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第二章

 彼女が目を覚ました場所は暗闇だった。とっさに起きたのか、夢の続きを見ているのか分からない。それが現実と分かったのは、全身を覆った鈍い痛みのせいだった。小窓もない部屋のようで、光はドアと思われる場所から微かにこぼれていた。

第一に、「ここはどこだろう?」当然の疑問が浮かんだ。

 落ち着くためにも、合理的かつ客観的に状況を確認するよう努めた。

 黒の軍に連れ去られたのか?

 だとしたら、あの男はどうなっただろうか?

 男の姿を思い出す。見た目も印象的なはずだが、思い出そうとすると、一番は目だ。今まで、何千という人に出会っただろう。だが、目が印象深い人に出会った事はない。強い目的意識とでも言うのだろうか。生きることに対する執着のようなものを感じた。

 では、どういう人間がそのようになれるのだろう。現在の社会システムでは、人は生まれながらに、生き方がある程度決まってしまっている。それに、脱線して歩むことは難しい。というか、知らぬうちにそういった選択肢を排除している。結局、諦めながら生きるのだ。

生きれば生きるほどに、がんじがらめになり、自由がきかなくなる……。

 GAを行き来し、色々な人に出会った。偉い人。優秀な人。成功した人。その逆の人たち。どの種類にも、あの男は当たらない気がした。

 これからどうなるのだろう。永遠にここに閉じ込められるのだろうか。実験台にされるのか?殺されるのか。死ぬのは仕方ないかもしれない。

 では、恐れることは何だろう。やはり、周りに迷惑を掛ける事、特に親に迷惑をかけることは避けなくてはいけない。

 彼女は首を振った。さすがにばかげた妄想だ。だが、判断基準は家族の絶対安全であるということを自分に確認する。

 ここに永遠に閉じ込められるのも嫌だ。閉じこめられてかなりの時間が経過している。その間、物音一つしていない。

 ドアの位置は分かっていた。出口は一つしかない。体当たりしてみようか。頭を使うことに飽き、体を使うことを考え始める。

 転びそうになりながら立ち上がった。

 その時、彼女の些細な願いは叶えられた。ドアの外から足音がしたのだ。

 しばらくすると、ドアは開き同じ服を着た男女が入ってきた。女の方はスラリとしていて身長が高い。男の方は頑丈な体つきをしている。彼女はまっすぐ男女を見つめた。女の方が彼女に声をかけた。

「立てるね。ついて来なさい」

 彼女は立ち上がり、2人について暗い部屋を出た。

連れて行かれた部屋には中年の彫りの深い威厳を備えた男が待っていた。2人の男女は敬礼する。彼女は部屋の中央に立つよう促された。後ろでドアが閉められる。まるで今から尋問が始まるような雰囲気だ。彼女の心臓は緊張の鎖で繋がれた。低く響く声で待っていた男が彼女に話しかける。

「君の名前は」

 彼女は冷静に今自分の置かれている状況を整理しようとする。自分の人生が大きな転換期を迎えていることは確かだった。足が震える。

「松門春菜です」

 声は思ったより大きく発せられ、部屋に響いた。威厳を備えた男は、机の上に置かれているパソコンに目を一瞬向ける。

「GC・七三一地区。家族構成は、父、母、妹、弟の計五人。義務教育を卒業後、奨学生として第三高校へ進学。この春、同高校卒業。第三大学進学予定。間違いないかね」

 春菜はうなずいた。部屋の中は静かな緊張に包まれている。男は続ける。

「今から2つの選択肢を君に提示する。選ぶのは君だ。まず始めに、私達の所属する組織について説明しよう。君は『シーワン』と言う名を聞いた事があるか?」

 春菜は集中した。頭の中で『シーワン』を幾度か唱える。微かな記憶がよみがえり、次第に輪郭がはっきりしてきた。確かテレビのニュースで聞いたことがある。GD地域の反政府組織の中にそんな名前があった。どちらかと言うと穏健派。不明な点が多い。聞き覚えがあるからにはかなり大きな組織のはずだ。

