第四章
「貴女達が俺達に深い絶望を抱いているのは当然です。だってそれは正当な権利だから」
咲矢は宮で会った、鋭い眼差しで自分を貫いてきた少女を思い出す。
あの少女はある意味真っ直ぐな人間なのだ。目の前の少女が降り積もった絶望を諦念としたのとは反対に、生々しい憎悪で自分を貫いた。
「俺は月宵の血が濃く流れているとはいえ、陽穂の血も多く流れているし、これまで多少の違和感はありましたが陽穂ノ民として生きてきました。だからこれから先どんなに残酷な事実を知っても、俺は自分が陽穂の民である事は否定出来ないでしょう。だから俺は貴女方の気持ちを本当の意味では理解出来ません。それでも俺は知りたいと強く思ってしまうのです」
こうして近くにいると共鳴してしまうほどに近しい少女に出会って、咲矢はこれまで単なる事実としてしか認識していなかった自身の中に流れる月宵の血を強く意識した。それでも陽穂の血を持って生まれたのもまた事実だった。
咲夜の偽らざる真っ直ぐな言葉に、少女は今までで一番柔らかな微笑みを浮かべた。
「貴方は月宵と陽穂の堺に立っているのですね。そんな貴方が私の同胞として生まれたのも何か意味があるのでしょう。怖れず、貪欲に真実を求めなさい。私達には見る事の出来ないものを見る貴方ならばあるいは……」
彼女はふと遠くに視線をやった。
「貴方に見せたいものがあります。いらっしゃい」
少女の後に従い、着いたのは小さな洞窟の入口だった。人が地下へ降りられるよう、段差が作られている。彼女が入口に脚を踏み入れた途端、壁沿いに感覚を空けて置かれていた蝋に一斉に火がついたが、咲矢は驚かなかった。
短いような長いような地下への道を降り、着いた先はしんしんと冷えていた。段差は人の手が加えられていたが、ここは歪な壁が剥き出しになっていて、ほとんど人の手を介していないのが分かる。
先ほど同様に少女が脚を踏み入れると同時に微かなあかりが灯り、目の前に現れた予想外の光景に咲矢は言葉を失った。
巨大な氷、あるいは水晶なのかは判然としないが、恐ろしく純度が高く、その中に封じられているもの――いや、人だ――の姿がはっきりと見える。
咲矢はふらふらとそれに近づき、そっと手で触れてみる。ひやりと冷たいが刺すほどの痛みを伴うものではなく、目の前にあるのが巨大な恐ろしく純度の高い水晶の塊だと知れる。
近づくことで、水晶の中で眠るように目を閉じた人物の仔細まで見る事が出来る。
簡素な布の上からでも分かる華奢な肢体。腰を越す豊かな漆黒の髪に縁どられた面は、この世のものとは思えないほど完璧な造作を誇っている。
瞼は閉じられ、けぶるような睫毛が影を落としているが、瞳が開かれてこの人物の眼差しに晒される事を想像するだけで鼓動が速まり、息が苦しくなる。
外見は3人の《楔》の少女達よりも年嵩に見えるが、彼女達とよく似た雰囲気を感じる。そう、特に苛烈な眼差しと口調のあの少女に……。
咲矢をこの場に連れてきた少女は一言も発する事なく、彼の背後に立っている。しかし咲矢は何を言われずとも、目の前の女性が何者なのか分かってしまった。
目を閉じ、動く事も口を開く事も無い、それでも3人の少女達を圧倒的に上回る存在感。
見つめているだけで、大きな歓喜と溢れてくる慕わしさ、哀惜や切なさが複雑に絡み合って涙が溢れそうになる。これも血か、とどこか冷静な自分が納得する。
「……この方は、生きていらっしゃるのですか?」
「はい。何者かがあと少しで命が尽きようとしていた姫様の時を止め、そしてお身体をここに封じたのは私達」
少女は遥か昔に思いを馳せる様に、わずかの間黙り込んだ。
「大地と天都国とを繋ぐ大樹は一度朽ち果てました。それを再び彼の方は強引に繋ぎ直しました。しかしいくら神の末裔と言っても半分は人の身、その様な事をして無事で済むはずがありません。言い方は悪いですが、陽穂を見捨てる、という選択肢も我々にはありました。私達も何度も彼の方をお諌めしましたが、この方は頑として首を縦にはお振りにならなかった……」
余りに大きな犠牲を払って、それでも完全ではなかったのだろう、大地の崩壊は今も尚緩慢に続いている。
《異層》に移った月宵ノ民はこれからも自分達の力で細々と生き続けるだろう。誇張でもなんでもなく、陽穂を見捨てたとしても彼らには不利益は無かった。むしろ陽穂がした仕打ちを考えてみれば見捨ててしかるべきだったのかもしれない。それでも彼女達が大地の崩壊をとどめているのは、ただ、神か母とまで慕った人が願ったから。
憎む事も、嫌悪する事も、迫害する事も、陽穂には何一つ権利などありはしない。たった一人の人物の切ないまでの慈愛によって生かされているにも関わらず、ひどく歪められた歴史の上で生きてきた事に吐き気さえ覚える。
「この方が目覚める事は、もうないんですか?」
「分かりません。私達はあの時何があったのかさえ知らないのです。知っているかもしれない人物の一人はもうすでに亡く、そしてもう一人は決して口を開こうとはしない。あの時失った力さえ戻ればお目覚めになるのか、それとも他に鍵があるのかさえ分からないのです」
どうすれば求める人が目覚めるのか、あるいは二度と目覚めないのかもしれないとどこかで思いながら生きてきた時は余りにも長く、残酷だったのだろう。激しい憎悪を向けてきた少女にとっても、そして目の前の深い諦念を纏った少女にとっても長すぎたのだ。
咲矢は自分が陽穂で生まれながらも《伝える者》として覚醒しつつある意味を唐突に理解した。
自分は最後の姫神が時を止めたという時に何があったのか知るために生まれた来たのだ。記録する者として、再び全てを動かす人物が現れた時、己の記す真実でもって彼らを導くために。歴史を動かす者としてではなく、傍観者として、あるべきものをあるべき場所へと戻すために。
「俺が何をするべきなのか、少し分かった気がします」
そう言って咲矢はにこりと笑った。
「ありがとうございました。いくら同胞と言ってもほとんど陽穂の民といってもいい、無関係な俺をここまで連れて来てくれて。おかげで多くの事がはっきりとしました」
「いいえ、貴方は無関係などでは……」
「《東》の!!」
何か言いかけた少女の声は鋭い叱責によって遮られた。
はっと振り向いた咲矢を射抜く、余りに明確な憎悪を宿す眼差し。すぐに咲矢から逸らされたそれは少女の方へと向き、彼女を弾劾していた。
「どういうことだ!!薄汚い陽穂の人間をここに連れて来るなど、気でもおかしくなったか!!」
「《南》の……」
「奴らが私達にした行いを忘れた訳ではあるまい。この長き間、どれほどの辛酸を舐めてきたことか……!!」
「《南》の、そこまでにしておきなよ」
凛と涼やかな声が怨嗟に満ちた少女の言葉を遮った。