掴まれたまま顔を真っ赤にして、アレツに歯向かおうとしていた。
しかし、少なくとも力では、まず敵うはずもない。
「何よ、自分の娘を叩いて何が悪いって言うの!」
女性がそう金切り声を上げると、アレツは少し怪訝な顔をした。
そして、真偽を確認しようとするように、イリスに視線を落とす。イリスが慌てたように頷くと、アレツは拘束していた手を離した。
それでもまだ、アレツは金髪の彼女に対して牽制するような厳しい視線を向けたまま、イリスを庇うような形で二人の間に立った。
「……母親が娘にするような仕打ちには見えないけどな」
アレツがそう低い声で言うと、女性はまだ顔を赤くしたまま、わざとらしく手をさすってアレツを睨み返した。
「このくらい当然よ! この子のお陰で、わたしがどんな思いをしたと思っているの?」
「…………?」
事情が読めない……。
そんな顔でアレツはイリスを振り返った。
二人の目が合ったその瞬間、イリスがビクッと怯えたのが分かって、アレツはまた眉間の皺を深めた。
「とにかく今は引き取って貰おう。まともな状況だとは思えないからな」
アレツが向き直ってそう言うと、女性は乱暴に机の上にあったハンドバックを掴んで、吐き捨てるように声を上げる。
「言われなくても出て行くわよっ! 冗談じゃないわ、母も娘も揃って男を引っ掛けるのが上手いのね!」
そして彼女が大きな音を立ててドアを叩き閉めて出て行くと、カッカッ……という早足で歩き去るハイヒールの音が壁越しに聞こえてきて……それもいずれ止んだ。
娘だと言っていた。
──という事は当然、彼女がイリスの母親になる。
しかし、最後の捨て台詞は選りにもよって『母も娘も揃って男を引っ掛けるのが上手い』……?
しかもパッと見ただけでも、イリスは彼女に全くと言っていいくらい似ていなかった。
華奢で可憐な雰囲気のイリスとは違って、彼女は長身でしっかりした体型だった。顔つきも同様で、美形ではあるのだろうがイリスの美しさとは別の、冷たいタイプだ。
色々と疑問は残るが……。今はそんな事はどうでもいい。
アレツはそう思って振り返ると、イリスのすぐ隣の床に、片膝をついた。
床に座り込んだままのイリスと、また目が合う。しかし今度は見下ろす形ではなく、ほぼ同じ高さの目線になった。
「大丈夫か……? もう少し早く来てれば良かったな……」
そして、アレツは静かにゆっくりと、片手でイリスの頬に触れた。
イリスは一瞬だけビクッとしたが、何も言わない。そして、動かなかった。
正しくはそれは『動かない』のではなくて『動けない』のだろうと、アレツにもすぐ分かったけれど。
アレツの手がそのまま頬をなで続けても、イリスはなにも言わないままだった。
怪訝な顔のまま、探るようにイリスの目を覗くと、どこか呆けているような、曇った目が返ってくるだけだった。
「とりあえず立って……と、立てるか? いつまでも床に座り込んだままじゃ……」
そう言いながら、アレツは腰を上げる。イリスにもそれを促すように、頬に触れていた手を放して彼女の前に差し出すと、「掴まって」と柔らかい口調で伝えた。
けれど、イリスは差し出された腕に触れようとはせずに、ただ、座り込んだままアレツを見上げていた。打たれたのであろう頬は、まだ赤いままだ。
「どう……し て?」
しばらくするとそんな、消え入りそうな小さな声がイリスの唇から漏れた。
アレツには何について聞かれているのか、正確に把握できなかったが……とりあえず妥当だと思える答えを言ってみる。
「帰ろうと思って車を出したら、部屋に明かりがついてるのが見えたんだ。おかしいと思って引き返してみたら、ドアは開いたままだったし、なんだか嫌な予感がして」
だから、勝手に入らせてもらたけど、と、アレツは少しバツが悪そうに説明した。
イリスはそんなアレツを見上げたまま、なんどかぼんやりと目を瞬いた。
そして、
「どうして……?」
とまた、同じ質問を繰り返した。
