表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/13

第7話 黒墨の行き先

 資料庫を出たときには、外はもう群青色だった。


 石造りの廊下を抜けるたび、窓硝子に映る自分の顔が、昼間より少しだけ大人びて見える。古い台帳の湿った匂いと、乾いた紙をめくり続けた指先のざらつきが、まだ彩加の手に残っていた。


 消えたはずの保全墨。旧灯台裏荷揚げ場。原板用補修材。


 たった数枚の紙なのに、胸の中では重しみたいに沈んでいる。


 彩加はギルド会館の外へ出て、きりりと冷えた夜気を吸いこんだ。港のほうから、潮の匂いに混じって油と煤の匂いが流れてくる。昼の賑わいが引いたあとの港は、静かなようでいて、どこか落ち着かない。荷の動く音は止まらないし、夜にしか流れないものだってある。


 石段を下りたところで、凌太が隣へ並んだ。


 「足元」


 短く言って、彼は薄く凍りかけた段の手前を示す。


 彩加は苦笑した。


 「今日は何回注意されるのかしら」


 「数えていない」


 「数えてたら怖いわね」


 「数えなくても危なそうなら言う」


 そう返す声は平坦だったが、彼がわずかに歩幅を落としたのは分かった。彩加が紙束と格闘したあとで足に疲れが出ていると、もう見抜かれているらしい。


 夜気の中をしばらく無言で歩く。


 ギルド会館の灯りが背後で遠ざかり、前方には港の見張り灯が小さく揺れていた。


 彩加は手袋の上から指を握った。


 「ねえ、さっきの控え」


 「うん」


 「当たりだと思う」


 「俺もそう思う」


 「でも、紙の上で思うのと、実際にそこへ行くのは違うわよね」


 凌太は数歩ぶん黙ったあと、低く答えた。


 「今夜、見に行く」


 彩加は足を止めかけた。


 「今夜?」


 「旧灯台裏そのものじゃない。まずは荷さばき場だ。黒墨が夜に流れるなら、表の帳場より先に、現場の匂いから辿った方が早い」


 「誰と行くの」


 「健平が案内を買って出た」


 その名を聞いて、彩加は少しだけ肩の力を抜く。健平は口が悪いし、笑い方も荒っぽいけれど、港の裏表を知っている。あの男が一緒なら、知らない路地へ踏み込む心細さはかなり減る。


 「買って出たって、素直に?」


 「弥織に三回断られて、四回目で押し切ったらしい」


 「想像できすぎる」


 彩加は吹き出した。冷えた夜の中で、自分の笑い声が白く砕ける。


 けれどすぐに、胸の奥で別の熱が持ち上がった。


 見に行く。今夜。すぐに。


 母の足跡に繋がるかもしれない場所へ、やっと自分の足で向かえるのだ。


 その思いが、怖さと一緒にじわじわ広がる。


 「工房へ寄って、外套を替える」


 凌太が言う。


 「トトは?」


 「寝てたら置いていく。起きて耳が光るなら、それも手がかりだ」


 「働かせる気満々ね、うちの看板獣」


 「俺より役に立つかもしれない」


 「いまのは夫として減点」


 「契約上の評価基準に書いてあったか」


 「いま私が決めたの」


 そんなやりとりをしているうちに、朝凪刻印房の看板が見えてきた。白い木地に藍の波線を描いた古い看板は、夜になるといっそう小さく見える。それでも、自分の帰る場所だと思えるだけで、彩加の胸は少し温かくなった。


 工房の裏口から入ると、乾燥室の木棚からほのかな樹脂の匂いがした。母が使っていた刻印板の棚は静かで、火を落とした作業台は薄暗い。その静けさの中で、丸めた布の中からぴょこりと白い耳が出た。


 トトだ。


 潮うさぎは眠そうに目を開け、彩加を見るなり布からころりと出てきた。足元を一周してから、凌太の靴のつま先を確認するように嗅ぎ、最後に彩加の外套の裾へ飛びつく。


 「行く気ね」


 彩加が抱き上げると、トトは胸元で小さく鼻を鳴らした。


 凌太は外套を脱ぎながら一瞥した。


 「置いていけない顔をしてる」


 「私が?」


 「両方」


 彩加はトトの額を撫でた。白い毛はあたたかく、指先の緊張を少しだけほどいてくれる。


 夜向けの濃い外套へ着替え、髪飾りを外し、銀鎖の刻印筆も目立たない紐へ替える。礼装の残り香を洗い流すように顔を拭き、手袋を新しくしたところで、裏口が二度鳴った。


 健平だった。


 「おう、遅い。おまえらが着替えてる間に俺が老人になる」


 開口一番それを言って、彼は勝手知ったる顔で土間へ入ってくる。厚手の外套の前を無造作に開け、首には煤色の巻布。冬の夜でも動きやすいように、袖口だけが妙にきちんと締めてあった。


