第8話 母のアルバム
翌朝の港は、雪の名残をうっすら屋根へ載せたまま、いつも通りの忙しさで目を覚ました。
魚市場の裏手へ回ると、潮の匂いと生臭さと、煮立てた塩水の匂いが、風の向きひとつで入れ替わる。石畳はまだ濡れていて、荷車の車輪が通るたびに薄い水音がした。桶を抱えた女たちが声を張り、氷の張った木箱を運ぶ男たちが、白い息を吐きながら肩を寄せ合ってすれ違う。朝はいつだって容赦がない。その容赦のなさが、港町リュストルではむしろ頼もしく思える。
彩加は外套の襟を押さえながら、人の波を縫って進んだ。
「塩屋の婆さんって、本当にここにいるの?」
「いる。こっちだ」
凌太は迷いなく市場の裏の細い坂を下りた。干した網と古い樽が積まれた先、潮風を真正面から受ける小さな塩倉の軒先に、藁の筵を膝へ掛けた老女が座っている。膝の横には木製の升が並び、粗塩、細塩、香草塩まで、色の違う塩が小山のように盛られていた。
年を取っているのに背中が曲がっていない。灰色の瞳は、海鳥より先に獲物を見つけそうなくらい鋭かった。
健平がすでにそこにいて、塩倉の柱へ肩を預けていた。
「来たか」
「来たけど、あなた昨日より顔色いいわね」
「寝たからな。お前は寝たのか」
「そこそこ」
「そこそこって顔だぞ」
余計なお世話、と返しかけたところで、老女が鼻を鳴らした。
「朝から若いのがぺちゃくちゃと。魚も塩も、黙ってりゃ腐る前に売れんのにねえ」
健平が笑う。
「婆さん、こいつらだよ。朝凪刻印房の娘と、ギルドの監査官」
「見りゃ分かるよ。片っぽは手を見りゃ墨屋、片っぽは靴を見りゃ帳場上がりだ」
いきなり見抜かれて、彩加は目を瞬いた。
凌太は少しだけ会釈をする。
「少し、聞きたいことがあります」
「少しで済まない顔してるじゃないか」
老女は升へ塩を掬いながら言った。
「昨夜、北の荷さばき場へ入った箱のことだろう。紋章付きの箱が、ここ半月で増えてたよ。中身を見たわけじゃない。でもね、運ぶ奴の足つきってのは、塩より正直だ。重いものを運ぶ足じゃなかった。割られたら困る、そういう運び方だった」
「刻印板かもしれない、ってこと?」
彩加が訊くと、老女は升の縁を指で軽く叩いた。
「かも、じゃなく、そういう顔をしてる。お前さんたちが知りたいのは、それがどこへ流れたかだろうがね」
「分かるの?」
「見たさ。昨日の朝まだ暗いうちに、旧灯台の道へ向かう荷車が一台。市場を抜けるときだけ妙に急いでた」
旧灯台。
彩加は思わず凌太を見た。昨夜の木箱から紋章が見つかったばかりなのに、もう別の場所の名が出る。雪の下で糸を引いていたものが、少しずつ表へ出てきている気がした。
凌太は表情を変えないまま訊ねる。
「何か、目印になるものは」
「幌に破れ目。右側の後ろ。あと、御者が毛皮の手袋を片方だけ裏返しにしてた。癖だろうね」
言い終えると、老女は彩加へ視線を移した。
「それと、お前さん」
「え、私?」
「母親に似てきた」
その一言で、彩加の肩がわずかに止まった。
母の話題は、こういうところで不意に来る。海鳴りの途中で急に扉を叩かれるみたいに。
老女は升の塩を整えながら続けた。
「昔、お前さんの母親もここへ来てた。塩を買いに来たんじゃないよ。写真機を抱えてね。人の顔より先に、荷札や木箱や石畳ばっかり撮ってた。変わった人だった」
「写真機……」
彩加の喉がかすかに乾く。
「何を撮っていたか、覚えてますか」
「影だよ」
老女は即答した。
「朝の影、夕方の影、灯台の影。人が歩いたあとに伸びる影。あの人はよく言ってた。見えるものより、見過ごされるもののほうが、あとで役に立つってね」
彩加の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
母の机の引き出し。空いた棚。なくなった道具。残されていないはずのものが、どこかにまだ眠っているような気がした。
健平が老女へ代金を置きながら肩をすくめる。
「ほらな。口が固い年寄りは、しゃべると必要なことしか言わない」