その大きな黒い瞳が揺れているように見えたのはきっと、そこに溜まり始めた涙のせいだ。
(何、が)
アレツはそう思った。疑問が多すぎる。イリスのこの状態も、今の女性の言動も、自分の正確な感情さえも。
──理由なんて分からない。
彼女に何があったのかも。
ただ一つはっきりと分かるのは、この目の前の存在が愛しくて、護りたい、ということだけだった。
今まで感じた事がないほどの情熱が、一瞬にして体中を駆け回って……理性という名の制御は、いつの間にかアレツの中から完全に追い出されていた。
「もう、大丈夫だから……」
アレツはそう言ってイリスを立たせた。
彼女本人はただ、差し向けられたアレツの腕に身を預けただけで、抵抗はしない。
まだ、こんなことはするべきではないのかも知れない。
それはアレツにも分かっていたが、かといってそれを止める術も、知らなかった。
アレツはそのままイリスを強く胸に抱きしめると、しばらくそのままでいた。
(小さいな)
というのが、その時のアレツの正直な感想だった。
イリスの肩は華奢で、アレツの胸にしっかり収まって余りあるほどで。泣いているのだろう、小刻みに震えていた。
そして流れる柔らかでまっすぐな黒髪──。
アレツはその一本一本を愛おしむように撫でると、髪越しにイリスの首筋に口付けた。止めることなど、できなかった。
「あ……っ」
と、その時、流石にイリスも正気に戻ったのか、小さな声を出して顔を上げた。
目が合うと、いつの間にか抱きしめられていた事実に驚いたようで、途端に大きく目を見開く。
「あの……ご、ごめんな、っさ……」
「いや……こっちこそ」
焦って謝りだしたイリスに、アレツはすんなりと返答した。
けれど、戸惑って身じろぐイリスに対して、アレツは腕を緩めようはしなかった。今、彼女を放すことなんてできない。もう、離れるなんて考えられない。
「どうしても嫌なら無理に答えなくていいけど、何があったんだ? あんまり穏やかな感じじゃなかったし、初めてじゃなさそうだったな」
アレツの口調はやんわりとしていたが、はっきりとした意思を感じさせる強さが、どこかにある。イリスは細い肩をさらに狭めた。
「ごめんなさい……」
「謝る事じゃないよ、俺こそごめん。勝手に入った上に、こんなふうに」
「い、いえ……っ、これは」
アレツは、抱きしめたことを謝っているのだろうか? 首筋へのキスを? それともそれ以前に、母の手を掴んだ事に対して?
頬を叩かれたことへのショックより、今のイリスは、アレツの言動に動揺していた。
頬が熱くて……頭がクラクラするのは、受けた暴力のせいだけだとは思えなかった。
「ごめんなさい、迷惑をかけて。私……いつも……」
「だから」
だから、謝らないで。
アレツがそう言葉を続けようとした瞬間、急にイリスが倒れるようにアレツの胸に体重を預けた。『倒れるように』。そう、甘えて胸に縋るようなゆっくりとした動きでは、なくて。
「どうした!?」
慌てて顔を覗き込もう、アレツがイリスの肩をつかんで揺さぶると、服の布越しにもその熱を感じた。
急いで額に手を当てると、予想通りの熱と一緒に、わずかな汗の湿りが伝わる。
「イリス!」
そう叫んだアレツの声が、イリスの胸の奥まで響いた。
けれどそれに答えるだけの力はないまま、イリスの意識は遠退いていった。
*
「どんな無理を言ってるのか、自分で分かってるんだろうな?」
受話器越しに聞こえるジャック・ペキンの口調は、『怒った』と『呆れた』の中間辺りだろうか。
後でたっぷり恩返しをしてやらないといけないのも、分かっている。
しかし、ここで折れている訳にはいかなかった。
「分かってるよ。だからこうして直接頼んでるんだろ、一日だけでいいんだ。伸びても三日」
「三日!? お前、俺を殺す気か!」
「だから伸びても、だよ。多分一日で済むから。礼もするよ」
「当たり前だ、くそ……覚えとけよ……」
