第四章
反省室に一週間もいたから体が鈍っているのではないか不安だったが、春菜はいつもより体の調子が良いので驚いた。疲れているが、空腹感はある。初めの頃は疲れて食事をするどころではなかった。吐きそうになるのを我慢して必死に食事をしていた。食事が楽しみではなくて作業であったことを思い出す。それが今は楽しみに変わった。御飯の時間を楽しみとして単純な事が春菜は嬉しかった。
食堂にルナスサたちと一緒に向うところだった。トモの呼ぶ声がして、春菜は振り向く。
「トモ小隊長……」
トモは走って来た。
「今日ネージュ様がいらっしゃることになった。6時40分には部屋に戻ってきてくれ。迎えに行くから」
トモはかなり興奮しているようだ。他の皆も驚きの声を口々に言う。
「トモ小隊長。大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だ。久しぶりにネージュ様とサイレス様にお会いして、嬉しくてね。じゃあ、春菜よろしくな」
春菜は形式張った返事をする。トモは満足そうに頷き、トモは小走りに、食堂に行ってしまった。
「では、食事を早く食べて余裕を持って、部屋に戻りましょう」
ルナスサが言うと、皆頷いて、食堂に向った。
席につくと回りにルナスサ、アリス、ユキ、カタリーナがいた。
少し前まで、みんなルナスサを避けていたが、今はみんな同じテーブルで食事をしている。少しぎこちなさがあるというものの、すぐになくなるだろう。
「今日ネージュ様に会えるんだ。羨ましいな」
カタリーナが興奮気味に言った。春菜は口に物が入っていたため頷いた。
「いいわね。絶対びっくりするわよ」
「サイレス様もいらっしゃるかな」
ユキが思い出すように言った。
「たぶんいるだろう」
「お二方、またすごい絵になるんだよ」
「春菜ビックリして倒れんなよ」
みんな興奮気味に、春菜に対して色々なアドバイスをした。その様子をルナスサは微笑ましそうに見ていた。
春菜は話を聞きながら頷くだけで、手と口は食べることに集中した。春菜が食べ終わるのを見ると、ルナスサが大きくも小さくもない声で言った。
「食器は片付けておきます。先に部屋に戻った方が良いでしょう」
それを聞いてユキもはっと気づいたようだ。椅子から少し立ち中腰の体勢で周りを見渡す。
「トモ小隊長もういないよ。時間はまだちょっとあるけど、早く行って損はないよね」
「でも、食器くらいは……」
「そんな遠慮しないで、食器を片付けるだけだから」
戸惑った顔を浮かべた春菜にカタリーナは右手を手首から上下させて、明るく言った。これ以上はせっかくの好意をダメにしてしまう。春菜は少し照れくさそうに言った。
「ありがとうございます」
みんなはなんだかすごく嬉しそうな顔をした。春菜は手で一時別れの挨拶をし、食堂を出た。
一人で部屋に向う。すでに廊下はだいぶ暗い。人口太陽の微かな光も一日の仕事を終えようとしている。
部屋に戻るとトモはすでに部屋にいた。考え込む様子で窓の外を見ていたが、ドアの開閉の音を聞いて振り向いた。短く切られた髪がわずかに揺れる。顔に表情はなかった。
「早いな。では行こうか」
トモはみんなから好かれている。誰に対しても公正な態度であるからだ。そのぶん特定の親しい友だちや話し相手はいない。みんなの中心にいるか、一人でいるかだ。ふと、春菜はトモに対して孤独な印象を受けることがある。今もそうだった。
「はい」
春菜はドアを開けて待ち、トモが部屋を出るとドアを閉めて後を追った。
「ネージュ様は対話を望んでおられるから、リラックスして意見を言っても大丈夫だ。まあ、遅くなったが入隊式かな。春菜みたいにネージュ様と初めて会う者は7人いる」
トモの声はいつもより熱がこもっていた。シーワンでは誰もがそうだが、ネージュに対して語る時、強い憧憬と敬意がこもっている。
「はい。トモ小隊長はお会いになったことはあるのですか?」
「ああ。昔は食事も私たちと一緒に食べておられた。だが、組織が大きくなると忙しくならざるを得ない。今はお会いする機会もめっきり減ってしまった」
トモの顔に残念さが広がったが、すぐにそれは消えた。
「小隊長はシーワンに入ってそんなに長いのですか?」
「そうだな。10年になる」
