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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第9話 完璧な恋人、公開実演

 朝凪刻印房の裏口へ、乾いた木槌のような音が三つ続けて鳴った。


 まだ午前の早い時間で、作業台の上には昨夜写し取ったアルバムの写真が広がったままだった。旧灯台の壁、石畳に落ちる影、倉庫の荷札、そして《鍵穴は、扉についているとは限らない》の一文。彩加はそれらの紙を慌てて重ね、墨の瓶が倒れないよう押さえながら戸口へ向かった。


 開けると、弥織が外套の襟をきっちり合わせたまま立っていた。


 「おはようございます。ずいぶん静かね。昨夜はちゃんと寝た?」


 「半分だけ」


 「半分でも寝たなら上出来」


 弥織は返事を待たずに中へ入り、土間に置かれた荷箱と干し網と小さな炭火鉢を一瞥した。視線の動かし方まで仕事が早い人だと、彩加はこういうときいつも思う。


 台所のほうから凌太が出てくる。手には湯気の立つ茶器が二つあった。


 「弥織さん。朝から珍しいですね」


 「珍しくないわ。面倒ごとは朝のうちに片づける主義なの」


 そう言って茶を受け取ったあと、彼女は一息で本題を出した。


 「昼市で公開実演をしてちょうだい」


 彩加は瞬いた。


 「公開、実演?」


 「ええ。朝凪刻印房が偽造刻印とは無関係だと、書類だけで全部の人が納得すると思う?」


 「思わない」


 「でしょうね」


 弥織は肩をすくめる。


 「港の人間は、印鑑より先に、自分の目で見たものを信じるわ。冬の昼市は船の出入りが減るぶん、商人も荷揚げ人も家族連れも集まる。そこであんたがその場で依頼を受けて、その場で効かせる。大げさな見世物じゃなく、暮らしに役立つ祝福刻印を見せるの」


 凌太が茶器を机へ置いた。


 「評判を戻すためですか」


 「それもある。でもそれだけじゃない」


 弥織は彩加の前にまっすぐ立った。


 「旧灯台に入る許可、欲しいのでしょう」


 彩加の背が少しだけ強張る。


 「……気づいてたの」


 「気づくわよ。昨日の夕方から、あなたたちの顔が『何か見つけました』って顔をしてるもの」


 「そんな分かりやすかった?」


 「凌太さんは隠せてた。あんたは無理」


 彩加は口をとがらせたが、反論はできなかった。


 弥織は机の上の紙束を見ないようにしながら続ける。


 「旧灯台は港湾行政の管理下。いまの段階で表から許可を申請しても、向こうが勘づけば先に中を片づけられるかもしれない。でも、昼市で朝凪刻印房の信頼をもう一段戻しておけば、こっちの動きに味方してくれる人間が増える。行政長官が露骨に止めにくくもなる」


 「先に、町の空気をこちらへ寄せるわけですね」


 凌太が言うと、弥織はうなずいた。


 「そういうこと。ついでに、昼市にはあの家とつながりのある商人も顔を出す。焦って尻尾を出すかもしれない」


 彩加は胸の奥で、小さく火が灯るのを感じた。


 祝福刻印は、人の暮らしを支える仕事だ。それを人前で見せること自体に、嫌な気持ちはない。むしろ本来、自分の家の仕事はそうやって信じてもらってきた。


 ただ――。


 「夫婦として並ぶのも、込み?」


 弥織は即答した。


 「込み」


 「そこは外せない?」


 「外せない。いまの朝凪刻印房にとって、いちばん効く保証はあんたの腕前、二番目が凌太さんの目、三番目が『この二人は利害だけじゃなく同じ方向を見ている』って外から分かることよ」


