終章
どれだけの時が流れただろうか、と咲矢は過ぎ去った長かった様な短かった様な時を思い出す。
月宵ノ国から陽穂ノ国に戻ってから5年の後、20を過ぎたあたりからどうやら年をとらなくなった様だ。いや、実際は時を刻んではいるのだろう。しかし彼の中で流れる時は徒人に比べれば不老に見える程ゆっくりとしか流れない。それから幾年かは若く見える質だと誤魔化していたが、30を過ぎたあたりから周囲は徐々に咲矢に疑いの目を向けてきた。その目にあったのは異端者を見る眼差し。
陽穂は決して異端者を受け入れる事はないのだ。それがたとえ家族や友人といった掛け替えの無い相手だったとしても。
周囲を誤魔化すのは限界だと咲矢は悟ってから後、陽穂の地を点々としている。
そして各地で見るのは痛々しい国の現状だった。
神々から見捨てられた大地は病んで、緩慢に崩壊を続けている。それは時が経つ毎に深刻化し、大きな災厄と痩せた大地に人々は追い詰められていた。しかし国の現状を改善しようと率先して動くはずの都の人間達は皇族も含め、己の享楽を甘受するだけ。むしろ大地の崩壊が進む毎に、刹那的な享楽に身を任せているように感じられた。
彼らは絶望的な現実から目をそらして、欲望を求める。病んでいるのは大地だけではなく、むしろ人々の心に積もる泥土の方が深刻だった。
咲矢は過去から現在に至るあらゆる人間達の絶望と悲哀の叫びを聞いた。《北》の、と呼ばれていた少女が示唆していた様に、彼の過去視の能力が目覚めた。初めの頃は能力の制御が上手くいかず、頭に去来するあらゆる記憶に発狂しそうになり時には失神することもよくあったが、今ではその様な事はもう無い。
「何を考えている?」
咲矢は背中にかかった声に背後を振り返り、己の寝台に横になっている人物を見て苦笑を浮かべた。本当にこの人は神出鬼没だ。
「いきなり現れるのはやめて下さいよ、芙樹様」
寝台の上では漆黒の長い髪がとぐろを巻いている。
目の前の男性は性別を除けば水晶の中で今も眠っているであろう姫神と瓜二つだ。彼の人の娘である《南》の少女よりも更に。
しかしそれも当然の事だった。何故ならこの人物は月宵の最後の姫神の双子の兄なのだから。
《南》の、と呼ばれる少女の目にあるのが憎悪なら、この男にあるのは狂気。唯一の者を奪われ、彼の人物を取り戻すためならば手段を厭わない――それこそ幾人の血が流れようとも微笑みさえ浮かべて全てを実行する――そんな人間の目だ。
咲矢は芙樹の身体から立ち上る血臭に思わず眉をしかめた。
「濃い、血の匂いがしますよ」
「ふふふ、お前は本当に勘が良いね」
歪んだ笑み。しかしそれさえも美しい男は確かに人外の色香を纏っていた。
つと伸ばされた指は咲夜の頬から首筋を伝う。余りの冷たさに彼の背筋が一瞬だけびくりと動いた。そんな咲夜の様子を逐一舐める様に見つめる男の目はうっとりと細められている。まるで甘美な物を目の前にしているかの様だ。うっそりと細められた目にあるのは底が見えない程の闇。
悪趣味な。感じる僅かな不快感に内心で呻く。彼を見る度に感じる僅かな不快感は、どこか己にも似た所があるが故の同族嫌悪か。
「陽穂の皇族の首をいくつか刈って来たんだよ」
まるでこの線にそって切ったと言わんばかりに、彼の冷たい指先が咲夜の首筋を横になぞった。
「しょうがないだろう。どれだけ不本意でも、それがあの子の願いのためならば僕は調整役を引き受けなければならない。あの人間達は少し勝手が過ぎた。あの国はまだ滅びる訳にはいかないからね」