春菜は心の中で驚いた。なるべく表情に出さないように努力する。だが、突発的に心に浮かんだ好奇心には勝てなかった。
「えっ、そんなに長いのですか?とても若く見えますが……」
友は明快に笑った。
「ハハハ。私はもう30歳を越しているよ」
さすがに今度は驚きを隠せない。
「そ、そうなんですか?全く見えません」
「そうか?いちよう礼を言っておこう。まあ、第三部隊は若い者が多いからな」
春菜はついつい考え込んでしまう。
「まあ、春菜が第三部隊で最年少であることは変わらないな」
シーワンは、ネージュ直属部隊と五つの部隊でなる。その中で、一七歳未満の者は第五部隊に配属されるのだ。第一部隊から第三部隊が戦闘部隊になる。第四部隊は後方支援部隊で、食糧供給、医療などなどシーワンを運営するサポート的な部隊だ。食堂管理もこの第四部隊の管轄である。
「よし、ここだ。最初のネージュ様の挨拶が終ったら私は帰らなければいけない。一人で帰れるか」
「大丈夫です。道はわかります」
春菜が元気よく言うと、トモは頷いた。
「では入ろう」
トモが扉を開き先に入る。
「失礼します」
春菜もトモに続いて部屋に入った。
「明るい」
春菜は思わず声をあげそうになった。部屋の中が光で満ちている。シーワンに入ってからこんなに明るい部屋に入ったのは食物育成ハウスに入った時以来だ。部屋の中にはすでに人がいた。真ん中よりも前寄りに円卓が置かれ、後ろの壁に沿っていくつか椅子が置かれていた。
後ろの席に座っていたソンベンが、立ち上がってやってきた。
「早かったな。良いことだ。春菜、君の席はこっちだ」
ソンベンは少し興奮しているようだった。熱のこもった声で、円卓の席を指す。円卓には九席ある。そのうち二席だけ他の七席と椅子が違った。けっして豪華と言うわけではない。春菜の席はそのちょうど正面だった。
春菜が席につくと、ソンベンは元いた席に戻りその横にトモが座った。
その後部屋に人が入ってくるたびに、後ろに座っている誰かが立った。ソンベンが春菜を迎えたときと同じように行動する。しばらくして、円卓の二席を除いてすべての席が埋まった。部屋の中は緊張感で包まれ、誰も話しをする者はいない。春菜もなんだか緊張してきた。太ももをつねる。手には汗がにじんでいた。
ガチャ。
音が響いた。全員の背がグッと引き締まる。春菜たちが入ってきた扉からではなく、春菜の目線で左にあるドアが開いた。五人の全身に充実感を携えた男女が入ってくる。その中で一人だけ春菜は見覚えがあった。真ん中にいるのはアルエルだ。
「ということは指揮官たちか……」
春菜は心の中で呟く。五人は空席の前で姿勢をただし、威厳たっぷりに立ちどまった。部屋全体を見渡す視線は鋭い。
全員が息をのむのを感じる。五人の指揮官が入ってきた扉は閉められておらず、続いて二人入ってきた。皆が一斉に二人に注目した。
そのうち一人を見て春菜は声をあげそうになった。すらりとした長身にブラウンの髪。男はみんなと同じ深緑の服を着ているが、同じ服とは思えない。男は間違いなく、GC地域の通りで春菜がすれ違い追いかけた人物である。もう分かっていたことだが、やはり驚いた。そして、もう一人の人物を見て言葉を失う。
男の横にいるもう一人の人物。透き通るような白い肌、この世の純粋なものだけをみつめてきたような強い光を放つ瞳。男とも女ともつかない中世的な容貌で、春菜が出会ってきた誰よりも圧倒的な存在感を持っていた。
春菜は、昔一度だけ見た『月下美人』を思い出した。
「あー、あの人がネージュさんか」誰でも話を聞いていれば一目でわかるだろう。春菜の目線は二人に釘付けになった。いや、春菜だけではない部屋にいる者全員がそうだった。外見の良し悪しが、シーワンを支えているわけではない。二人には外見以上に人を惹きつける実力があった。他の者の追従を許さない。圧倒的なリーダー像を春菜は見ていた。
「まず始めに出席者の紹介からにしようかな」
ネージュは朗らかに言った。声は美しい音楽のように部屋に響いた。
「私の名前はネージュ、シーワンの代表だ。そして、隣にいるのがサイレス……」
「サイレス第一補佐官だ」
春菜は二人をずっと見つめた。この場合、ネージュとサイレスに視線を集中させるのは当然のことである。
