Mi Mancherai 3
貴方ならきっと、この闇を覆してくれる。
そう、分かっていたのかも知れない──。
きっと心の何処かで、ずっとそれを望んでいたの……。
*
(どうしよう……なに着て行ったらいいのかな……)
その日のイリスは朝から珍しく、鏡を前にして数着のワードローブを見比べて迷っていた。
もともとそれほどお洒落にこだわるほうではないけれど……こういう時は流石に、考え込んでしまう。ただアレツと会うだけならいいが、場所が場所だった。
昨日の夜。
突然夜中に訪ねて来たアレツはやはり、あの電話の弁解をした。
『もう面倒なんだよ』──あれは、イリスが相手だとは思わなかったからだと。
数日電話を掛けなかったのも、忙しかったのと、そうした方がいいと同僚に勧められたからだ、本当はずっと連絡したかった……と。
アレツは驚くほど真っ直ぐに、自分を飾らずに告白してくれた。
そしてアレツは、電話のことと突然の訪問を再度詫びると、今伝えたいのはそれだけだから……と言って去ろうとした。
──それはまだ、管理人が部屋の影から覗いていたのを知っていたからかも知れないし、イリスが怖がっているのを分かっていたから、かも知れない。
もう深夜に近い時間だったから、もちろん、イリスはアレツを部屋にあげる気はなかった。
でも。
「あ、あの……いいんですか……?」
帰ろうとするアレツの背に、イリスは小さく声を掛けた。
それは、消え入りそうな小さな声。きっと耳を澄ましていなければ聞こえなかっただろう、そんな震えた声で。
しかしアレツはまるでその一言を望んでいたかのように、すぐに振り返った。
「いいって?」
「あの、いえ……その……もう、帰られる……んですか?」
──どうして。
どうしてあの時、こんな事を言ってしまったんだろう?
一人がよかったはずだ。誰かと一緒に居ると、いつも緊張した。
それなのに思ってしまった。去ろうとするアレツの背中に……『寂しい』と。もっと一緒にいられたら、と。
アレツは少しの間、考えるような顔でイリスを見つめて、そしてゆっくりと……優しい声で言った。
「明日、空いてるかな。週末だし、仕事はないよね」
「は、はい……」
「本当はもっと、いい場所に誘おうと思ってたんだけど……今回はさすがに断りきれなくて。でも、賑やかで楽しいだろうし、料理は上手いし」
「…………?」
イリスがアレツの言葉を咀嚼しきれずに首を傾げると、アレツは微笑んで言葉を続けた。
「俺の姉さんの所で、一緒に食事でもどうかな。甥っ子も居るし、変なことは絶対にしないから」
*
あれは、アレツ一流の気遣いだったのかな、と思う。
二人きりで会う事を渋っていたイリスに、他の人も居る場所での食事に誘ってくれたこと──。
結局、イリスはシンプルなベージュのワンピースを選んだ。
アレツは昼前には迎えに来ると言っていたので、用意だけ済ますとベッドに座って約束の時間を待つ。
(どうして了解しちゃったんだろう……)
でも、こうやって全て準備が済んで、これ以上することが無くなってしまうと、今度は緊張と後悔が押し寄せてくるのも事実だった。
しかも今回は、自分から誘ったようなもので──。
(私……最低……)
そう悔やんで、イリスはきゅっと自分で自分の手を握った。
──断ろうか。
今からならまだ、遅くないかも知れない。気分が悪くなったと言って断れば、彼も無理は言わないだろう。そう、思った時だった。
外から大きなクラクションの音が二度ほど響いて、管理人の怒声がそれに続いた。
「またあんたかい! 週末なんだ、静かにしてくれな!」
「すみません、すぐ出ますから」
そんなやり取りが、扉越しに下階から響く。アレツだ。
そしてすぐに誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。
(ど、どうしようっ、どうやって断ろう)
イリスがオタオタとしていると、すぐにドアを叩く音が響いた。
(~~っ!)
慌てた、が、ここまで来られてしまってからでは、どうにもならない。イリスは観念してドアに向かった。調子が悪くなって行けなくなった、そう言えばいい……そう、思って。
緊張した手でゆっくりとドアを開けると、そこに立っていたのは、意外な人物だった。
人物と言うべきか……最初は、その姿さえ見えなかったけれど。
「おはよう、ございます」
「え……?」
ドアを開けるとまず、そんな声が響いてきた。
それは、アレツの声に似ている気がしないでもないが、随分と甲高い──なんだろう、子供?