芙樹が不本意なのは人の生命を奪わざるを得なかった事に対してではない。彼にとっては人の生命は取るに足らない瑣末な物で、それどころか世界の崩壊さえも余り関心の無い物だった。彼は憎んでも憎みきれない陽穂ノ民のために自分の力を行使する事を嫌悪しているのだ。そんな男が世界の均衡を保たせている事に大きな危惧を感じはするものの、彼は唯一の人間のために、その人物の願いを破れない。
「……ねぇ、咲矢。お前は言っていたね、じきに全てが動きだすと。本当にその通りだよ。すぐそこに始まりは近づいている」
「……そうですか」
「僕は迷わないよ。ただ前に突き進むだけだ。お前もお前の望み通り、真実を見届け記録し、そして導けばいい」
芙樹は全ての終わりに思いを馳せ、恍惚とする。
「本当に長かった。やっとこの苦痛ばかりの長い時を終わらせる事が出来る。醜いばかりの未来を見せる世界は嫌いだ。けれどあの子が美しいと言ったから、色あせた世界もほんの少し鮮やかに見えた。だから、あの子がいない世界で生きるのはこんなにも苦しい」
「俺は直接は彼の方を知りませんから確かな事は言えませんが……姫神は貴方の犠牲を悲しむのではないですか?」
「それ以上に怒るよ、あの子は。そういう子なんだ。けれどね、あの子が僕を恨む事は決して無い……怒るのも悲しむのも、そこに情があるから。だから全部構わないんだ」
芙樹はふと思いついた、という様に言った
「灯夜が君の事を気にしていたよ。勝手をするのならついでに様子を見て来て下さい、だってさ。人使いが荒いよね」
「《西》の方が……何とかやっています、とお伝え下さい」
灯夜という名前の自分と同様に《夜》の字を持った青年。他の血族の誰よりも咲矢に似た面差しの彼は、自分を見ると郁子、と呟いた。彼は咲矢が徒人とは違う時を刻みながら陽穂の地で暮らしているのを心配しているらしい。こうやって芙樹に頼む事もあれば、本人がふらりとやって来る事も珍しくはなかった。
咲矢は彼の外見に反して過保護な様子を思い出して苦笑せざるを得ない。
「ふふふ、可笑しいよね。彼は冷たい振りをして人一倍情が強い。それもそのはず、彼はあの子が自ら選んだ守り人なんだから。あの子とは似た者同士なんだ」
芙樹は軽い身のこなしで咲矢の寝台から飛び降りた。
「じゃあ、僕はもう行くね」
そう言うや否や、彼という存在など初めから無かった様に消え失せる。いい加減彼の唐突さにも慣れたが、もう少しどうにかならないものか、と呆れた。
「もうすぐ動き始める……か」
近いうちに時が来ると芙樹は言ってた。彼の唐突な行動にもその事に関係があるのだろう。しかし改めてそうと知ると、期待やら不安やらが複雑に絡み合い、感慨深い気持ちになる。自分よりも遥かに長い時を生きてきた彼らにとっては尚更だろう。
咲矢は随分と長い間物思いに沈んでいた様だ。芙樹が姿を消したのは昼間だったと記憶しているのに、もう日は随分と傾いてしまい、窓から差し込む光の位置が変化している。
「そろそろ店じまいの時間かな」
無意識に立ち上がる時によいしょっと声を出していた。いくら実年齢は壮年に差し掛かっていると言っても、いくらなんでもまだ早すぎるだろうと、その事に気付いて己自身に呆れる。
背後の扉が開く気配がした。振り向きざまに尋ねる。
「いらっしゃいませ。どの様な薬をご所望ですか?」
入って来たのはまだ年若い5人の男女。彼らは咲矢を見ると皆、少なからず驚きに目を見張る。
咲矢は笑顔を浮かべながら内心でははて、と首を傾げた。ここは一般的な薬屋だ。表に出している物には特に目新しい物は出してはいないし、自分が別段怪しい格好をしているという訳でもない。彼らの表情の理由が彼には分からなかった。
5人の中では最も年長の青年でも見た目は咲矢と変わらない。一番年下に見える少女でさえも15ほどにしか見えなかった。