だが、春菜には二人の姿は目に入っても、声は音楽としてしか耳に入らなかった。よく分からない感情が全身を覆い、涙が出そうになる。それを必死に抑えた。
春菜の人生を変えた者・サイレス。まだ、一度も言葉を交わした事は無い。今、初めて聴いた声。その声は、始めと終わり、全てを春菜に知らせる音のようだった。
ネージュが上官たちの紹介をしている。続いて、入隊者の紹介に入る。ネージュとサイレスが春菜の前にきた。
ネージュと目が合う。ネージュは春菜に穏やかな笑みを向けた。春菜はぎこちなく笑みを返す。サイレスは、ネージュの横で、無表情に春菜を見つめていた。
「春菜です。第三部隊3隊に所属しています。よろしくお願いします」
搾り出すように、平常心を保つように、春菜は声を出した。
全員の紹介が終ると、隊長たちは退出した。退出を確認すると、ネージュは穏やかな口調で、話し始めた。
「まず、謝らなくてはいけないね。皆、申し訳ない。会うのが遅くなった。
今日は皆に会う機会ができて、心からホッとしているよ」
春菜は、たぶんサイレスに一目惚れした。
初めて、他人に特別な感情を抱いた。
それは、強烈で衝動的な感情だった。
初恋……。
そんな、甘いものではない。
でも恋なのなら、その恋は、今終った。
夢を見る間もなかった、というべきだろう。
春菜は感じていた。自分が他人に特別な感情を抱かないことに……。
いや、特別な感情を抱かないようにしていた、という方が正しいかもしれない。
春菜も、普通の女の子である。みんなが集まって話をするとなれば、悪口・恋話・噂話が中心。そういう話の輪に身を置くことは、良い暇つぶしだった。
幼い頃は、他人を羨む事ばかりだった。走るのが速い子、咲くような笑顔のできる子、勉強のできる子、ピアノが上手な子。自分より、良い部分を持っている人に出会うと嫉妬し、嫌いになった。
それが変わったのは、先生に初めて褒められた時だった。全員一人一人、みんなの前に出て発表をする授業があった。それまでは、グループ発表が中心で、春菜は人の陰に隠れて目立つ事とは無縁だった。
人前で話すという緊張感が、どんなに心躍るものか、初めて知った。その後、春菜は人前に出ることを進んでするようになった。
春菜は人によって態度を変えるのが嫌いだった。それは、人を羨む事への決別であり、特定の個人を特別に思う事の喪失であった。
高校に入り、勉強が中心の生活になると、人前に出るという機会はほとんどなくなった。その時には、すでに自制心が身についており、特別に苦を感じることは無かった。ただ、心のどこかに物足りなさを感じていた。
そして、サイレスが突然目の前に現れる。
本当に一瞬だったが、春菜にとっては永遠だった。
永遠に忘れられないだろう瞬間だった。
春菜は、一生サイレスへの思いを隠すことを決めた。
そして、誰も愛しはしない……。
全てが終ったような、無力感に襲われて、
春菜は一人部屋に向って歩いた。
廊下は真っ暗だと思ったが、薄明かりに包まれていた。
ネージュは、入隊式で『光蘚』の育成に成功した時の事を語っていた。この仄かな光は、半径2メートルほどしか届かない。この光の中で、本を読むことは不可能だが、間違えずに部屋に帰るには十分だった。
カチッ。
「痛っ!」
後頭部に何かが当たったのを感じて、春菜は振り向いた。
そこには、緩やかな黒髪が腰まである、姿勢のやたらいい女性が立っていた。右手は、小石のようなものを振り上げ、顔は笑顔で春菜に向けられていた。
「こんなのも避けられないと、貴方、死んじゃうわよ」
春菜は内心ムッとしたが、何も言わなかった。誰かと話す気分ではなかった。
「さっきは、心ここに非ずって感じだったけど、私の名前覚えてる」
春菜は頷いた。どんなに気が乗らなくても、授業の内容を聞き漏らさない訓練が役に立っている。全員の名前は、完全に頭に入っていた。
「第一部隊1隊のエンさんですね」
春菜の声は凛とエンの耳に届いた。
「正解。いい声ね。噂通り、私たちとは雰囲気が違うわね。ネージュ様とも、サイレス様とも違う。さすが、ルナスサに気にいられるだけあるわね。春菜ちゃん」
春菜は久しぶりにイライラした。エンは春菜を挑発している。
「何か御用ですか?」
春菜は平静を装ったが、完全に成功はしていない。普段の春菜を知っていれば、すぐに分かるだろう。ただ、エンは今回初めて春菜と話すため、分からなかった。