それからまださらに数秒、ぶつくさと文句を言うペキンの声が続いた。アレツはそれを最後まで聞かないまま、「じゃあ恩に着るよ」と言って受話器を置いた。
アレツもペキンも、まだ一兵士ではあるが、将来の幹部候補と見なされている数少ない要員の一人だ。
数少ないと言うよりも、正確には、今クレフ基地でそういったポジションに置かれているのはアレツとペキンの二人だけだった。
他の兵士達を統率する指揮官の役を任される事も少なくなく、大抵は二人がペアで行動した。しかも夏に入ったため、正式な指揮官の一人は休暇中。当然、任される任務も多くなる。
アレツが居ないとなれば、ペキンがその大役を一手に引き受けなければならないことになるのは、目に見えていた。
しかし、悪いとは思うが、今回ばかりは譲れない。
受話器を戻した電話に向かって小さく溜息を吐くと、アレツは肩越しに後ろを振り返った。
(……少し、落ち着いたか)
視線の先では、イリスがベッドで眠っている。
一時の荒い息遣いは収まったものの、まだ熱が下がりきっていないのだろう。顔色は良くない。
あの後。
イリスはアレツの腕の中で、発熱のために倒れた。
急いで彼女をベッドに寝かせ、氷嚢や薬、水、とにかく思いつく限りのものを探し出し、与えたが、すぐには熱は下がらない。
アレツ自身が滅多に風邪を引かないため、なにをしていいのか分からなくて、レイチェルに電話もした。
言われた通り熱を測って──救急箱は予想通り、洗面台の上にあった──それほど高熱ではないのを伝えると、水と薬を与えて寝かせて置けば良くなるだろう、とレイチェルは答えた。
今はもう深夜で、倒れた当時よりは大分良くなっているような感じはした。
とは言え、一人にして置くわけにはいかない。
明日は基地に戻るはずだったが、もう数日延ばして欲しいと上司に頼み込み、迷惑を掛けるであろうペキンには直接電話もした。
ふぅ、と、アレツはまた溜息を繰り返した。
家族に連絡をするべきなのだろうが、連絡先を知らない。
それ以前に、先刻来ていた女性を思い出す。
『母』だと言っていた、イリスには全く似ていない金髪の冷たい女性。
イリスの部屋を見回しても、家族の写真と思えるようなものは一つも飾っていないし、話もまだ聞いたことはない。
何か複雑な家庭事情があるのだろうという事は、アレツにも予想がついた。
多分、それが、イリスの過ぎるほどの控え目さと、口少ない性格の理由なのだろうという事も……。
(取りあえず、着替えさせないとな。どうするか……)
ベッドに横になったイリスはまだ、外出着のままだ。
大分汗もかいたようだし、着替えさせてやりたい。レイチェルに頼む事も出来なくはないが、もう深夜だ。彼女にはまだ小さいマークがいる。
他に頼れる女性といえば、ここでアレツが顔を見知っているのはあの、口うるさい管理人くらいだ。彼女はアレツを良くは思っていないだろう。
しかし、背に腹はかえられない。
アレツは下階に降りるため、イリスが寝入っているのを確認しようとした。その時。
「……ん……」
という少しくぐもった重い声が、イリスの口から漏れた。
そしてゆっくりと開かれる、イリスの両瞼。
トロンとしたそれは、それでも、見惚れるほどに綺麗だった。
アレツは立ち尽くした。
どうしていいのか分からないとか、驚いたからとかではなくて、本当にただ立ったまま動けずに、彼女の瞳が開いてゆくのに目を奪われていた。
「カ……ヴィング……さん?」
イリスは、ゆっくり顔をアレツの方に向けると、そう呟いた。
熱のためか声がかすれていて、それが余計に保護欲を誘う。アレツはごくりと喉を鳴らさなくてはならなかった。
「起きた?」
そう言いながら、アレツはベッドサイドに屈みこんだ。
「わ、わたし……ど して」
まだよく状況が飲み込めていないらしいイリスは、目の前のアレツに答えを求めるような瞳を向けた。
「夕方、部屋で倒れたんだよ。熱があって、今まで眠ってたんだ。君を一人にして帰るわけにもいかなかったし……勝手に居座って、ごめん」