 だが、なぜ自分がシーワンにいるか分からない春菜は戸惑った顔をしていた。その表情を見て、威厳のある男は、知らないと判断したようだ。

「シーワンは、政府のやり方に異を唱えている。政府は私利私欲にまみれ、人を道具のようにしか扱っていない。そんな者達に、私達の未来を預けるわけには行かない」

 それから10分ほど『シーワン』について、威厳を備えた男は語った。ネージュと言う人物が設立した組織で、GD地域に住む者が奪われた人権を取り戻そうとしている。現在のボール内の認識ではGD地域で生まれた者及び生活している者は、人間としての権利を与えられていない。シーワンの目的はGAやGDといった地域分けをなくし、そこに新たなシステムを確立させ、継続させる事だという。

「これでシーワンのことは大体わかってもらえただろうか。では、君に問う。」

 男は一呼吸置く。春菜は覚悟を決めて、言葉を待った。重苦しい空気が、肩にのしかかる。

「単刀直入に聞く。

 ここで死ぬか。

 シーワンに入るかだ。

 ただ、入った後は、家族や友人に2度と会うことはできない。又、もし君がシーワンに不利益を与えるような行為をした場合、君の家族にも責任を持ってもらうことになるだろう。すでに、君の家族は我々の監視下だ」

 春菜の顔は時が停まったかのように硬直した。

「ちょっと待って、私は何でここにいるんですか?それよりも、私は、シーワンについて特別何かを知っているわけではありません。なぜ、家族が出てくるのですか」

 春菜の声は上ずっていた。

「我々のやっていることは、遊びじゃない。覚悟のない人間をシーワンに入れるわけには行かない」

 応える男の声に容赦はなかった。

「ちょっと、私の質問に答えてください」

 春菜の声は絶叫に近かった。

男は、思い出したように、表情を緩めた。

「すまない。少し説明を忘れていた。君は、黒の軍に狙われている。君の頭脳と、君の生い立ちは、黒の軍にもってこいなのだ」

「どうしてですか?」

「君は優秀だが、後ろ盾がない。君がいなくなったところで、抗議できるものはいないだろう。もし、帰ったとして、黒の軍は執拗に君を狙ってくる。君の家族にもちょっかいを出すのではないかな」

「では、あなた達は、私の家族を守る。その見返りに、私に組織に入れと言うのですか?」

「いや、規定だ。シーワンを訪れたものは入隊希望者か、スパイとして判断する。すなわち、シーワンに入るものは受け入れ、そうでない者は帰さない」

「そんな……」

 春菜は何も言えなかった。

「自分の行動に責任をとるんだな。ここは、そういう場所だ」

頭の中を言葉が駆け巡る。だが、春菜は迷わなかった。この選択を迫られた場合の答えはすでに出ている。悪い予感は当たるものだ。

「なら、死の選択肢を選ぶしかありません」

 春菜は顔が熱くなるのを感じた。

 威厳を持った男は微かに動揺する。

「なぜ、死を選ぶ」

 春菜に迷いはない。

「親に迷惑を掛けてまで生きようとは思いません」

 男は頷いた。

「まあ、そう急ぐな。3時間あげよう。ゆっくり考えなさい」

 春菜はまた2人の男女に先導されて来た道を引き返し、また暗闇の中に身を置いた。


 部屋の中は静かだった。さっきと同じ空間の静けさなのに、感じ方が全く違う。

 心が静かだった。

 理由もなく、思わず噴出し笑いをしてしまう。投げやりな気持ちだった。

 今までの自分の人生について考える。「死にたい」と思ったことは何度もある。うまくいかない事があるとすぐ、現実から逃げ出すために「死にたい」と心の中で思ったものだ。しかし、思うだけで実行に移した事はない。今のように現実的な問題として『自分の死』と言うものを考えた事はなかった。

 こうして、死ぬのか。

 波乱万丈の人生にどこかで憧れていた。だが、たった一日、いや数時間で、初めから終わりに辿り着いてしまうなんて……

全てがどうでもよくなっていく。

出した答えを変える気にはなれなかった。確かに、組織の中で上手くやれば生きることもできるし、家族を危険にさらすことはない。だが実際問題として、反政府組織への助力は背反罪として無期懲役又は死刑と決まっている。この罪状が、自分はもちろん家族に及ぼす影響がいかほどのものか、想像するのは容易い。