最初は視点の関係で、その姿さえ見当たらなかった。
驚いて下に視線を落とすと、そこには……アレツの『ミニチュア』が立って、イリスをじっと熱心に見上げていた。
「あ、あの……?」
イリスが恐る恐る子供に声を掛けると、その小アレツは人懐っこい感じでイリスの手をぐっと引いた。
「おじちゃんが、来てくださいって。下に、くるまがあるから」
「え、え……?」
小さいが、なかなか力がある。イリスは玄関先に用意していたバッグを手に取り、部屋に鍵を掛けると、慌ててその小アレツについて行った。
子供に手を引かれたまま下階に着くと、運転席に座ったままのアレツが、車窓から顔を出しているのが見えた。紺色のセダンで、新車ではないが、かなり綺麗に磨かれている。
「偉いなマーク、さすが俺の甥だ!」
アレツがそう言って勢いよくドアを開けると、小アレツはイリスの手を離してアレツに駆け寄った。
「あたりまえだよ、このくらい! ね、だから運転もできるよ。ね、ね、おねがい!」
そう言ってアレツに抱きつく。
アレツは車から降りると彼を抱きとめ、ひょいっと慣れた感じで彼を肩に乗せた。そしてイリスに向き直る。
「悪かった……その、俺が駐車したらあの管理人に殺されそうだったんで、こいつを使いにして」
「い、いえ……あの、この子が甥っ子さん、ですか……? すごくそっくり……」
イリスがオドオドとそう感想を言うと、アレツはまた肩に乗った小アレツに目をやった。
「そう、俺の姉貴の子なんだ。名前はマーク。ほらマーク、挨拶は?」
「もうしたよ、おはようございますって」
「それだけじゃ駄目だ。初めての時は、ちゃんと名乗って挨拶するんだよ」
「おじちゃんもう言っちゃったじゃない! 言えないよぉ」
それは、なかなか面白い風景だった。
親子以上にそっくりな二人が、肩車で会話を繰り広げているさま……。
イリスは、なんだかいつの間にか断るタイミングを逃して、困惑していた。
しかし、アレツはマークを後ろの座席に乗せると、まだ外に棒立ちしたままのイリスと向き合い、はにかむような笑顔を見せた。
「ご覧の通り、ガキも一緒にいるし……変な真似はしないよ。必ず明るいうちに帰すから、付き合って貰っていいかな」
「…………っ!」
それはまるで、イリスが躊躇しているのを見破っているような口調で。
みるみるうちに頬を染めていくイリスを、アレツは優しく誘う。
「おいで」
結局、口べたなイリスには返す言葉もなく、誘われるままその助手席に乗って、アレツの──正確にはアレツの姉の──家へ向かうことになった。
*
「意外だわ。というか、大驚愕よ! まさかあんな美人を連れてくるなんて!」
「しーっ、姉貴、声がでかいって」
食事が終わり、デザートとお茶の準備に入ると、アレツは手伝うから……と言って姉とともに台所に引っ込んだ。
イリスは、人懐こいマークがなにやら一生懸命話しているのを聞いている。
最初は戸惑っていたようだが、時間が経つにつれリラックスしてきたのか、今ではイリスも楽しそうに微笑んでいて……。
アレツの姉、レイチェルは、ふぅと溜息を吐いて弟を見上げた。
Tシャツにジーンズというラフな格好で台所に立っている弟は、逞しい体躯がより目立つ。
「あんなお人形さんみたいな子とあんたじゃ、美女と野獣でしょうが」
「……言うなぁ。俺のどこが野獣なんだよ。紳士にしてるだろ?」
「彼女、あんたの職業は知ってるの?」
「最初に会った日に言ったよ。驚いてたみたいだけどな……でも、まだそんな関係じゃないんだ。分かるだろ?」
レイチェルは『分かるわけないでしょ』とでも言いた気に、視線を泳がせた。
──それは、先月のことだ。
レイチェルが久しぶりに休暇を取って帰宅したアレツに、壊れていた食卓机の修理を頼むと、彼は快く引き受けてくれた。しかし、工具を買ってくるといって街に出たアレツは、結局手ぶらで帰ってきた。
『悪い、姉貴、約束したのに。でも、今夜はここで食べられない』
そう紅潮した顔で言ったアレツは、例えるならそう、まるで高校生のようだった。
