第三章
「俺は……貴女を知っている?」
少女は微かに笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いいえ、私は貴女を知らないし、貴方も私を知らないはず。しかし私が今貴方に感じているのと同様の既視感を私に感じているのだとするならば、私と貴方の中に流れる血が共鳴を起こしているからでしょう」
その言葉に咲矢は頷いた。間違いなく初めて会った少女なのに、感じた既視感はそのためか、と。
何より自分と同色の瞳を見れば、家族以上の血縁を疑わずにはいられない。
「俺と貴女は血縁だということですか?」
「微妙な質問ですね。純粋に血縁か、と尋ねられれば赤の他人とお答えしましょう。私は月宵の民として生まれ、そして貴方はその血を幾分か継いでいる、という程度の繋がりです。香来達から聞いたかもしれませんが、私は……」
「《伝える者》の先祖返り、ですよね?」
少女は咲夜の目の前に腰を下ろした。
「書物で読んだことがあります。神々が地上にいらした時に存在していた古代人の一族の一つで、月宵の民の先祖だと言われているとか」
「そう、陽穂ではそう伝わっているのですね」
少女は複雑な表情で黙り込んだ。代わりに香来と呼ばれていた青年が口を開く。
「厳密に言えば、和那ノ国の民は全てこの一族の末裔であるはずなんだ。俺が生まれるよりずっと以前の話だが、陽穂の民も俺達同様に力が使えていたらしい。だが、この力は神々から借り受けている力だ。神々との繋がりは俺達の信仰だ。陽穂の民の心が神々から離れていくに従い、力も消滅していった」
神々から見放された陽穂とは反対に、変わらず寵愛を受け続ける月宵。同じ和那ノ国に生きている民への嫉妬が、次第に強烈な嫌悪と拒絶へと姿を変えた。歪んだ感情は歴史までをも歪ませてしまったのだ。あまりの歪みに咲矢は強烈な吐き気を一瞬覚えた。
歪められた歴史に感じた異常なまでの強烈な違和感に眉をしかめる。
「貴方が今何を感じているのか、同胞である私にはよく分かります。私達は《伝える者》の中でも《記憶》を伝える者。知識を求め、歴史を辿るのはもはや本能。そんな私達にとって、歪められたまま綴られた歴史は嫌悪の対象にしかなりません」
身体が食物や水を求めるのと同様に、またはそれ以上に本能は知識を貪欲に求める。
「貴方ならば一度は考えた事があるのではないですか?《楔》がどうやって何者によって選ばれるのか、と」
「……えぇ。けれども誰も答えを知らなかった」
「それも無理はありません。《楔》の者たちは陽穂のために力を注ぎ、陽穂によって庇護されているように見えるかもしれませんが、彼女達を選び、教え導くのも私達なのです」
少女は咲夜の手を引いて立ち上がった。彼は導かれるままそれに従う。
「もう気付いているでしょうが、実際に見たほうが早いでしょう」
彼女はそう言って野外へと出る。そしてついと頭上を指し示した。
「これは……」
彼女の指の動きを追って頭上を見上げた咲矢は声を失った。
夜空に煌々と星が瞬いているのは陽穂でも馴染んだ光景だが、その空には陽穂には決して無い、しかし彼が心の中で焦がれて止まなかったものが仄かに輝きながら浮かんでいる。
「これが、月……」
咲矢は半ば陶然としながら呟いた。これも彼女が言う血やらのせいなのか、目に入る柔らかな光への慕わしさに涙が溢れそうになる。
「ここは《異層》へと移された月宵ノ国です。私達は《異層》への移動後、月を失い、焦がれて止まない憧憬の象徴を幻想として空に反映させました」
「つまり、これは偽物ということですか?」
「私達が心を支えるためには必要だったのです。陽穂との軋轢により多くの人間が家族や友人を失いました。あまつさえ心の支えであった最後の姫までをも失い、私達はぼろぼろの心を抱えながら、それでも生きていかなくてはならなかった。目の前にあるのが救いようの無い絶望ばかりだとしても、未来に繋げればいつかは希望があるはずだ……とあの方がおっしゃったから」
「月宵の最後の姫君が、ですか?」
「そうです。月宵は月の女神の末裔の姫君達にとって治められていました。とは言っても彼の方達が行っていたのは実質的な治世ではありません。その身に宿す尊き神の血に従い、天都国に住まう神々の声を聞き、そして私達の声を届け祈りを捧げることによって神々と私達を繋げていらっしゃいました。私達にとって彼の方は神の権化であるのと同時に国そのものだったのです」