 この際、スパッと諦めて死んでしまう方が、禍根を残さなくて良いように思われた。死体がどこかで見つかれば、黒の軍も諦めてくれるだろう。

 人生最後の時間。穏やかに過ごそう。  春菜は、目を閉じた。

 熱いものが頬をつたう。

 暗闇は春菜の心まで入ってくるようであった。


 3時間経過。


 ギーーー。

 扉が開く。先の男女が入ってきた。今度は男が言う。

「時間だ」

 春菜はゆっくり立ち上がった。

 同じ道を歩き、3時間前にいた扉の前に立つ。二人の後ろで春菜は深呼吸した。開かれた扉の中は、3時間前と何も変っていない。

「さあ、君の選択を聞かせてもらおうか」

 威厳を備えた男が、良く通る声で春菜に聞いた。春菜は、震える声を掻き消すように大きな声をあげた。

「面倒くさいのは嫌いです。私が死ねば、黒の軍も諦めるでしょうし、後の憂いもなくなるでしょう」

 春菜の体が小刻みに震えだす。それを押さえる為に、必死に手を握り締めた。三時間考えた中で、自分にはこの選択肢しかなかったのだ。春菜の声に影響されたかのように、威厳を備えた男は声をあげた。

「では、私の結論を言おう。君はもう少し長生きした方が良いようだ。勘違いされては困る。シーワンは暗殺集団ではない。だいたい、黒の軍なら、君の死体でも、利用価値を見出せるだろう。その結果、君の家族が犠牲になることも、考えられるんじゃないかな」

 春菜は一瞬頭が真っ白になった。

「え……」

「大丈夫。君がシーワンの一人である限り、君の家族も君も、シーワンが全力を持って守る。約束しよう。これは、シーワン入団試験だ。君は合格したのだ。

では、本題に入ろう」

 春菜の戸惑いを無視して、男は話を続けた。

「私はシーワン第3部隊指揮官アルエルだ。これから私を呼ぶときは、役職名で呼ぶように。君は、第3部隊所属だ。第三部隊は総勢303人。中隊長10人。小隊長は18人いる。そこの左にいるのが第三部隊中隊長の一人ソンベン中隊長。右にいる女性がトモ小隊長。基本的に中隊長は教官であると考えてよい。細かいことはトモ小隊長に相談するように。間違ったことをしないように祈る」

「ですが……」

「大丈夫だ。私の見た限り、君はシーワンに入る資格を持っている」

 ソンベンが春菜の手錠を解き、正しい姿勢で春菜に話しかけた。

「ついてきなさい」

 春菜はアルエルに頭を下げた後で、ソンベン、トモに挟まれて部屋を出た。


 春菜は混乱していた。

 だが、昔から優等生を演じてきたおかげで、平常心を装うことには慣れている。

 階段を上り、梯子を登った。地下にいることはなんとなく分かっていた。だが、外に出て驚いた。

「これは……」

「初めてだと仕方ないかな」

トモが言った。

「ここはGDだよ。春菜が今まで生きてきた地域と全く違うだろ」

 薄暗い空間に、傾いたり、無理矢理あるもので修繕を繰り返していたり、廃屋としか言えない建物が雑然と建っていた。

 春菜は奥に見える高い建物を見た。上の方は、崩れ落ちているように見える。暗くてはっきりとは分からない。

「昔ここは、GA特別特許地区だったんだ。それがある事故で政府に、土地ごと見捨てられてね。GDの人間も怖がってここに近づこうとしないんだ。そこが、シーワンには好都合なんだけどね」

 春菜は無言で記憶を探った。

253年・3月起きた原発事故が頭に浮かんだ。偶然、政府の機密データーベースに入り込んでしまったとき読んだことがある。汚染はトリプルAにまで達した史上最悪の人災である。完全な汚染地域指定解除は不可能と判断されていた。そのデーターベースにも、場所は機密として記されていない。その場所に自分がいるとは……。