父親のいないマークが、どれだけアレツとの食事を楽しみにしているか分かっているのかと詰め寄ると、アレツは一瞬詰まって『次の休暇は絶対に』と平謝りしてまた出て行ってしまった。
その理由が、今ここにいる……イリスだった、という。
「いい子だけど、かなり内気みたいじゃない。あんたとじゃ正反対よ」
「だからこそ上手く行くって事もあるだろ」
「さあ……そうだと良いけどね。まぁ、頑張りなさいな」
アレツもレイチェルも、両親にとってかなり遅くに出来た子供で、父母とも、すでに亡くなっている。
両親の存命中も、もともと仲の良い姉弟だったが、以来、二人は特に親しく助け合って生きてきた。現在もすぐ近所に住んでいる。しかもレイチェルは、結婚せずにマークを生んだシングルマザーで、アレツはある意味彼の父親代わりだった。
「さすが姉貴だ。応援してくれよ、色々と」
「私が応援したんじゃ、くっ付くモノもくっ付かないわよ。ほら、これ持ってさっさと戻りなさい」
レイチェルは、数種のお茶請けを乗せたトレイをアレツの腕に押し付けると、意味あり気に微笑んだ。アレツもそれに悪戯っぽく微笑み返すと、うきうきとした足取りで台所を出て行く。
(……こんな事もあるもんなのねぇ)
レイチェルはそう心の中で呟いて、わざとゆっくりとお茶の準備をした。
*
時間は、あっという間に過ぎていった。
それは、楽しかった証拠……だと思っていいのだろうか。
気がつくと空がオレンジ色に染まり出してきて、一日の終わりを示していた。遠くから烏の鳴き声も聞こえてくる。
イリスが何か言いた気に夕空を見上げると、アレツやレイチェルだけでなく、マークもその意図に気付いたようだった。
「おねえちゃん、もう帰っちゃうの? 嫌だよ、もうちょっといて!」
そう言ってイリスの手を引っ張る。それをアレツが窘めた。
「マーク、我侭言うんじゃない。もう遅くなってきたから、帰ろうか、送るよ」
アレツにそう言われて、イリスはハッとしたように顔を上げた。
「あ……は、はい……」
イリスが慌ててそう答えると、マークはまた抵抗した。
「駄目だよ、うちにおとまりしようよ! 僕のへやにとめてあげるよ!」
「マーク!!」
マークの無邪気な提案に、アレツが声を荒げた。
その荒々しい声に、マークと一緒にイリスまでビクッとする。レイチェルだけが、その場面を可笑しそうに眺めていた。
「私なら、構わないけど」
そうからかうと、まるでアレツの歯軋りが聞こえてくるようだった。
ふふ、と意味ありげに笑って、レイチェルが席を立つ。
それに合わせてイリスも立ち上がった。
「今日は楽しかったわ、懲りずにまた来てね」
「こ、こちらこそ。あの……楽しかったです、ご飯もとても美味しくて……ありがとうございました」
「ありがと。こちらこそ楽しかったわ。マークがうるさくしてごめんなさいね。この子、すっかりあなたが気に入っちゃったみたいで」
料理を褒められてご機嫌なレイチェルが、笑いながらそう言うと、イリスは少し恥ずかしそうに微笑み返した。
その、野に咲く一輪の香しい花のような可憐な表情に、レイチェルは片手を頬に当ててほぅっとため息を吐いた。
「これは……ウチの馬鹿も落ちる訳ね。まぁ、悪い奴じゃないから考えてやって?」
「え?」
イリスがきょとんとすると、レイチェルはいいのよ、と言うようにイリスの肩を軽く叩いた。
アレツも席を立ち、車の鍵を手に取る。
マークは一緒に連れて行ってくれと足元でせがんでいたが、アレツはマークの頭をクシャクシャと撫でるだけで、彼を置いて外へ出た。
イリスはまたレイチェルに何度か礼を繰り返し、マークに別れの挨拶をすると、アレツを追って外に出た。
*
「ねえ、おかあさん」
マークは恨めし気に、二人が出て行った玄関を見ながら母親に聞いた。
「何かしら?」
「あのひと、おじちゃんのおともだち?」
「うーん、そうね。今の所は、そんなものかしら」
レイチェルのあやふやな答えに、マークは顔を上げた。
「じゃあどうして、あんなに怖いかおしたの? ぼく、おとまりすればって言っただけだよ」
──最近、五歳になったばかりのこの息子は、時々異常に鋭い。
