老人…そして。
扉に手を掛けると鍵は掛かっていなかったらしく何の抵抗も無く開いた。
まだ街に活気が溢れるには早い時間帯だが目覚めている者は目覚めているだろう時間だ。きっと此処の家主も既に起床している筈。もし施錠されていたのなら時間を置いてみるつもりだったがその必要も無い様だ。
無駄な時間が省かれ助かるのだがやはり緊張は更に高まってくる。
しかし僅かに開いた扉の隙間から屋敷内を覗くと人の気配は無く、此処から見える廊下に灯りは無く闇に包まれていた。
この家がシールという人物の屋敷だという事は間違いは無い筈。
俺は扉をゆっくりと開き玄関へと踏み入れた。そして一言。
「すみません」
誰かが居るのなら顔を出すだろう、そう思い遠慮がちに告げたその言葉は静かな屋敷に響き、そして何の返答も無いまま幾秒かが過ぎる。
どうしたんだ?誰も居ないのか?
まさか戸締まりもせず眠るなんて事は有るまい、ならば家主は一体何処へ。
僅かな不信感を抱きながら再び屋敷に先程と同じ言葉を投げかけるもやはり返答は無かった。
この屋敷内に自分の記憶を取り戻す為に必要な人物が居るというのに。
しかし玄関で立ち尽くすもどかしい時間は刻々と過ぎていく。
折角1日歩き続けこの家に辿り着いたというのに…此処に待機している自分が馬鹿らしく感じてくる。
まさか本当にまだ眠っているのではないのか?Xと関わりが有ると噂されている時点で僅かながらも危険が有る筈だろう、なのに施錠もせず眠る等有り得ないとは思うがまさか…。
否定出来ぬ考え故にそれを確認する事が出来ないのが辛い。
確認する術が無いのが現状だ。これを打開するには─。
「お邪魔します…─」
俺は屋敷内に歩を進めた。勝手に侵入するのは悪い事だとは分かるが今の俺にはそんな事はどうでも良かった。
投げかけたその言葉にもやはり誰も応える事はなく、既に俺の勝手な侵入を許してしまっている。
暗い廊下を照らす灯りを探そうと手探りで壁に触れる。指先に硬いものが当たり、それを押すと廊下だけでなく家全体が明るさを帯び、屋敷の雰囲気が一変した。
灯りがあると何か抵抗がある。勝手に侵入していいものだろうか?何だか泥棒にでもなった気分だ。
その時だった。
「…お客さんか?」
背後から聞こえた沈黙を振り払うその言葉に一気に身体が硬直するのが分かった。こんな場面を見られたら本当に泥棒に間違われるかもしれない。
振り返り誰かを確認したいが冷や汗が頬を伝い、相手を見る事に恐怖を感じた。
俺はそのままの体勢でどうする事も出来ないでいる。
しかしふと頭を相手の言葉がよぎる。
お客さんかい…?
普通なら「誰だ」とか叫びを上げる筈。肝の据わった大男でさえもそれ位は言うはずだ。
更に疑問に感じたのは相手の声色。何とも穏やかな、一切の恐怖心を感じていない老人の声。
─老人の声…?
まさか!
俺はとっさに振り返り背後の相手を視界に収めた。
「ルルーの所から来た奴だろう…話は聞いている」
視界に映るその老人は白髪であり、しかしどこか威厳のある風貌。此方が言葉を掛ける前に先に相手が告げる。
ルルーの事を知っている、つまりこの老人が─
「…シールさん…ですか?」
先程の冷や汗は引き、確信と共に問う。
此処はシールの家だ、此処にシールが居るのは当たり前なのだが。
「人の家に勝手に入って問う事か?」
老人は怖がる様子も無く、玄関に立ったまま此方にそう告げる。
確かにそれはそうだ。冷静に返された言葉に納得すると共に先程迄の嫌な緊張が消える。
このまま此処に立ち尽くしているのは失礼だろう、と考えていると老人は此方を気にする事無く俺の目の前を通り過ぎ屋敷に進んで行く。
やはりただ立ち尽くす俺に老人は一言。
「…こっちに来い、自分が知りたいんだろう?」
この老人は俺の記憶の鍵を握っている。その一言でそう確信出来た。
俺は老人、シールの後に続き屋敷内へと姿を消した。
「此処で待っていなさい。」
俺が連れてこられたのは多分客を招く為の部屋なのだろう、大きな絵画や高価そうな置物がある。絵画には片隅に「シール」と書かれていた。この絵はシールという人物、つまりこの家の主、あの老人の事だ。
適当な椅子に腰掛ければその雰囲気に再び緊張を覚える。思い描いていた人物はもっと腰の曲がった老人だったが、俺が視界に映した人物の風貌はそんな事は無く、更に此方の緊張を煽る。