 「ずいぶん具体的」


 「具体的じゃない助言は嫌いなの」


 いつもの調子で言われ、彩加は小さく息を漏らした。


 緊張が少しだけほどける。


 「分かった。やる」


 「よろしい」


 弥織は茶を飲み干し、今度は仕事の顔で段取りを並べ始めた。昼市中央の石畳広場。昼前から三刻ほど。依頼は事前に三件、当日飛び込みも可。ただし危険な刻印は不可。火気の扱いは見張りを置く。料金は通常より安く、かわりにその場で効果を見せる。炊き出し小屋の前で毛布に保温印を刻んだ彩加なら、ただの宣伝屋ではないともう知れているから、見せ方を間違えなければ人は寄る――。


 言葉が次々置かれていくうちに、朝の台所は会議室みたいになった。


 トトが窓辺の籠から顔を出し、青みの残る白い耳をぴくぴく揺らす。弥織の声が好きなのか、あるいは単に新しい人間が来ると気になるのか、その境目はよく分からない。


 「その子も連れていくの?」と弥織が訊いた。


 「たぶん」


 「連れていきなさい。理屈より先に好かれる顔は大事よ」


 「看板獣への評価が現実的すぎる」


 「可愛いは正義でしょう」


 そこだけ妙に断言されて、彩加は思わず笑った。


     *


 昼に近づくにつれて、港町リュストルの空は薄い真珠色へ変わっていった。雪になるほどではないが、冷たい湿り気を含んだ風が海から吹いている。昼市の石畳広場には冬野菜の籠、干した魚、焼き栗、羊毛の靴下、香辛料を量り売りする小瓶が並び、湯気と潮の匂いが入り混じっていた。


 彩加たちに割り当てられた場所は、中央の噴水跡のそばだった。夏は水が上がるが、冬は凍結防止のため止めてあり、円形の縁石の中へ炭火鉢が置かれている。そこへ簡易の作業台を二つ並べ、墨皿、刻印筆、乾いた布、記録札を揃えると、即席の工房が出来上がった。


 弥織は開始前から人の流れを見ていた。商人の妻たちがどの位置なら足を止めやすいか、荷揚げ場帰りの男たちがどちらから入るか、子どもが近づきすぎたとき誰が止めるか。そんなことまで全部分かった上で立っているように見える。


