第五章
ルナスサは誰よりも早く、春菜の変化に気づいた。今までも、愚痴一つこぼさす、訓練に取り組んでいた。だが、その中にも無理はしない、という建設的な春菜らしい考え方を感じる事ができた。
だが、今はガムシャラで、目には鋭いものがあった。昼の休憩も、角で座っているだけではない。伸びきったゴムを集め縄跳びを作り、体力づくりをしていた。それは、不恰好で見るからに飛びにくそうだった。
「春菜それは何ですか?」
「縄跳びです。手作りなので、縄跳びと言ったら、本物に怒られるでしょうか?」
春菜は苦笑した。ルナスサに話しかけられると、春菜の表情は少し柔らかくなる。
「縄跳びとは、何ですか?」
「えーと、縄の上を飛ぶというか、跳ねる遊びでしょうか。持久力をつけるのにいいんです」
「なぜ、その縄跳びをすることにしたのですか」
春菜は即答しなかった。縄跳びを続ける。ゴムの不規則に回る音が、二人の間に広がる。
「……私、甘えていた、と思ったんです。ここに来て、皆が私という存在を認めてくれて……でも、現状で私の能力がシーワンでどれほどの役に立つか考えると、ただの足手まといにしかならないじゃないですか。それでも、なおかつ、シーワンという組織が、私の存在を認めてくれるのなら、私はもっと努力しなくてはいけない」
「春菜……」
ルナスサは、一度目を伏せた。
「春菜は恒星と惑星を知っていますか。私の一族が拝している太陽は、恒星です。自ら光を放つ。それに対し、惑星は太陽の光を反射して光を放ちます。どちらも、美しく光輝く事ができます。でも、役割が違います。春菜には春菜の役割があります」
春菜の額から一筋の汗が落ちた。
「ありがとうございます。でも、今できることを精一杯する事が、私のためになると信じているんです」
「わかりました。では、私と組み手もやりましょうか?」
「組み手?」
「そうです。春菜は自衛の技術がまだまだですからね。お手伝いしても良いですか?」
「良いの?」
春菜の目は輝いた。春菜自身、格闘技の心得が全くない事に不安を感じていたからだ。危険に出会ったとき、ただ、守られるだけの存在でいたくなかった。
「もちろんです。それに、春菜が縄跳びというのをやっている姿を見ているより、私にとっても、有意義ですから」
ルナスサは、ゆっくり立ち上がりながら言った。
「構えを大切にしない人がいますが、それはいけません。構えで相手の力量はわかりますからね」
ルナスサは、胸の辺りで手を一度合わせた。そして、空気を吐き出すように、広げる。右手を前方に、左手を後方に動かす。それとともに、重心が下がって行く。
それは、ゆっくりだが、空気が振動しているのを感じる。春菜は、縄跳びをやめざるを得なかった。
「すごい」
春菜は動けなくなる自分に気づいた。
「構えをし、最初にだす一手が全てを決めるといっても良いでしょう。ですが、大抵の場合は、真正面から対峙することはないですけどね。基本からしっかりやりましょう」
ルナスサが笑顔になる。すると、緊張の波は一気に消えた。
「さあ春菜、はじめましょう」
「はい」
こうして、春菜の休憩時間の日課は、縄跳びと、ルナスサとの組み手になった。
ルナスサは春菜に毎日言った。
「春菜は、一日、一日、成長していますよ」
ルナスサは、春菜が心にあるぽっかり空いた穴の存在に気づいた。それを埋めるように、春菜は無理をしようとする。
なぜだろう?ルナスサにはわからない。
ただ、ルナスサは春菜を助けたいと思った。不器用な生き方をする春菜に、ルナスサは一日一日、惹かれていくのだった。
白い天井、白い壁、白い机、白に溶け込む様に、ネージュは机に向っていた。
ポログラフィーには、論文が映し出され、ネージュはゲームを楽しむ子供のような表情で、それを真剣に読んでいた。
トントン。
ノックの音が響く。ネージュは視線を動かさずに、応えた。
「開いている」
部屋に入ってきたのは、サイレスだった。
「また、あの論文を読んでいるのですか?」
サイレスは、苦笑交じりに言う。
「よく分かるな」
ネージュは顔を上げず応える。
「ネージュ様の表情を見ていればわかりますよ」
「そうか?スチュワード・クリフ、政府軍総司令官の一人息子が19歳の時に書いた論文……これを読んだ時は、驚いた。良く分析したことだ。推量も含まれているが、なぜそこが推量にならざるを得ないか、はっきり述べられている。実に明快な論文だ。だが、この論文が政府方針を動かすことはなかった。というか、無視されていた。この論文の件が再度話題に上ったのは、彼の少佐昇進を論議する場でだ。もちろん、負の判断材料だがね。軍でこれだけ、我々の事を認識している者がいるというのは、やはり世の中が上手く作られているということだろうか?」
「スチュワード・クリフは無事少佐になったようですね。軍のタブー政府見解に反論して昇進というのは、どのように捕らえるべきでしょう。どちらにしても、彼の場合は、父親の力でしょうが」
「現段階ではこの論文が、無視され続けているが、彼は間違いなく幹部になるだろう。その時には見逃してくれないだろうな。だが、その時まで、待つ必要はないな」
ネージュは顔を上げた。
シーワンでは、コンピューターで管理された情報は、どんなに機密情報でも手に入れる事ができる。クリフはそれをよく承知していた。そのため、GD調査団についてのデータは一切コンピューター上に載せていない。発表についても、極めて異例の書面で行なっている。更に口外を禁止し、違反者には厳しい処分を与える旨を同時に公表した。
チャットや掲示板にそれらしきものが入力されようとした段階で、ウイルスを流す体制をとり、パソコンそのものを破壊した。この辺りの過激な対処は、クリフとレイが個人的に行なったものである。
そのため、ネージュのもとにクリフがGD調査団の情報は全く届いていなかった。
「組織編制の準備は順調か?」
「はい。明日、一斉発表・通知を行ないます」
「第一から第三部隊の各小隊に最低一人は第四部隊経験者を入れたい。そのためには、これから定期的に部隊間移動を行ないたい」
「そうですね。どの部隊でも応急処置は必須ですが、浸透しているとはいえません。変化に対応する能力を身につけるためにも、良いと思います」
「それにしても、気になるんだよなあ」
「スチュワード・クリフのことですか?」
「ああ。喉の奥に何か刺さっているような、すっきりしない感じに似ている」
「その割には嬉しそうな、表情に見えますが……」
「そうか……?」
「ええ、好敵手の出現を喜んでいるようにも思われます。不謹慎ですが……」
「本当に不謹慎だな。彼が、話の分かる人物であることを願っているんだ。結局、この争いでは、必ず人の命が奪われるのだから……」
「どんなに美辞麗句を並べても、正当化されるものではないかもしれません。ですが、誰かが、行なわなければ、状況は永遠に変わらないのです。 ネージュ様は、犠牲を最小限にする努力を怠らないでしょう。ですから、私はネージュ様の見方ですし、ネージュ様の見方を増やす為に惜しむものは何もありません」
「私が、私を信じられなくなったら、終わりだからな」
ネージュに迷いはなかった。自分のやるべきことは、全て分かっている。だからこそ、その瞳に激しい炎が宿り、人を惹きつける事ができるのだ。
サイレスもまた、自分の役割を迷うことはない。だが、他人である以上、100%の意思疎通が不可能である。そこに、多少の不安があった。
翌日の、組織編制は大々的なものだった。春菜は第四部隊第1小隊へ異動となった。