春菜はそのことは口に出さず、別の事を聞いた。

「もう夜ですか?」

トモは笑い出す。

「まあ仕方ないか。あんな所に閉じ込められて、時間間隔は狂うわよね。今は、昼の一時過ぎよ。おなかの空く時間だね」

 春菜は驚いた。

「こんなに暗いのに……」

「えっ?GD地域では普通よ。でも、考えて御覧なさい。政府とやらは、GDに人が住んでいることは認めてないのよ。太陽をワザワザGDの上まで走らせる必要はないでしょ」

二人の雑談が長く続いているのを見て、ソンベンがやっと口を開いた。

「トモ小隊長。話はそれくらいにして、とりあえず客間に案内しとけ。私は先に行くぞ」

「承知しました。ソンベン中隊長」

 トモは真面目な顔をして答える。ソンベンは頷き、別の方向に歩き出した。

「客間は名前の通り、私たちが普段生活する場所じゃないけど、春菜は突然来たから、準備が間に合ってないの。明日には皆に会えるようにするね」

春菜は頭を下げた。

案内された部屋には、ベッドと水道がついているだけだった。

「まあ、今日はゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます」

春菜は部屋をひと回りすると、確かめるようにベッドに座った。

「硬いな」春菜は思った。

「どうした?」

 春菜の様子を見てトモが聞いた。

「いえ、別に……」

 春菜の頭の中には新たに入った情報、知っている事情が渦を巻き始めていた。頭の中を整理したい。

 トモが部屋を出ようとすると、春菜はそれを見送る気配を見せず、ベッドに座り込んだ。両手を見つめ、そして目を閉じる。

「何が見えるの?」

 耳元でトモの声がして、春菜は驚いて顔を上げる。正面にトモが立っていた。

「別に何が見えるわけではありません」

 春菜はとっさにきつい口調になったことを後悔した。トモは全く気にしていないようで、安心する。

「気分の問題?でも、春菜には何か見えてるのかな?なんて思える風だった」

 春菜は一つ息をはいた。

「手枷、足枷……。どこに行ってもこれは重くなるばかりで、軽くなろうとしないんです。こんなので私はちゃんと前に進めるのでしょうか?」

「生きている限り、誰にでもあるんじゃない。どんな幸せに見える人にもね。私から見たら、春菜はメチャクチャ幸せな人生を歩いてきたように思うけど、そうでもないのね」

「いえ。そういう意味じゃないんです。幸せとか。不幸とかじゃなくて……」

「春菜もいつかネージュ様に会う機会があると思う。きっと、春菜もネージュ様に惹かれる。そして、それが生きる理由になる」

 春菜はトモを見つめた。トモの表情は明るかった。

「ネガティブになるのも無理ないと思うけど、前向きにね」

 トモはそう言うと、今度は振り向かずに部屋を出た。

春菜にとって思いもよらない人生が、始まった。


 

 ここは風も吹く。空(天井)も青い。GA地域軍総司令本部<アトラス>の前に広がる庭園である。ここに入る事ができるのは、GAでも選ばれたごく一部の人間である。空が青いことを知らない者が大半のこの世界で、この空間は特異な現代アートだった。

大きな広葉樹の木下に立っている男の髪は揺れていた。軍服に身を包んだ姿は、若さと情熱に溢れている。

「クリフ様。申し訳ありません。お待たせていたしました」

クリフと呼ばれた軍服に身を包んだ男がその声に反応した。

「気にする事はない。ここは落ち着く。それに、父上からの用事を終えて今来たところだ。では、行こうか」

クリフが先に歩き、男がそれに続く。2人ともまだ若い。どう見ても二十歳前後だ。しかし、着ている軍服は2人ともその歳では普通着ることのできないものだ。

 スチュワード・クリフは今年19歳になる。政府軍最高総司令官を父に持ち、代々続く名門軍閥の出身だ。彼自身も類稀な才能に恵まれた。18歳にして首席でアトラス大学校を卒業した。これは最年少記録である。現在すでに大尉であった。エリート街道をばく進することは間違いない。

 その後に続くのが、マストレード・レイン。クリフより2歳年上で、階級は中尉である。

 二人がアトラスの庭園を出ると、どこからともなく車がやってきた。ドアが開き彼らは車に乗る。

 車はGB地域に入り10分ほど走った。その間、GAからGBの関所で一回停まり、その時間は一般の3分の1である 。高層ビルの前で2人は降りた。彼らは車の中でも、車を降りてからも特別な会話をしていない。部屋についてすぐクリフはポケットから棒を取り出した。先にボタンのようなものがついている。彼は机の上に上着を投げてから、ソファーに座りボタンを押した。