 「最初は派手すぎない依頼にするわよ」


 彼女は声を落として言った。


 「いきなり大仕事を見せると、『仕込みじゃないか』ってなる。まずは暮らしの困りごとをきれいに解く。それで十分」


 彩加は頷き、指先を軽く握ったり開いたりした。緊張している。けれど、晩餐会の夜に味わったあの種類の緊張とは違った。こちらは手を動かせばほどける緊張だ。


 「大丈夫?」


 背後から低い声がした。


 振り返ると、凌太が木箱を片腕で支えたまま立っていた。もう片方の手には、彩加の防寒外套がある。


 「顔が硬い」


 「誰のせいだと思ってるの。夫婦芝居込みって聞いたの、今朝よ」


 「芝居じゃなく見えればいい」


 「それがいちばん難しいのよ」


 そう返すと、凌太は少しだけ目を細めた。


 「じゃあ、難しくないことを一つ」


 彼は彩加の外套を肩へ掛け、その留め具を指先で留めた。襟元から風が入らないよう、布を少し寄せて整える。人前でこういうことをするのに、彼はいちいちためらわない。


 「寒いと手が鈍る」


 「……そこだけ言えばいいのに」


 「それをしている」


 弥織が横で咳払いした。


 「はい、そこまで。開始前から評判を稼ぎにいかない」


 彩加は耳の先が熱くなるのを感じながら、作業台へ向き直った。


 ほどなくして、最初の依頼人が現れた。


 広場の北側で小さなパン屋台を出している男だった。肩幅の広い体つきだが、声は案外おだやかで、両手に抱えた鉄板の熱を気にして何度も持ち替えている。


 「朝凪刻印房のお嬢さん、で合ってるか」


 「はい。いまはお嬢さん兼、働く妻です」


 言うと、周りでくすりと笑いが起きた。


 男も口ひげを揺らして笑う。


 「じゃあ、その働く妻に頼みたい。うちの窯、朝一番は火が回るんだが、昼過ぎになると熱が逃げちまう。冬だけ妙にひどくてな。焼き上がりが安定しない」


 「窯そのものはここへ持ってこられませんよね」


 「さすがにな」


 彩加は窯で使っている耐熱板を一枚見せてもらい、表面を撫でた。微かに残っている印の線は古く、角が擦り減っている。保温の核になる部分は消えかけているのに、周囲の飾り線だけが残っている典型だった。


 「これ、前の刻印が途中で死んでます。保温印がただの飾りになってる」


 「やっぱりか」


 「上から重ねるんじゃなく、一度剥がしてから刻み直します。窯の口に向かって熱が戻るよう、流れを逆算した線に変える」


 彩加は墨皿へ塩墨を落とした。冬用に少し粘りを強くしてある黒が、陽の薄い光を吸ってゆっくり艶を出す。刻印筆を持つと、手の迷いが消えるのはいつも同じだった。


 耐熱板の中心へ、短い線を三本。そこから円を閉じずに返す。熱を閉じ込めるのではなく、窯の内側へやわらかく押し戻す印。見物人たちは静かになり、筆先の擦れる音だけが小さく続いた。


 最後に、彩加は板へそっと指を当てる。


 「保って」


 祝福の言葉は大きくなくていい。届く声で十分だ。


 墨が一瞬、深い赤茶色に光った。


 男が息を呑む。


 弥織の合図で、近くの炭火鉢へ板をかざす。しばらくしても熱の抜け方が明らかに違った。火鉢から外しても、板の表面から温度が滑り落ちない。


 「おお……」


 男が目を見開いた。


 「さっきまでみたいに、端から冷えない」


 「窯の口へ入れたら、焼きむらも減るはずです。三日に一度、乾いた布で煤を拭いてください。水拭きは逆に線が痩せます」


 「覚えた。いや、こりゃありがたい」


 男が代金を置こうとして、彩加は首を振った。


 「今日は公開実演なので、半額で。かわりに明日、焼き上がりを聞かせてください」


 「それくらい、いくらでも」


 パン屋の男はほくほく顔で去り、彼が背を向けた途端、見物の輪が半歩近づいた。


 誰かが言う。


 「本当にその場で効くんだ」


 別の誰かが続ける。


 「上塗りじゃないのが分かるね」


 「線が違った」


 その声を、彩加は聞かないふりで聞いた。聞いて浮かれると手元が狂う。けれど胸の奥が少し軽くなるのまでは止められない。


 二件目は花売りの娘だった。頬の赤い、まだ十代半ばほどの少女で、凍えた指先を息で温めながら桶を抱えている。冬でも売れる常緑枝や白い小花を扱っているが、水が昼前にぬるんで花が傷みやすいのだという。


 「保冷印が欲しいの。でも前に頼んだの、夕方には効かなくて」


 「どこの工房で刻んだか、分かる?」


 「行商の人。安かったから……」


 少女の声が小さくなる。


 彩加は桶の縁を見た。やはり、見かけだけ整った粗い線がある。偽造刻印そのものとまでは言えなくても、短時間だけ誤魔化す模倣に近い。


 「これはね、水だけを冷やそうとしてるからだめなの」


 彩加は少女にも周りにも聞こえるように話した。


 「花は水だけ冷たくても長もちしない。風と桶の木と置き場まで含めて、ゆっくり温度を守らないと」


 「そんなふうに考えるの?」


 「祝福刻印は、物ひとつだけ見て刻むと短命になるの。周りを巻き込んだほうが長生きする」


 それは刻印の話であり、どこか別のことのようでもあった。


 彩加は桶の持ち手の根元へ小さな保冷の核を置き、そこから花の茎を傷めないよう緩い輪を重ねた。木の呼吸を塞がないよう、わざと一か所だけ切れ目を残す。墨が淡く白銀を帯びる。