トモは第三部隊で中隊長になる事が決まった。カタリーナとティファは第二部隊へ異動。アリスとユキ、そしてルナスサは第三部隊に残る。
「トモ小隊長、いえ、中隊長おめでとうございます」
部屋に戻ると、まず皆はトモを迎えた。さすがのトモも照れていた。
「皆、ありがとう。この部屋の皆も、来週からバラバラになる。寂しく感じる者もいるかもしれない。だが、忘れないで欲しい。
私たちがシーワンの一員であることになんら変わりはない。
私は中隊長として、同じ目標に向って、与えられた役割を精一杯する。皆にもそうできるよう環境を整えるよう努力する。頼りない中隊長かもしれないが、皆、これからも、よろしく頼む」
部屋が割れんばかりの拍手に包まれる。春菜も手が真っ赤になるまで手を叩いた。シーワンに入ってから、一番お世話になったのが、トモだろう。そのトモと別れると思うと、寂しさがこみ上げてくるのは仕方がなかった。
「トモ中隊長。お世話になりました。そして、これからもよろしくお願いします」
「春菜は、第四部隊だったな」
「はい」
「とても重要な部隊だ。春菜には向いているかもしれない。頑張るんだぞ」
「はい」
トモは、優しく春菜に話しかけた。春菜一人がトモを独占することはできない。春菜は頭を下げて後ろに下がった。
ユキが話しかけてきた。
「春菜も動くんだよね」
「こういう編成ってよくあるんですか?」
「よくはないよ。でもやっぱり、部隊ごとに仕事が違うから、合う合わないがでてくるじゃん。それについての異動はよくあるね」
カタリーナが近づいてきた。
「春菜は癒し系だから、第四部隊はピッタリかもな」
「まあ、お互い頑張りましょう」
「そうだな。自分の為、シーワンのために」
正式に異動が開始されるのは、一週間後だが、中隊長、小隊長は引継ぎがあるため、忙しかった。
「春菜と部隊が分かれてしまうなんて、残念です」
春菜とルナスサは、いつものように組み手をしていた。春菜の動きは左右に加え、上下の動きも俊敏さを増してきた。
「本当に……。休憩時間が合えば良いのだけど……」
ルナスサの呼吸は全く乱れていない。それに対し、春菜の息はあがっている。
「第四部隊は、食堂の管理がありますからね。ローテーションで休憩を取ります」
「でも、私……自分からこの時間に休憩にしてください。なんて、我ままいえませんから……運に任せるしかないですね」
「怒っていますか?春菜」
「怒ってませんよ。なんで、怒るんですか。だって、前線部隊より後方部隊のほうが、私に向いています。ただ……」
「ただ?何ですか?」
「ただ、何と言うのかしら……不安なだけです。期待もあるのですが……新しいことを始める時って、いつも複雑な気持ちになるんです」
「春菜は、考えすぎですよ」
「そうですね……。考えても仕方ないことの方が、多いんですけどね。持って生まれた性分というか、癖ですね」
カーン。カーン。
二人はゆっくりと動きを止めた。春菜は額の汗を拭った。大きな滴が、地に落ちる。
「春菜、行きましょうか」
「はい」
二人は教室に向った。
春菜は第四部隊の第三隊に決まった。運良く、休憩時間は一時から二時で変わらなかった。
第四部隊は訓練が少人数制で、第三部隊とは全く違う形でハードだった。第三部隊では、実際の戦闘に備えた訓練であった。だが、第四部隊の医療・補給という任務は、実践と隣りあわせだった。朝昼晩の食事の準備、片付け。安全衛生に関すること、全てを第四部隊がフォローする。
莫大な知識を必要とされ、作業と作業の合間に叩き込むように授業が組んであった。
第四部隊の皆は、いつも走っている。春菜も、いつもつんのめる様に走っていた。考える余裕のない忙しさである。だが、そこには気持ちのよい爽快感があった。
周りを見渡せば、皆の表情も穏やかだ。
「春菜。疲れていますか?」
ルナスサは春菜に聞いた。
「疲れた顔してますか?」
春菜は右手を鋭く出しながら、穏やかな表情を浮かべていた。
「いいえ。充実しているようですね」
「はい。体がこんなに動くなんて……嘘みたいです。病は気からって言うけど、なるほどです。私にとって、最もよい環境というのは、頭と身体がフル回転することなんです。どっちか一方だと、中途半端で疲れを感じてしまう。バランスが大切なんです」
春菜の足が風のように、ルナスサの膝に向った。それは、ルナスサが受身を取るより一瞬早く、到達する。ルナスサは、バランスを崩し倒れそうになるが、さすが達人。その反動を活かして、春菜に一撃を試みた。春菜は、瞬時にそれを見分け、後方に下がった。
「春菜、上達しましたね」
ルナスサの表情は柔らかく、満足そうである。
「ルナスサのバランスが崩れたの初めてですね」
春菜は、自慢げに言った。
フラッ。
春菜はよろめいた。驚いて、壁にもたれかかる。
「アレレ……」
ルナスサは、すぐに春菜の脈を取り、額に手を当てた。
「脈が速いですね。熱は、大丈夫でしょう。一気に集中力が増したために、貧血状態に鳴ったのでしょう。休憩はもう少しあります。休みましょうか」
春菜は目の前が軽く暗転するのを感じた。たいした事はない。
急に立った時、ふらふらする事がたまにあるだろう。その程度だ。
だが今日は、成果もあった。春菜は、無理をしないことにして、座った。
春菜は、充実していた。
シーワンの中で、一日に移動する距離が最も長いのは、サイレスだ。もしかしたら、ドーム内で最も長いかもしれない。
ネージュとサイレスが実際に会う事は、一週間に一度程だ。二人は互いの意志が共通の目標に起因し、共通の行動を導き出す確固たる自信があった。
だから、ネージュは迷わない。
いつ自分がこの世界から追い出されても、シーワンだけは守り抜く。
ネージュはベッドに横になり、点滴を受けていた。点滴は、ゆっくりと時間を食いつぶす。ネージュはこの時間が嫌いだった。点滴より、時間的に早い治療方法はいくらでもあるが、一番副作用の少ない方法がこれだったのだ。
最後の一滴が体内に入ると、ネージュはむしりとる様に、針を抜いた。
「まあ、乱暴ですね」
切れ長の目に、メガネをかけた女性は、子供のいたずらをみつめる、母親のような瞳で、ネージュを見た。
「これをしていると、静か過ぎて反対に考えがまとまらなくなる」
「あら、ではネージュ様の唯一の弱点は、点滴ですね」
ネージュは腕枕を解き、ベッドから起き上がった。
「最近体調が良い。気のせいじゃないか?」
「はい。気のせいではありません。どのデータも落ち着いています。当分は、点滴さえしていれば大丈夫でしょう」
「そうか。良かった。こういう時、考えてしまうな。私は幸せなのか?不幸なのか?」
「それは、ネージュ様がお決めになることですね」
「そうだな。十分長生きはしているしな。シーワンも私がいなくても、十分機能するまでに、そう時間はかからないだろう。この身体のおかげで、大切なことを後回しにしないですむ。捨てる神あれば、救う神ありだな」
「そんな、自虐。ネージュ様には似合いませんよ」
「そうかな〜そうだな」
ネージュは下に向いてばかりの視線を、上に向けた。部屋を満たしつつある甘い香りに気がついた。
「良いにおいだな。すごく、懐かしい感じがする」
「アップルパイを焼いたんです」
「アップルパイ!」
ネージュは驚いた。
「そんなに驚かなくても。今日はサイレスが来るというから、アップルパイを焼いたんですよ。もうそろそろ、できる時間ですね」
ドーン。
壁に何かが衝突する音がした。