咲矢は最年長の青年から感じる既視感に内心で困惑する。しかし表面上は笑顔を崩さず彼らの代表と思しきこの青年の言葉を待っていたが、予想に反して口を開いたのは一番年若いと思われる少女だった。
「この店の主……《賢き者》はいらっしゃるかしら」
「《賢き者》という名前は初めて聞きましたが……この店の店主は私ですよ」
「私達が欲しいのは薬ではないわ。求めるのはたった一つの知識……神殺しの方法よ」
そう言った少女の目に浮かんでいるのは《南》の少女の憎悪と、芙樹の狂気。
彼女の言葉に彼らが咲矢を見て驚いていた理由が分かった。彼は薬屋を営む傍らで《記憶》を《伝える者》の性質を利用して情報屋の物真似もしていた。《賢き者》という呼び名は初めて聞いたが、この店の場所と《賢き者》という呼称だけを聞いて来たとするならば、外見年齢は若い自分に驚いたのも無理は無い。
それにしても神殺しの方法を尋ねにわざわざ自分のもとを訪れるとは興味深い。少女のものとは思えない彼女の目に浮かぶものをもっとよく見ようとさり気なく覗き込んだ瞬間、咲矢の頭に様々な光景が去来した。こんな風に自分が見たいと思った訳ではない物を強制的に頭に送り込まれたのは久しぶりである。懐かしい目眩に僅かに脚を引いた。
しかし彼の様子など考慮されるはずもなく、続けざまに大量の情報が頭の中で溢れかえる。桜の巨木、狂気に飲まれた女性、朽ち果てる大樹、大地を染める血、相手を射抜く真っ直ぐな瞳、寄り添う男女……。
中には咲矢よく知る人々もいる。彼らが舞い散る桜の花びらの下で笑い合う光景――。あぁ、何て美しくて切ない過去の記憶だろう。
その時悲痛な、それでいて隠しきれない情愛を含んだ男の声が聞こえる。
『すまない、貴女を残して俺は……』
それに応えるのはよく聞き知った声音。
『君がこれから起こる全ての始まりを告げる存在だと知っていても尚……僕は君の事が嫌いではなかったよ。君の傍で笑うあの子が余りにも幸せそうだったから』
咲矢が過去を視ていたのはほんの僅かな時間だった。
自分はその僅かな時間の間に過去の真実の全てを知った。目の前の少女が狂気と憎悪に飲まれずにはいられなかった理由も知ってしまった。
だから、自分は言う。
「真実は時に残酷だ。見ようとしない物は見えないし、こうあって欲しいという願望は真実を歪ませる」
この少女は全てを知っても尚、壊れずにいられるだろうか。
彼女を支える狂気と憎悪を真実生んだのは、彼女が憎む相手ではないという事を。
咲矢は少女よりも僅かに年嵩に見える少年の一人を流し見る。彼の相手を真っ直ぐに射抜く瞳とよく似た瞳を持つ女性を、咲矢は先程視た。だから知っている、彼らが鍵だという事を。
「それを理解出来るのなら、俺は教え得る知識の全てを授けよう」
君達を導くために。
これにて第一部という名の序章は終了です。導入部分だから何が何だか……と思われるでしょうが、第二部から本当の意味での本編であり、物語の核心に触れていきます。しばらくは亀更新が続くと思われますので、物語は遅々として進まないかもしれませんが、終わらせる気はあるので、そうか温かい目で見守って下さい。
さて、第二部からは最後に登場した陽穂の少女が主人公です。彼女と仲間の4人が繰り広げる物語をどうかお楽しみ下さい。
復讐だけを支えに生きる少女は真実を知った時、どうするのか。
一部に出てきた人物達も大いに活躍する予定です。しかし本格的に受験にるのでしばらく更新はできませんが、気長に待っていて下さると嬉しいです。
それでは、できるだけ早くまたお会いできる事を祈って。
今日子