第二章
咲矢は水中に沈んでいた身体が浮かび上がる感覚を味わう。
ああ、目が覚めるんだな、と他人事の様に思って、目を開けた。
すると一番に目に入ってきたのは、不純物のない琥珀――。
「!?」
咲矢はがばっと体を起こした。
その気配を察した青年がひょいっと避けなければ、額同士がぶつかり、危うく大惨事になるところだった。間一髪で避けたものの、流石に驚いたのか、青年は瞬きを繰り返している。
「あー驚いた。余りに目覚めないもんだから心配して様子を見たら、何の前触れもなく起きるんだから」
それでもっていきなり起き上がるから、もう少しで大変な事になってた、と青年は嘆息しつつ不満顔。
確かに青年の驚きは分からないではなかったが、こちらは目覚めてすぐに他人の顔が至近距離にあったのと、一歩間違えれば起こったであろう額の激突に、心の臓がありえないほど早鐘を打っている。
「しかし、意外に力がある?」
青年は咲夜の肩を叩いて硬さを確かめながら思案顔だ。確かに多少は鍛えていなければ、寝た状態から予備動作無しに起き上がるのは不可能だ。
他人に身体を触られるという慣れない経験に困惑していた咲矢は、青年が首を傾げながら前髪に手を伸ばしてきたのに気付かなかった。そして、長めの髪に覆い隠されていた彼の瞳が顕になる。
「本当に今更だけど、お前は何者?……ああ、やっぱり……」
青年は咲夜の瞳を見て――あらかじめ予想はしていたのだろう――驚きもせず、納得する。咲矢は他人に秘密を暴かれてしまった嫌悪感に、とっさに青年の手を払い除けた。
静かな部屋に乾いた音は予想外に大きく響き、咲矢は動揺する。
今まで反応の乏しかった彼の過剰な反応に、青年は得たり、と頷いた。
「陽穂の民から先祖返りなんて、奇怪な事もあると思ったが……お前、陽穂と月宵の合いの子だな?しかも、月宵の血が色濃く出ている……違うか?」
咲矢は何も言わなかったが、沈黙こそが肯定だ。
咲矢の祖母はどうやら月宵の民だったようだ。
月宵の民と陽穂の民との間に大きな外見的特徴はないが、月宵の民は色鮮やかな瞳を持って生まれてくる事があるらしい。咲矢の瞳は黒に近い濃い藍色で、そうと知らなくては異相だとは気付きにくい。しかし感情が高ぶった時や明るい光を受けた時などに、紫にも深い青色にも見える不思議な色に輝く時があり、この色を見られれば命取りにないかねないと悟ってからは、前髪を長く伸ばして瞳を隠すことにした。
何故ならば、この瞳は否応なく自分の血筋の証となるからである。
「そう警戒しなくてもいい。ここでは隠す必要も無いからな。俺は見た通りかなり変わった外見をしているが、ここでは不自由した事が無いからな」
淡い茶色の髪を指で弄びつつ、含みのある口調で言う青年に咲矢ははたと思いつく。
「ここは、どこですか?」
青年は見た目の差異で不自由はしないと言ったが、陽穂において、そのような土地は存在しない。
災厄が激化したこの数百年は月宵へ病的なほど神経質になっており、少しでも周りと違う人間は苛烈な迫害の対象となった。それは月宵が姿を消し、自分たちだけが地上に残されたため、行き場のない感情が人々を狂わせた結果と言えなくもない。
遅ればせながら恐ろしい想像に至った咲矢は、青年に問う。ここはどこだ、と。
「お……頭の回転がいいようで感心、感心」
しかし真剣に尋ねた咲矢に対し、青年は破顔して手荒く髪をかき混ぜてくる。
不思議な距離感を持った男だ、と咲矢は思う。無神経かと思いきや、青年に触れられる事に困惑はあっても、嫌悪は感じない自分に、むしろ他人の気配に聡い人間なのだと知る。
そこまで考えて、見知らぬ人間にどこと分からぬ所に連れてこられたにしては、妙に冷静に状況を整理している自分に驚いた。
「何も聞かないのか?」
「聞いたら教えてくれます?」
「うーん、俺の口からはなんとも。まぁ、俺に聞くよりも《東》の方に聞いたほうが二度手間にならずにすむだろう」
「あの……二人の女の子達もそんな風に読んだり呼ばれたりしてましたよね?」
「ん?あぁ……あの二人とこれから会う人、それから本当はもう一人居て……つまり、この四人は軽々しく名前を読んだらいけない。言葉は言霊だ。彼女たちは桁外れに強い力を持っているから、真名一つで強大な呪になる」
術とは関わりのない陽穂で暮らしている咲矢には、にわかに理解しがたい答えである。
しかし男はそれ以上答えることなく、急に真剣な表情になって言った。
「これは俺からの忠告だ。お前がどう思おうと、お前の血の中には月宵の血が脈々と息づいている。少なからずお前は力を持っているはずだ。だからな、安易に言葉は使うな。軽率な言葉がお前だけでなく、多くの人間を巻き込むかもしれない」
何を大げさな、と思わないでもなかった。しかし男の妙な迫力に押されて咲矢は無言で頷いた。
それに満足そうに目を細めた男は、不意に視線を遠くに投げる。
「ああ、やっと来たみたいだ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、戸が静かに滑った。
視界に入ったのは鮮やかな朱――それが《楔》の少女達が身に纏っている衣だと気付いたのと同時に、目の前に現れた少女の白い面にある瞳の色に咲矢は言葉を失った。
咲矢が男と共に出会った二人の少女と同様に艶やかな漆黒の長い髪を背中に流しているこの少女は、しかし、先の二人にはない静かな光を黒に近い藍色の瞳に浮かべていた。
この濃い藍色は陽の光に透けたり感情が高ぶったりすると、紫や深い青色にも見える不思議な色に輝く事を咲矢は知っている。何故なら、自分も同じ瞳を持っているから。
「初めて会いました……我が同胞に」
少女の眼差しと同様に静かな声音の中には微かな感情の波があった。
耳に心地よい声だ。しかし初めて聞くはずの声に、咲矢は既視感を覚える。
「俺は……貴女を知っている?」
少女は咲矢が思わず漏らした言葉に微かな微笑みを浮かべた。