「まあ、グッドタイミング。サイレスね」
女性はドアを開けた。
サイレスはノックをしようと手を上げたところだった。手持ち無沙汰になった手を下げ、部屋に入る。
「ノーグ先生。お久しぶりでございます」
サイレスは、ノーグに頭を下げた。優美な動きである。
「よろしい。さすが私が教えただけはあるわね。さあ、中に入りなさい」
「失礼します」
サイレスはネージュのもとに行った。
「調子はいかがですか?」
「ああ、調子が良い。当分問題ないだろう」
「そうですか。よかった」
サイレスは穏やかに微笑むと、ノーグの方を向いた。
「ケーキをお焼きになったのですか?」
「アップルパイを焼いたの。サイレスお茶を淹れて貰って良いかしら?」
「はい」
サイレスはノーグについて部屋を出る前にネージュに声を掛けた。
「少しお待ちいただいてよろしいですか?」
「ああ、もちろんだ」
ノーグは生まれも育ちもGDだが、その生活スタイルはGA階級に勝るとも劣らない。GA特別特許地区以来の研究者の一族である。それも、ノーグは最後の末裔であった。放射能汚染は遺伝子に深く潜り込み、寿命と生殖能力を何世代にも渡って奪い続けたのだった。
10分ほどすると、ノーグとサイレスは戻ってきた。ノーグは出来立てのアップルパイを抱えていた。サイレスの持つお盆の上には、ポットとコップ、お皿が見える。
ネージュは居心地悪そうに、椅子に座っていた。
「ネージュ様は良いのですよ。そんな挙動不審な態度、外でしていないでしょうね」
ネージュは微笑むしかなかった。ただ、その表情に卑屈なモノはない。
「さーて、準備が出来たところで、私はお暇しましょう」
「ノーグ先生!」
サイレスは、三つ目のコップを持ったところだった。
「ネージュ様がいる間、ここを離れられなかったでしょ。サイレスが来てくれた事だし、少し出かけてくるわ。ネージュ様。よろしいですか」
「ああ、もちろん」
「では、失礼します」
ノーグは、部屋を出て行った。
「気を使う方だな」
「はい」
ネージュはアップルパイを口に運んだ。仄かな甘さとリンゴの食感が心地よく、口に広がる。紅茶を飲むと、絶妙に喉に溢れた。
「おいしい」
ネージュは素直な感想を述べる。サイレスは、穏やかに頷いた。
「私はノーグ先生にお茶の入れ方を教わりました。忙しい中に、心休める方法を知る事が、後悔しない判断を導くのだ。と」
「そうだな。でも、その割りサイレスは私の心休める時間を奪うな。私はサイレスと心を砕いて話をするのが、一番大切だと思っているのだが」
「すみません。私の我ままです」
「分かっているさ。私もそんなことでは負けない。さて、今日はサイレスにお願いがある」
部屋に広がっていた穏やかな空気に、緊張が走った。
「私は春菜を気に入っている」
「……」
「だが、彼女は決定的に経験が足りない。GDの事など、何も知りはしない」
「……」
「そこで、だ。春菜を青藍への使者にしたい」
ネージュはサイレスを真っ直ぐ見た。サイレスはネージュの瞳を見て、頷く。
「まだ、早いという気もしますが、いつがちょうど良いともいえませんし、反対はしません」
「星輝なら春菜がGDの人間じゃないと知っても、問題ないだろう」
「一つよろしいですか?」
「何だ」
「確認したいのですが、春菜のどこに魅力を感じていらっしゃるのですか?シーワンに人材は多いですが……」
「ルナスサが信じたところ」
「……」
「そして、あの適応能力。サイレスを追いかけて、シーワンに突然入ったにもかかわらず、全く根を上げる様子もない。
会って、春菜が恐ろしく冷静な子だと分かった。目を見たときは、死んでるんじゃないかと思ったよ。
何でシーワンにいるのか、偶然が重なった出来事だが……まあ、考えても仕方ないな」
「不思議なのは、家族に対して強い愛情を持っている割に、行動にそれがでないところですね」
「親離れが、適切な形で出来ていたのだろう。大切にすることと、依存することは、行動に表した時、同じような表現になることはあっても、全く違うだろ」
「なるほど」
「春菜が青藍に行く時は、上を通って行くようにしてくれ。下を通ってしまっては、意味がない」
「上は、荒地で暴獣がでます。それに、下に比べて、3倍は時間が掛かりますが」
暴獣はGDに捨てられた人に害を及ぼす動物のことである。遺伝子組み換えにより誕生したキメラも含まれている。
「サイレスならともかく、春菜にとっては、その方が勉強になるだろう。下で安全な道を使う方が、無意味な時間を過ごすことになるさ。だが、サイレスには申し訳ないが、初めて行く時は、春菜と一緒に行って欲しい」
「分かりました」
「一回だけでいい。その後は、ルナスサと、アチェリの3人で行ってもらう」
「アチェリは今任務でシーワンを離れていますが」
「そろそろ帰ってくる頃だろう。一回目は間に合わないだろうから、ルナスサと3人で行ってくれ」
「はい。承知しました」
「暴獣もいることだし、十分に気をつけてくれよさて、次だが……」
二人は、テキパキと打ち合わせを続けた。本気のキャッチボールを見るように、速く、重く、確実に、会話をする。
春菜は走っていた。一緒に走っているのは、同じ隊で同じ部屋のジュリとドンウである。シーワンでは、走るな。と言われる事はない。なぜなら、走ることで人とぶつかる未熟者はいないし、無駄な音をたてる者もいないからだ。動きに無駄はなく、サバンナを駆ける野生動物のようだ。
春菜にもその動きは、しっかり身についていた。
「春菜」
その呼びかけに、春菜は寸分違わぬ機敏さで振り向いた。
「はい。ソウタ小隊長」
「サエコ指揮官がお呼びだ」
春菜は驚いた。ジュリとドンウも驚いた。隊の性質として上下関係が非常に厳しい。指揮官が、一兵卒である春菜を名指しで呼ぶというのは皆無に等しいことだった。
ネージュは、割とどこにでも現れ、誰とでも親しく話す。食事をともにすることもある。ネージュの場合は、シーワンの指導者であり、象徴というべき存在で、役割がまた異なるのだ。
「今ですか?今から、また訓練があるのですが……」
「何、寝ぼけたこと言っているんだ。そんなことは分かっている。指揮官がお呼びなんだ。後で、補講する」
ソウタは生真面目で、口調は厳しくなる事が多い。それでも皆が、ソウタに信頼を寄せているのは、自分にすごく厳しく、他人に厳しく、を実践しているからだ。
「はい」
春菜は、とりあえずジュリとドンウに「よろしく」と言って、ソウタについて行った。
ソウタは指揮官室の前で停まり、ノックをした。中から入るように、と声がする。
「失礼します」
ソウタに続いて、春菜も部屋に入る。部屋は薄暗く、部屋に唯一ある机は、机というより、少し大きめの作業台のようだった。
「春菜を連れてきました」
「ソウタ小隊長、ありがとう」
ルナスサには及ばないが、大柄の女性である。髪は短く刈っており、表情に優しさがなかったら、近づきがたい雰囲気だっただろう。
「では、私はこれで失礼します」
ソウタは、キビキビとした動きで、部屋から出て行った。
「春菜と直接話すのは、初めてだね」
「はい」
「そんなに緊張しなくていいよ」
サエコは苦笑した。頬にえくぼが浮かぶ。
「まあ、さっそくだけど、春菜は直属部隊に異動だ」
「……直属部隊!」
春菜の表情が歪む。あまりに思いも寄らないことで、どう反応して良いか、迷った。
「そうだ。まあ、春菜の任務は、2,3ヶ月に一週間ほどだから、第四部隊の訓練は平行して行なえる」
「?」