 少女は恐る恐る桶へ手を入れ、それからぱっと顔を上げた。


 「冷たい。でも痛くない」


 「花がしんどくならない温度にしてるから」


 「すごい……」


 少女はしばらく桶を見つめていたが、やがて思い切ったように一輪の白い花を抜き取り、彩加へ差し出した。


 「これ、お礼。売り物だけど、今日はいいの」


 「え、そんな」


 「受け取って。あなたに刻んでもらった桶で、今日ちゃんと売り切りたい」


 彩加は迷った末に花を受け取った。細い茎の先で、白い花弁が震えている。


 すると横から、凌太がごく自然な顔で空き瓶を差し出した。


 いつの間に持っていたのか分からない。


 「水を少し入れてある」


 「……準備がいいわね」


 「花が乾く」


 「そこしか言わないの、逆にずるい」


 「さっきも同じことを言ってた」


 そのやり取りに、見物の輪のあちこちで笑いが零れた。彩加は慌てて瓶へ花を差しながら、頬が熱くなるのを感じた。


 昼市のざわめきはもう、朝凪刻印房を遠巻きにするざわめきではなかった。面白いものを見つけたときのざわめき、知っている誰かの腕前を自慢するときのざわめきに近い。


 三件目の依頼人は、片脚を少し引きずる老船員だった。灰色の髭に塩が混じり、冬の風に長くさらされた肌は木の皮みたいに乾いている。けれど目だけは海の色に似ていた。


 「防寒の膝当てを頼めるか」


 彼は羊毛の膝当てを卓上へ置いた。


 「昔の怪我が、冷えるとてきめんでな。船へ上がるとき、曲がるのに時間がかかる」


 彩加は膝当ての縫い目を確かめた。何度も繕われた跡がある。大事に使われてきたものだ。


 「強く温めるより、動くときだけ熱が寄るようにします。座ってる間まで熱いと、逆に痛みがぼやけて力が入りにくいから」


 「分かるのか」


 「刻印師は、使う人の癖も読めないとだめなんです」


 「ほう」


 老船員は面白そうに片眉を上げた。


 彩加は膝当ての両脇へ、波打つ線を二本ずつ刻んだ。中心へ熱を溜めこむのではなく、曲げたときだけ線が寄って温度が集まる仕組みだ。最後に縫い目へ沿って短い補強印も添える。


 装着を手伝おうとしたところで、凌太がさっと膝をついた。


 老船員の足元へしゃがみ、革靴の紐が邪魔にならない位置まで丁寧に整える。彼の動きは無駄がなく、けれど急かす感じもない。相手の体が動きやすい角度を一瞬で見つけるのが上手かった。


 「立てますか」


 「おう」


 老船員は杖へ軽く体重を預けて立ち、二、三歩進んだ。そこで足を止め、膝を曲げる。


 「……ああ」


 低い声が漏れる。


 「冷たくない。いや、違うな。冷たいまま、痛いところだけ噛まれない」


 「その言い方、すごく分かりやすいです」


 彩加が笑うと、老船員は鼻を鳴らした。


 「褒めても値切らんぞ」


 「今日は最初から半額です」


 「なら余計に払っとくか」


 そう言って置かれた硬貨は、半額より少し多かった。彩加が止める前に、老船員は振り返って見物人へ言った。


 「見てたろ、お前ら。朝凪の娘はちゃんと見て刻む。手先だけじゃねえ」


 その一言は、どんな宣伝文句よりも強かった。


 輪の外から、次の依頼がすぐ飛んできた。子どもの手袋の防水。魚屋の木箱の保冷。屋台の天幕へ短時間の防風。彩加は一つひとつの品を見て、使う場面を訊いて、必要な線だけを刻んでいく。派手さはない。だが、目の前で困りごとが少し楽になる光景は、人の足を止めるには十分だった。