「特に用はないけどね。入隊者の中で知っているのは春菜ちゃんだけだったから、声掛けてみたの」
「乱暴な声の掛け方ですね」
「そう」
エンは小石のようなものを玩びながら、とぼけた顔をする。
「相手の力量を知るには結構便利なのよ。怪我をするようなものでもないしね。後ろからこれを投げられて避けられる人は相当訓練を積んでる人だわ」
「そうですね。確かに初対面で、全く情報のない相手を探る場合には、少しは意味があるかもしれない。でも、貴方は私のことを知っていると言いましたね」
「ええ」
「噂で私の事を知ったというなら、私がそれを避ける事ができないということ位、容易に判断できると思いますが」
「確かにそう。でも、偏った情報を鵜呑みにするのは危険じゃないかしら。100回聞く事は、1回見る事に及ばないものよ」
「不毛な議論をする気はありませんが、その理論が人に暴力を振る理由にはなりませんよ」
エンは急に笑い出した。
「えっ?これが暴力?それはちょっと大げさじゃない?こんなこと、日常茶飯事でしょ。自分の身は自分で守る。物心ついた子なら、誰でもわかっていることよ。そうじゃないの?」
春菜はハッと気づいた。イライラして、思いついたことを考えなしに言ってしまっていたのだ。春菜の考え方と、GDの一般的な考え方に大きな差があることは十分に理解している。だから、春菜は常に興奮せず、冷静に言葉をある程度選びながら皆と話をしていたのだ。
「エンさんは不意に、悪くもないのに叩かれたら、腹が立ちませんか?少なくとも嫌な思いはするのではないですか?」
エンの顔には薄い笑いが浮かんでいた。
「そうね〜。でも、殴られるなんてへまはしないけどね」
春菜はエンとの会話に嫌気が差し始めていた。
その思いを察知してか、しないでか、エンは春菜に近づいた。春菜は後ずさりしそうになる自分を必死にこらえた。エンの目には、狂気を含んだ鋭い光が浮かんだ。
エンは春菜に向かい手を伸ばす。
その手は、春菜の首に数ミリで触れる位置で止まった。
春菜の首は、エンの手のひらから伝わる微かな、熱を感じた。
思わず、体が震える。
だが、春菜はエンの目から視線を逸らさなかった。
「ワッハッハッ」
エンは急に笑い出した。
「エッ?」
目の前、数センチの所で、急にエンが大きな口をあけて笑い出して、春菜は戸惑った。何が面白いのか、全く理解できない。
次の瞬間、エンは春菜の肩を二度ほど叩き、元の距離に戻った。
「よっぽどバカなのか?よっぽど肝が座っているのか?どちらでしょうね。春菜ちゃん。まっ、貴方程度の人間じゃ、シーワン以外では生きていけないわね」
春菜は体が緊張していて、上手く言葉を発する事ができなかった。
「何とか言いなさい」
エンはそれが気に入らなかったようである。春菜は精一杯、強気で言い返してやろうと決めた。
「シーワンでやっていけると言って頂けて、嬉しく思いますよ」
「言うわね。このガキッ!」
春菜は反射的に頬の前に手をかざした。手に鋭い痛みが走る。手の甲部分から血が噴出していた。
春菜は、傷口をチラッと見ただけで、表情を変えなかった。腹が立つというよりも、どうでもよくなっていた。
「怒らないのね」
「怒っていますよ」
春菜の声は小さく、いつもよりトーンが少し低かった。
「ただ、怒ってもしかたないと思っているんです。エンさんと私では考え方があまりにも違いすぎるようですから」
春菜の声は、氷の針のように春菜の耳に突き刺さった。
「ではどうするのかしら?」
「用事がないなら、私は部屋に戻ります」
エンは目を細めた。
「大切な用事が残ってるから、まだ、春菜ちゃんに部屋に帰ってもらっては困るな」
「どんな用事ですか?」
「春菜ちゃんを、殺すこと……」
春菜はため息をついた。
そして、両手を広げる。
「どうぞ」
さすがに、エンは動揺した。
「本気?」
「エンさんが望むなら」
「理解できないわ」
「全ての人が、全ての瞬間に、生きたいと望んでいないということですね」
春菜はエンに背を向けた。
春菜は振り向かずに、前に向って進んでいく。
エンは、春菜が見えなくなるまで、その場から動けなかった。
春菜の心は、悶々としていた。
皆に話しかけられると、愛想良く会話を返した。だが、愛想がよすぎた。ルナスサは、春菜に違和感を持ったようだ。
