第一章
「私には信じるものがあり、信じてくれる人がいる。私の意志は必ず受け継がれる」
言葉の主は、最期まで前を向いていた。目には強い意志が灯っていた。どんなに苦境に立たされても、その瞳から光が奪われることはないだろう。
春菜はその光景も、その言葉も、その一瞬を永遠に忘れることはないだろう……。
時は戻る。歴史としてはほんの一瞬、けれども人の一生としては貴重で貴い時間。
ある者が見上る。そこにはただ白い空間が広がっているだけだった。東から西へ決まった時刻に決まった軌道を描いて、人工太陽が移動する。この空間に四季はない。すべてが人工物だ。
人々は一度過去を失い、陽のあたる場所を失った。現在、人類は自らが作り出したボールの中で生活を送っていた。すでに外の世界と言う概念は希薄になっている。
ただ、外は氷河期で人の住める状況では、ないとだけ、発表されていた。時々、天井から何かが当たっているような轟音が聞こえるのは、そのためだろう。
ボール内は4つの地域に分けられている。グレードA(GA)地域には、各政府機関と大企業が置かれている。GB地域は、社会的地位のある者が住む高級住宅街。GC地域は、一般住宅街。その他の地域はGD地域とされ、無法地域になる。GA・GB・GCとGDには、空間的にも制度的にも大きな隔たりがあり、政府はGDに対して『人(すなわち人権保持者)』の存在を認めていない。
政府は、アメとムチを使い分け厳しい管理の下に人々を置いていた。GAからGCについても、査証なしでは互いの地域を行き来することは許されない。
ドーム内の人口はおよそ1000万人である。GBに居住地を構えるのは400万人で、その内GA出勤者は200万人ほどである。200万人のうち軍関係者が10万人。GCには600万人が生活する。GCからGAに勤務するものはいない。GAに行くには、GBに居住している必要ある。GDの人口は1万人と推測されている。
六年間の義務教育は、GB・GCそれぞれの地域で行なわれる。それ以上の高等教育機関はすべてGAにおかれていた。
369年。ボール内で人々が生活をして4世紀目も半ばを過ぎていた。政府の統治には矛盾があり、問題も多い。それでも表面的には安定を保っていた。
だが、徐々にこの安定にも亀裂が現れ広がっている。GDでは反政府組織が生まれ、軍隊の出動する事態が近年増えていた。世界は変革の時期を迎えつつあった。
どんな時代だろうと、時間は誰にとっても平等に流れる。ボールの中で生活する大半の人は、目の前にある現実と向き合って、日々を懸命に生きていた。ニュースから流れる、不穏な動きを自分の生活の一部として考えるのは難しい。
朝起きて、学校や仕事に向う。夜は、明日のことを考えて眠る。『退屈』を感じる事があるが、 それが『当たり前』だった。
GCの通りを家路に向かい歩いている彼女もその一人だった。
彼女の名前は松門春菜。GCに生まれた。
彼女には不思議と他人に強い印象を与える魅力があった。人の集まる場では、期せずして中心におり、自分よりも周りのことを配慮する気配りができた。
彼女の家庭は決して裕福とは言えず、高等教育を受けるのは、通常不可能だった。
高等教育を受ける為には試験を受けなくてはいけない。その試験を受けるにはかなりの費用が必要になる。その上、合格した後の学費も、義務教育の10倍必要であった。GCで高等教育に進む者は、全体の一割に満たない。その九割が、学校指定推薦で、奨学金の給付を受けている者である。第一は全額免除で、第二・第三が半額免除である。GCの平均年収を考えると、第一でなければほとんどの学生が高等教育を受けるのは難しい状況であった。
学校第一指定推薦を獲得する為には、本人の努力はもちろん、担任教師の協力が不可欠だ。半端な気持ちで口に出す事が許されない神聖な特権であった。
ついに彼女は、学校第一指定推薦を獲得した。彼女が生まれて初めてGAに入ったのは、名誉ある奨学生の身分だった。
GAの雰囲気は独特である。GAに入る事ができるのは、2種類の人種に集約する事ができた。金のある者か。能力のある者かである。そんな環境の中、彼女は努力を惜しまなかった。
そして、あっという間に三年が過ぎた。彼女は更に学問の道を歩むことが決まった。彼女の努力が形になったのだ。
今は2月の終わり、春休みで実家に帰る途中であった。うっとうしい髪を後ろでまとめ、人の多い通りをすぎた。彼女は荷物片手に、見慣れてはいるが久しぶりに歩く道を、足早に駆け抜ける。
「今日の御飯は何かしら?」
持っている鞄の中は、大半が家族へのお土産である。奨学生は、成績によって研究費を給付される。それを少しずつ貯めて、家族へのお土産を買ったのだ。