 途中、荷揚げ帰りの男が重い木箱をぶつけそうになったとき、凌太が先に腕を伸ばして彩加の作業台を支えた。墨皿が揺れただけで済み、彼は謝る相手へ短く会釈する。怒鳴らない。けれどこちらを傷つけない距離だけはきっちり守る。


 彩加が息をつくと、彼は何もなかったように新しい布を差し出した。


 「指先、墨が乾いてる」


 「見すぎ」


 「仕事だ」


 「仕事の顔してるときのほうが、そういうこと平気で言うのよね」


 「困る?」


 問われて、彩加は一瞬だけ言葉に詰まった。


 困る。困るし、困らない。そういう曖昧な感情は説明が難しい。


 「……手は助かってる」


 結局そう返すと、凌太はそれ以上何も言わなかった。ただ、彩加が次の筆を持ちやすい向きへ墨皿を少し寄せた。


 そのさりげなさが、かえって胸に残る。


 午後の光が傾き始めたころ、広場の端で控えていた弥織が近づいてきた。


 「十分に人は集まったわ。最後にもう一つ、少しだけ目を引くものをやりましょう」


 「危ないのはなしって言ったでしょう」


 「危なくない範囲でよ。あそこの石灯り」


 彼女が指したのは、冬のあいだ夕方前から火を入れる街灯だった。風除けの硝子筒の中で芯が揺れているが、海風が強い日は火が痩せやすい。


 「誘導灯印の簡易版を見せる。暮らしに直結してて、見た目にも分かりやすい」


 彩加は頷き、街灯へ近づいた。見物人たちも半円を描くように寄ってくる。


 彩加は硝子筒の台座へ細い線を刻んだ。火を大きくするのではなく、風が抜ける向きを整えて灯りを安定させるための線だ。最後に短く指先を添えると、芯の火がふっと背を伸ばした。赤かった炎の中心に、淡い金が宿る。


 誰かが、おお、と息を漏らす。


 風が吹いても火が揺れすぎない。むしろ周囲の薄暗さの中で、柔らかく輪郭が際立った。


 「派手な魔法じゃないんです」


 彩加は街灯のそばで、見物の人々へ向けて言った。


 「祝福刻印は、毎日の困りごとを少しだけ楽にする仕事です。冷えすぎる、濡れすぎる、腐りやすい、暗くて見えづらい。そういう小さな困りごとを一つずつ減らして、明日まで物を保たせる」