「春菜。心ここにあらずと言う感じですね」
他に誰もいなくなると、スナスサは春菜に話しかけた。
「そう?」
春菜の返事はそれだけだ。スナスサは根気強く話しかけたが、春菜は関心を示さず、相槌を打つだけだった。
これにはルナスサは困った。
二人は無言で運動場の角で座る。
手持ち無沙汰になったルナスサは、落ち着かなかった。ルナスサは、自分でもそれを不思議に感じた。
無意識に避けられることの多かったルナスサは、一人で居ることに慣れていた。そうであるにも関わらず、ルナスサは、現在自分の感じている気持ちに戸惑わずにはいられなかった。
居心地悪く、目線を動かす。その目線上に思わぬ人物が現れて、ルナスサの声が上ずった。
「……ネージュ様」
春菜もそれには反応した。
ネージュは片手をあげて応える。
「元気がないようだね。春菜」
ネージュがルナスサに合図をすると、ルナスサは小さく頷いてその場を離れた。
ネージュは春菜の横に座った。暖かい空気が春菜を包む。
「元の生活に戻りたいかい?」
唐突の質問に春菜は、言葉を失った。
ネージュは穏やかな表情で、春菜を見つめていた。
「戻る……。最近考えていませんでした」
「始めの頃は考えてた?」
「いえ……最初は無我夢中でしたから」
春菜は沈黙した。
ネージュは春菜を待った。
「私……結局、自分の居場所が分からないのかもしれません。高校に進んで家を離れて、一番落ち着く場所が、実家だと知りました。おそらく今もそうでしょう」
春菜は目を固く閉じ、落ち着こうとした。
目を開き、ネージュを見る。ネージュの表情は、全てを包み込むような暖かさに満ちていた。
「私には、そんな場所があるのに。なのに……私の心には何もかも捨ててどこかに逃げ出したいという気持ちがあった。
サイレス第一補佐官が現れたとき、私は非現実を感じたのです。
今、思い出すと、恥ずかしい……。なぜあんな行動をしてしまったのか。シーワンに居ることを後悔していません。でも、シーワンに入ることになったきっかけは、後悔せずには要られないんです。あまりに動機が不純じゃありませんか。事実を変えることはできないんです」
「本心?」
ネージュの問いに、春菜は一瞬体をビクつかせた。
「本心です」
「そう……」
「帰りたいと言えば、帰りたい。でも、帰った後、私はどうするのか、どうなるのか、見当もつきません。
シーワンに残りたいといえば、残りたい。
ですが、私がシーワンにいるのは、流れであって、自分の意志がないからです。皆と価値観の共有ができないことを考えると、怖い」
「春菜」
ネージュは優しく言った。
「深く考える必要はないよ。今、春菜は受け入れられている。その事実で良いんだ。受け入れられなくなったら、その時また考えれば良い。帰りたいという気持ち、それを無理に抑える必要はない。全てを受け入れ、無心で走りなさい。
春菜、今の君にはそれしかできない」
春菜は両手を握り締めた。甲には赤い点があった。
「春菜、その手、どうした?」
「ああ、ちょっと……」
「見せてごらん」
ネージュは春菜の手を取った。
手が発光したような気がした。
「では、春菜。また会おう」
ネージュはまるで幻のように春菜の目の前から居なくなった。
春菜は、手を見つめた。特に変化はないよう用に見える。
そっと甲に触れた。
ハラッ。
カサブタがきれいに取れた。
傷跡が消えていた。
春菜は驚いた。と、同時に、ネージュならと納得してしまった。
カーン。カーン。
春菜は、手の甲を気にしながら、教室に向った。
GAが他の地域と最も違うところは、住宅街を持たないことだ。GB・GCは住宅街を基本に商業施設、工場、役所など、日常生活で必要な施設は全て整っている。その為、およそ6割の人が生まれた地域を出ることなく一生を過ごす。
GAはあくまでも公の場である。そこで例外的な住居施設が、公邸だった。
クリフの父親もまた一年の半分を公邸で過ごす。公邸には家族とともに暮らす事ができるが、 クリフは軍人である為、GB軍区の独身寮に住んでいる。
久しぶりに訪れる、もう一つの我が家は、厳かにクリフを待っていた。緑の生きた塀からは微かに白い建物を見る事ができる。
