序章
「あぁぁ……」
鉄に似た生臭い匂いが鼻につく。
少女は目の前に転がるものが何の残骸か悟り、意味を成さない声を発した。
それは両親だったものだ。しかしもはやどちらの身体の一部なのか判然としないほどにばらばらにされてしまっていた。唯一分かるのはごろりと転がった頭部のみ。もう彼らが自分に話しかける事も、抱きしめる事も永遠に無いのだ。
「お父さん、お母さん……」
少女の瞼に幸せだった頃の記憶が鮮やかに巡った。
決して裕福な生活ではなかった。
彼らが住んでいた土地は農作が主な収入源である。しかし陽穂は大樹の崩壊から大地は 痩せ、悪化の一途を辿っている。そのため彼ら家族と同様に農作を主な収入源としている人々は皆、総じて貧しかった。だが、この国の大半が農業従事者である。国の崩壊は誰の目にも明らかなものだ。
娯楽も無く、日々労働に追われる生活だが自分にとっては幸せな日々だった。父と母と自分。他の家族には多くの兄弟がおり、口減らしのために売られる子供達の数は少なくは無かったが、母の身体が丈夫ではなかったため、兄弟は一人もいなかった。兄弟達と戯れる同世代の子供達がうらやましくなかったとは言わない。しかし両親は自分に多くの愛情を溢れるほど注いでくれたため、その寂しさも日々の中に埋もれるのが常だった。
少女は両親を人からものへと変えた人間に憎悪の眼差しを向けた。その瞳には幼い子供が宿すはずのない底なしの絶望と狂気に染まっている。しかし両親を殺めた人間の瞳にある狂気は少女を遥かに凌駕する深さだった。
その人間は少女を無感情に見下ろしていたが、ふと何かに気づくと、心底愉快そうに笑い出した。聞く者の背筋を寒くさせる程の狂気を秘めた声だ。しかしそれでも男は美しかった。
ふと少女の脳裏に、果たしてこの目の前の男は本当に人間なのだろうかという疑問が浮かんだ。年不相応に聡かった少女はその馬鹿げた妄想を捨てる。
しかし男の美しさは人の理を外れたが故の美しさとしか表現出来ない。
自分の周りをねっとりと取り巻くものが、目の前の男が発する強烈な色香だとはまだ幼い少女には分からなかった。
両親を殺された憎悪、しかしそれを飲み込んでしまいそうな程圧倒的な、目の前の男が持つ引力と相対する人間に強制的に植え付ける畏怖の念が少女を取り囲み、眩暈まで感じる。
「面白い。何と不憫で、汚らわしくて、愚かな子供。その身に宿すのは吐き気を催す程の歪み……。しかしそれにさえ気づけない無知。無知は罪なのだよ。自分の両親を死に追いやったのが真に何であるのか、それさえも分からないのだから……」
男は狂っていた。しかし同時に正気でもあった。だから彼は嗤う。
「汚らわしき許されざる大罪を犯した者どもの末裔。その血に脈々と流れる罪の証がお前の両親を殺した」
「うるさい、人殺し!!お父さんとお母さんを殺したのはお前だ!!」
男の言っている事は少女には難しすぎて、半分も理解する事は出来なかった。しかし男の手にある血塗られた刀が両親を切り裂いたのを少女はつぶさに見ていた。それだけで十分だった。
男が何と言おうと関係は無い。優しくて大好きだった両親を殺したのは目の前の男だ。
殺してやる、と少女は呟いた。5つ程の少女特有の甲高い声ではなく、しゃがれた老婆の様に低い声だ。
それを聞いた男は恍惚とした表情になり、男の放つ色香はさらに鮮やかに香る。
「僕は全てに飽きて膿んでしまった。君は面白い、だから殺さないであげる。僕を探して、泥にまみれて足掻いて、それで……もっと僕を楽しませて」
残酷な言葉だ。少女の憎悪は男にとって暇つぶし以上にはならないということだ。男はあろうことか少女の生命も気持ちも児戯の様に弄ぼうとしている。
少女の中にあった憎悪はあっという間にその身体を埋め尽くした。その小さな身体から立ち上る狂気は皮肉にも男のものに酷似していた。
「あぁ……いい表情だ。憎んで狂気に染まって、最後には絶望で壊れるといい。だって僕の中にある絶望の全ては君達が作ったものなのに、僕だけ壊れているのは不公平だろう?」
「芙樹様、そろそろ行きましょう」
「あぁ、灯夜。面白いものを見つけたよ」
男に声をかけたのはちょうど少年と青年の狭間に立っていると思しき年頃の人間。唐突に現れた人間の頭部の高い位置で束ねられた挑発が熱風にたなびいている。
そう、男は両親を元の姿を想像する事が困難な程切り刻んだのみならず、これまでの思い出がつまった慎ましい家さえも焼き払ったのだ。木造の小さな家はすぐに火に包まれ、周囲を赤々と照らしている。
ここまで派手な火事が起こっているにも関わらず、周囲の家から集まってくる人影は一つもない。
それもそのはずだ。少女の暮らしていた村の全ての人間が、目の前の男によって両親と同じ道を辿ったのだから……。
周囲の全ての家が轟々と音をたてて燃え、その熱風で焼けどしそうな程である。
少女の視線ははためく長い髪に釘付けとなった。そこで初めて、両親を殺した男のぞろりと長い髪が一房も動かないのに気づいた。
男の言葉に新たに表れた人間は初めて少女を目に写す。
冷ややかな色だった。女性めいた整った造作なだけに、感情を排した表情は恐怖さえ誘う。しかし目の前の男に比べればまだ人に近い。
彼は少女にちらりと目を向けるとすぐに目の前の男に視線を戻し、何かを促した。すると目の前に黒い亀裂が現れる。
消えてしまう。
少女は直感で感じた。自分の心に醜い楔だけを打ち込んで、男は少女の目の前から消えてしまうのだ。
「必ず……お前を殺してやる!!」
男はちらりと少女を振り返り、口角を上げた。
「僕を殺す……やってみるといい。お前に神殺しをする力と度胸があるのなら」
……神。
あんなものが神だというのか。
神を殺すということは世界を否定することなのか。いや、自分が世界に否定されている?
少女は嗤った。狂った様に嗤った。
男達を飲み込んだ黒い亀裂はもう消えてしまっている。
――認めない。こんな狂った世界を。あんなものが神として存在が許される、そんな不条理な世界、自分から否定してやる。
少女の心には消えない黒い炎が燃えていた。