 彩加は腕を組む。


 「そのくらいで老けるなら、元からよ」


 「ひど。幼なじみに対する礼儀って知ってるか」


 「知ってるわよ。危ない場所へ連れていってもらう相手には、最初に余計な口を利かないこと」


 健平は口の端を上げた。


 「口だけは元気で安心した」


 その一言の奥に、ちゃんと気遣いがあるのを彩加は知っている。晩餐会のあとから今まで、彼は朝凪刻印房へ顔を出していない。噂の中心に不用意に近づけば、かえって彩加の家へ火の粉が飛ぶと分かっていたからだ。


 雑に笑うくせに、こういうところで人の首を絞めない。


 凌太が壁際から外套の留め具を直しながら言う。


 「行けるか」


 「おう。ただし今日は俺の後ろを歩け。見回りの灯りが二本増えてる。荷の抜き差しがある夜だ」


 「増えた理由は」


 「表向きは盗難防止。ほんとの理由は知らん。だから見に行くんだろ」


 健平はそう言って、彩加の胸元のトトを見た。


 「それも来るのか」


 「耳が光ると分かるの」


 「便利すぎて悔しいな」


 「あなたも耳が光ればよかったのにね」


 「そしたら夜勤で重宝されるだろ。港じゅうから引っ張りだこだ」


 くだらない応酬を交わしながら、四人と一匹は工房を出た。


 リュストルの夜の港は、昼より音が低い。


 声を張る者は減るかわりに、綱のきしむ音、波止場へぶつかる水音、木箱を引きずる音が、暗がりの奥で長く響く。石畳の隙間には昼の雪が黒く残り、踏むたび水気を帯びた冷たさが靴底から伝わってきた。


 健平は何度も振り返らない。ただ、曲がり角へ来るたび肩を少しずらし、彩加たちが壁の影へ入りやすい位置をつくる。見れば分かるほど露骨ではない。だからこそ、普段からこうして誰かを庇って歩いているのだと分かった。


 裏通りへ入ると、酒場の裏口から笑い声が漏れ、樽の山の向こうで荷車の車輪が軋んだ。見慣れた港なのに、夜だけは別の顔になる。


 彩加は小声で訊く。


 「いつもこんなところ歩いてるの」


 健平は鼻を鳴らした。


 「港で食うってのは、昼の顔だけ見て済むほど楽じゃねえよ。日が沈んでからの荷で、その日の儲けがひっくり返ることもある」


 「それ、正規の荷だけで言ってる?」


 「半分はな」


 半分は違う。そう言外に示して、彼は足を止めた。


 前方に、低い屋根の連なった荷さばき場が見える。昼は魚樽や雑貨の集まる場所だが、この時間は灯りが少なく、風よけの板壁が影を濃くしていた。海に近いぶん潮風が強く、木と麻縄の匂いに、墨のような苦い匂いがうっすら混じっている。


 凌太の視線が鋭くなる。


 「黒墨か」


 「たぶんな」


 健平が顎で示したのは、桟橋脇の屋根付き通路だった。二人の男が何かを運んでいる。昼なら保管庫へまっすぐ入れるような小箱を、わざわざ夜に、しかも灯りを落として運んでいる。


 彩加の胸元で、トトがもぞりと動いた。


 白い耳の先が、ほんのり青みを帯びる。


 「やっぱり」


 彩加が囁くと、凌太はすぐ手を上げて合図した。いまは近づきすぎない、という意味だ。健平は無言で頷き、板壁の影を選んでさらに奥へ誘導する。


 三人は積まれた空樽の陰へしゃがみこんだ。


 板の隙間から見える通路では、男たちが荷を置き、一人が紙片へ印を押している。正規の帳場印ではない。夜の灯りでも分かるほど粗く、にじみの強い黒だった。


 彩加は目を細める。


 「偽造刻印の墨って、もっと煤っぽい匂いがするのね」


 「粗悪な油を混ぜてるんだろ」


 凌太が答える。


 「発色だけ合わせてる。定着も持続も犠牲にして」


 「だからあとで反動が来る」


 「そうだ」


 その短い会話のあいだにも、荷は次々と運ばれていく。小箱だけではない。奥から、底の深い木箱が二つ出てきた。縄のかけ方が厳重で、上から油布まで巻いてある。


 健平が低く言った。


 「昼には見ない箱だ」


 「中身は」


 「重さの割に運び手が慎重すぎる。液体か、割れ物か、隠したいものか」


 彩加は板の隙間へ顔を寄せた。


 その木箱の側面へ、見覚えのある印が打たれているのが見えた。夜目でも分かる。簡略化された海鷲の意匠。港湾行政長官家の紋章だ。


 胸の奥で、何かがはじけた。


 「……あれ」


 声が尖りかけた瞬間、隣から凌太の手が伸び、彩加の手首をそっと押さえた。掴むほど強くはない。ただ、ここで飛び出すなと伝えるだけの力。


 彩加は息を呑む。


 木箱の紋章は見間違えようがなかった。晩餐会の壁飾りにも、行政庁の文書封蝋にも使われる、あの紋章だ。祥章の家の箱が、こんな時刻に、こんな場所で、こんな匂いのする荷と一緒に動いている。