レイチェルはそうね……と考えるふりをして、心の中では必死で笑いを噛み締めていた。
「あなたも『男』として認められたって事じゃないかしら。そうじゃなければ、おじちゃんの頭のヒューズが飛んでたのよ」
*
「……可愛い子でしたね」
イリスがそう呟くと、アレツは運転しながらチラッと助手席のイリスに目を移した。
「ああ、マークか……そうだな、可愛いよ。頭も良いししっかりしてる。顔は似てても、俺みたいな出来損ないとは違う」
「そんな事は……」
「そんな事は……大ありだよ。あいつにはきっと輝かしい将来がある。弁護士とか医者とかね、俺みたいな泥だらけの仕事じゃなくて」
「…………」
イリスは返答に困った。
こういう時、口下手な自分が恨めしくなる。
何か気の利いた事を言わなくちゃいけないと思うのに、何も出てこない。イリスが黙っているとその空気を読んだのか、アレツが謝った。
「ごめん、返事のしようがないよな。気にしなくていいから」
「いえ……」
しかし、そう言ったアレツの横顔は、今までと違ってどこか憂い気で……。
普段ならこんな風に、自分から話題を振ったりはしない。しかしイリスはその時、何故か訊いてしまった。
「でも、カーヴィングさんも立派な仕事をされているのに……何か後悔、してるんですか……?」
アレツが、弾かれたようにイリスに視線を移す。
それは、さっきのようにチラッと見るのではなくて、まじまじと……射抜くような瞳で。
「ご、ごめんなさい、変な事……」
イリスが慌てて弁解するように言うと、アレツは我に返ったように視線を前に戻した。
「謝る事じゃないよ。ちょっと、そんなふうに言ってもらえるなんて、すこし驚いただけだから」
「すみません……」
「いや、謝る事じゃないから、本当に。こっちこそごめん」
「いえ……」
またしても、上手な受け答えの出来ない自分に嫌気が差して、イリスはまた黙った。
しばらくはアレツもそのまま黙っていたが、隣で小さくなっているイリスに困ったのか……ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「その、俺とレイチェルは……両親にとって、かなり遅くに出来た子供たちでね。俺が生まれたとき、父親はもう五十過ぎてて……」
今度はイリスがアレツを見つめる番だった。
アレツは前を見て運転を続けながら、言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。
「俺がやっと大学に上がった頃、二人とも病気で亡くなったんだ。レイチェルはやっと卒業するかしないかって所で……まぁ、彼女はなんとか卒業したけど、俺は大学を続けられる程の金も無かったし、そのまま中退して」
「え……」
「そんな奴を雇ってくれるところも少ないだろ? それで、まぁ、手っ取り早く軍に志願したんだよ。腕っ節くらいしか自慢するものも無かったしね」
そこまで言うとアレツは一息置いて、自嘲気味に口の端を上げた。
「──だから、『立派な仕事』なんて言って貰えるほど、崇高なモノでもないよ」
「…………」
それは、今までイリスが見た事のなかったアレツの表情だった。
聞いた事のなかった、寂しげな口調。
──自信たっぷりで真っ直ぐで、なににも負けない人……なのかと思っていた。
意外な一面をこんな形で見てしまって、イリスは何故か胸が苦しくなった。そして後悔した。不用意な質問をしてしまった事を。
「そんな顔しなくていいよ。誰にだってそういう過去はあるだろ? ただ、マークには出来ればそんな思いをして欲しくないってだけで……」
アレツはまた、イリスを気遣うようにそう言い加えた。
今日一日でよく分かった事だが、アレツはイリスをよく気遣ってくれている。
四人で食事をしている間も、お茶をとっている間も、会話が途切れないように、居心地が悪くならないように……常に気を配っていた。
そのお陰で、あまり人付き合いの得意でないイリスも、今日は楽しめたのだ。
(なのに……私ばっかり……)
どうして何も言ってあげられないんだろう?