「特殊部隊は、ネージュ様から直接任務を与えられた者の総称なんだ」
春菜は黙って聞いているだけだった。それを見て、サエコは苦笑する。
「ここに来てから、何も聞かないのだな。貴方自身のことではないのか。受身ではダメだ」
サエコの鋭い声が、春菜に届く。
「はい。すみません」
「はい。すみません?その言葉で、貴方が得られた情報は何だ?」
春菜は当惑していた。シーワンの組織について、まだ完全に理解しておらず、また理解する努力を怠っていたことを改めて、思い知らされる。
「私の任務は何でしょうか?」
「声が小さい。目上の者に対する礼儀が感じられない。何より、優美でない。やり直し」
サエコは真剣だった。
春菜は、深呼吸をした。
「私の任務を教えてください」
春菜はサエコの目を真っ直ぐ見た。逸らす気配を全く感じさせない。堂々たる姿勢である。
声は、朗々と響いた。空気は一瞬にして透明感を増し、耳に届くまで遮るものはない。
サエコは感心した。さすが、ネージュの指名だけの事はある。
「よろしい。春菜の任務は『青藍』への使者だ」
青藍……春菜は言葉を反芻する。名前はすぐに既存の情報にぶつかった。
まだ、GDに来る前、青藍の名前を耳にした事は、シーワンより遥かに多い。軍人がGDに逃走して作ったレジスタンスである。過激デモ、テロ等、社会悪の根源全てに関わっているとされている。
「ネージュ様はGDが一丸とならなければ、政府と戦うことは出来ないと考えておられる。我々と青藍のやり方は全く違うが、考え方が異なる分、蜜に連携をとっていなければならない。今まではサイレス様が、任を果たされていたが、春菜が引き継ぐことになった」
「私はシーワンに入隊してから日浅く、その様な重大な任を与えられる理由を教えてください」
「そう謙遜しなくても良い。ネージュ様より直接のご命令だ。これより一ヶ月、通常の訓練とともに使者としての礼儀を学んでもらう。また、任務については、ネージュ様より直接お話があるだろう」
「はい」
「春菜。訓練は苦しいか?」
「いいえ」
「そうか。どんな苦境に立たされても、なお、前に進もうとする姿に人は励まされる。春菜、頑張りなさい」
「はい」
春菜は頭をさげた。
心の中にモヤモヤしたものが溢れている。春菜は自分を優秀だとは思っていない。どちらかというと、小心者でいつも失敗を恐れている。
また新しい事、重要な任務を与えられたとなると、不安だった。
(私は、私のできる範囲でしか、頑張れない……)
「厳しい顔をしているな」
音楽的な、美しい声が春菜の耳に飛び込んできた。春菜は反射でその声の主を探す。
振り向くと、ネージュが微笑んでいた。
サエコは一礼した。表情が一気に明るくなった。
「サエコ指揮官。ノックもせずに勝手に入ってすまない」
「とんでもありません。ネージュ様」
「サエコ指揮官に届けるものがあってね」
ネージュはサエコに一センチほどのチップを渡した。サエコはそれを腕につけたベルトの中に滑り込ませる。
「実用には、もう少し適応範囲をあげないと難しい。私なりに改良を加えたが、サエコ指揮官に引き続き、開発を頼む」
「了解しました。全力で取り組ませていただきます」
サエコの関心がネージュの持ってきたチップに急速に向けられていった。
ネージュは微笑む。
「春菜、こっちへ」
ネージュは春菜を一室に案内した。
そこは白を基調とした部屋で、サエコの部屋とは印象がかなり異なっていた。
「座って」
春菜は、首を振る。
「いいえ、私は……」
「私は立って話すのが好きではないのだよ」
ネージュは穏やかな表情で春菜を見つめている。
「ありがとうございます」
春菜は、ネージュの指す椅子に座った。
「私に聞きたい事があるだろう」
「はい」
春菜は一呼吸置いて、尋ねた。
「どうして私を使者に選んだのですか?」
「春菜が適任だと思ったからだよ」
「私が……ですか。私は自分が過大評価されているように、感じています」
「ハハ。そうか?では、私は春菜が自分を過小評価しているように感じるな。春菜は高い資質を持っている人間だよ。それは、しっかり使わなくてはいけないね」
春菜は戸惑った。
「だが、この任務はただそれだけじゃない。もう一つ目的があるんだ」
「目的ですか?」
「そうだ。春菜はGDの事をまだ知らない。シーワンの外に出たことはないからね。GDはもともと人の住むような環境ではないし、暴獣との戦いも死活問題だ。春菜はそのどれ一つも経験していない。それでは、シーワンの一員として、あまりにも頼りないんだ。だから、今回の任務は春菜の世界を広げる為にも、必要なことなんだよ」
「私にここまで気をかけて下さり、ありがとうございます」
「一回目は、サイレス、ルナスサと一緒に行ってもらう。サイレスの使者としての態度、判断力、しっかり学びなさい。二回目からは、ルナスサとアチェリに一緒に行ってもらう。サイレスにせよ、アチェリにせよ、忙しいから、任務まで会えないが、春菜が任務を遂行する上では、なんら問題はない」
「はい」
「春菜」
「はい」
「春菜は、私をどう思う?シーワンのネージュをどう思う」
「聡明かつ、偉大な指導者と考えています」
ネージュは苦笑した。
「私は、春菜に望む事がある」
「はい」
「強く、激しく、なお聡明であれ。
春菜には、そういう生き方をして欲しい。私の我ままかもしれないけれど、願っているよ。春菜が懸命に生きてくれることを」
春菜は複雑な気持ちがした。
「すみません。一つ伺いたい事があるのですが……」
「どうぞ。何でも聞いてくれ」
「シーワンは、本当に政府と戦う、戦争を起こすのですか?」
ネージュの表情に変化はなかった。春菜の問いを予想していたようだ。
「それは、避けられないだろう」
春菜の表情が厳しさを増す。
「訓練を受けていて、これが戦争を行う為のものであると分かっています。ですが、戦争になれば死傷者が必ず出ます。本当に話し合いで解決できない問題なのでしょうか?」
「春菜は戦争がどんなものであるか、知っているのか?」
「知識だけですが……旧国家史を選択していました」
「それは珍しいな」
ドーム内に住むようになってから、戦争は起こっていない。あったのは一方的な弾圧だけだ。
「では、なぜ戦争が起こらなくなったか、分かるか?」
「政府には矛盾も欠陥もありますが、先進思想が浸透し、戦争がいかに愚かな行為であるか認識、立証された為です」
「教科書通りの答えだな。だが、それは詭弁だ。ならばなぜ、政府は軍隊を持っている。軍隊の目的は一つだ。実際、軍隊は形だけでなく、活動を行っている」
「あともう一つ、戦争の出来ない理由があります」
「何だ?」
「ここは密封状態です。戦争ではおびただしい粉塵が生じるでしょう。浄化設備がそれに対応できるのか。難しいと思います」
「そうだな。その意見の方が、現実的だ」
「ならば、話し合いによる解決の可能性はあるのではないでしょうか?」
「政府が我々の話を聞こうとすれば、それに越したことはないよ。では、こうしよう。春菜に一年あげる。その間に、政府と話し合いの糸口が少しでも見出せたら、春菜の意見に耳を傾けようじゃないか」
「一年……ですか?」
「短いと感じるだろうね。だが、青藍には多少なりとも政府とつながりがある。一年あってできないことは何年あっても、できはしないのだよ」
「分かりました。ありがとうございます」
ネージュは、可憐かつ、幼さの残る、笑顔で春菜に応えた。
翌日から部隊の訓練は、巧妙に組み替えられた。春菜はほとんどジャオイボックス(個人訓練シュミレーションマシーン)で訓練が行なわれるようになった。
