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和那ノ国物語  作者: 今日子
第一部
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第一章

咲矢はまどろみから覚め、二、三度瞬きを繰り返す。随分昔の夢を見たせいで、一瞬時間がつかめなかった。

 おばば――祖母の足元にまとわりついていた幼子は自分だ。そして誰よりも祖母が好きだった自分も同時に思い出す。

(今思えば……あの人は想像以上の苦労をしてきたのだろう)

 この地は和那と呼ばれる国だ。しかしこの大きな国は遥か昔に国産みの神達によって、さらに二つの国に分けられた。彼が暮らしている国を陽穂(はるひな)、そしてもう片方の国を月宵(つくよ)と呼ぶ。

 この世界が安定を欠くようになってから――しかし、それがどれくらい昔なのかはもう誰にも分からないが――二国の国交は断絶してしまっていた。それ以前から二国の関係は険悪なものだったが、さすがに今ほどではなかっただろう。

 それぞれの国の国祖は兄妹神であると言われているのに、だ。

 月が消えてから天都(あまつ)国と地上とを繋ぐ大樹は長い時間をかけて徐々に朽ち、ここ数百年は国は端から崩れ、各所で深刻な天災が起こっている。

 亡くなった祖母によると、古くからあらゆる術を行使していた月宵の民はそれらの天災を引き起こしたのだとどこからともなく囁かれ、暴走した陽穂の民によって狩られてしまった。狩りの狂気に晒され大幅に数を減らした彼らは自らと月宵の国そのものを《異層》に移し、以降和那の国から月宵の地は消え去り、今ではその地がどこにあったのかさえさだかではない。

 天災を食い止めるために月宵の民の力が必要だと気付いた時にはすでに遅く、それから世界は緩慢に滅びの道を辿っている。

 二国の決定的な断絶にまつわる凄惨な歴史はあまりに大きな喪失と苦い悔恨によって、口に出すことさえ嫌悪されている。それだけでなく月宵を連想させる文字を使うことさえ避けられてきた。確かに様々な書物に書いてあった狩りの様子は、月宵の民は鬼だと記しながらもどちらが人外の所業か問いたくなるほどに惨たらしいものだったようだ。

 屋敷の奥深くに囚われ人の様に閉じ込められていた祖母。

 多くを知り、異常な勘の良さを見せていた人。

 今にして思えば、一族達の祖母に対する態度の多くに理由を付けられる。

 《異層》へと移った国からどういう経緯があってこの国に辿りついたのか今となっては知ることもできないが、彼女は月宵の民だったのだ。それは咲矢自身の名前からもはっきりと分かる。唯一祖母がつけたという自身の名、おそらくは朔夜という名に別の文字をあてたのだろう。

 それは異国の地で故国の全てを否定された祖母のさりげない、自分は月宵の民だという主張だったのだろうか。

 咲矢は手早く衣を身に着けると、自分の部屋から静かに抜け出した。日の出前で外は薄暗かったが、宮へ行くには早い時間とは言えない。

 陽穂の各地に置かれている宮はあらゆる役割を担っている。

 医療院が一角にはあり、各教育機関、政に関わる部署もその中にはある。しかし宮という名からして神殿の役割が最も大きいだろう。

 咲矢は神殿の地下にある膨大な書物を読み解き、それを整理するというおそらく咲矢が生きているうちに終わらないであろう仕事に従事している。各所の宮でここ数百年同様の作業が行われているが、全ての書物を整理し終えた宮は存在しない。なにしろ古代から伝わった解読の難しい書物に加えて、専門の技術者にさえ理解しがたい専門書が数多くあるだけでなく、日々書物は増えることがあっても減ることはありえないからだ。

 この辺りでは有力な一族の人間である自分がその様な作業に従事していることに対して、一族の多くが未だに反対しているものの、咲矢自身はおおいに満足していた。

 確かに地位も富も満足に得られる仕事ではない。実際にあまりに希望する人間がいないため、前任の責任者が退いてからは咲矢がほとんどの作業を担っていた。しかし成人して間もないたった15の自分に仕事を任せられているのは嬉しいことだ。

 亡くなった祖母の影響で物心つくまえから書物に慣れ親しんでいた咲矢にとって、神殿の地下で書物の匂いに囲まれながら文字を読み解く行為は昔から理想としていた生活だ。さらにあらゆる専門書は普通では触ることも出来ないほど貴重なものも多く、自分の知識欲をおおいに満たしてくれる。

 時々他人に変わっていると言われることがあるが、自身の異常さについて咲矢は薄々気付いていた。

 彼には幼い頃から病的と言ってもいいくらいの知への渇望があった。欲求などと生易しいものではない。むしろ知らなくてはならない、という強迫観念だ。思えばこの強迫観念も、祖母が亡くなってからよけいに酷くなったように思う。

