おつきさまきらきら
そっと、そっと、足を忍ばせて階段を下りる。それでも足が地面に付く微かな音は消えない。ひんやりした空気は夏とは言え深夜の空気を感じさせて、不思議と気分が高揚していくのが解った。親には秘密でやろうとしている事にか、いつもは眠っている時間の行動にか、意図せず上がる口角を抑えることもしないで、私は最後の段を爪先で踏みしめた。
階段を下りれば目の前に玄関、トイレの扉、居間への扉があって、居間の向こうにお父さんとお母さんの眠る寝室がある。家の構造上、居間や二人の寝室を通らなくても外に行けるのは有難い。そろり、そろり、と足を進めていくと、不意にぎしりと足元の床が鳴いた。思わずびくりと肩を跳ねて、口を閉ざす。そこまで大きな音ではなかったが、ひどく心臓に悪い。耳を澄ませて、両親が起きた気配がないことを確かめて息を吐きだす。
玄関の縁に腰かけて、サンダルを履く。時折地面とぶつかって小さな音が上がるのにびくびくとしながらも、体全体を慎重に動かした。ここで誰かが起きたらアウトだ。サンダルをきちんと履いてゆっくりと立ち上がると、しーんと静かな中で微かな衣擦れの音が響く。いつもならこつんこつん、と鳴らすヒールを地面から離すように浮かせて、見慣れた扉のノブを掴んだ。
ノブを回して、押す。なぜか開かなかった。代わりにがちゃん、と何かが引っ掛かったような音がする。その音に恐々としながらもふと見上げると、鍵がかかっているのを発見した。馬鹿か、私は。
気を取り直して鍵を開ける。ノブが回って、ぎい、と少し大きな音。ここが最大の難関だ、と両手に力を入れてゆっくり押していく。普段ならぎぃ、ぱたん、で済むその動作は殊更ゆっくりにすることで逆に音を長く響かせるようで、気が気でなかった。かと言って勢いよく開いて勢いよく閉じるような勇気も持ち合わせていない。
自分一人が出れるくらいの間ができたところで素早く体をねじ込む。こつん、とヒールが鳴ったが、扉の音に紛れて気になるほどではなかったし、良しとしよう。扉を閉めるのもゆっくり、そっと閉めはしたけれどある程度音が響いてしまったかもしれない。
詰めていた息をぷはー、とお酒を飲み干したお父さんのように吐き出す。玄関から離れながら肩を回すと予想以上に緊張していたのかばきばきっと音が鳴った。自分の事ながら女の子としてちょっとどうかと思うが、他に人もいないので気にしないことにする。
「ミッションクリアー」
なんてね、と付け足して、私は夏の夜の清涼な空気を吸い込んだ。少し鼻に残る草の匂いがした。
この辺りはそれなりに田舎で、車通りは少ない。それでも昼間なら三十分に一台ぐらいは通り過ぎるが、夜中になるとそれも零になる。だから聞こえるのは虫の声と風の音だけだ。偶に犬が鳴くが、それすら極稀で、喧しい蝉や飛蝗がいなければほとんど無音に近いだろう。
田舎とはいえ流石に道路はセメントで固められているが、電灯は遠くに一つ見えるだけで、ここまで光は届かない。そのお蔭か、月と星の光はよく見える。家の中の暗闇に慣れた目には仄かな月の光も眩しく見えるので、丁度良いのだが。
「――……」
特に用事を思い立って外に出たわけではない。ただ何となく起きたら、何となく外に行きたくなっただけのこと。何か悩みがあったわけでも、辛いことがあったわけでもない。まして今夜の月が赤かったり、いつもより大きく見えたり、流れ星が降っていたりするわけでもない。そんな良いタイミングで特別なことが起きるのは偶然を除けば、人の作る物語の中と、“特別なこと”を狙った人の隣でしかありえない。残念ながら私は何かを狙って外に出たわけでもないので、そもそも何かが起きるなんて期待もしていなかった。
だけど、いつも何気なく見ていた空は私の捉えていたものよりもずっと大きく見えた。きらきら輝く星は電飾よりもずっと輝いて見えた。月は圧倒されるほど美しく見えた。
「――綺麗だなぁ」
陳腐で率直な言葉が唇の端からこぼれる。後は、ただ嫣然と輝く月に魅入るように私は空を見上げていた。
存分に月見を楽しんで気を抜いていた私は、玄関の扉を開ける時に大きな音を立ててお父さんを起こしてしまいこってりとしぼられるのだが、その後も月に何度かひとり月見を楽しむことになる。時々呆れたお父さんに見付かって月見酒のお酌係になったり、にこにこしたお母さんに見付かって即席月見団子のお相伴に預かったりしながら、ひとり月見はこの後何年も続く。
月は桜と並んで日本のこころだと思います。海外にも月に魔力があるだとか、赤い月は吉兆だとか言われることがあるかと思いますが(狼男が月を見て変身するのもその一環なのではないかと思っています)、日本人ほど月に名前を付けたり、月を見て感傷的になる国民も珍しいと思います。もっとも、私が知らないだけで本当はもっと月に近しい国もあるのかもしれませんが。
この小説の中では月の形の記述はありません。読者の皆様にイメージして頂ければと思って、敢えて言及しませんでした。
あとがきまでお読みいただきありがとうございます。誤字脱字には十分注意していますが、何かございましたらご一報くださるとありがたいです。