ジャオイボックスは90×180×180センチの直方体で、プログラムは隊列、戦闘、救護などあらゆる実践を体験する事ができる。また、個別教育システムでは、あらゆる分野の通信教育の受講から資料検索もできる。
春菜はあまり気乗りがしなかった。第四部隊の訓練の方が自分には向いていると感じていた。もちろん与えられた課題に手を抜くことはない。
だが……。
春菜は自問自答した。なぜ、自分はここにいるのだろうか。決して、望んだことではない。考えても答えなど出てくるわけではないから、いつも考えないようにしている。それでも、やはり、忘れることは出来ない。
春菜は時々思った。
何も感じない存在であれば良いのにと。
そうすれば、こんなモヤモヤした気持ちを抱えることなく、生きていられるのに。
そして、ついに出発の日を迎える。
春菜はその日いつも通りに起床し、農作業を行なった。朝食が終ると、部隊から離れ、部屋に戻った。準備万端のバッグを抱え、体をすっぽり覆うローブを被った。
部屋を出るとき、部屋に一礼をした。
「いってきます」
小声で、誰もいない部屋に言う。
部屋を出ると、誰とも会わないように注意して、ネージュの部屋に行く。
部屋の前にはルナスサがいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「では、行きましょうか」
春菜は頷いた。
ルナスサがノックをした後、ドアを開ける。ドアは、ゆっくりと開いた。
部屋にいたのは、一人だった。
春菜は思わず息を呑む。
サイレスの髪は以前見たときより、少し伸びていた。心の準備は出来ていたはずだが、やはり鼓動が早くなった。
春菜は目線を逸らすことで、どうにか動揺を抑えようとする。
「サイレス様、おはようございます」
「おはようございます」
ルナスサに続いて、春菜もサイレスに挨拶した。意識したくなくても、どうしても意識してしまう。
「ああ、おはよう」
サイレスは素っ気無く応えた。
「では、行こうか」
「はい」
今度はルナスサと春菜の声同時だった。
サイレスが机の上のタッチパネルを叩くと、床がきしんだ。
貼り付け後など全くなかったのに、床が口を開く。そこには階段があった。
「開いている時間は一分だ。速く」
サイレスが言うと、ルナスサが飛び込み春菜も続いた。サイレスが階段を駆け下りてきたと同時に床はゆっくり閉まりだした。
床が完全に閉まると、一瞬真っ暗になる。しばらくすると、目が慣れてきて、様子をはっきり見る事ができるようになった。光鱗が壁一面に生えていた。
空間の広さは、ルナスサの体がどうにかギリギリどこにも当たらず、歩けるほどだ。
サイレス、春菜、ルナスサの順番で歩いた。
誰も話そうとしないので、春菜は周りを注意深く観察した。途中、分かれ道があったが、サイレスは迷うことなく進んでいる。
トンネルはコンクリートで固められているようだが、所々ヒビが入っていて、崩れていた。そこに代わりのように光鱗がびっしり生えていた。
空気は思ったより澄んでいて、体は疲れる気配がしない。すでに、3時間以上歩いている。春菜は歩くことは苦痛でなかったが、無言で歩き続けることに、違和感を覚えていた。
通路は徐々に広くなっているようだった。さらに進むと、3人が横に並んでも十分な広さになっていた。
サイレスはゆっくりとスピード落とし、立ち止まった。時計を確認した。
「思ったより早く着いた。少し休もうか」
すでに歩き続けて6時間が経っていた。春菜は少し疲れていたが、サイレスとルナスサは息一つ乱れていない。
「春菜。疲れていませんか?」
「大丈夫です。急がなくても良いのですか?」
「場所を特定されない為に、外に出るチャンスは一日に二回しかない」
「偵察衛星が常に巡っているのです。死角となる時間は一回5分しかありません」
「補給をしておいた方がいいだろう」
春菜とスナスサは頷いた。それぞれバックから簡易食品を取り出す。300mlのゼリーは過不足なく必要な栄養を補給する事ができる。
サイレスは春菜とルナスサを手招きした。壁を叩くと、一箇所だけ微かだが音がする。
「春菜。ここに手をかざしてごらん」
春菜は言われた通りに手をかざした。光鱗が光を増し、扉が現れた。
「春菜で登録をしている。春菜以外の者が触っても反応することはない」
扉を開けると、細い階段が見える。
「ちょうど良い時間だ」
サイレスを先頭に階段を上がって行く。扉はルナスサが入ると自動的に閉まったようだ。すぐに広い部屋についた。部屋にはエアーバイクが3台とヘルメットが置かれていた。サイレスが一台に近づいたので、春菜は自分のバイクがどれかすぐに判断できた。
「私が乗れるエアーバイクを用意されるとは、ありがとうございます」
エアーバイクの重量制限は80から100kgである。小回りが効く為、第三部隊では奇襲・撹乱作戦の訓練に、第四部隊では救護、補給などの訓練でよく利用されている。
春菜はジャオイボックスで何度も乗っているが、実際に乗るのは初めてだ。ヘルメットをかぶると、喉が軽く締め付けられる。空気は横のフィルターからしか入ってこない。
春菜はゆっくりとエンジンをかけた。振動も使い方もジャオイボックスで学んだのと全く同じようだ。
「そろそろだ。私は先頭。次に春菜。そして、ルナスサだ。行くぞ」
サイレスの声が、耳元で聞こえた。
緊張が走る。
サイレスが出口向ってアクセルをふかす。扉は自動で開いた。春菜も続く。5分間でどれだけ遠くにいけるかが、勝負だ。
外に出た瞬間。春菜は時が止まっているのかと思った。
視界は悪く。空気に流れが全くないからだ。春菜はサイレスに必死でついて行く。まるで、それをあざ笑うかのようだった。
ヘルメットにはディスプレイがついていて、春菜は自分が今どこにいて、どの方向進んでいるかが分かった。春菜は、経度、緯度の数字を確認することも忘れなかった。
春菜は慣れてくると、やはりショックだった。ゴミためのような場所だ。シーワンが如何に恵まれているかを思い知らされる。ヘルメットを取ったら、死んでしまうのではないかとさえ感じる。人の気配を感じないが当然だ。
急に画面に3つの赤い点が現れた。距離はまだあるが、このまま行けば5分ほどで着くだろう。
「あれは?」
「人のようだ……」
サイレスの声には、疑惑が感じられる。
「こんなところに人がいるとは考えにくいですね。ここがどれだけ危険かGDで知らないものはいません」
ルナスサが応える。
「ああ……あのスピードは徒歩か?おかしいな」
すぐに黒い点表れた。赤い点に比べるとかなり大きい。
「暴獣に追われているようです。追いつかれるのも時間の問題でしょう」
春菜は背中がゾッとした。
「避けたいが、見過ごすわけには行かないな」
「春菜。私が前に出ます。ついてきて下さい」
「大丈夫です」
春菜の声は少し上ずっていた。
「足手まといにはなりません」
春菜の視界に暴獣が入ってきた。
「大きい……」
春菜は呟いた。
5メートルはあるだろう。
埃が激しく舞い上がり、ゆっくりと落ちて行く。その間から、ブニョブニョした鈍い光が動いていた。
うろこを持ったナメクジといった感じだろうか。触覚は、絶えず、短くなったり、長くなったりしていた。
「気持ち悪い……」
春菜は悪寒を感じた。
ブレーキを衝動的につかもうとした時、黒い点の正体がはっきり見えた。
「人だ!」
春菜は我に戻った。冷静に考える。
自分に今何ができるだろうか?
