第一章
少女はまだ宵闇が辺りを包む中目を覚ました。起きるにはまだ早い時間だ。しかし久方ぶりに見た夢が、再度の眠りに落ちる彼女の邪魔をする。
少女は桃子、と呼ばれていた。今は亡き両親達が我が子に付けた名前だった。
‘桃子’は‘桃弧’に通じる。邪気を払う祭事に葦の矢と桃の弓が使われる事から、我が子の身に降りかかる災いからその身を守るように、という両親の願いから付けられた名だ。
しかし懐かしくも愛おしい声で彼女を呼んでいた両親は今はどこにも存在しない。どれだけ否定しようとも、否応なく過ぎていく時間の中では納得せざるを得なかった。そして彼女は生きていかなくてはならないのだ。最愛の人間を亡くしても、残された人間達は歯を食いしばって生きていかなくてはならない。
加えて和那ノ国は緩やかに滅びを迎えている。大樹の崩壊により各地では天災が起こり、多くの人間がその命を落としていった。権力者達が先の見えない現実から目をそらし悦楽に耽って退廃を身に纏おうとも、大半の人間は生きようと足掻かなければ生きられない状況下なのだ。桃子の様な人間は珍しくもない。
5つで暮らしていた村を両親と共に失った彼女が身を寄せたのもまた、彼女の様な子供達が暮らす所だった。
国の各所には‘宮’という施設がある。医療や教育、政といった地方の自治を司る‘宮’には寄る辺のない幼子達を養育する‘仮の家’が存在する。しかしその名の通り成人の15を迎えれば全ての子供達は‘仮の家’からは出て行かなくてはならない。最低限の衣食住は保障されていたが、成人後も面倒をみるほどこの国には余裕はないのだ。
桃子は寝台の上で大きく伸びをした。身体の筋か伸びる事で、身体の芯まで目が覚めてゆく。一般には早いと言われる時間ではあったが、桃子にとってはさほど起きるのが辛い時間ではなかった。
‘仮の家’では子供といえども、甘えは許さなかった。年長の者は‘宮’の雑務をこなし、それが出来ない年齢の子供であっても自身よりも年少の子供の面倒を見るなど積極的に‘仕事’をしていた。子供というのは大人が考える以上に聡い。‘仮の家’の子供達は皆聞きわけがよく、整然とした静寂が漂っていた。
大人達は賢い子供達だ、と顔を綻ばせていた。しかし自分達は決して賢いわけでも聡明なわけでもなかった。ただここを追い出されればもう後が無いという事実を悟っていたに過ぎない。
‘仮の家’の管理者達が子供達に甘えを許さなかったのは、成人を迎え自立した後に彼らが生きていける様にという配慮もあっただろうが、最も大きな理由はこの国の残酷な現実を肌で感じさせようという意図であったのだろうと思っている。
子供相手に何を、と思うかもしれないが、子供達はそういった無言の言葉を正確に理解していた。そしてその通りに生きてきたのだった。
先日成人したばかりの桃子は彼女が暮らした‘仮の家’のある‘宮’内にある神殿に仕えることとなった。それはこの身の内に抱える暗い炎が神殿の静寂が宥めてくれるのではないか、という気持ちと、陽穂の英知が集まる神殿の地下にあるという大量の書物――それが自身の両親を死に追いやったモノへと導いてくれるのではないか、という相反した気持ちが複雑に混ざり合った結果だった。
自分を愛してくれた両親が今の自分を見ているとしたならば、きっと悲しんでいるだろうな、と自嘲する。
彼らはとても情が深く、優しい人達だった。彼らならきっと、自分達の事など忘れて幸せになれ、と言うだろう。両親の敵に対するどす黒い憎悪と狂気など、彼らは望みはすまい。
しかしそうと分かっていてもなお、この気持ちを止める事は出来ないのだ。
両親のいなくなった生活の中で、それまでには比べられないながらも、小さな幸せはたくさん転がっていた。‘仮の家’で一緒に暮らしていた子供達は皆、自分と同様に近しい者達を亡くしながらも、自分の足で立ってみせようと前を向いていた。彼らは家族というよりも同士の様な存在で、皆で支えあって暮らしてきた毎日は、穏やかで幸福なものだったと思う。