 部屋に見えない振動が伝わる。

「父上は本当に用心深い。そう思わないか?レイ」

レイは、クリフの前にコーヒーを置き向かいに座ってから答えた。

「仕方ないですよ。すべてクリフ様を思ってのことです。クリフ様をくだらない事で失脚させないための親心ですから」

クリフはレイの答えに不服そうな顔を向ける。

「レイはいつも父上の味方だな。僕は父上に秘密を持つ事ができないのだぞ」

レイは笑いを含んだ声でクリフに答えた。

「本当です。私がクリフ様にそれを渡したことを父君が知ったら私は殺されてしまいますね」

「さあどうだろうな。まあ実際、保身の術に長けていないとやっていけないのだが」

レイはクリフが机の上に置いた棒を目で追った。情報合戦が激烈となるにつれて、政界に公私の分別がなくなってきた。くだらないスキャンダルで政界を去るものも後をたたない。若く才能に溢れた我が子を妬む輩から守る為、クリフの父親はクリフのすべての生活を管理しようとした。今いるこの部屋にもいくつもの盗聴器が眠っている。彼の父親以外の者が仕掛けたものもあるだろう。

クリフはそれら盗聴器をすべて取り除く事を望まない。こっそり仕掛けたはずの盗聴器がすぐに取り除かれたとなると、クリフの私生活を知りたがっている者はさらにクリフに対する警戒心を強めてしまうだろう。情報を得られないこと、それ自体が情報になってしまうのだ。そこでレイが用意したのがその棒である。半径5メートル以内の部屋に効力がある。室内にある盗聴器やそれに値するものに偽の情報を流す機械である。レイが苦心に苦心を重ねて、クリフの要望に応え作り上げたものだった。室内の本当の姿が他の者に知られる事はない。定期的にレイが整備し改造を重ねている。この機会は『ミィミ』と名づけられた。旧国家時代の大陸語で『秘密』という意味がある。

ミイミは発動すると、間もなく感知した空間のホログラフィーが登場する。それに会話や動きを入力すると、それを盗聴器等にデータして送る事ができる。入力しない場合は、基本プログラムに沿ってそつなく活動する。

クリフは足を組みなおし、机の上に置かれたコーヒーカップをとった。

「アトラスのコーヒーは本当にまずい。どうして皆あんなコーヒーを飲む事ができるのだろう」

「クリフ様がこだわりすぎるのですよ。私は退職したら、喫茶店を開くのが夢ですから。クリフ様の下で修行させていただきます」

レイも一口コーヒーを味わった。満足そうな表情を浮かべる。二人は入力片手に談笑した。一通りの入力が終ったところで、二人は手を休めた。レイが真面目な顔で口を開いた。

「シーワンについてですが、ネージュ氏が病気であるかどうかを調べることはできませんでした」

コーヒーカップを机に戻し、少し間を置いてクリフは答える。その表情はクリフ独特のもので、内心を伺うことはできない。クリフはレイの前では表情豊かだが、一歩外に出ると、この表情を崩さない。例え、実の親の前でもだ。

「シーワンの組織力は他組織をずば抜けている。GDは慢性的な食糧不足であるにもかかわらず、シーワンでは自給自足に成功している。そうだろう?」

 レイは軽く頷いてクリフに応える。

「今はまだ穏便派として行動をしているが、いつ本格的に政府に向かってくるかわからない。それも創設者であるネージュの力量に頼るところが大きいのではないかと僕は考えている。この類の組織が急成長する理由は、正しい決断を正しい時にすぐできることだ。シーワンは客観的にみて、中央の決断が末端に届くのも早いようだ」

「調査によるとネージュ氏は、ここ半年姿を見せていないと考えられます。徹底した情報制御もすばらしいですね。なぜ、政府はシーワンをほかの反政府組織と共に放って置くのか、シーワンを知れば知るほど理解できません」

レイの疑問にクリフが答える。

「理由は二つだ。おそらく、政府の上層部と繋がっている。そして、一種の平和ボケだね。長く同じ体勢が続くと指導者は利権争いに忙しくなるものなのだ。僕は生まれながらに持っていたからね。そんなモノに興味がもてないんだ」

「誰かと繋がっている可能性は、高いですね。シーワンを全く調査しようとしないところは、やはり、おかしいです」

クリフは少し楽しそうな声で答える。

「僕は政府と軍部に対してGDの反政府組織を全面的に打倒するように意見文を提出した。今のように小出ししていても成果はない。反対に今はバラバラの組織が結束してしまうかも知れない。僕の立場を考慮して、数ヵ月後には何か起こるのではないかな。それによって上層部の力量がわかるだろう」

「シーワンはネージュ氏がいなくなればどうなるでしょう?」

「さあ、どうなるだろうねぇ。僕らの社会みたいに誰かが空席を埋めても問題ないということはないだろうね。自然消滅の可能性もある。だが、ネージュが僕の期待にこたえてくれるなら、後継者をちゃんと用意していてくれるだろう。病気ならば、事前に考える時間はあるはずだ」