最初の門をくぐり、十分ほど歩くと玄関が見えてくる。玄関には白いブラウスに、淡いベージュのロングスカートを穿いた女性が立っていた。
クリフは小走りでその女性に近づく。目線がはっきり合うと、足を折り会釈した。
「お久しぶりです。母上」
母親は、厳しい表情を和らげ、笑顔でクリフを迎えた。
「元気そうで何よりです。お入りなさい。お父様がお待ちですよ」
部屋の中にはいると、管理人のセブがやってきて、クリフのコートと荷物を自然に受け取った。
「ありがとう。セブ」
セブは笑顔になった。セブは笑顔になると右頬に小さなえくぼが現れる。
「おかえりなさいませ。クリフ様」
母親は優美な足取りで、階段を登っていた。クリフは一定の距離を保ってついて行く。
「クリフ。何をしたの?お父様、ご立腹の様子でしたわよ」
「……」
「まあ、良いですけどね。お父様の言うことばかり聞いているようでは、大物にはなれませんからね」
「母上は私に大物になって欲しいのですか?」
クリフの声には、嘲笑の響きがある。
「さあ、どうでしょう。私はアレンが大物なだけで十分ですけどね」
「本当に母上は父上を愛しておいでなのですね」
「そういう言葉で言われると、恥ずかしいわね」
母親は180度回って、クリフと向かい合った。クリフは一歩前に出した足を引っ込める。
「私は、もう、クリフが何をしようと興味はあるけど、関心はないの。あなたの生き方なのですから、責任を持って生きれば良いのではないかしら」
「母上は昔から私に甘いですね」
「ふふふ。そうかしら。その割に、クリフは私の事が嫌いだったように感じましたけど……」
母親は、歩き始める。
「反抗期の為でしょう」
「そうね。そういうことにしておきましょう」
クリフの目の前にいる母親は育ての親であり、生みの親ではない。クリフが7歳の時に父親と結婚したようだ。それまで、クリフには母親の記憶がなかった。その為、母親という概念を理解するのに少し時間がかかった。
母親は明るく、活発な人だ。そして、少し変わっている。クリフに母親と呼ばせる為、未だにクリフに自分の名前を名乗った事がない。
3階の一番奥の部屋につくと、母親はノックし、ドアを開けた。
「アレン。クリフが帰ってきましよ」
アレンは、オークでできた机の奥にあるソファーに深く腰を掛けていた。
「私は失礼するわね」
母親は、アレンに穏やかな口調で言うと、ドアを閉めて出て行った。クリフはドアが完全に閉まってから、部屋の中央にゆっくり歩いた。
部屋は広いが、置かれている家具は多くない。
「今日は、私の息子として会いに来たのか、大尉として会いに来たのか」
クリフは、膝を曲げてから最敬礼をした。上官に会うときの礼儀である。
「よろしい。意見書を読んだぞ。なぜあんなものを書いた。おかげで、お前を昇格させるのに、反対の者が多くて難儀した」
クリフは、軽く頭を下げてから答えた。その表情から、クリフの本心を読み取ることはできない。
「恐れながら申し上げます。軍の最大の役割は、国防であると存じます。それを最も脅かす存在がGDのレジスタンスと考え、意見書を提出しました」
「そんなことを聞いているのではない。この意見書は、政府見解と違う部分があるな」
アレンは机を二回叩いた。
「青藍よりシーワンの方をより警戒すべき、という部分でしょうか」
「そうだ。青藍はGDに逃走した軍人で組織されている。青藍が危険なのは、明白だ。シーワンはGDの人間の寄せ集めに過ぎない。そこまで、警戒すべきとは、考えにくい」
「恐れながら、私は今回意見書で、シーワンの不明瞭な点を十分な調査をもとに明確にしました。シーワンの規模は青藍より遥かに大きく……」
アレンは、失望を声色に混ぜた。
「何度も言わせるな。シーワンはGDの寄せ集めに過ぎない。とるに足らない存在だ」
クリフの表情、口調は変わらない。
「今回の調査で、シーワンの活動拠点を断定する事ができませんでした。偵察衛星が5台設置され、ドーム内のことは1ミリ単位で把握できるはずです。それにも関わらず、なぜでしょうか。この事実一つでも、シーワンを警戒するに十分だと考えます」
「軍の保有するGDに関する情報は、8割が偵察衛星によるものだ」
「はい」
「その偵察衛星が、場所を断定できない組織を認めるのか?この意見書には、信憑性がない」
「シーワンは政府の公式見解で存在を認められています」
