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第三章

 一年が過ぎると春菜の体もようやくシーワンの生活に慣れてきた。それでも、休憩時間に皆と同じように運動しようとは思わない。頑張って皆の中に入るほうが良いかもしれない。だが、無理はしたくなかった。

 春菜は休憩時間を人のほとんどいない運動場の隅でボーっと過ごす。みんなは窮屈そうにボールで遊んでいた。

 今日の午前中は雰囲気がいつもと違った。ソンベンの機嫌が異常に悪く全員に伝染したようだった。いや、最近中隊長に始まり、みんなもイライラを隠せない。原因はネージュが長く姿を見せない為のようだ。春菜もネージュに会った事はない。不安がシーワン内に広がっているのだ。

そんなことを考えていたとき、春菜の耳に怒声が届いた。

「お前、何すんだよ」

 春菜は思わず立ち上がった。誰の声か、春菜の位置からは確認できない。異様な雰囲気に鳥肌が立った。声の方に急ぐ。

膝を地面についているルナスサの姿がはっきりと見えた。ルナスサは横も縦も人一倍大きい。ルナスサは春菜と同じ部隊だが、部屋は違う。口数が少なく、話したことはなかった。

「図体がデカイだけで、のろまじゃないか!」

 春菜にはルナスサが拳を握り締めるのが見えた。それは振り上げるためではなく、我慢するためだった。人が集まり輪を作り始める。春菜も輪の一部になる。輪を掻き分け最前線にたどりついた時だった。標準的に見たら体の大きい、だがルナスサと比べると一回り小さく見える耳まで真っ赤にしたコンフの右手が鋭く動こうとした。周囲の声が大きくなった。

「ダメだ」春菜の頭の中に赤いランプが点滅した。春菜は何も考えていなかった。ただ、体が勝手に動いた。

全身全霊の力を込めて、興奮したコンフの腕にしがみつく。

 周りではやし立てていた者たちの声が一瞬止んだ。コンフは不機嫌そうに腕を大きく振った。春菜は吹き飛ばされる。

 春菜は喉がつまり咳き込む。

「コンフ、やってしまえ!」

 怒声が輪から飛んできた。それに合わせ、一瞬止んだ罵声が復活する。

 コンフは大きく頷き拳を振り上げた。春菜は起き上がりながら、声を張り上げて叫んだ。

「無責任なことを言うな!」

 春菜はルナスサとコンフの間に割ってはいる。そして、はやし立てる周りを睨みつけた。

「ルナスサが何をしたか知らないけど、この雰囲気は何よ」

 ルナスサは何も言わず黒い巨体は地に膝をつけたままだった。

「そいつが、俺にぶつかったんだ」

 コンフが唸る。春菜は思わず「はぁ」と言いそうになった。春菜より明らかに年上で、体の大きい男の発言とは思えない。しかし、場の雰囲気は春菜の思いとは逆だった。コンフに対して声援が飛ぶ。

 なぜ、ルナスサは何も言わないのか。春菜は我慢できなかった。春菜は罵声に対抗して、声をさらに張り上げる。春菜の声は、コンフはもちろん野次馬達にもはっきりと聞こえただろう。