>ただ座っている事にこんなに緊張する事はおそらく今までに無かっただろう。まあ記憶が無い異常推測でしかないのだが。
暫く待っていると老人が再び俺の前に姿を現す。
緊張に言葉が出ない。
「あ…あの、俺は…」
此方が先に声を掛けるがその言葉ははっきりしたものではなく、暫く声を出していなかった為に微かに掠れその先が続かなかった。
老人は何も言わず机越しに俺の目の前の椅子に腰掛ける。その手には何かを持っていた。
「君の事は聞いているといっただろう?…そんなに緊張する事は無い、一度深呼吸をしたら良い。」
雰囲気でやはり緊張している事が分かるのか。俺は言われたとおりに深い深呼吸をする。胸の中の嫌なものを吐き出す様に深く息を吐く。
想像していたより随分と軽い人物かもしれない。そう考えるだけで少し緊張が和らいだ。相手の表情には微かだが笑みが浮かんでいる。
「…俺の事を教えてください。俺はその為に此処に来ました。」
緊張が解れると相手の顔を見遣り深刻な表情で直ぐに問う。ルルーの場所から一度も敬語を使ってはいないが、使えない訳ではないらしい。こういう場では敬語の方が良いだろう。それは勿論少しながら緊張していたせいでもあるのだが。
「ああ、その事は君が来るまでに調べておいたよ。…ルルーからの話だと君はXと関係が有るらしいが…―」
見ず知らずの俺の事を調べるなど余程の信頼する人物の願いではないとやらないだろう。それだけルルーはこの老人に信頼されているという事か。この町に入る時に門番が言っていた言葉が嘘のようだ。
俺は相手の問い掛けに静かに頷いてみせた。すると老人はおもむろに手元にある物を此方に差し出す。
「名簿だ。顔写真が有る。君が記載されているかもしれないと思ってね。…本当の事を言うと、此れ位しか調べる方法が無かったんだが。」
差し出されたそれを手に取る。此だけでも十分なものだ。普通では低は居る事はないものだろう。
俺は大きな期待を胸にその名簿を開く。
「…?」
そこには多くの人物の顔写真が載っていた。その人物がどのような人物なのかも確りと記載されている。身長、体重、生い立ち。此れだけ見ればその人物の事が分かってしまう、それだけ此れが貴重なものだという事が理解出来た。だが一つ引っかかる事が有る。
名前:アートン・リバー
身長:176.4cm
体重:78.1kg
最初ページの人物のものだ。
これだけ見ると普通の名簿なのだが、下の方迄見るとこう記載されていた。
『抹消済』
どういう事だ?その単語の意味が理解出来ない。他のページを見てみると同じ場所に同じ単語が書かれている。
抹消されたという事なのだろうが、一体何から消されたのか?Xのメンバーから脱退したという事だろうか?
疑問符を浮かべながらその真意を問おうと目前に居る老人を見遣る。老人は微かな笑みを絶やさぬまま此方を見ていた。
「…この資料の此処の言葉、どういう意味ですか?抹消済と書いてありますが…」
名簿に記載されているその言葉を指差し相手に見せながら問い掛ける。この老人ならきっとこの意味が理解出来ているだろう。
「ああ。『抹消済』というのはね、消えたって事さ。」
老人は当たり前の様に告げる。
そんな事は分かっている、抹消という事はつまりは其処から消えたという事。俺は文字の意味を聞いている訳じゃない。
「いや…そういう事を聞いているのではなくて―」
更に追求しようと老人に再び問おうとした時だった。
「そういう事だよ。消えてしまうのさ、君だって。」
「は―…!?」
それは突然の出来事だった。
背後から誰かが俺の口へと布を押し付けてきた。とっさに俺は抵抗を見せるが強烈なその匂いに俺は何が何だか分からぬ侭意識が朦朧としてくる。
抵抗する暇は無かった。明らかに強すぎる力で俺を押さえつけている為だ。
何が起こっている?俺は今ただ老人にXの名簿を見せて貰っていただけ。今の状況の意味が理解出来ない。
俺が消えてしまう?抹消済の意味が理解出来ない俺にとってはその言葉に意味さえも理解出来ない。
しかしただ一つ分かるのは、今この瞬間、俺は誰かに襲われ、それにこの老人も関わっているという事だった。
どうやら思考を鈍らせる薬品が含ませてあるらしく景色がぼやけてくる。口を塞がれている為に声も出せない。
薄れ行く意識の中、唯一視界に確認出来た老人は未だ、微かな笑みを浮かべていた―。
「…消えてしまうのさ。皆、ね。」