アレツがそう告げると、イリスも事の次第を思い出したのか……しばらく無言で、キュッとシーツを握り締めた。
「ご家族に連絡すべきだと思ったんだけど、連絡先も知らないし、その」
一瞬、言うべきかどうか迷うように言葉を区切った。
しかし、このままでいいはずもない。アレツは先を続けた。「何か事情もあるみたいだし、放っては置けなくて」
──太陽のようなひと。
それが今のイリスの、アレツに対する思いだった。
温かく、時には熱すぎるくらいに、私を照らしてくれる不思議なひと。
きっとこのひとは、自分の心の闇を、光に変えてくれる。
そんなふうに分かっているのに、今はまだその光を受け入れるのが怖い。
その先になにが待っているのか、まだ分からないから……。
イリスはただ何も答えられずに、首だけ横に振った。
それは、当然、なにも言いたくないという意味なのだろうとアレツは解釈した。それはそうだ。
アレツにとってイリスに出会ってからのこの一ヶ月は、永遠と思えるほどの長さだった。しかし、いくら自分がそう感じていても、イリスにとっての一ヶ月は一ヶ月で、それ以上ではない。
出会って一ヶ月──しかもその間、電話で話す以外に会うことはなかった──程度の相手に、心の内をさらけ出すなど出来ないのは当然で。
「言いたくないなら、いいよ。その、着替えた方がいいと思うけど、出来るか?」
アレツがそう言うと、イリスはまた首を横に振った。
自分では着替えられない、という意味なのだろうと思って、「じゃあ、管理人さんを呼んでくるよ」とアレツが言うと、イリスはやっと口を開いた。
「違います……そうじゃ、なくて……」
「…………?」
言いたい。
ううん、言いたくない。
怖い。
──でも。
思いはまるで嵐のようで、落ち着きがなくて、まとまらない。
「すみませんでした……さっき、変なところ、見せて……」
でも、分かっている。
このひとはきっと受け入れてくれる、と。
卑怯なのかも知れないと、そんな気さえしたけれど、今は甘えたかった。彼の温かさに、包まれたかった。
「さっきの人……が、わたしの母なんです。でも、本当の母親じゃなくて、わたしは……」
*
アレツが着替えを選んで持ってくると、イリスはなんとか自分でそれに着替えた。
イリスが着替えているあいだ、アレツは台所のある居間に引っ込んでいて、三秒置きには『大丈夫?』とか『手伝おうか?』 を繰り返していた。
やっとパジャマに着替え終わったイリスがアレツを部屋に呼び戻すと、大袈裟に安堵の息を吐いた。
「とりあえずもう寝た方がいいよ。熱も下がってきたみたいだし、すぐ良くなるよ」
「でも……カーヴィングさんは……」
「俺は居間……と言いたいところだけど、嫌なら外に出るよ。野宿なら慣れてるから」
「野……っ」
この人は時々、驚くようなことを平気で言う。イリスはそう思いながらアレツを見上げた。
「お仕事、大丈夫なんですか?」
首を傾げながらそう訊くイリスは、年齢よりも幼く見えて、可愛いかった。熱のせいで瞳が潤んでいるのも、唇が火照ってみえるのも。すべて。すべてが愛しい。
「少し休暇を伸ばして貰ったから。もう二日位は休めるよ」
そう答えながら、アレツは心の中でペキンに平謝りしていたけれど。
「とにかくもう寝て。話なら明日しよう。時間はあるから……」
アレツはそう言って、イリスを寝かしつけた。
熱と、薬の副作用も手伝って、イリスは誘われるままにすぐ眠りにつく。
『私の本当の母親は、父の、その……愛人、だったんです』
決して饒舌とは言えないイリスの口から紡がれる話は、途切れ途切れで、でも、真実の重みを伴っていた。
話はこうだ──。
イリスの父親は、それなりに名の通った名家の長男だったらしい。
今時珍しいが、政略結婚的な婚約者も若い頃からおり、それが先程のイリスを叩いた女性になる。
愛情のある結婚ではない。