「ぶつかったから何だって言うの?運動場は広くないし、仕方がないじゃない」

 春菜の声は良く通る。

「新入りはだまれ!」

 コンフには春菜と言い合う気持ちは全くないようだ。コンフはルナスサに向って拳を振り上げた。春菜はとっさに間に入る。

 ドカッ。

 春菜の足が地面から離れた。顔に強烈な痛みが走り、口の中に血の味が広がる。

「お前、何するんだ……」

 春菜は倒れた。コンフの声は、動揺していた。今度は簡単に起き上がれない。足がガクガクしている。広場の外から、カタリーナが走ってくるのが見えた。

「あんたこそ何がしたいの?」

 痛みと衝撃にこらえ、なお、鋭い視線で春菜はコンフを見上げた。

「ルナスサは何もしようとしてないのに、一方的に殴るの?おかしいよ。あなたにとってシーワンは何なの!」

 春菜が叫び終わると中隊長達の声が聞こえた。

「何事だ」

 ソンベンに第三部隊イシュー中隊長、第三部隊グオハ中隊長、第二部隊イオリ中隊長と続く。

 アリスとカタリーナがコンフと春菜の間に立った。トモはルナスサとの間に立つ。ユキが、春菜を抱えた。

「大丈夫か?」

 ユキが耳元でささやき、春菜は頷いた。

 その状況を見ただけで皆は状況を理解できたようだ。コンフが慌てた様子で、自分の都合のいいように弁解をする。周りは静かになり、コンフの意見を誰も否定しなかった。春菜は違うと大声で叫びたかったが、トモが首を振って静止する。春菜は急にどうしようもない無力感に襲われた。

「コンフの言うことは本当か?」

 天然パーマに四角い顔が特徴的なグオハがコンフ、春菜、ルナスサそして周りに目をやった。誰も反応しない。

 春菜は反論すべきかどうか一瞬悩んだ。

「よしわかった。騒ぎを起した春菜とルナスサ反省室五日だ」

 周りが一瞬ざわついた。

 春菜達に好意的なものではなかった。春菜は体が急に熱くなったのを感じた。

 春菜は起き上がりながら、叫ぶように言った。どうにか理性的に言おうとする。

「グオハ中隊長、私は納得できません。コンフが言ったことが正しいとしても、彼にも非があるではありませんか」

「私もそう思います」

 さすがにトモが力強く頷きながら、春菜の意見に賛成する。

 今度はソンベンが言った。

「春菜。お前はどうして騒ぎを大きくしたのか?」

 コンフの勝ち誇った顔とソンベンの侮蔑を込めた視線を春菜は見た。春菜は頭に来た。

「新入りが何もいえないような組織に未来なんてない。ゴホッ。正しい事は誰が言っても正しいし、正しくない事は誰が言っても正しくない。そう思っているから、みんなここにいるのではないですか。ハア、ハア」

 殴られることがどれだけ体力を消耗するか春菜は始めて知った。喉がつまり咳き込まずにはいられない。後ろで初めてルナスサが動くのがわかった。春菜は小さく振り向きルナスサを見た。目には知性の光が輝いている。

 春菜はわかった。だからスナスサに向って小さく笑顔を向けた。そしてしっかりと前を向く。

「何だ。その反抗的な目は!」

 ソンベンが叫ぶ。

「わかった。今回については春菜だけ反省室一週間だ」

 今度は明らかに周りから反対の空気が流れた。だが春菜にとってそんなことはもうどうでも良かった。

「反省室一週間に値する処罰を中隊長の独断で決める事ができるのでしょうか?」

 精一杯の嫌味を込めて春菜が言う。火に油を注ぐというなら、まさにこれがそうだろう。

 イシューら小隊長の顔にも難色が浮かんでいた。反省室は処分としてかなり重い。それは、独断で決められるべき事ではなかった。

「責任は私が全て取る」

 ソンベンが吐き捨てるように言うと、誰も何も言わなかった。

 ソンベンが春菜に近づくと、トモをはじめ部屋の皆は壁を作ろうとした。が、ソンベンはそれを払いのけ、腕を掴んだ。

 その間から、コンフの脂ぎった顔がのぞく。

 春菜に抵抗する気はなかった。

 春菜だけが連れて行かれた。


 反省室は春菜に取って懐かしい場所であった。光に乏しく暗い部屋はまさに、一年前に来たことがある。

 しばらくしてトモが荷物を抱えてきた。

「無茶なことを……。食事は一日一回。水は一日このバケツ一杯だけだ。このタオルを一週間使ってくれ。こっちには薬などが入っている。治療は自分でしないといけないんだが……」