暴獣に追いかけられている3人を助けるべきか?だが、どうやって。エアーバイクの二人乗りは難しい。
暴獣を倒すべきか。どうやって。こっちは更に皆目検討もつかない。
難しいことは、二人に任せよう。春菜は決めた。
「私がおとりになります」
春菜はアクセルを強く握る。それと同時に上昇キーを踏んだ。
「春菜。ちょっと待って……」
ルナスサの声が、はっきりと聞こえた。だが、春菜は止めるつもりはない。
春菜は得意の急上昇を行なった。通常の飛行は30cmから50cmの間で行なわれる。これ以上は、機体が不安定になるのだ。春菜はジャオイボックスでは10メートルまで挑戦した事がある。トモやソウタには怒られた。
春菜は暴獣の触覚付近まで上昇した。激しい揺れの中、標準を合わし、エアーガンを触覚めがけて打ち込む。
命中。
春菜は、急いで方向転換した。下降中に急にしたた為、体が一瞬宙に浮く。
暴獣は見かけから、愚鈍だと思っていたが、予想外に反応が早かった。
春菜は反射的に、再度急上昇をする。
正解だった。
暴獣は口から液体を出した。
地面に落ちた液体は白い煙とともにゴミを溶かしたようだ。
春菜は、上下左右の動きを混ぜて、逃走を続けた。だいぶ離れただろう。次にどうやって、暴獣をまくか。
春菜は暴獣が一体何を頼りに自分を追っているか。考えることにした。
やはり動いているからだろうか。ならば動くのを止めれば、追いかけないだろうか。その可能性はあるが、危険な賭けだ。
「春菜。聞こえるか?」
「ハイ」
サイレスの声が聞こえた。春菜は咄嗟に上ずった声で返事をする。
「3、2、1、0といったら、急上昇し、急下降しながら、暴獣の背後に回れるか?」
春菜は、額が汗でぐっしょり濡れていることに気づいた。
「できると思います。やってみます」
「よし。では、3、2、1,0ー」
春菜はアクセルを思いっきり握り、上昇キーをこれでもかというくらい、強く踏んだ。
「バイク頑張れ」
春菜は心で叫びながら、歯を食いしばる。
暴獣の頭がはっきり見えるところまで上昇すると、足を元の位置に戻し、ブレーキを一気に握る。
春菜のエアーバイクは、木の葉が落ちるように、回転しながら、落ちて行った。春菜は重圧に耐えながら、どうにか機体をコントロールし、暴獣の後ろにもぐりこむ。
春菜は必死で気づかなかったが、暴獣の動きは明らかに鈍くなっていった。
暴獣は春菜の動きに反応できなかった。見失ったと分かると、全身を震わせ、その場から動こうとしなかった。
暴獣から少し離れたところにサイレスがいた。
「何をされたのですか?」
サイレスの後ろを走りながら、春菜は聞いた。
「あれは、ナメクジなどの軟体動物とワニ、トカゲなどの爬虫類に過剰成長剤を投与し、突然変異で生まれた生物ではないかと推測したんだ。ナメクジは塩素に弱い。それを補う為に、鱗という発想をしたんだろう」
「それに、意味はあるんですか?」
「一見意味のない事を研究し、意味をもたらす事が、科学を発展させるのではないかな?特に、欠点を補い完璧に近づけていくという概念は科学の根本だろう」
「なるほど」
「ナメクジは、伸縮を繰り返して移動する。どんなに鱗が強固でも、そこは他より弱くなるだろう。そこにエアーガンを打ち込んでから、塩素濃度の高い成分を含ませた弾丸を撃ち込んだんだ」
「塩素……そんなものまで準備されていたのですか」
「塩素といえば、塩だが、塩は人間にとって必要不可欠だろ」
「……はい」
ノイズがひどくなった。
「サイレス様。一人負傷者がいます。27・53地点で待機しています」
「了解。急ごう」
「はい」
サイレスはスピードを上げた。春菜も続く。
無残に突き出したコンクリートの影にルナスサはいた。
春菜はエアーバイクを降りた。地面に足をつけると、足が一瞬地面にのめりこんだ。驚いて足もとに目をやると、目の荒い粉が敷き詰められている。ゆっくり足を上げると、地面に靴の形が残っていた。
「砂だ。足を取られないよう気をつけなさい」
「これが砂か」
春菜は砂をはじめてみた。舗装されていない場所は初めてだった。
ルナスサの横に茶色いローブをしっかりまとった3人がいた。一人は座っており、他の二人は守るように中腰である。
春菜は、3人に声を掛けた。
「怪我の具合を見てもよろしいですか?」
「すまない。頼む」
ローブから除く黒い瞳の男が言った。声は小さいが重量感がある。春菜は、かがんだ。座っている者は足を抱えている。
春菜はそっと左足を触った。すぐに分かった。
「折れていますね。これでは、動けません」
「そんなことは分かっている」
足が折れているにも関わらず、苦痛を感じさせない、明瞭な声が春菜の耳に届いた。春菜は思わず頭を上げる。
ヘルメット越しに、茶色の瞳と目があった。
「あんた、女か?」
好奇心を含んだ声の方を春菜は向いた。唯一ローブから見える心的特徴の青い瞳が春菜をみつめる。
「そうですが、何か問題でも?」
「いや、ちょっと驚いただけさ」
「貴方は元気そうですね。では、怪我をしている人をあの中に連れて行って下さい」
春菜が指を指した方向にはすでに、6人が入るには十分の広さのテントが張られていた。テントは、大小の浄化フィルタースクエアを組み合わせて作られる。およそ1cmのヤスォーというボンベに入れて持ち運び、一つで最大5m四方の浄化フィルタースクエアを持ち運ぶことができる。
青い瞳の男が口笛を吹く。
「こりゃすごいね。俺達は運が良い」
3人をとりあえずテントの中に入れると、春菜、サイレス、ルナスサはテントの外で会話を交わした。
「彼らを助ける方向で良いのですか?」
「彼らが何者か分からないが、関わってしまった以上、放っておくわけにはいかない。予定外だが、今日はここで止まろう」
「了解しました」
春菜とルナスサは頷いた。サイレスを先頭にテントの中に入る。テントは空気浄化フィルターで作られている為、ヘルメットをとる事ができる。
汗で、前髪が額にべっとりついていた。春菜はそれを掻き揚げると、すぐに怪我人の治療に当たる。
サイレスは、春菜と怪我人をベッドのある個室に移動させ、そこで治療するよう言った。春菜は、エアーバイクからとってきた、医療器具一式を広げた。
「申し訳ありませんが、服を切ります」
はさみを取り出し、服を切る。
折れた骨は皮膚を破り、出血していた。
ローブを脱いだ男は、春菜が思ったより若かった。顔色は怪我の為青白いが、目は力強く、表情からも苦痛は見えない。春菜は思わず、当たり前のことを聞いた。
「痛くありませんか?」
茶色い瞳の男は答えない。春菜は部分麻酔を打った。春菜は応急処置ではなく、完全な処置をするつもりだ。サイレスは最初、春菜と茶色い瞳の男の様子を見ていたが、春菜の手さばきを見て安心し、部屋の外に出た。
「名前を伺っても良いですか?私は春菜です」
「……名前か?私はリックだ」
「リックさんですか。痛かったり、不都合を感じたりした場合は、遠慮なく言って下さい」
「あんた達は、何者なんだ?」
「私たちですか?さあ、何者なんでしょう」