「余計な口を挟むねえ。塩を倍で売るよ」
「勘弁してくれ」
軽口を交わす二人の横で、彩加はまだ老女の言葉を反芻していた。
影。
灯台。
母の写真機。
旧灯台へ向かった荷車。
港の朝の騒がしさが遠くなる。世界の輪郭だけが、母の字で薄くなぞられたみたいに見えた。
塩倉を離れたあと、凌太が歩幅を緩めた。
「気になるか」
「すごく」
彩加はすぐに答えた。
「うち、屋根裏があるの。母が使っていたものを、父がそのまま上へ上げてある場所。仕事が立て込んでから、全然手をつけてなかった」
「戻って見るか」
「うん。塩屋のおばあさんが言うなら、たぶん外れじゃない」
「俺も手伝う」
「監査官に屋根裏掃除までさせるの、だいぶ贅沢よ」
「契約上の業務範囲を広げておく」
真顔で言うから、彩加は思わず笑ってしまう。
「便利な契約ね」
「いまのところは」
いまのところ。
その言葉に、胸のどこかが小さく引っかかった。けれど今は立ち止まらない。手の届くところに何かがあるなら、先に掴むほうがいい。
朝凪刻印房へ戻ると、トトが入口の棚の上で丸くなっていた。彩加たちの足音にぴくりと耳を立て、すぐに胸元へ飛び込んでくる。今日は耳は白いままだ。少なくとも近くに危ない偽造刻印はないらしい。
彩加は上着を脱ぎ、台所から古い鍵束を持ってきた。
「屋根裏の扉、たしかこれで開くはず」
作業場の奥、乾燥室の裏手に、普段は使わない細い階段がある。母がまだ生きていたころは、季節ごとの布や、祭りで使う装飾板を上げ下ろししていた場所だ。今ではほこりをかぶって、木の踏み板がぎしぎし鳴る。
階段を上るたび、閉じ込められていた乾いた匂いが降りてきた。古紙と木箱と、少しだけ乾いたラベンダーの匂い。母が防虫に使っていた香草袋の名残だ。
扉を開けると、薄暗い屋根裏へ斜めの光が一本差し込んだ。
傾斜した天井の下に、細長い箱や布包みや古い額が並んでいる。窓は小さく、海側を向いていた。埃が光の中でゆっくり舞う。
「……うわ」
彩加は思わず立ち尽くした。
懐かしいものと、見たくなかった時間が一緒に積まれている場所だった。母が使っていた冬の肩掛け。割れた写真立て。幼い頃の彩加が描いた、下手な船の絵。父が捨てられずにしまったのだろう、小さくなった長靴まである。
凌太がそっと声を落とす。
「急がなくていい」
「ううん。急ぐ。いま急がないと、また見ないままになる」
彩加は袖をまくり、床へ膝をついた。
木箱の蓋を開ける。古布。古い帳面。祭り用の飾り紐。次の箱には、母が使っていた小さな写真機の革袋が入っていた。革は乾いていたが、留め具はまだ無事だ。
「これ……」
彩加は袋を両手で持ち上げた。
胸が少し痛む。
母がそれを肩に掛けて、工房と港を行き来していた姿を思い出したからだ。彩加が幼い頃、母はよく突然立ち止まって、陽の当たり方を確かめるように目を細めていた。そのあとでしゃがみ込み、地面や荷札や倉庫の柱を撮っていた。
何をそんなに面白がっているのか、当時は分からなかった。
「中、見てもいい?」
彩加が自分に許可を出すみたいに呟くと、凌太が静かに頷く。
革袋の底には、薄い封筒が二枚と、硬い表紙のアルバムが一冊入っていた。
紺の布張りの表紙は、角が擦れて白くなっている。けれど金の箔押しで小さく朝凪の波紋が入っていて、母が大事にしていたものだとひと目で分かった。
彩加は埃を払って、膝の上へ置いた。
開く前に、少しだけ指が止まる。
見たら戻れない気がした。懐かしいだけでは済まないものが、たぶんここにある。
それでも彩加は、ゆっくり表紙をめくった。
最初の頁は家族写真だった。
若い父と母。まだ背の低い彩加。工房の前で三人とも笑っている。母の袖は墨で汚れていて、父の肩には干した荷札の紐が引っかかっていた。きちんとした記念写真ではなく、仕事の途中で誰かに撮ってもらったのだろう。だからこそ、暮らしの温度がそのまま写っている。
次の頁には、工房の刻印棚。さらに次の頁には、乾燥室に並ぶ木札。母は写真の端へ小さな字で日付と場所を書き込んでいた。