 トモは表情を緩ませ言葉を詰まらせた。トモが合図をすると身軽な動作でマキノが入って来た。春菜はびっくりして声をあげそうになったが、口の中を切っていて痛さに消えた。

「まったく、女の子が顔に怪我をして治療させないなんて。傷が残ったらどうするのよね」

 マキノは慣れた手つきで応急処置をする。

「ありがとうございます」

 春菜は言葉をとぎらせながら言った。

「何言ってんのよ。当たり前のことしてんのよ。私は、春菜は間違ってないと思う。今回の中隊長達の判断は間違ってる」

「マキノそれ以上は言わないのよ」

 トモはマキノが言い過ぎないように注意した。マキノは少し厳しい顔になる。

「分かってるわよ。上長の悪口を言うことは、組織の団結を乱すから言ってはいけないこと。でも、今回はネージュ様なら必ず分かってくれるわ」

「そうね」

 トモは呟くようにマキノに賛成した。

「すみません。聞きたい事があるのですがよいですか?」

[いいわよ。何?]

 トモとマキノが同時に返事する。

「コンフはどうしてルナスサに辛く当たるんですか?」

 トモが答える。

「春菜には分からなくて当然か。そもそも政府の地域分けは、人を『差別』する為の制度だったんだ。目的は権力集中と人心をまとめる為。その第一段階は巨人族の迫害から始まったんだよ。ルナスサをみても分かるだろうが、すぐに自分とは『違う』ってわかるだろ。それが、標的になった。理不尽な理由さ。そして巨人族が逃げ出した場所は、他の場所と区別された。それが、GDの始まり。その後、GDには生活が困難になった者や犯罪者が逃れて住み着くようになった。生まれたばかりの子供を捨てる場でもあるけどね……」

 トモは急に口を閉じた。マキノが慌てて口を開く。

「今はもう巨人族はほとんどいないの。GDに移り住んだ人々は潜在的に巨人族を排除したのね。どんな人間の心にも『差別』ってやつがあるのよ。それを表に出すか出さないか、又は打ち消すかで人間の価値が問われるんだろうね。ルナスサは今までシーワンの誰も傷つけたことないし、ネージュ様を信頼していることを皆知っているはず。でも、コンフみたいな単純なやつは気分に波ができやすくてね。どうしようもないのよ」

 春菜は心に靄の様なものがかかるのを感じた。マキノはこの話は止めようという感じで声を明るくした。

「これ、ソウタからよ。飲み薬。よく効くのよ。毎日飲みなさいね」

 コツ。コツ。物音が近づいてきた。

「誰か来る」

「長居しすぎたね」

 トモが頷くと、マキノは闇にまぎれた。あまりのあざやかな動きに春菜は息を呑んだ。

「たぶん。もう来られないわね。一週間頑張るのよ」

 トモが春菜の肩にそっと手を置き、ポケットにそっと何か入れた。次にすばやく荷物を片付ける。ドアを開けて、鍵を閉めた。

 トモが出て行くと、春菜はドアに耳をあてる。ソンベンとトモの会話を微かに聞き取る事ができた。

「遅かったな」

「そうですか。申し訳ありません」

「どんな理由があろうと、私に逆らうな」

「はい」

「もういい。水を届ける者を変える。お前はここに来るな」

「分かりました」

 タオルは一枚だけで、バケツは大きくない。春菜は数分間それを見つめた。そして、ドアから離れると、あの時と同じように壁に背を当て座る。傷口から痛みが走った。頬に手を当てると、口の中が染みる。

「これではいけない」

 春菜はさっき起こった事の理由を完全に理解しているわけではない。あの時、周囲にいたみんなの雰囲気は異様なものだった。

 気分転換に知識として知っている‘外’の世界に思いをはせることにした。

 そこは、上を見上げると空と言う空間が広がっていると聞く。どこまでも果てなく広がる空間で、昼は青く、夜は黒い。昼と夜の間は空が黄金色に輝くこともあるという。春菜は黒い空は想像ができた。ボールの中も夜は黒いからだ。しかし、青や黄金色の空を想像することはできなかった。

 地上には木々が生い茂る場所があり、人が住めない場所に砂場がある。あまりに広いため、言葉や決まりの異なる社会がいくつもあったらしい。

 そして、大地の果てには海がある。青や緑の色のついた水がどこまでも広がっている。海は、母なる海とも呼ばれ生物の始まりの場所と言われた。

 外のことを考えると春菜はしばし、幻想の世界に足を踏み入れた気分になる。ただ、そんな世界が人々の生活の場であった時、そこには現実が存在する。奇麗事ばかりではなかった。