 海風が、彼女のまとめ髪から短い後れ毛をさらう。


 「朝凪刻印房は、そういう印を刻んできました。これからも、それをやります」


 大げさな宣言ではなかった。


 けれど、昼市の真ん中で言うには十分な言葉だった。


 少し遅れて拍手が起きる。最初はぱらぱらと、やがて広がる。


 彩加は目を丸くした。こういうとき、どういう顔をすれば正解なのか分からない。晩餐会で浴びた視線と、いま向けられている視線が、あまりにも違いすぎたからだ。


 その肩へ、凌太の手がそっと触れた。


 夫らしく、というより、倒れないよう支える人の手つきだった。


 「顔」


 「なに」


 「泣きそう」


 「泣いてない」


 「まだ」


 「まだって何よ」


 「そのうち、かもしれない」


 「そんな予告みたいに言わないで」


 拍手の中で交わすには妙に静かな会話だったが、それで十分だった。彩加は笑ってごまかす。ごまかしながら、本当に少しだけ目の奥が熱かった。


 人の波がほどけ始め、依頼札の整理に入ったころ、広場の端から小さな囁きが聞こえた。


 花売りの娘と、その友だちらしい年頃の少女たちがこちらを見ている。


 「ねえ、見た?」


 「見た」


 「なんか、すごいね」


 「刻印もだけど、あの二人」


 「うん……完璧な恋人みたい」


 彩加の手が止まった。


 硬貨を仕分けていた指先が、かすかに音を立てる。


 隣で記録札をまとめていた凌太は、その言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、顔を上げない。


 けれど彼の耳のあたりが、ほんの少しだけ赤く見えたのは、たぶん気のせいではない。


 完璧な恋人。


 それは、契約の条件として目指していた見え方だ。本来なら、そう見えたなら成功でしかない。


 なのに彩加の胸に最初に来たのは、仕事がうまくいった安堵より、もう少しやわらかくて危ういものだった。


 うれしい。


 その四文字が浮かび、慌てて押し戻す。


 演技なのに。期限つきなのに。終わりが決まっているものなのに。


 それでも、町の誰かの口からあんなふうに言われたことが、どうしてこんなに甘く響くのだろう。


 「彩加」


 名前を呼ばれ、はっとした。


 凌太が、いつの間にか彼女の前へ小さな紙袋を差し出している。中から、焼きたての小さな丸パンの匂いがした。


 「さっきのパン屋が置いていった」


 「いつの間に」


 「君が街灯をやってるとき」


 「ずるい。そういうの先に言って」


 「終わってからのほうが、たぶん喜ぶ」


 「なんで分かるの」


 「分かる」


 簡単に言われて、彩加はまた言葉に詰まる。


 紙袋を受け取ると、中のパンがまだ温かかった。昼市の雑踏、冬の風、さっきまで人に囲まれていた熱、その全部が薄い紙越しに残っているみたいだった。


 弥織が帳簿札を抱えて戻ってくる。


 「上出来ね」


 「それ、褒めてる?」


 「かなり褒めてる」


 「じゃあ素直に受け取っておく」


 「そうしなさい」


 弥織は一度、彩加の顔を見た。それから凌太を見る。


 「旧灯台の件、明日の朝にはこちらで口を回してみるわ。今日これだけ人が見ていれば、行政長官側も露骨には止めづらい」


 「ありがとうございます」


 凌太が頭を下げる。


 弥織は軽く手を振った。


 「礼は結果が出てから。あと、今日の一番の収穫は依頼札じゃないわよ」


 「じゃあ何?」と彩加が訊く。


 彼女は少しだけ唇を上げた。


 「朝凪刻印房を『疑わしい家』って見る目が、広場からかなり消えたこと」


 その言葉は、風の中でもはっきり届いた。


 彩加は紙袋を胸の前で抱えたまま、昼市を見渡した。片づけの始まった屋台。桶の花を売り切って笑っているあの娘。膝当てをつけたまま、歩き方を確かめている老船員。遠くでこちらへ大きく手を振るパン屋の男。炊き出し小屋の子どもたちが、トトを見つけてきゃあきゃあ言っている声。


 助けた数は、まだ多くない。


 けれど少なくとも今日、ここで見た人たちは、彩加の手が誰かを騙すためのものではなく、誰かの明日をつなぐためのものだと知った。


 その事実が、潮風よりも深く胸へ沁みた。


     *


 日が落ちたころ、朝凪刻印房へ戻った二人は、道具箱と記録札を土間へ下ろした。外套を脱ぐと、背中へたまっていた緊張が一気にほどける。


 彩加は台所の椅子へ座ったまま、しばらく動けなかった。


 「疲れた」


 「知ってる」


 凌太が炭火へ小鍋を掛け、水を温め始める。


 「でも、悪い疲れ方じゃない」


 「それも知ってる」


 「全部知ってるみたいに言うの、ほんとに何なの」


 「見てるからだろう」


 当たり前のように返され、彩加はまた返事をなくした。


 作業のあいだ中、人前で支えられたことを思い出す。外套の留め具を留める指。墨皿を寄せる手。混み合う人波から作業台を守る肩。そういう細かな動きの一つひとつが、いまさらになって胸の中で順番に光り始める。