しかし別に、彼は彼女を嫌っていた訳ではないし、それなりに上手く一緒に暮らしていた。破綻が訪れたのは、そう……彼がイリスの母親と出逢ってしまったときから始まる。
愛し合い、情事を重ね……すぐに身篭ってしまったイリスの母親に対して、先程の女性には結婚後数年経ったそのあとも、まだ子供には恵まれないでいた。
彼は離婚を考えたのだろう──が、彼女は首を縦には振らなかった。
そして数ヶ月が経ち、イリスが生まれる。
けれど運命は、そう優しくはなかった。
出産後すぐに体調を崩したイリスの母は、そのまま亡くなってしまう。
残されたのは、三人。
彼と、彼女と、赤ん坊のイリス。
政略結婚と言いながらも、彼女はイリスの父を愛していた。
イリスを連れ、彼女に離婚を頼む彼。
彼女が彼を繋ぎとめられる唯一の方法……それは、イリスの存在を受け入れること……だったのだろう。
とにかくそれから、三人の奇妙な家族が成立した。
父親はイリスを溺愛した。
イリスは亡くなった母親譲りの美しい少女へと成長し、身体が弱かった事もあって、ますます彼の愛情を独占する。それを見る彼女の思いは……容易に想像が付く。
同情からだろうか、悪いとは思っていたのだろう。
父親は妻をも大切にしようと努力したし、金銭的なものは与えられるだけ与えていた。けれどそれだけで心まで満たされるはずもない。
父親の目の届かない所で、彼女はイリスに暴力を振るい始めた。
──イリスに何が出来たというのだろう?
優しい子だ。子供心にも、この義理の母親の思いを分かっていた。
成長してすべての事情を理解してからは、彼女に同情さえもした。
結局イリスは、そんな彼女の虐待的行為を影で受け入れながら、成長することになる。
数年前に父親が亡くなると、残された二人は当然、一緒にいる意味を失う。
イリスももう大人になっていた。
父親から遺された金でこの部屋を買うと、就職して独立……もう、このまま彼女とは縁が切れるはずだった。
『あの人も、寂しいんだと思います……』
──というのが、イリスの説明だった。
金をせびるという名目で、度々イリスを訪れる。そして、ああしてイリスに暴力を振るうと、ある程度満足するのか……去って行く。そんなことが時々繰り返されていた。
『愛されること』
それはイリスにとって『誰かを傷付ける』ことに直結した。
(みんな話しちゃった……けど)
熱で朦朧とする意識の中で、イリスはアレツのことを考えていた。
あんなふうに全ての事情を他人に話したのは初めてだった。アレツはただ何も言わずに、真剣な顔をして聞き続けてくれた。
『大変だったな』
イリスが話し終えると、ポツリとそんな事を言って。
アレツのその瞳には、その口調には、その表情には。同情とは違う、もっと深い何かが漂っていて……それが『愛情』だと分からないほど、イリスも鈍くはない。
(でも、話したかった の)
こんなふうに、道を照らして。
心を暖めて。
──そうして欲しかったの、きっと。
今、アレツは一枚だけ毛布を受け取ると、居間へ行ってしまっていた。
夏とはいえ、寒くないだろうかと心配したら、「俺たちが普段どういう訓練をしてるか知ったら、二度とそんな事は思えないよ」とまた、驚かせることを言われた。
だから、扉を一枚隔てた向こうには、彼がいる。
……この、安心感。
これが恋なのか。
それはまだ、分からなかったけれど。
イリスはゆっくりと指で自分の唇をなぞった。
熱のせいで記憶はあやふやで……でも、夢だったとは思えない。心地いいと思った。その、感触を。
『我慢することないよ、俺はここに居るから』
やっと昔話をし終えたイリスに、アレツはそう、聞いたこともないほどの優しい声で言った。そして彼から与えられたのは……静かで優しい、キスだった。
『話なら明日しよう。時間はあるから……』
そうだ。沢山話をしよう……あなたと。
明日……。
そして明後日も。
その次の日も、そのまた次の日も、その更にまた次の日も……。
来月も来年も十年後も。
ずっと──