 白い肌の者が世界中に影響を与える『力』を持った時代がある。白い肌の者たちは自らの幸福のために故郷を離れ、様々なことをした。やがて、力により白い肌を持たない者を見下すようになった。特に黒い肌の者を奴隷とした。

 それから、黒い肌の者が白い肌の者と同等の人間として権利を回復するまで長く時間がかかる。人には無意識のうちに自分より下の者を探したがる習性があるのかもしれない。一度定着してしまった概念を無くすのは簡単ではないだろう。

 それは今から数百年いや、数千年前の出来事である。春菜自身は黒い髪に黄色と白の中間のような肌をしている。だが、今まで肌の色でどうだ、ということを考えたことがなかった。考える環境になかった。だから、外見でルナスサが不当な行為を受けなければいけないとしたら、それはおかしなことだった。

 このような春菜の思考は、安穏な生活の中から生まれたわけではない。春菜の生きてきた道は、生まれ持った状況は関係ない。結果を残すことが道を切り開く唯一の方法だった。春菜はGAの第三高校に入学した頃、成績は中の下だった。この中途半端な成績はクラスにとって居ないも同然だった。春菜は当初、別にそんなことは気にしなかった。春菜は他人に特別な関心を示す方ではなく、グループに属さなくても一人でやって行けると思っていた。だが、奨学生の身ではそれは許されないと分かった。春菜は成績を上げることで 煩わしい人間関係から解放された。

 その中で、春菜は理想の人間関係を描いていた。それは、利害関係のない、互いを思いやることから始まる人間関係だ。シーワンにはそれがある。そう感じたからこそ、春菜はシーワンに希望を見出せたのだ。

 暗い部屋の中で春菜は小さく首を横に振り、呟いた。

「これではいけない……」

 それはまるで呪文のように暗闇に溶け込んだ。 白を基調とした整った部屋に一人、ため息とともに呟きが漏れる。


 白い部屋に、呟きが響く。

「まあ、仕方ないな」

 トントン。ギー。

 ノックの後にドアが開いた。

「やあサイレス、どうだい?」

 サイレスは整った顔を崩さず報告した。

「ネージュ様の言う通り他の組織に協力を求めました。他も最近の政府の動きには危機感を感じています。青藍の星輝氏よりネージュ様へ伝言です『正しい時に、正しいタイミングで、協力を求められたら、断る理由はない』ということです」