「それでは、またシーワンの情報を引き続き集めてみますね」

「そうだな。多かれ少なかれシーワンは、僕の人生に影響を与えるだろうからね」

クリフはいたずらを思いついた子供のような顔になった。こういう顔をする時のクリフは本当にレイが思いもつかないような事をする。レイは少し心配になった。レイの心を感じ取ったようにクリフが言う。

「僕は暇が嫌いだからね」

レイの心配は募るばかりだ。



 春菜がシーワンに入ってから半年が過ぎた。毎日同じことの繰り返しの様であり、全く違う日々を過ごしていた。朝四時に起床。午前九時まで農作業などの労働。二0分の休憩の後一時まで学科勉強。一時から三0分昼食で、その後二時まで昼休憩。午後は実践訓練。五時半から七時までが、休憩か入浴又は夕食。そして八時には全員が床につく。春菜に対しては七時から九時まで特別授業が行われた。一日が終るとヘトヘトになる。ベッドの中に入るとすぐに眠り込んだ。

特別授業が終って、部屋に戻るまでの数分に物思いにふける事が多い。

ふと、初めて共同部屋に入ったときの事を思い出した。


「今日から新しくこの部屋に入ることになった、春菜だ」

 窓からの弱弱しい光だけが部屋を照らしている。部屋にいる全員に向ってソンベンが威圧的な声で言った。全員すでに就寝準備ができている様子だ。

「私はこの室長も兼ねている。わからないことは聞いてくれ」

 トモが柔らかい口調で説明する。

「春菜と言います。よろしくお願いします」

 春菜は部屋全体に響く大きな声で、挨拶をした。緊張に次ぐ緊張で、余裕がない。この部屋に来る前言われたトモの言葉「姓は言わないように」を守ることで精一杯だった。

 部屋には2段ベッドが7台あった。春菜のベッドはドアに一番近い二段ベッドの下だ。必要最低限のものすでに準備されている。ソンベンが部屋を出るとみんな自分のことをし始めた。トモが簡単な説明をする。洗面場、トイレの位置。明日からのこと。メモを取る紙もペンもなく、春菜は次々に言われることを頭の中に必死に叩き込んだ。

「四時に鐘が鳴るからそれで起きれば良い。詳しいことは実際にやりながらにしよう」

 トモは軽く春菜の肩を叩き自分のベッドへ向った。春菜のベッドから最も離れた場所で、窓の横にあるベッドだ。部屋中の人間はトモが近づくと挨拶をする。それに対してトモは優しく、一日の労をねぎらう様な声で返事をした。

 春菜は自分のベッドに座り、支給された物を確認する。向かいの住人が春菜に声をかけてきた。すでに寝る準備万端のようだ。薄着のため鍛えられ引き締まった体であることがよく分かった。

「私の名前はアリスよ。顔洗いに行くときは言って。教えてあげるわ」

 アリスの上から声がした。真っ黒な髪が春菜の目を覆い、次の瞬間そばかすの多い愛嬌のある顔と目が合った。

「私はユキよ。よろしく」

 今度は春菜の上から声がし、軽やかに蝶が舞うような物腰で人が降りてきた。

「私はカタリーナ。よろしくね」

 皆明るく気さくに話しかけてきた。春菜は、安心すると同時に、一人一人の名前を聞き逃さないように、覚えた。

 一部屋は15人前後のようだ。部屋は男女分かれているが、それ以外は担当に分かれて男女ともに訓練や授業が行われている。春菜は義務教育以降全寮制に通っていたため、集団生活は慣れていた。

 入ったばかりの事を、変に懐かしく思い出しながら、春菜は体の熱っぽさを感じた。部屋につくと、皆もう寝ていた。春菜は音を立てないようにベッドに入る。


 翌日目を覚ますと、春菜は体がいつも以上に重く感じた。吐き気も感じ、頭がガンガンする。

今まで勉強ばかりして運動をしていない春菜にとって、シーワンでの生活は楽なものではなかった。慢性的な運動不足で、体重は標準以下というものの、下腹部分が出ていた。初日は、目に見える周りとの体格差に赤面せざるを得なかった。

生活は容赦なく一日、一日と春菜の心と体に疲労を蓄積させていた。

「なんでこんな目にあわなくてはいけないの?」春菜は何度となく自問自答した。その度に自分で答えを出す。「がむしゃらに頑張ることでしか、道は開けない」春菜は文句一つ言わずに毎日を送った。