十二月二日、南倉庫。
十一月二十七日、東岸壁。
十月十五日、旧灯台下。
ただの家族の記録ではない。
頁が進むほど、その感じは強くなった。船の腹に刻まれた護航印の拡大。倉庫の扉に残った削れ跡。荷札の紐の結び方。市場の石畳に落ちた車輪痕。
彩加は唇を開いたまま頁をめくった。
「……母さま、何を見てたの」
独り言みたいに零すと、後ろから凌太の声が低く返る。
「記録だ。思い出じゃない」
その言い方があまりに迷いなくて、彩加は振り返った。
凌太はアルバムの上へ身をかがめ、写真の端の書き込みを見ていた。目線は鋭いのに、彩加の肩へ触れないぎりぎりの距離を守っている。
「この並び方、時系列だけじゃない。場所ごとにまとまってる。しかも同じ場所でも、印の状態が違うものを残してる」
「比較のため?」
「たぶん」
彩加はもう一度頁へ目を落とした。
たしかにそうだ。同じ倉庫の扉が、数日置きに撮られている。最初はきれいだった線が、次の写真では少し痩せ、さらに次では端が欠けている。母は、それをわざわざ残していた。
祝福刻印の劣化。
あるいは、偽造刻印との違い。
喉の奥が熱くなる。母は、ただ町を歩いていたのではなかった。見て、残して、比較していた。
頁をさらに進める。
幼い彩加が写る写真もあった。石畳の上で転んで膝をすりむき、頬を膨らませている。母の字で、《泣く前に怒る子》と書いてあって、彩加は思わず息を漏らした。
「なによ、それ」
「当たってるな」
「凌太」
「事実だろ」
少しだけ笑う。
それだけで、張りつめていた胸がわずかにゆるんだ。
けれど、その次の頁で、笑いは消えた。
一枚の写真が、他と違う空気を持っていたからだ。
夕方の斜めの光。石畳の上に長く伸びる小さな影。画面の手前には、まだ幼い彩加の靴先が少しだけ写っている。顔はない。あるのは影だけだ。
その写真の下に、母の字でこう書いてあった。
《地面に浮かぶ君の影。見失いそうな日は、形を見ること》
彩加は、その字を指でなぞりかけて止めた。
母の字だ。
少し右上がりで、急いでいると最後の払いが細くなる。何度も見た、好きな字だ。
でもその言葉は、子どもへ贈る優しい覚え書きみたいでいて、どこか別の意味も含んでいるように思えた。
「形を見ること……」
彩加が呟いたとき、凌太の指先が写真の影の輪郭を示した。
「この影、ただの人影じゃない」
「え?」
「ほら、頭の先の形。灯台の紋章の上部に似てる」
彩加は目を凝らした。
最初はただ長いだけに見えた影が、言われてみればたしかに少し変だ。肩のあたりが細く、上へ行くほど開いている。その先端は、古い波除け印の外枠によく似ていた。
朝凪刻印房の古い図案帳に、同じ形があったはずだ。
旧灯台の壁面に使われていた、いまは廃された古い紋章。
彩加は急いで頁を戻し、旧灯台下と書かれた写真を並べた。石の壁。扉の縁。ひびの入った印板。その端に小さく写り込んでいる紋章の曲線が、影の形と重なっていく。
胸の鼓動がはっきり速くなる。
「一致してる……」
「母親は、影の中に紋章を見ていたのかもしれない」
「どうしてそんなことを」
「分からない。でも、ただ綺麗だから撮った並びじゃない」
彩加は次の頁をめくった。
旧灯台の内部らしい写真が数枚続く。石段。鉄の扉。床へ落ちる格子窓の影。どれも少しずつ角度が違い、同じ場所を何度も撮った跡がある。
しかも、一枚だけ頁の隙間へ細い紙片が挟まっていた。
彩加が引き抜くと、メモだった。
《正面から見える印は一つ。影になると、隠し継ぎ手が見える》
書き殴ったような短い文。
だが、十分だった。
凌太が息を落とす。
「旧灯台のどこかに、表からは見えない継ぎ手がある」
「母さまは、それを見つけてた……?」
「少なくとも、見つけかけていた」
彩加はアルバムを抱えたまま、しばらく動けなかった。
母は事故で死んだと、ずっと思ってきた。