 ネージュは顔をしかめた。サイレスの言葉の中に不愉快な言い回しがあったからだ。サイレスはそれを知っているが、改めようとはしない。

「ネージュ様はやめろといっているだろう」

 ネージュは口ごもった。サイレスとは長い付き合いになるがどうしてこう固いのだろう、そう思いながらサイレスが相手にしてくれそうにないので、話を戻す。

「星輝らしい発言だな。青藍が共に行動することになれば、自然発生的に他も協力してくるだろう。まだこちらも準備段階だ」

「こちらから動くことはできませんか?」

「クーデターでも起こす気か?」

 言った後でネージュは首を振った。

「クーテターでは何も変わらない……確かに、一石を投じることにはなるだろう。だが、根本を変えることは不可能だ。私はシーワンをそんなことのために作ったのではない」

「ですが時間が……」

「慌てて事を起こしても、やり直す時間がないだろ。急がば回れ」

「そうですね……」

 サイレスは語尾を濁した。

「まあ良い。気になる事があるんだ」

「何でしょうか?」

「私たちのシーワンで起こった事なんだが……」

 ネージュは手を伸ばしパソコンのキーを叩いた。パソコンの画面に乱れた映像が映る。画質は悪く、雑音は多いがどうにかどんな会話が交わされているか分かった。

「ルナスサに、コンフ……」

 サイレスは画面に映った人間の名前を次々に口にした。

「あの子は、確か……」

「そう、一年くらい前かな。サイレスを追いかけて、シーワンに入った子さ。名は春菜」

 映像は続いていたが、春菜一人が連れて行かれる場面を過ぎると、ネージュは話し始めた。

「せっかく入ってくれたのに、落胆させただろうな。私もサイレスも内に目をやる事が疎かになっていた。中隊長クラスがこれでは、全体の質の低下は免れないだろうな」

「残念ですね」

 ネージュはしばらく下を向いた。しばらくすると、サイレスの方を向く。押さえてはいるが、怒気が顔からこぼれる。

「この過ちは、どうにかしなくてはね」

 ネージュは拳を握り締める。

「落ちついてください。この類の言い争いを完全に無くすのは現段階では不可能です」

 サイレス自身も腹立ちを感じていた。だが、ネージュも考えているだろう次の一手の為に、前に進まなければいけない。

「ありがとうサイレス。だが、この映像も凶報ばかりを伝えたわけではない。シーワンの志をちゃんと理解している者がいることも分かったから……」

「そうですね」

「春菜はとても良い子だね。こんな子が偶然シーワンに入ったなんて信じられない気がするよ」

「何か裏があると思いますか?」

 サイレスは慎重な意見を述べた。ネージュはそれを吹き飛ばすように、顔に笑みを浮かべる。

「それは考えすぎだよ。サイレス。目立つ子ではあるが、彼女が自分で意識した行動でないことは明白だ」

「なぜそう言いきれるのですか?」

「目だよ」

「目?」

「春菜は人の目を良く見るんだ。目は口ほどにモノを言うっていうだろ。それに、経歴はすべて調べたが、政府の者ということはないだろう。あったとしても、それはそれで良い」

「良い子だからですか?」

「そうだ。会いたいな。顔色もだいぶ落ち着いたし、長く皆に会っていないし。よし、決めた。会いに行こう」

「気持ちは分かりますがノーグ先生に確認してからでないと……」

「では、いちよう聞いておくよ」

「はい。私から伺っておきます」

「えっ?」

「私はネージュ様を信用しています」

「おう」

「ですが、ネージュ様のご自身に対する判断に対しては、半信半疑です」

「ひどくないか?」

「ひどいですか?」

「ひどいと思うぞ。だが、一つ言っておくぞ」

「はい」

「私は、私よりシーワンが大切だ」

「存じております」

 そう言いながら、サイレスは心に浮かんだ言葉を飲み込んだ。

(私は、シーワンよりネージュ様が大切なのですよ)