春菜は、礼儀を重んじている。礼儀を重んじない人間に対して、真っ向から批判はしないが、相手にもしない。
「まあ、いい。何者でも。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
春菜は忙しく手を動かしている。わずか数ヶ月で身に着けたとは思えない正確な処置である。
春菜はそれを当然と感じている。シーワンでは誰もが当然出来ることだと感じている。しかし、実はそうではない。ネージュは春菜を重んじ、特別カリキュラムでスパルタ教育を行なっているのだ。
春菜は大きく息を吐き出した。
「終了」
リックは、点滴を受けながら規則正しい寝息を立てていた。春菜はリックに布団を掛け、部屋を出た。
5人が一斉に春菜の方を向いた。
「坊ちゃんの状態はどうなんだ」
青い瞳の男が春菜に近づいて聞いた。春菜は慣れたが、皆身長が高いな、と思った。首が疲れる。
「リックさんは、今寝ています。平気そうな顔をしていましたが、体力はかなり消耗しているでしょう。足の方は、全治3ヶ月です」
「3ヶ月かー。困ったな。こっちに頼れる場所がまだないんだよな」
青い瞳の男が、元気なく呟いた。
彼の名前は、エドガーという。ローブを取ると金色の髪がこぼれ落ちている。端正な顔立ちは、サイレスに劣るが、人を惹きつけるに十分だった。声が明るい分、遊び人を思わせた。
黒い瞳の男は、リンという。短髪で体も締まっていて、軍人を思わせる。エドガーと対照的に落ち着いていた。
彼らの境遇をルナスサが説明してくれた。
エドガーとリンはリックのボディーガードだという。リックはアルフォンス家の一人息子で大学生らしい。
アルフォンス家は5代前までは、GBの最高高級地域に豪邸を構える名家だった。それが、遊興にふけるようになり、遺産分与を重ね小さくなってしまった。
そして、平均の家庭並になった時に生まれたのが、リックの父親、アルフォンス・サムである。彼は、生まれながらに聡明で神童と呼ばれた。曲がった事が嫌いで実直な性格は、多くの人を惹きつける反面、煙たがられもした。年を重ねるごとに、後者が多くなって行った。
サムは、GAトップの第一大学(通称セントラル)を優秀な成績で卒業し、財務省に就職した。45歳で左部主計官に就任した。サムが、主計官として積極的に取り組んだのが、軍の予算大幅削減である。軍は支出をほとんど公開せず、財務省ですら何に使っているか、把握できていない。それにもかかわらず、軍への予算は毎年国庫の3%にあたる。
生真面目なサムは、暗黙の了解を黙認する事ができなかった。サムは、次々と降りて行く同僚を横目に、一人で完璧な資料を作成した。さらに、サムは、軍の不正を暴く重大な証拠を見つけてしまった。
それが、アルフォンス家悲劇の始まりだった。サムの血縁関係にあるものが、次々と不慮の事故で死んでしまったのだ。
サムの下に、消滅メッセージが届いた。消滅メッセージとは、一度見たら消滅して二度と見えなくなる電子メールのことである。
『見つけたものを表に出すな。それが漏れた時、お前は全てを失うだろう。一週間以内に抹消せよ』
サムは、妻と息子にボディーガードをつけた。3日後、妻がこの世を去った。
サムは、資料を隠し、軍に一人乗り込んで行った。その帰り道、サムは事故で妻の後を5日遅れで追うことになった。
サムより、リックの安全を託されたエドガーとリンは、リックの身に危険が迫っている事を悟った。サムの隠した資料を持っているのは、リックであると仮定するのは、簡単なことだったからだ。
そして、最終的にブローカーに頼んでGDに逃げてきたのだった。
「この話が、本当なのですか?」
春菜はサイレスとルナスサの方を向いた。サイレスは頷いた。
「彼がアルフォンス・リックかは、分からないが、アルフォンス家の人間が、ここ半年で皆不可解な死を遂げたのは事実だ」
「そうですか」
春菜の表情は厳しかった。春菜は、GAで不条理な待遇を受けたことはない。すべて、実力の世界だった。実力のない者は無視され、ある者には、道が開かれる。それが、春菜が肌で感じたGAだった。軍に関わったことは、学校見学の時だけだが、感覚として信じられない。
「お嬢ちゃん、信じられないかい?」
エドガーが春菜に聞いた。
「申し遅れましたが、私の名前は春菜です。私には判断できません」
「信じてもらえなくても良いが、事実だ。だから、俺たちはここにいる」
リンが深刻な声で言った。
「我々には判断できない。リックの話を聞いてから、星輝殿に判断を仰ごう」
「あんたら、青藍の人なのか?」
「そうだが……」
サイレスの発言に春菜は一瞬驚き、表情に出そうになった。だが、ルナスサが全く動じていないのを見て、押さえる。
「そうかー。俺達がGDに来る時に協力してもらったのが、ナグーっていうやつなんだが、そいつが、俺達みたいにGD出身じゃないやつは、青藍に行くのが良いって言ってたんだ。だが、青藍ってもと軍人出のやつばっかりだろ、信用できるか、ちょっと微妙なんだよな」
「青藍が軍と繋がっている可能性はない」
「そうかーそれなら、良いんだけどな。あんたら、青藍の人間ならGDの人間じゃないのか」
「答える必要はないな」
「でも、サイレスさん。あんた良い男だよな〜。俺、世界で一番男前って自負してたけど、あんたにゃ、負けるよ。嬢ちゃんも、目が大きくて可愛いし、GDも捨てたもんじゃないな。それにしても、ルナスサはでかいな〜。俺、巨人族は始めてみるんだよ。でかいけど、想像してたより、普通だな。仲良く出来そうでよかった。よかった」
エドガーは身振り手振りをつけて、話しを続けた。
「俺もさー今までいろんなやばい橋渡ってきたからさー、いつかはGDに来ることになるだろうなって思ってたんだ。それが、いざ来てみると、やばい、やばい。想像以上だ。な、リン」
リンは黙って頷いた。
「空気は悪いし、怪獣はいるし、さすがに、これはやばいなと思ってたんだよ。でも、やっぱり、あれだな。拾う神あれば、救う神ありってやつだ。青藍にこんなに早く接触できるとは思わなかった」
「おい、まだ、助けてもらえるかは分からないんだぞ」
「リン、本当にお前は見る目がないな。この人たちは、優しい人たちだぞ。せっかく助けた俺達を、投げ出すなんてしないさ」
「おまえ、本当に楽天家だな」
「当たり前じゃ。なんで、自分から嫌なこと考えんといかんのじゃ。嫌なことは、起こったことだから仕方ない。先のことはいい事ばかりに決まっている」
エドガーは両手を突き出した。隣に座っていたリンが、思わず避けた。春菜は笑ってしまう。
「お、嬢ちゃん、笑った方が可愛いな〜」
「お世辞はいいですよ。エドガーさん良いこと言いますね」
「言っておくが、俺は真実しか言わん。嬢ちゃんは可愛いぞ。世の中な、頭の良いやつほど、悪い方悪い方に物事を考えるんだ。サイレスさんはね〜、顔も良いが、頭も良い。深刻な顔も似合うから仕方ないが、考えすぎるダイプだぞ」
春菜はサイレスの顔を見た。苦笑いしている。
「エドガーの言う通りだな。今、青藍から返信があった。明日ここに迎えに来てくれるそうだ」