アレンは思わずため息をついた。
「なぜ、無駄な荒波をたてる。お前は何もしなくても出世が約束された身だ」
「できれば、自分の力で出世したいと思います。親の七光りと影で言われるのは、面白くありませんから」
クリフは頭を下げた。上官に申し出をするときの姿勢だ。
「何だ?」
上官が意見を聞く意思表示をした時、頭を上げる。
「私をGD調査の任務を与えて下さい」
「何だと!」
「私は知識としてGDを知っているだけです。GDが如何なる地か実感したいのです。父上としましても、政府見解に異を唱えた息子に厳しい対応をしたと評価されるでしょう」
GD調査隊の帰還率は30パーセントである。そのため、この任務は左遷または島流しとして認識されている。
アレンは少し考えた。
部屋に沈黙が広がる。
「分かった。そうしよう」
「ありがとうございます」
クリフは足を折り、頭を二回下げた。
「お前、いつからこんなこと考えていたのだ」
「ずっとです」
「そうか、GDに連れて行きたい者はいるか」
「はい。許されるなら、リン准尉とエドガー少尉を」
「レイは連れて行かないのか」
アレンは軽い皮肉を込めて行った。
「お心遣いありがとうございます。今回は、二人お貸しいただければ十分です」
「そうか、分かった。ところで、今日は夕食を食べて帰るのか?」
「いいえ。このまま帰ります」
「母が残念がるな。……だが、その方がいいだろう」
「ハッ。では、失礼いたします」
クリフは頭を下げると、右足を一歩後ろに下げた。右足を軸に、アレンに背中を向ける。その後は、扉の前にたどり着くまで、アレンの姿を見ることはない。
アレンは中断された仕事を再開する為に、パソコンの電源を入れた。クリフが部屋を出る前、礼をする為アレンを見たとき、アレンの視線はすでにクリフに注がれてはいなかった。
クリフはそれを当然だと、感じていたし、全く気にしていなかった。
クリフが一階に降りると、セブが近づいてきた。手にクリフのコートと鞄を持っている。
「お帰りですか?クリフ様」
セブを見て、クリフの表情が柔らかくなる。
「ああ、気が利くな」
「いえ、あの……」
セブが口ごもると、階段から母親がまるで蝶が舞うように降りてきた。
「クリフ、帰るの?」
「はい」
「せっかく、夕食は一緒に食べられるかもしれないと、思っていましたのに」
「申し訳ありません」
母親は、目を軽く伏せ、ため息をついた。
「仕方ないわね。身体には十分気をつけるのですよ」
「ありがとうございます」
クリフはセブから荷物を受け取ると、見送りはいらない、と告げ一人で行ってしまった。
母親は、急いで3階に上り、アレンの部屋をノックした。
「お仕事、忙しいかしら?」
「いや、別に……」
アレンはそっけなく応える。
「ありがとう」
母親はそう言うと、アレンの座っているソファーの後ろに立った。そこにある窓からは、屋敷の前面が見渡せるのだ。クリフが足早に歩く姿が見えた。
「本当によく似た親子ですわ」
「そうか」
「ええ……。きっと、クリフも貴方と同様、家柄とか関係なく、自分の力で地位を確立して行くでしょう」
「すごい自信だな。クリフは今度、調査団として、GDに行くぞ」
母親は、さすがに驚いてアレンの方を向いた。アレンは、机の上に浮かんでいるパソコングラフィックスを見ていた。仕方なく、母親は窓の外にまた目を向ける。すでにクリフの姿は見えなくなっていた。
しばらく沈黙して、母親は口を開いた。
「可愛い子には旅をさせろ。ですわね。ここで潰れてしまう子なら、それまで……ね」
一週間後、正式にクリフの元に辞令が出た。それは瞬く間に話の種になった。
「クリフ少佐、GDにいくらしいな」
「ああ、意見書とかだしてGDにこだわっていたからだろ」
「だが、それだけでGDってのは、厳しいんじゃないか」
「いや、意見書って言うのは、公式見解に反対するものだからな。内容に寄れば、それくらいあるんじゃないか」
「19歳で大尉様、21歳で少佐様。出世間違いないと思っていたが、もう、終わりだな」
「まあ、少佐昇格で、最初の任務がGD調査隊だからな。少佐といってもな」
「それよりも、生きて帰ってこられるかだろ」
「確かにだ。お供は2人だけだろ。それも、評判の悪いクズ。体のいい粛清だな」