GAは競争の激しい世界である。クラスメートは仲間であると同時にライバルであった。向上心のない人間は自然淘汰される環境であった。
彼女はGAに身を置くことに不満は全くなかった。だが、どこかで何か大切なものをなくしているのではないかという不安があった。
印象的な風が通り過ぎる……。
身長は180cm前後であろうか。髪の色はブラウン、前髪にウエーブが少しかかっている。服は地味なものを着ていたが、それが飾りのない男の魅力を更に際立たせているように見えた。間違いなく、誰が見ても眉目秀麗な美男子である。その容貌は他人を惹き付けるのに十分だった。
だが、彼女をひきつけたのは、ただ外見が他より秀でているからではなかった。すれ違ったときに一瞬見た瞳。明らかに彼女が今まで見てきた人間の瞳とは違っていた。何か強い信念を持っているような、深遠を湛えた瞳。
春菜は、人間は顔ではないと思っている。それでも、思わず見とれてしまうほどだ。そして、手の力が一瞬緩んでしまった。
荷物が、バサバサと音をたてて、落ちていった。
「うわぁー」
袋に入れただけの荷物は、中身が転がっていく。その内の一つは、男の足に当たって、止まった。
慌てて荷物をかき集める私に男は近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
「はい。すみません」
春菜は、顔が熱くなるのを感じた。
気づくと、通りに人が誰もいない。男はおもむろに立ち上がった。表情が緊張している。
「まずいな……」
春菜は荷物を置いて、周りを見渡した。
「まずいって、どういうことですか?」
「黒の軍です」
「黒の軍?」
「説明している時間はなさそうです」
春菜は、男の視線の先を追った。黒尽くめの男達がゆっくりと近づいてくる。春菜は、頭をフル回転し、『黒の軍』というキーワードを検索した
「人間を実験台にするって言う、あの組織ですか?」
「良くご存知ですね」
黒の軍はもともとは政府医療チームだった。人工臓器開発をしていたが、民間機関と統合され、人工人間開発を始めた。それに対し、倫理的問題から世論が反発し、表舞台から姿を消したのだ。
より優秀な人工人間をつくる為に、人を実験台にするという、噂だけを残して。
ドカッ
春菜は、首の部分から発生した鋭い痛みが電気のようなに体を走るのを感じた。地面に膝が着き、目の前が暗転していく……。
真っ白い部屋には二人しかいない。質素だが管理の行き届いた部屋には、新鮮な空気に満ちていた。一人はベッドの上で横になり、もう一人はその横で恐縮したように立っていた。
「いつも言っているが、二人の時にそういう態度は止めてくれと言っているだろう。私は、サイレスの上に立ちたいと思っているわけではない。ただ、必要だから、役割を演じているだけだ」
ベッドから起き上がり男とも女ともつかぬ声が寂しげにサイレスと呼ばれた男にかけられた。顔は青白く、健康を損なっている事は一目瞭然だが、目にはサイレスと同様、いやそれ以上に、強く人を惹きつける光が灯っている。声も力強く、朗々と響いた。
「彼女を連れてくるつもりはありませんでした」
サイレスはベッドの横に立ち自嘲気味に言った。
「別に気にしなくていい。黒がねらっていそうな人材だ。あいつらは、自己満足の組織だから、一般に迷惑を掛ける事はない。だが、一度目をつけたなら、何度でもねらうだろう。家に送り届けたところで、逃げ切ることは不可能だ。それで、あの子については、どうするつもりだ」
サイレスは、表情を変えずに答える。
「規定通りにします」
「そうだな。それしかないな。あー考えてみたら、君ずっと立っているじゃないか。座りなよ。サイレスはいつでも対等な立場で意見を交わしたいのに」
ベッドからのりだし、イスを引き寄せ「さあどうぞ」と言うポーズをとった。サイレスはブラウンの前髪に手を当てた。少し居心地悪く座ろうとしたが、何かを思い出したようにまた立ち上がる。
「何か飲み物を入れましょうか」
サイレスの問いに、オッという顔をして答える。
「気を使うなよ。贅沢を言えば、アールグレイが飲みたいな。サイレスが入れてくれるお茶は本当においしいけど、私から言うと命令しているみたいだな」
サイレスは軽くうなずくだけで呼びかけに返事をせず、お茶を入れる準備のため部屋を出た。表情こそ変えないが、これが彼の照れ隠しである。
サイレスが部屋を出たのを確認してから呟いた。
「あと何回君の入れてくれたお茶を飲む事ができるだろう」
部屋にひとり残された者の独り言である。誰にも届くことなく、空気に溶け込んで消えた。