しかしそうして小さな幸せを積み重ね、両親の面影と憎悪が曖昧となる度に、こうしてあの時の記憶が夢となって現れるのだった。
これはあの憎い男が自分に刻んだ呪いなのだろうか。
両親を殺しただけでは飽き足らず、自分に繰り返しあの惨劇を見せつけ、どこかでほくそ笑んでいるのだろうか。
そうした考えが脳裏を掠めると、沈静したかに見えた炎は再び勢いを増す。
(ごめんなさい……お父さん、お母さん。二人が悲しむと分かっていても……私はこの胸に宿った炎を消す方法を知らない)
桃子は自身の部屋の前を人が通り過ぎた事に気付く。そしてその足音からそれが誰なのか分かり、表情を曇らせた。
外はまだ朝日も顔を覗かせてはいない。しかし暗闇ともいえず、そっと戸を開けて外を見た彼女は、その人物の輪郭から自分の予想が当たっていた事を知った。
声をかけようか否か迷う。
結局一歩も動けなかった桃子は人影の背中をじっと見ていたが、彼女の視線に引かれる様にその人物は振り返った。
華奢な女性だ。
年は桃子よりいくつか上で、桃子と背格好が良く似ている。しかしその人物は桃子とは対照的に暗闇に溶けてしまいそうな儚さがあった。それがこの女性の危うい魅力に拍車をかけている。
「まぁ……桃子、どうしたの?」
そう尋ねた女性は小首を傾げた。その拍子に髪が肩を滑り落ち、今にも折れてしまいそうな細い首が視界に入る。
(また、痩せた……)
それだけではなく、この薄暗闇の中でも分かる程に顔色が悪い。
本人は何でもないとおっとり笑うだけ。周りの者達が遠まわしに指摘しても、彼女は微笑むだけで何も変わらない。
「早埜姉さんこそ……。こんな薄着でなにやっているの?だいぶ暖かくなったとはいえ、朝夕はまだ冷えるわ」
「ふふふ、あの季節の変わり目にはいつも熱を出していた桃子に言われるなんて……」
早埜は可笑しそうに口を手で隠しながら笑った。
彼女は昔から穏やかな性質だった。こうやって笑い声でさえ慎ましやかな人だ。それは昔は温和な彼女らしいと思っていたが、今は儚さに拍車をかける仕草に見えて、どうしようもない不安に駆られる。
――あちらの世界に足を踏み入れてしまったの?姉さん……。
思っても口には出さない。言ってしまえばそれがあたかも本当になってしまいそうな予感がするから。
皆口には出さないが、こういう笑い方をする人達を何人も見てきた。それは病気を患った人間だったり大切な人間を亡くしてしまった人達だったりした。彼らに共通なのは、この世に繋ぎ止めるものが何もなく、川の向こうに片足を踏み入れた人間達だ。そうした人達は多くが時を置かず永遠に旅立っていった。
早埜からはそうした人達と同じ死の臭いがする。
多くの死を見つめてきた人間達の目には明らかな、死相だった。
「……早埜姉さん、もう中に入りましょう?まだ朝には早いわ」
桃子はこのまま彼女が消えてしまうのではないかという不安に襲われ、やや早口になって早埜を促した。彼女はその言葉に逆らう事はなく、穏やかに首肯して従う。
「桃子ちゃんも私のことは言えないわよ。どうしてこんな早くに起きていたのかしら?……もしかして、また夢を見たの?」
早埜は心配そうに表情を曇らして尋ねた。
桃子と同じ‘仮の家’で育った早埜は桃子が度々見る夢に苦しんでいる事を知る数少ない人間の一人だ。
桃子が‘早埜姉さん’と呼ぶ事からも分かるように、彼女にとって実の姉の様な人である。寝起きしていた部屋が一緒で、桃子が両親が殺された夢を見ては飛び起きていたのを知っている。そして早埜は何も言う事なくただ幼い彼女を抱きしめて眠るのだった。
そんな彼女にどれだけ救われてきたことだろう。暗闇に飲み込まれそうで震えていた自分を暖かく包み込む腕がいつも自分を引き上げてくれた。