「後一つ、言っておきたい事があるんだが」

「はい」

「二人の時は、ネージュ様はやめなさい。いや、やめてくれ」

 サイレスは、静かに首を横に振った。

「ダメです」

「何で?」

 ネージュの声は大きくなった。対照的にサイレスの声は、冷静だ。

「それが、私のやり方だからです」

 ネージュは、サイレスの顔をじっと見つめた。サイレスはネージュの視線をそらそうとはしない。全身で受け止める。

 ネージュはため息をついた。

「分かった。これからも、よろしく頼むよ」

「はい。ところで、ネージュ様、のどが湧きません」

「あ、ああ」

「では、今日はハーブティーにしましょうかね」

「……」

 ネージュはハーブティーがあまり好きではない。サイレスはもちろんそのことは知っている。

「わがままを言ってはいけませんよ。お茶の葉を手に入れるのは大変なんですからね」

 サイレスは一転穏やかな表情で、部屋の外に出て行った。

 ネージュはサイレスの出て行ったドアに向って呟いた。

「ありがとうサイレス。でも、私も寂しく思うときがあるんだよ」

 ネージュは目を固く閉じた。意識を集中させる。部屋には、つけっぱなしのパソコンから雑音にまぎれた微かな会話が流れていた。


 一週間、春菜は反省室の中でストレッチを欠かさなかった。怪我の治療は順調のようだ。ソウタの薬のおかげだろうか。痛みはまったくない。

始めの二、三日はふさぎこむことが多かった。それを過ぎると、もともとプラス思考の春菜は元気を取り戻した。落ちついて考える時間は十分にあった。

 腕立て伏せも今では50回はできるようになった。シーワンに入ったばかりのときは一0回が限界だったのだから、すごい進歩だ。

 外から足音が近づいてきた。春菜はそれを無視して、腕立て伏せを続けた。

「一週間経った。出ていいよ」

 トモがドアを開けて入ってきた。

「はい」

 返事をすると春菜は立ち上がり、トモの後につく。

「体作り、ちゃんとしてたんだね。えらいよ」

 外に出るとトモは急に春菜の方を向いた。顔をまじまじと見る。

「良かった。顔の怪我は大丈夫のようだね。いや、別にそういうわけで心配していたわけではないのだが……。今度、ネージュ様が新しく入って来た者たちとお会いになると言うことだ。春菜、あなたも行くことになるだろう。私はソンベン中隊長に報告に行かなければいけないから。一人で帰れるね」

 訴えるように言われた。春菜は頷くしかなかった。安堵した表情を浮かべて、トモは足早に春菜の前から去っていった。

 ソンベンの事を考えると、春菜の心は穏やかではいられなかった。

 部屋に向って走っていると、隠しても隠し切れない巨体を春菜の目はとらえた。

「ルナスサ?」

 確信はあったが尋ねるように春菜が声をかける。ルナスサは振り向いた。春菜の倍はある。癖のある長い髪を後ろで一つに結んでいた。

「あなたに迷惑をかけた。すまない」

 春菜は驚きの表情とともに、明るい声で言った。

「何を言ってるんです。ルナスサは悪くないですし、謝る事はないですよ」

 それでもすまなそうな顔をしているルナスサを見て、春菜は肩にではなく肘をポンポンと叩いた。

「もう、そんな顔しないで下さい。この一週間辛くなかったとは言えませんが、無駄な時間を過ごしたとは思いません」

 春菜はルナスサに笑顔を向けた。

 ルナスサはその笑顔を見たとき『太陽』を思い浮かべた。もちろん、ルナスサは太陽を見た事がない。ルナスサにとって太陽とは、自ら光り輝く力を持った者。光源を表していた。

「私たちこれから仲良くなれますよね。部屋に戻りましょう」

 年上のルナスサに対し春菜は穏やかな口調だった。春菜は、なかなか動こうとしないルナスサの手をとった。

 突然、ルナスサが地面に膝をついた。今までとは違い貫禄があり、かつ優美な動きだ。春菜は驚かずにはいられない。そんな春菜の様子を見ながら、ルナスサは春菜の片手を取った。

「私はあなたに未来を見ました。ネージュ様はすばらしい方です。でも、私が直接お使えするのはあなたです。春菜様」

 春菜の頭の中にはクエスチョンマークが無数に浮かんでいた。

 手を振り解くことが悪い気がして、自由な手と体全体を使って意思表示をした。

「えっえっえーと。お使えするとか、ダメですよ。……よし、友達になりましょう。春菜様なんて言ったらダメですよ」

 春菜の様子を見て、ルナスサは初めて微笑んだ。いい顔だと春菜は思った。

「わかりました。では、部屋に戻りましょうか。春菜」

「あ、はい」

 ルナスサはすでに立ち上がり、部屋に向ったかって歩き始めた。春菜もとりあえず元気に後につく。

 部屋に戻ると、更に春菜を驚かせることが起こった。春菜が部屋に入ると割れんばかりの拍手で迎えられたのだ。春菜が当惑して立ちすくんでいると、アリスがやってきた。

「ごめんね。私たちが間違っていたんだ」

「えっ、どういうことですか」

 続いてカタリーナが近づいてきて言う。

「私たちがここにいるのは、皆が幸せになるため。それなのに私たち自身がそれを否定するようなことをしてしまった。春菜の行動が私たちにそれを気づかせてくれたのよ」

 部屋で一番身長の高いティファが言う。

「反省室に一週間も入っていたのに、元気そうで良かった。取り返しのつかないことになっていたら、私たち後悔してもし切れなかった」

 アリスが元気よく言った。

「取り返しのつかないことって何よ。私たちのシーワンでそんなことさせない」

「おう」

 部屋中のみんなが春菜の回りに集まって、言葉をかける。そのすべてに好意があふれていた。春菜は、丁寧にみんなと接する。ルナスサはその様子を満足そうに見ていた。

 政府の建設する地域には、一際高いビルを中心に、徐々に低くなるという特徴がある。GA特別地区だったここもその名残があった。中心の高層ビルは上層部が崩れ落ち鉄骨がむき出しになっているが、それでも十分に高い。明るければ、地域全体が一望できるだろう。