 咲矢は神殿の前に立つと、静かに戸を滑らせた。日が出るより前から人が出入りする神殿は、案の定彼の侵入を拒まなかった。小さく漏れ出る蝋燭の光を目にして、咲矢は頬を緩める。特別信仰心が強い訳ではなかったが、神殿に灯されている灯りの炎は彼をほっとさせる。

 決して明々と燃えているのではなく闇をそっと照らす優しさは、まるで祖母の話から想像するしかできない月というものを髣髴させるかのようで―――。

 咲矢は微かな灯りに照らされて、二つの小柄な影が座っていることに気付いた。

「誰?」

 高く澄んだ声だった。咲矢の存在に気付いてこちらに視線を寄こす華奢な二つの影は、彼とあまり年の変わらないと思われる少女達だと分かる。

 しかし尋ねた声は少女のものでありながら、老成した深みが感じられた。視覚と聴覚が感じる差異に違和感を感じた咲矢だったが、近づくにつれ鮮明になる少女達の姿に疑問は氷解する。

 二人の少女が纏っていたのは目に鮮やかな緋色の衣だった。それを着用するのは《楔》と呼ばれる者達だけである。

 《楔》とは文字通り滅びゆく大地を繋ぎとめるための楔だ。誰によってどのように選ばれるのかは不明だが、霊力の高い十代半ばの少女たちが肉体の時間を止められ、《楔》としての役割が課せられる。神殿に管理される彼女達は大樹にその力を注ぎ続け、世界の崩壊を緩和している。そのため彼女達の年齢を外見から推し量るのは難しい。

 あまりに残酷な所業だと、知った当初は咲矢も思った。しかしその一方で、神殿に繋がれることで彼女達の安全は保障されている。

 大地の崩壊が激化してから陽穂の民は月宵の民に神経質になっている。そこには憎悪と後ろめたさ、それ以外の雑多な感情がある。行き場のないそれらは月宵を髣髴とさせるもの全てに向かい、特にかの民と同様に力を持った人達への苛烈な迫害をもたらした。

 それらのことをつらつらと考えていた咲矢は、問いを発した少女の片割れが苛々と剣呑な雰囲気を纏いつつあることに気付けなかった。

「早く答える、このうすのろが」

 少女の口から発せられるにはあまりに不釣り合いな言葉に、咲矢の意識はすぐさま現実に引き戻された。聞き間違いか、と少女の方を向く。しかし……。

「聞こえないのか。それとも頭が足りないのか」

 ……聞き間違いではなかった。

 美しい顔に険のある表情を浮かべて咲矢を罵倒したのだ。少女の外見とのあまりの落差に咲矢は声を失ってしまった。しかしそれが余計に少女の機嫌を損ねてしまったらしい。

「阿呆面が余計に阿呆に見えては本当に救いようがない」

 一息に “阿呆”を二回も言った!

 ここまで突き抜けているとある意味感動してしまう自分はおかしいのだろうか。

 すると初めに咲矢に尋ねた少女が柔らかな声音で、傍らの少女を諌める。

「《南》の。そんな言い方をされたら答えられるものも答えられなくなるよ。ねぇ、香来?」

「まぁ、お(ひい)さんは常にだいたいこんな感じだから、今更どうにもならないだろう」

「その呼び方を改めろと何度言っても聞かない奴だな。この、鳥頭め」

 いきなり背後から聞こえた男の飄々とした声に、咲矢は驚いて振り返った。

 いくら目の前の少女達に気をとられていたからといって、他人の気配に神経質になりがちな自分が、ここまで近づかれるまで気付かなかった事が信じられない。

 余りの驚きに心の臓が口から飛び出そうだ。軽やかに言葉の応酬をする三人を気にする余裕も無い。

 初めて周りから何を考えているか分からないと指摘される、自分の乏しい表情に感謝した。そうでなくては今頃驚愕のあまり、間抜け面を晒していただろうから。

「しかしお前がここまで他人を近づかれるまで出て来ないとは、珍しい事もあるじゃないか。それとも分かっていて黙っていたとか愉快な事を言いはしないだろうな?」

「いや、全くもってその通りいうか。この少年に興味があったからさ」

 青年は険悪な――いや、それを通り越して殺気と言っても過言ではない――空気を発している少女の言葉をさらりと躱し、咲矢を覗き込む。他人との近い距離に不慣れな彼はとっさに距離を空けたが、男はさらに距離を詰めてきた。

 すると神殿の微かな灯の中で男の顔が鮮明になる。

 全体的に男の色味は極端に薄い。陽穂の民は黒髪黒眼だが、男の蝋燭に透けて見える髪は薄い茶色で、眼は不純物のない琥珀の様な色をしている。

 まじまじと男を見ている咲矢同様、咲矢を凝視していた青年の顔に次第に驚きが広がってゆく。

「嘘だろ……。お姫さん、この少年、《東》の方と同じ《気》を持っている」

「だからその呼び方は止めろと何度も言って……何?」

 苛々と男に言い募ろうとしていた少女は、しかし男の言葉の意味を理解すると、凄い勢いで振り返った。すると咲矢に膝で咲矢との距離を詰めて、険の消えた真剣な表情で咲矢を見上げてくる。

(ち、近い……!!)