だから調子が良くないことを、春菜は誰にも言わなかった。春菜が皆についていけていないことは明らかだった。そのため、皆が気を使ってくれていることを春菜は痛いほど感じていた。それに対し、春菜にできることは何もない。その事は、春菜の精神に少なからぬ影響を与えていた。

朝一の農作業の最中、目の前がグルグル回り、足元はグラグラ揺れた。春菜は「おかしいな」と思い、かがんだ姿勢から立ち上がり、背を伸ばした。

すると、いつもの薄暗さが急速に暗闇に変わる。

「どうした春菜?」

 ユキが春菜に話しかけた。春菜は聞こえていないようだ。

 バタッ。

 仰向けに倒れそうになる春菜を、ユキはどうにか受け止める事ができた。頬を二回軽く叩く。トモがすぐに近寄ってきた。

「顔色が悪いな。医務室に連れて行こう」

 トモはユキから春菜を受け取る。

「大丈夫でしょうか?」

「頑張っていたから、疲れが出たんだろう」

「なにかできる事があったら、言ってください」

「ありがとう」

 シーワンでは各部隊に役割が決められている。後方支援は第四部隊があたる。農作業は全部隊が行ない、第四部隊の担当地域は医務室の近くだ。トモが春菜を抱えて医務室に向うと、ソウタ小隊長とマキノ小隊長が小走りで近づいてきた。

「どうした?」

 ソウタがトモに話しかける。

「疲労だと思う。作業中に倒れたんだ」

 マキノが春菜の腕を掴んだ。

「新入りか」

「ああ」

「熱いね。早くベッドへ」

 トモは部屋に入り、春菜をベッドに寝かす。熱を測ると39度5分あった。

「高いな。まあ点滴打って、安静にしておけば問題ないだろう」

 ソウタは手際よく点滴の準備をした。

「それにしても、もう少し早く分かっても良かったんじゃないか」

「春菜は口数の少ない子でね。変化をわかってやれなかった」

「トモを責めても仕方ないじゃん。ソウタその言い方は良くないよ」

「いざ戦いが始まったら、皆極限の緊張にさらされるんだぞ。自己管理はもちろん。俺たちは隊員にも十分気を配らなくてはいけないんだ」

「そうだな。ネージュ様は私たちが無駄死にすることは望んでおられない」

 部屋に沈黙が走る。

「すみませんでした」

 静かな部屋に、春菜のかすれた声が響いた。3人はベッドに視線を注ぐ。

「ご迷惑をお掛けしました」

 トモは、枕元に立ち、春菜の頭をポンポンと優しく叩いた。

「目を覚まして最初に言うことはそれか。私が春菜のことを迷惑と思うことなんてありえないよ」

 春菜は目頭が熱くなるのを感じた。顔を隠したいと思ったが、失礼だと思いやめる。変わりに涙を必死で抑えた。

「そうよ。私達は仲間なんだから。人間誰だって体を壊すことってあるのよ。迷惑だなんて、全然思わないわよ」

「ありがとうございます」

「俺達は別に特別な事をしたわけじゃないさ。まあ、これから接点も生まれてくるだろう。俺は、ソウタ。第四部隊の小隊長だ。よろしくな」

「同じく、第四部隊小隊長マキノ。よろしくね。第四部隊には他に9人の小隊長がいるの。中隊長は6人。第三部隊に比べると、少ないわね」

「よろしくお願いします」

 春菜は起き上がって頭を下げようとした。トモがそれを止める。

「いいから。無理しないでゆっくり休みなさい」

 春菜はそれから全快するまで一週間かかった。その間、部屋の皆が代わる代わる時間を見つけて春菜の見舞いに来た。色々な話をした。

みな違った理由でシーワンに入っている。始めのうちはどうであったか春菜に知るすべはないが、今では彼女達のシーワンに対する思いは家族を大切に思う気持ちと同じようだと感じた。

春菜は皆の考え方に好感が持てた。大きな信念も必要ではあるが、それだけでは偽善にしかならない。直接自分の利益につながるわけではないレジスタンス活動を続けるためには『大切なものを守る』という素朴な思いが必要であった。

 そしていつしか春菜は決めた。シーワンで生きる。もう迷わない。

 何度も自分に言い聞かせた。

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