序章
「ねぇ、おばば。どうして世界はぐらぐらしてるの?」
「ぐらぐら?」
まだあどけない幼子の問いに、老女は穏やかに返す。
「そう、ぐらぐら。う……んとね、あっちこっちがちゃんとしてないの。だからぐらぐらして気持ち悪くて、みんな不安なの。……分かる?」
本人の気質かそれとも幼子特有の鋭さなのか、人々の中に常にある苛立ちの理由を言葉足りないながら、必死に言い募る。理由の分からない不安、閉塞感に心がささくれだち、空回りするしかない世界の混沌の根源を幼子は突いてみせた。
老女の中に誇らしさと同時に、この子供の成長を見守れない己が身体の不甲斐なさに悔しさが募る。
(この子は賢い。そして私の血を真に継いだ、ただ一人の子供)
自身の身体に流れる血は決して知られてはならないもの。しかし自分がいなくなった後、この子供はただ一人でその運命に立ち向かわなくてはならない。
どうか、あと少しだけ時間を下さい、と祈る。せめてこの子供がこの血の真実を理解するまでは。しかしそれが儚い願いであることは、老女自身が一番分かっていた。
だから老女は、知られてはならない真実、だがこの子が知らなくてはならない真実を話の中に隠し伝える。いつかこの子供が真実と直面した時に少しでも助けになるよう、祈りながら。
「世界がぐらぐら……そうだね、それは月が隠れておしまいになったからだよ」
「……月?月ってなに?」
「ほら。見てごらん」
老女はそう言って夜空を指さした。
「ずっと昔には、夜になると月っていうものが空にうかんでいたんだよ。昼間の太陽よりももっと優しい光で闇夜を照らす……一月かけて満ち欠けを繰り返す、太陽神の妹神である月の女神の権化だよ。この陽穂の国は太陽神の裔の皇君が治めていらっしゃるだろう?もう一つの国、月宵の国もね、月の女神の裔の姫様が治めていらっしゃったんだ。けれどね、今ではもう最後の国主となってしまわれた姫君はずっと昔に隠れておしまいになった。それから月もどこかへ消えてしまった。大事なものが欠けてしまった世界はそれからいつも不安定で、お前が言っている様にぐらぐらしているんだ」
老女の答えに、幼子には難しすぎたのだろう、眉間に皺をよせながら頷いている。
(今は分からなくていいよ。でもね、分かるようになってから自分でこの意味を考えなくてはならないんだ)