嘲笑のこもった目線が、クリフには注がれていた。
クリフは一人、そんな視線を気にする様子もなく歩いている。レイはクリフを見つけると風のようにやってきてクリフの耳元にささやいた。
「クリフ様。どういうことですか?」
「何のことだ?」
レイは興奮している。
「辞令のことです」
「ああ、そのことか。ここで話すのは好奇の目が痛いな」
「わかりました。いつもの所でお待ちしてよろしいでしょうか?」
「ああ」
「では、お待ちしています」
レイはクリフの頭を軽く下げ、離れて行った。
仕事が終ると、クリフはGBにある高層ビルの一室に入っていった。部屋に入ると、すでにレイが待っていた。
「早いな、レイ」
「さっそくですが、本題に入ってもよろしいですか?」
レイの表情は厳しかった。
「怖い顔しているな。ああ、もちろんだ」
クリフが座るとレイはいつものようにコーヒーを出す。
「調査団の話はいつ頃から考えていたのですか?」
「一年ぐらい前かな」
「私には一言も話してはいただけませんでした。仕方ないことかもしれませんが、私は信用されていなかったのでしょうか」
「いいや、違うさ」
クリフは、無邪気な笑みをレイに向けた。
「言ったら、レイはついて来ると言うだろ」
「もちろんです」
「レイを連れて行く気はなかったから、言わなかった」
「どうしてですか?」
「私がこっちにいない間は、レイにはやってもらう事がある。私には敵が多いからな」
「……」
レイはクリフを真っ直ぐ見ている。
「私は帰ってきたら、特進することは間違いないだろう。レイ、手を抜くなよ」
クリフの意志が揺ぎ無いものである事を、レイは確信した。
「わかりました。クリフ様のお留守は、私が、守ります」
「よろしくな」
レイの目にやっと厳しいものがなくなった。クリフはホッと胸を撫で下ろす。
「ところで、調査団がクリフ様を入れて3人というのは、どういう理由なのでしょうか?」
「ああ。本当は一人で行きたいのだが、そうは行かないだろう。だから、必要最低限の人数にした」
「エドガー少尉とリン准尉は信用できる人物なのですか?あまり良い評判を聞きませんが……」
「どうだろうな。会った事もないから、分からない」
「嘘をつかないで下さい。クリフ様が考えなく、判断を下すとは思えません」
「ははは、そうかな?」
クリフが自嘲的な笑いを浮かべた。
「今回は身寄りのないもの選んだ。さすがに、他人の人生を台無しにする可能性があるのだからな」
「ですが、危険な任務です。よく知ったものを連れて行かれた方がよかったのでは」
「ははは」
クリフは今度、豪快に笑った。
「レイ。私を見くびるなよ。こんな任務で死ぬとしたら、私などそれまでということだ。知力・体力・時の運。全て揃ってこそ、至高の座を目指す事が許される」
「ハッ。了解しました」
「では、この話はここまでだ。レイには頼みがある。私がいない間留守を頼むのは、レイしかいないのだからな」
「ハッ」
二人は、穏やかな表情で話を始めた。二人が同じ方向で話を始めた、証であった。
エドガー少尉は金髪に青い瞳を持った、美丈夫だった。身長は、195センチあり、人目を惹く。笑うと哀愁が漂う。さぞ、もてるだろうと、クリフは思った。今年35歳、独身である。
それに対し、リン准尉は寡黙な印象を与えた。黒髪に、黒い瞳。筋肉質な体は、軍服を小さく見せていた。目つきが厳しく、人を寄せ付けない雰囲気がある。リンの身長は198センチである。年齢はエドガーの2つ下、33歳である。
クリフは188センチ。二人なりの好奇の目が、クリフの頭上に注がれた。
「私がスチュワード・クリフ少佐だ。年は下だが、階級は上なので、調査団では私が指揮を取る」
エドガーは始終顔をにやつかせていた。
「たった3人の調査団だがな。クリフ少佐」
クリフは21歳の誕生日を迎えると同時に、少佐に昇格した。
「私は今回の任務で、エドガー少尉、リン准尉に特別な事を要求する気はない。私について来いとも言わない。ただ、できる限りの協力を要請するだけだ。よろしく頼む」
クリフは頭を下げた。
それに対しエドガーは、口笛をヒューと吹いた。
リンは、相変わらず無表情のままで、何も言おうとしない。
クリフもさして、二人に興味がなかった。
三人の人生は、今交わったばかりだ。