「本当か。ありがとう。ところで、いつの間にそんなことしてたんだ。俺達が話している間、サイレスさんここにいただろ」
「企業秘密だ」
「そうか。まあいいや。本当にありがとう。坊ちゃんにも伝えたいが、まだ、坊ちゃん寝てるかな」
「いえ、そろそろ薬の効き目も切れます。目を覚ます頃でしょう」
「坊ちゃんの所に行ってもいいか?」
春菜はサイレスを見た。
「問題ない」
春菜が立ち上がると、エドガーとリンも立ち上がった。
治療室は、3人が入ると、少し窮屈だ。リックはちょうど目を覚ましたところだった。
「坊ちゃん。俺が分かりますか?」
「もちろんだ。エドガー、リン」
「そりゃ良かった。頭のほうは大丈夫みたいだな」
「おい、エドガー」
「うるさいな。リン。お前はもうちょっと、こう分かりやすい感情表現は出来ないのか?坊ちゃんが、まあ、怪我はしてるが、命に別状がない事を喜ばないなんて、人間として失格だぞ」
「リック坊ちゃんは、全快してるわけではないんだぞ。エドガーといるだけで疲れてしまうだろ」
「おい、どういう意味だ」
「おいおい。二人とも止めてくれ。自分の怪我の状況は分かっているつもりだ。大丈夫だ。それに、エドガーが深刻な顔をしたら、その方が回復に差し支えるよ」
リックは穏やかに言った。
「はあ〜リック坊ちゃん。そうやってエドガーを甘やかさないで下さい。調子に乗りますから」
「リン。調子に乗るってどういう意味だよ。俺はいつだって坊ちゃんの事を考えてるんだぞ」
「そうか。それは気持ち悪いな。エドガーはいつも女の事ばかり考えてると思っていたよ」
「それは、ないですよ。坊ちゃん」
春菜は3人の話を聞きながら、考え込んでいた。なぜか、違和感のような腑に落ちない気持ちが心に広がったのだ。春菜の神妙な顔を見てリンが、低めのトーンで言う。
「春菜さん。何か、気になる点でもありますか?」
春菜は、下向き加減の顔を上げて、首を横に振った。
「いいえ。リックさんの状態は安定しています。今のところ、何の問題もありません。今後の移動もリックさんの体に負担がかからないように手配させてもらいます」
「ありがとうございます。ですが、表情が少し固いようですが」
「確かにだ。嬢ちゃん。心配事なら隠し事はなしだぜ」
「本当に、問題はありません。私の顔は昔から、こんなんです」
「そうかい?分かった。嬢ちゃんも、物事を考えすぎる気があるんだろう。考えるより、なんかあれば、聞いたほうが、早いぜ。どうせ、俺達の事なんだろうから」
「エドガーすまない。ちょっと話が見えないんだが、今までの状況を聞いてもいいだろうか?」
「おう、そうだな」
春菜たちが青藍のメンバーである事など、最初はエドガーが話し始めたが、話が長くなり始めたので、リンが要点のみ端的にリックに伝えた。
「そうか。エドガーを信用してGDにきたが、実際来てみたら行き先もなく途方にくれていたんだ。本当に感謝します。ありがとう」
「いえ、とんでもないですよ。偶然通りかかって、見過ごせなかっただけですから。体力は消耗していますから、休める時にしっかり休んでください」
春菜は、エドガーが話し始めると長くなる為、暗に遮った。
「そうですね。リック坊ちゃんもまだ休んだ方が良いでしょうし、エドガー出ましょうか」
「そうか。もう少し話したいけどな、嬢ちゃんも言うし、仕方ないか」
エドガーは部屋を出て行く前に背伸びをした。天井に指がつく。
治療室には、春菜とリックが残った。
「点滴をしますが、何か注意すべき点はありますか?」
「ありがとう。特にない」
「そうですか。ではでは」
春菜はリックの腕を取った。
「春菜って呼んでもいいのかな?」
「どうぞ」
春菜は抑揚のない声で答える。
「春菜の目は死んでるね。まるで、GAの人間のようだ」
リックの口は三日月のように端がつり上がっていた。春菜は、反応しないように注意深く、針を指した。
「そうですか?でも、青藍についてご存知なら、GDの人間でないことは、推測できると思いますけど、そういうことですか?」
「いや、僕はまだGDの人間に会った事はないから、やっぱり同じ人間変わらないんだなと思っただけさ」
「……よし、これで大丈夫。急ぐ必要もないので、ゆっくりにしています」
春菜は、リックの目に手をかざした。
「寝てください。寝ることは、今の貴方には必要です」
春菜がゆっくり呟くと、いつの間にかリックは規則正しい寝息を立て始めた。
春菜は、個人目覚ましを2時間後に合わした。点滴が終る時間だ。それまでは、仮眠を取ろうと、椅子に座る。
「春菜。変わろう」
全く気配を感じさせず、サイレスが入ってきた。
「いえ、私は大丈夫です。サイレス様こそお休み下さい」
「私は大丈夫だ。手前の部屋をルナスサと春菜の部屋にしている」
「エドガーさんとリンさんは良いのですか?」
「特に監視する必要はないだろう。それに、変に警戒されても困るからな」
春菜は頷いた。
「分かりました。ありがとうございます。では、失礼します」
「ああ。お休み」
春菜は頭を下げた。
春菜が治療室を出ると、サイレスは、考え込むように座った。点滴を見つめながら、呟く。
「2時間程か……」
春菜は、さり気なくエドガーとリンの部屋を探ってから、ルナスサの待つ部屋に入った。
ルナスサは、床に静かに座っていた。春菜が部屋に入ると、笑顔で迎える。
「春菜。疲れましたか?」
「疲れてないと言いたい所だけれど、やっぱり疲れました」
「外は違うでしょう」
「テレビで見たことはあったんですけど、実際に厳しい場所ですね」
「環境は厳しくなっていますが、技術の進歩で楽になりました」
「そうですよね。このテントもすごいし」
春菜は壁を軽く叩いた。弾むような感覚が手に返ってくる。
ふと、春菜はため息をついた。
「春菜。どうかしましたか?」
「ちょっと、腑に落ちないところがありまして……」
「何ですか?」
「あの人たちの事情は本当なのでしょうか?アルフォンス家の話について私に本当か判断するだけの知識はないんです。だからなんとも言えないんですけど……」
「何が気になるんですか?」
「一番は、やはりリックさんですね。いいところのお坊ちゃんという感じは、話し方から分かります。でも、治療をさせてもらって、あまりにも鍛え抜かれた体なんですよね。無駄がないというか……。一体何者だろうと疑いたくなるくらいなんです。服を着ていたら、細身に見えます。だから、服を着ていたら、分からなかったと思うんですけど……」
「なるほど」
「サイレス様に言った方がいいでしょうか?」
「そうですね。でも、サイレス様もお気づきになるでしょう。おそらく、青藍の名前を出したのは、警戒感の表れもあると思います」
春菜は、理解したように頷いた。
「そういうことですか。本当でも嘘でも、まずは、青藍についてからということですね。さすが、先の先を読んでいる」
「春菜。そろそろ休みましょう。しっかり寝ないと、体も頭も役に立たなくなりますよ」
「そうですね。おやすみなさい」
「おやすみない。春菜」
春菜もルナスサもベッドにもぐりこんだ。春菜は今日一日の事を考え始めたが、すぐに深い眠りに着いた。