 台所の隅では、トトが籠の中で丸まり、満足そうに寝息を立てていた。昼市の子どもたちに撫でられすぎて、さすがに疲れたらしい。


 小鍋の湯が鳴る。


 凌太が湯を器へ移し、蜂蜜を少し溶かして彩加の前へ置いた。


 「喉、使っただろ」


 「……ありがとう」


 器を両手で包むと、じんわり熱が伝わる。今日一日で刻印した保温印とは違う、生身の温かさだった。


 しばらく湯気を見ていた彩加は、ぽつりと言った。


 「聞こえた?」


 「何が」


 「広場で。最後のほう」


 凌太は一拍置いた。


 「完璧な恋人、の話なら」


 やっぱり聞こえていた。


 彩加は器の縁に口をつけるふりをして、目元を隠した。


 「……あれ、仕事としては成功なのよね」


 「そうだな」


 「なのに、なんか、こう」


 言葉が続かない。


 うれしかった、とそのまま言うのは難しすぎた。


 凌太も急かさない。炭火のそばで立ったまま、火加減を見ている。


 「嫌だったか」


 低い声で訊かれて、彩加はすぐに首を振った。


 「嫌じゃない」


 その答えだけは早かった。


 言ってから、自分で驚く。


 嫌ではない。むしろ、嫌とは反対のところに心が動いていた。だから困るのだ。


 凌太は火ばさみを置き、ようやく彼女を見た。


 「なら、今日はそれでいい」


 「それでいいって」


 「無理に名前をつけなくていい、って意味だ」


 彩加は器を置いた。


 今日の昼市で、人の困りごとに名前をつけ、使い方を訊き、必要な線だけ刻んできた自分が、いちばん大きな自分の感情にはまだ名前をつけられない。


 それを情けないと思うより先に、彼が責めないことへ救われてしまう。


 「そういうところよ」


 「何が」


 「……分からなくていい」


 言い逃げみたいにして立ち上がると、凌太は珍しく少しだけ困った顔をした。


 その表情がおかしくて、彩加は吹き出す。


 笑いながら、昼にもらった白い花を窓辺の瓶へ差し直した。桶の保冷印のおかげか、花弁はまだしゃんとしている。薄暮の部屋で見ると、白い色が灯りを持っているみたいだった。


 窓の外では、港へ向かう石畳の道に夜の青さが落ち始めている。


 その上を行き交う人影はどれも忙しい。冬の暮れは皆、家へ急ぐ。けれど今日の彩加は、自分が帰る先をちゃんと持っているのだと、静かに思えた。


 工房であり、家であり、調査の拠点であり、いまは彼が湯を沸かしてくれる場所でもある。


 完璧な恋人、という噂は、きっと明日には港のどこかで少し形を変えて広がるだろう。


 笑い話になるかもしれないし、冷やかしの種にもなるかもしれない。


 それでも彩加は、もう前ほど怯えなかった。


 誰にどう見られるかより、自分が今日ここで何をしたかを知っているからだ。


 人前で刻んだ線。助かったと緩んだ顔。差し出された白い花。温かな丸パン。肩へ触れた手。


 そのどれもが、今夜の自分を少しだけ強くする。


 彩加は窓辺の花を見つめたまま、そっと息を吐いた。


 「完璧じゃなくてもいいのに」


 小さく零した言葉に、背後から凌太の声が返る。


 「何か言ったか」


 「言ってない」


 「そうか」


 「でも」


 彩加は振り返らずに続けた。


 「今日のこと、ちょっとだけ、うれしかった」


 返事はすぐには来なかった。


 炭火のはぜる音が一度だけ鳴る。


 それから、低く、短く。


 「俺もだ」


 その一言だけで、十分だった。


 彩加は瓶の中の白い花を見つめながら、知らないふりで微笑んだ。胸の奥に生まれたやわらかな熱へ、まだ名前はつけない。


 けれどたしかに、それは今日、昼市の石畳の上で少しだけ形を持ったのだった。



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