陽穂とは対照的だ、と咲矢は皮肉気に思った。
陽穂は月の女神の兄神である太陽神の末裔によって治められている。しかし彼の一族はもはや民の目も誤魔化せれないほど堕落してしまった。今は各地方の有力な一族によって治められているのが現状で、国内では小規模な内乱が相次ぎ、危うい均衡を保っている。
その均衡さえもいつまで続くのか知れない。
「月宵の最後の姫君は眠りにつかれる時、和那ノ国をどうにか保つために私を含め、当時特に力の強かった4人の人間を初めの《楔》としましたのです。時が来るまで私達が地上にとどまるよう、この身と魂に楔を打ち込み、長い時を生きてきました。時を止めた私達にもともとあった力は、長い時の中で更に甚大なものとなりました。それでも……」
少女は言いよどんだが、咲矢は彼女の言いたいことが分かってしまった。
時を経るごとに力を増す彼女達がいても、未だ多くの少女達が《楔》にならざるをえないという事は、彼女達が力を注いでも大地の崩壊が止まらないほど事態が悪化しているということだ。
「もはや、人と呼べない程の私達の力をもってしても、大地の崩壊は止まらない」
人である事を捨ててもなお、崩壊を止められない彼女達の絶望がいかほどのものなのか、咲矢は知る事が出来ない。
陽穂で時を止められた《楔》の少女達はそれでも自身が決められた天寿を全うした。しかし今目の前にいる少女はいつ終わるか分からない時を生きていくしかないのだ。
「俺は貴女を含め、3人の初めの《楔》の方々と会いました。もう一人は香来という人ですか?」
《楔》は少女だけだと思っていた。しかし少女達と共にいる香来という青年も只者とは思えない。少女達同様に、いやそれ以上に長い時を見つめてきた目だと感じたのだ。
少女は咲夜の言葉に微かに目を見開いた後、ゆるりと首を横に振った。
「いいえ、彼は《北》の《刀》です。《刀》とは私達が唯一、長い時を共に生きると誓った者達です。その名の通り、この長い時に絶望した私達自身を地上に繋ぎ止める楔を断ち切れる唯一人の人物。そして……」
少女はつかの間、黙り込んだ。
「私達は人であることをやめたが故に、真名に宿った力は甚大です。只人では私達の名を呼ぶことさえ出来ない。しかし自身が選んだ《刀》だけが名を呼べる……。もっとも、私はこのお役目を引き受けたとき、誰が消えようとも全てを見届けると決めました。ですから私には《刀》は必要ではありませんし、真名もとうに捨ててしまった」
彼女達が互いに名前とは思えない呼称で呼び合っていた事の得心はいった。
陽穂でも皇は皇となると同時に真名を捨て、太陽神の御名にならって始樹ノ皇君と名を改める。ただの因習かと思ってきたが、彼女達が名を封印するのと同じ理由なのかもしれない。
それにしても、と咲矢は眉をしかめた。
「残酷ですね……」
「え?」
「だってそうでしょう?共に長い時を生きようとまで誓った唯一の人に命の楔を絶たせるのでしょう?いくらなんでも残酷すぎます」
「残酷……?いや、そうなのかもしれませんね。その身に背負う重荷を共に背負わして欲しいと懇願したのは私達なのに、彼の方はすまないと涙し、あまつさえこの様な逃げ道まで用意したのですから。過ぎる優しさはいっそ、残酷なのかもしれません」
「……後悔しているのですか?」
「まさか。あるとすればこの道を選択した事への後悔ではなく、彼の方一人に多くのものを背負わせ、あの時何も出来ず、そして今も何も出来ない己の無力さへの嫌悪です」
少女の目は遥彼方の過去を見ているようだった。
「陽穂では最後の姫君が隠れてしまったから、あるいは、その……」
「私達が術を用い、大樹を蝕んでいると言われているのでしょう?」
「……はい」
咲矢は少女の中に深い諦念が渦巻いているのを感じてしまった。彼女達は自分達に伝える事を諦めてしまっている。
おそらくそうさせてしまったのは自分たちなのだろう。かろうじて希望へと繋がっていた細い糸は、長い時間をかけて摩耗していっていってしまったのか。
それでも、と咲矢は思う。
「それでも俺は知りたいと思ってしまうのです」