 他人との近い距離に不慣れな咲矢は、それ以上に異性との近距離は未知と言っても過言ではない。

(まさか、この無表情を一日に二回も感謝する日が来るなんて……)

 おそらく自分が表情豊かな人間だったら派手に赤面していただろう、と思う咲矢だ。

 咲矢を無遠慮に見上げてくる少女は改めて見ると、驚くほど美しい。漆黒の髪は少女の背中から床へと流れ、見事な艶やかな流れを作っている。一見儚そうに見える少女だが、漆黒の髪との対比が鮮やかな白い面にある瞳がその印象を裏切っていた。

 苛烈、と言っても過言ではないほどの強い視線。視線で人を殺せると言うならば、彼女は見る人全てを刺し貫いているだろう。

「これは……どういうことだ?」

「な?不思議だろう。《東》の方に裔がいたなんて、聞いた事もないんだけど」

「ありえないよ。私達は単純に血では伝えられない。だから今では残っているのは、私と《東》の二人だけ」

 今まで黙っていたもう一人の少女が口を開く。そこで咲矢は改めてこの少女を眺めた。

 艶やかな漆黒の髪と白い面という鮮烈な色味は、この二人に共通した特徴のようだ。

 しかしこの二人は醸し出す雰囲気が決定的に異なっていた。

 苛烈な炎の様な少女に対して、この少女は柔和な雰囲気を持っている。瞳に映るのは憂いと、そして深い慈愛だった。咲矢は彼女の瞳を見た瞬間この神殿の灯を、そして想像するしか出来ない月を思い出していた。

「私と《東》のは《伝える者》と呼ばれていた古代人の先祖返りだよ。言い換えれば、血の中に少しでも因子があるのなら、誰にでも現れる」

 《伝える者》という聞き覚えのある言葉を、咲矢は記憶の中から探し出す。そう、それは古い歴史書の中で見たのだ。

 俄かには信じがたい事が多く書かれた書物だったが、非常に興味深い事も多くあったので、よく覚えている。一度思い出してみれば、表紙まで鮮明に思い描く事が出来た。

 《伝える者》とは、まだ神々が地上にいたとされる頃に生きていた古代人の一族の一つだ。驚く程長寿で、不可思議な力を持っていたと言われることから、月宵の民の先祖だと考えられている一族だ。

「とりあえず、この人を《東》の所に連れて行けばいい。同じ《伝える者》とは言っても、私が伝えるのは《力》、《東》のが伝えるのは《記憶》。多少性質が違うから、私でははっきりとは分からない」

 厳しい顔で黙り込んでいた少女はその言葉に渋々頷き、無言で咲矢の腕を引っ張る。小柄な姿からは想像出来ない力だ。

「では、行くぞ」

 すると少女は空いた方の手で虚空に何かを描く動作をし、二本の指で宙を横に払う。するとその部分の空間が裂け、光さえも吸収する深い闇が現れた。

 少女は咲矢の腕を引っ張ったまま躊躇いなく闇に向かって歩を進めようとするので、自失から覚めた彼は軽く少女の手を振り払った。

「………」

 途端、少女は心底迷惑そうな顔をする。

「なんだ、このうすのろ」

「うすのろじゃなくて……いや、それは今はどうでもいいんだ。俺をどうするつもり?」

「煩い。……香来」

「はい、はい。じゃ、ごめんね?少年」

 何が、と咲矢は尋ねる事が出来なかった。無造作に距離を詰めた青年の拳が、彼の鳩尾にめり込んでいたからだ。

 余りの鮮やかな手際に、咲矢は呻き声を上げることすら出来ずに、視界を暗転させる。

 青年は崩れ落ちる体を支えると、細身の肢体に似合わず軽々と肩に担ぎ上げた。

「ごめんねー、お姫さんの命令だから、俺みたいな愚民は逆らえなくてー」

「煩い、寝ても覚めても口の減らない男だな」

 まずは咲矢を担いだ青年が、大きく口を開けた空間に滑り込む。続いて青年を罵倒する少女が、最後に柔和な少女と続く。

 すると闇は何事もなかった様に口を閉じ、いつもと変わらない静寂が神殿の中に横たわっていたのだった――。

 



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