どこか憂い気な表情のままのアレツに、なにか励ましの言葉を言ってあげたかった。
そんなふうに、自分を卑下する必要はないのだと──あなたは素晴らしい人だと、そんな単純な事を伝えたいだけなのに、イリスには言葉が見つからない。
(でも言わなくちゃ……)
ううん……言いたい、の。
「でも……そのお陰で……」
やっと出てきたイリスの声は、まるで怯えた子猫の鳴き声のように小さなものだったけれど。
アレツはそれを聞きながら真顔になった。ハンドルを握って前を向いたままだが、耳を澄ましてくれているのは分かる。イリスはそのまま続けた。
「そのお陰で、この間は……あの、噴水の前で……助けてもらえたんです。だから……やっぱり、凄いと思います。少なくとも、私は……」
こういうふうに、自分の考えている事を口にするのが、イリスの最も苦手とするものだった。
恐れていたとおり、アレツは驚いたような顔をして前を向いたままだ。
イリスはすでに自分の台詞を後悔していたけれど、それを覆す言葉もまた、今更見つからなくて。
しばらく、二人きりの車内に沈黙が訪れる。
イリスは車の隅で、これ以上ないくらいに小さく縮こまっていた。
しかし、アレツは逆に……いつの間にかまたいつも通りの、生気に満ちた真っ直ぐな瞳に戻っていた。
「……そうだな。それだけでも十分、価値はあったのかも知れない」
それはまるで、満たされたかのような口調だった。
自分の馬鹿な台詞のいったいなにが、アレツの心を動かしたのか分からなかったけれど──。なぜか、アレツが嬉しそうな顔をしていることに、イリスはやっと少し安心した。
*
気が付くと、二人を乗せた車はイリスの部屋の前に着いていた。
時間はまだそれほど遅くない……。
日は沈みかけているが、まだ西の空にその余韻がぼんやり残っている。薄暗いオレンジ色に空が染まった、幻想的な時間。
夕暮れ。
「本当にありがとうございました、今日は……楽しかったです。レイチェルさんにもまた、お礼を言っておいて下さい」
車から降りる一歩手前で、イリスはそう言って微笑んだ。
アレツも微笑み返す。
「こちらこそ。付き合ってもらって嬉しかったよ。姉貴に礼なら……自分から言ってくれると一番嬉しいけどね、次の機会に」
「……!」
「……冗談だよ。いや、本当だけど、真剣に取らなくていいから」
イリスが驚いた顔をすると、アレツは苦笑しながらそう弁解した。
「……はい……」
いつもなら、ここで逃げ出してしまった筈だ。
けれど何故だろう。イリスはアレツの笑顔に安心していて、すんなりと受け止めてしまった。
そして、去り際。
車を降りようとするイリスに、アレツが名残惜しそうな顔をするのが分かって……。
イリスは一瞬、外に出るのを躊躇した。
もしこの時アレツが『帰したくない』とでも言えば、イリスは逆に怖くて逃げ出したはずだ。でもアレツは何も言わずに、イリスが助手席のドアを開いて出て行くのを、まるで我慢するような顔で黙って見守っているだけだった。
(……どうして?)
こんな風に感じるんだろう。
この ひとにだけ どうして……?
イリスは車から降りると、そのまま部屋のある二階に上がろうとした。
(……でも)
このくらいなら、大丈夫なのかも知れない。勇気を、出してみるべきなのかもしれない。そう思って、途中で後ろを振り返った。
そして、ゆっくりと、アレツの居る車の方へ戻っていった。
それに気づいたアレツが、運転席の窓を開く。
「どうした? 忘れ物?」
「いえ……違います、けど……一言だけ……」
「…………?」
車内に座ったままのアレツと、外に立っているイリスとでは、今までと視点の高低が逆になった。
アレツはイリスを見上げながら、また優しそうに、けれどどこか寂しそうに、微笑む。
「俺……振られるのかな、やっぱり」
まるで傷ついた感情を隠すかのように、アレツはおどけた調子でそう呟いた。
イリスは小さく首を横に振ると、はにかみながら言った。
「電話……待ってます、また……」
*
『あの時は、泣きたいくらい嬉しかった』と。
アレツがイリスにそう告白したのは、もう少し先の話……。
ええ、あの時は、私も幸せだったの。
誰も居ないはずの自分の部屋に、明かりが灯っているのを見つけるまでは──