だから今度は自分が彼女を助けたいと思う。
しかし昔から一度として早埜は人の前で弱音を吐のさえした事がなかった。
「もう……春ね」
「えぇ、そういえば姉さんは春が好きだったでしょう?」
「知っているかしら?和那ノ国には昔‘桜’という樹があったそうよ。春になると薄紅色のそれは綺麗な花を沢山つけたと言うわ。でもね、月宵ノ民がその姿を消したと同時にその樹も姿を消してしまった……」
「姉さん!!そんな話はやめましょう?どこで誰が聞いているか分からないのだから……」
うっとりと微笑む早埜の言葉を桃子は慌てて遮った。
荒んだ人民の前では月宵の言葉は禁忌だ。誰も言葉には出さないが、今この絶望に満ちた現状には過去の自分達の所業が関係しているとどこかで気付いている。しかし月宵を唾棄しながらも、太陽神の片割れの神の救いを求めているのもまた、事実だった。
何故だか死に行く多くの人々が最後に祈るのは陽穂の主神たる太陽神ではなく、彼の女神だった。それはかつて夜空に浮かんでいたという女神の化身たる‘月’が死と再生を司っていたからなのか……。
だから恍惚とさえして月宵の言葉を口にする早埜と死んでいった者達の面影が重なり、背筋が寒くなる。
「だって……想像してごらんなさい?満開となったかと思えば、僅かな時だけ人々の目を楽しませ、後は吹雪の様に散ってしまう……。でもね、また次の春には花をつけるのよ。これこそ死と再生……、この国とは真逆だわ。ぎりぎりの所で醜くしがみつき、けれどその先に未来はない」
「でも……足掻き続けなければ、何も手に入らないわ。潔い死なんて私はまっぴら。いくら醜くったって、生きていなければ何も出来ないもの」
多くの人が死んでゆく毎日。
怨嗟の響く国。
誰が見てもこの国にはもはや未来はない。それがいつになるかは分からないが、崩壊は確実にやって来るだろう。
だからか、人々は死んだ人を‘立派な死に顔だった’‘安らかに旅立っていった’と言う。まるで死後の世界にしか救いは存在しないかというように。
しかし桃子はそんな事は認めない。生きてこそ、未来は存在する。楽になんて死んでやらない。生きて、足掻いて、もがいて、それでいつか……。
久しぶりに見た夢の光景が瞼に浮かんでは消えてゆく。鼻につく生臭い血の臭いはいくら時が過ぎようとも忘れはしない。
「えぇ……とても桃子ちゃんらしい答えね。それも一つの答えだわ」
早埜はふわりと微笑んだ。桃子はその笑みを目にし、背筋が寒くなるのを感じた。
綺麗な微笑である。しかしその中にある潜む鬱々とした暗闇とそれと共存している儚さが桃子に恐怖を抱かせたのだ。
「さぁ、姉さん、もう行きましょう。私が言えた義理ではないけれど、まだ朝まで時間はあるわ」
桃子はその表情をこれ以上見ていられず、早埜の背中を軽く押して促した。早埜はそれに逆らう事無く、素直に従う。しかし桃子にとってはその素直さに、より不安が増した。触れた背中が想像以上に骨が浮き出ていて、脆く思えた事がその不安に拍車をかけていた。
だから桃子は知らない。
桃子がふとはずした瞬間に常に微笑を浮かべていた早埜の表情がごっそり抜け落ちていたことに。
そこにあったのは虚無だった。底なしの暗闇と言い換えてもいいかもしれない。
早埜は桃子が思っていた以上に道から外れてしまっていたのだ。
しかしそれを桃子が思い知るのは先の事となる。
知っていたら、と桃子は後に激しく後悔する。だがどれだけ後悔しようとも、‘もしも’は存在しない。すでに起こってしまった事は、神でもない限り、いや、もしかしたら神でさえも変える事は不可能なのだ。
これが分かれ道だったのだろう、と桃子は後に思い返す。
良くも悪くも、この後に起こった事が彼女の人生を一変させてしまったのだ。
‘真実’を知った先にあるのは‘希望’か‘絶望か’……。
この時はまだ誰も知らなかった。