海の荒れた夜、帰りの船が遅れ、そのまま戻らなかった。遺体も荷も完全な形では見つからず、大人たちはみな、気の毒だったとだけ言った。幼かった彩加は、そういうものかと飲み込むしかなかった。
でも、もし。
もし母が、その前から何かを追っていたのだとしたら。
港の中の、おかしな流れを。
正面から見える印と、影になると現れる継ぎ手を。
そう考えた途端、屋根裏の空気が少し冷たくなった気がした。
彩加は慌てて頁を閉じようとして、手を止めた。
閉じたくなかった。
怖いのに、目を逸らしたくもなかった。
そのまま最後の方まで繰ると、家族写真はほとんどなくなり、港の記録ばかりが増えていく。そして裏表紙近くの見返しへ、小さな紙袋が貼ってあった。中には乾ききった藍色の花弁が一枚と、波線を描いた紙片が入っている。
紙片には、旧灯台から岸壁へ伸びる短い線と、丸印が二つ。
地図とも図面とも言い切れない、走り書きのような線だ。
「証拠帳かもしれない」
彩加はようやく声にした。
自分の声が少し震えているのが分かる。
「母さま、思い出を残してたんじゃない。見たものを、忘れないために置いてた」
凌太が頷く。
「そう考えるのが自然だ」
「でも、これだけじゃ人を裁けるほどじゃない」
「いまは裁く段階じゃない。つなぐ段階だ」
その言い方は、昨夜の《待つ。けれど、諦めない》と同じ温度を持っていた。
彩加はアルバムを抱え直した。
「旧灯台へ行く前に、まず写して整理する。李々香さんにも見てもらう。あの人、こういう記録の並びを読むの得意そうだし」
「弥織にも知らせよう。旧灯台の立ち入り許可は、表から取ったほうがいい」
「また面倒な顔されそう」
「たぶんされる」
「でも、行く」
「行く」
短い返事が重なる。
それだけで、不思議と足元が固まった。
彩加はゆっくり息を吐いた。屋根裏の空気は相変わらず古くて乾いているのに、胸の中だけが少し湿り気を取り戻したみたいだった。
アルバムの表紙を撫でる。
母の手は、もうここにはない。
けれど母の見たものは、こんなふうに残っていた。石畳の影や、港の扉や、灯台の紋章の中に。
「ねえ、凌太」
「うん」
「私、母さまのこと、分かってたつもりだった」
彩加は小さく笑った。
「よく笑って、よく働いて、帰りに焼き栗を買ってくる人。そういうところばっかり覚えてた。でも本当は、もっといろんなものを見てたんだね」
凌太は少し黙ってから言った。
「覚えている姿が優しいなら、それも本当だ」
彩加は顔を上げた。
「でも、君がいま見つけたものも、本当だ」
慰めとも違う、押しつけとも違う声だった。
そのまま並べて置いてくれる言い方に、彩加の喉がじんとする。
「そういうの、ずるい」
「何が」
「ちゃんと助かる言い方するところ」
「狙ってない」
「なおさらずるい」
言いながら笑うと、涙までは落ちなかった。
屋根裏の窓の外で、昼の光が少し傾き始めていた。海の上を飛ぶかもめの影が、一瞬だけ床へ横切る。
彩加はふと、先ほどの写真を思い出した。
地面に浮かぶ君の影。
見失いそうな日は、形を見ること。
昔の母は、幼い娘へそう書いた。けれど今の彩加には、それが別の意味でも読める。
見えているものだけで決めるな。
真正面の立派な看板だけで、人も印も信じるな。
光が当たらない角度で現れる形を見ろ。
母は、そうやって港を見ていたのかもしれない。
アルバムを閉じたとき、ぱらりと一枚の写真が膝へ落ちた。
拾い上げると、旧灯台の外壁だった。夕方の低い光のせいで、壁の窪みがいつもより深く見える。写真の端に、母の字で小さく書き添えられている。
《鍵穴は、扉についているとは限らない》
彩加と凌太は、ほぼ同時に顔を上げた。
無言のまま目が合う。
旧灯台のどこかに、まだ開いていない場所がある。
その確信だけが、ほこり混じりの光の中で静かに形を持った。
母のアルバムは、思い出の品では終わらない。
誰かの暮らしを守るために残された、遅れて届いた証言だ。
彩加は写真を胸へ押し当て、まっすぐ前を向いた。
「次は、母さまが見た続きを、私が見る」