「やはり、ここにいらっしゃいましたか」

 大小のコンクリートの欠片が散乱したビルの最上部に細身のシルエットが浮かんでいた。それに向かい、数倍はあろうシルエットが話しかけた。

「ルナスサか。久しぶりだな」

 ルナスサが近づくと、ゆっくり振り向いた。わずかな光に浮かぶその姿は、暗闇に舞い降りた天使のようだ。

「一年以上も会わなかったことは、出会って以来初めてですね」

「そうだな。すまない」

「いえ、そんなことはありません。お身体は大丈夫ですか?」

「問題ない」

「ネージュ様に何かあれば、私達は路頭に迷ってしまいますよ」

「私は、シーワンをそんな弱い組織にしてしまったのかな」

 ネージュは苦笑した。

「残念ながら……」

「サイレスが居るのにな」

 ネージュの声に陰険な部分は全くない。爽快を極めた。ルナスサは、ネージュと話しているだけで、気分が明るくなるのを感じた。

「私を救って下さったのはネージュ様でした。ですが、私が不甲斐ないばかりになかなかお役に立てず……」

「そんなことはない。ルナスサ、前から言っているが、私直属の……」

 ルナスサが穏やかにネージュの話を遮った。

「ありがとうございます。ですが、ネージュ様にはサイレス様がいらっしゃいました」

 ネージュは何も言わず、ルナスサを見た。

「今日は、ネージュ様にご報告に参りました」

「ん。何だ?」

「第三部隊の春菜をご存知ですか?」

「もちろん知っている」

 ネージュは頷いた。

「春菜は私の太陽になるでしょう。正に、運命。正に、奇跡です」

「そうか。そうかもしれないな」

「ネージュ様には以前話した事がございました。私たちは太陽神を崇拝し、一人一人が主を見つけ仕えるのが慣わしです。昔は本家の主が太陽神の象徴でした。ですが、今はもう……」

 ルナスサは、一度言葉をとめた。息を整えてまた話す。

「太陽は自ら光り輝き、周りの星々を輝かせます。今の春菜はまだまだ力不足ですが、必ずシーワンの中核を担う存在になると思います。」

「一押しだな」

「はい」

 ルナスサの表情に迷いはない。

「そうか。良かった。私では力不足だった」

「いえ、そんなことはありません。私がここにこうしていられるのはネージュ様のおかげです。それからのことは、私の責任です。今度こそ、自らの役割を全うします」

 ハッ。ルナスサは殺気に似た強い感情を感じ、とっさにネージュを守ろうと行動にでた。しかし、ネージュは顔に苦笑を浮かべて、首を振った。

「大丈夫だ。ルナスサ」

 しばらくすると、その正体が現れた。

「サイレス様」

「なんだルナスサか。久しぶりだな」

 サイレスの厳しい表情は一転して、柔和な表情になった。

「ネージュ様。探しましたよ」

「すまない。突然、ここにきたくなってね」

「ネージュ様の行きそうな場所は全て把握していますから、大丈夫です」

「その割には、ここに来るのに時間がかかったようだが」

「すぐに来た方がよろしかったですか?」

「いや、ちょうど良いタイミングだったよ」

「では、私は失礼します」

 ルナスサは頭を下げた。

「ルナスサ。表情が明るくなったな」

「はい。主を春菜に決めました」

 サイレスは驚いた。

「あの子か……」

「はい」

「不思議なめぐり合わせだな」

「はい」

「やはり部隊に残る気なんだよな」

「はい。全力で頑張ります」

「そうか。お互い、自分の役割に全力を尽くそう」

 三人は二人と一人に別れて、その場を離れた。

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