 頭に血が上る。


 いま出ていって、箱を開けろと言いたかった。港じゅうに聞こえる声で、やっぱりおまえたちかと言ってしまいたかった。


 だが、凌太の手は静かだった。


 その静けさが、かえって彩加の熱を受け止める。


 彼は彩加から視線を外さず、ほんのわずかに首を振った。


 まだだ。


 そう言われた気がした。


 荷さばき場では、さらに別の男が近づいてきた。顔を半分布で覆っているが、歩き方で分かる。行政庁付きの雑務役人だ。昼間、正面玄関で見たことがある。


 男は木箱の側面を二度叩き、運び手へ何か低く指示する。それから袖口から小さな札束を滑らせた。


 健平が奥歯を噛んだ。


 「きれいに腐ってやがる」


 「声を落とせ」


 凌太が言う。


 そのとき、不意に通路の端で見張りの灯りが動いた。


 誰か来る。


 健平は反射みたいな速さで彩加の肩を引き、空樽と板壁の隙間へ押し込んだ。自分は半歩前へ出て、ちょうど風よけ板の一部みたいに立つ。凌太も位置を変え、彩加とトトが灯りの線へ入らないようにした。


 見張りが通る。


 灯りの輪が、健平の外套の裾をかすめた。


 「誰だ」


 ぶっきらぼうな声が飛ぶ。


 健平は振り返りもしなかった。


 「あ? 俺だよ。昼の残りを港番小屋へ回せって言われただろ。忘れたのか」


 「……健平か」


 「そうだよ。おまえが酒場で二杯目のあとに毎回泣く相手だ」


 「泣いてねえ」


 「じゃあ今夜こそ泣くなよ。寒いんだから」


 見張りは舌打ちして通り過ぎた。


 足音が遠ざかるまで、彩加は息を止めていた。胸元のトトまで、ぴたりと動きを止めている。やがて灯りが曲がり角の向こうへ消えた瞬間、彩加は肺の奥から一気に息を吐いた。


 健平がようやく振り返る。


 「だから後ろ歩けって言ったろ」


 「助かった」


 凌太が低く言う。


 「俺はそのためにいる」


 いつもの軽口より、少しだけ素の声だった。


 彩加は彼を見上げた。健平はそれに気づくと、すぐまたにやりと口を曲げる。


 「なんだよ。惚れるなら荷が片づいてからにしろ」


 「誰が」


 「顔がそう言ってる」


 「夜目が悪いのよ」


 そう返したものの、彩加の胸はまだ速く打っていた。見張りに見つかしかけたからだけではない。健平が冗談みたいな顔で、当たり前みたいに盾になったからだ。


 雑に扱われる役だろ、と笑う男が、いちばん雑に人を扱わない。


 そのことが、妙に胸へ残った。


 通路の向こうでは、木箱がさらに奥へ運ばれようとしていた。桟橋へ向かうのではなく、背後の閉じた倉庫棟へ入るらしい。


 凌太が小さく呟く。


 「行き先を覚えた。倉庫番号も」


 「三番の裏口だな」


 健平が続ける。


 「昼は塩漬け魚の保管庫って名目になってる。けど最近、やたら鍵番が替わる」


 「誰の管轄」


 「表は保全部。裏は知らん顔」


 彩加はもう一度、木箱の紋章を見た。


 風で油布がめくれ、海鷲の輪郭がちらりと光る。


 あれだけで十分だ、と言いたくなる。十分に腹が立つ。十分に怪しい。十分に、彩加の家を潰した手に見える。


 けれど十分ではないのだと、隣にいる二人の顔が教えていた。


 健平は人の流れを見ている。凌太は証拠がどこで繋がるかを見ている。どちらも、怒りだけでは港の腐った部分を掴めないと知っている顔だった。


 彩加は唇の内側を噛んだ。


 「……箱に紋章があった」


 「見えた」


 凌太が答える。


 「だったら」


 「それだけでは、誰かが紋章入りの箱を使った、で終わる」


 即座に返る。


 厳しい言い方ではなかった。ただ、事実として削られた言葉だった。


 「紋章は証明になるようで、証明にならない。むしろ罠にされる。あからさまだからこそ」


 彩加は俯きかけ、すぐに顔を上げた。


 「祥章の家のものを、誰かが勝手に使ったって言われる」


 「あるいは正規の荷だと押し切られる」


 「中身が黒でも?」


 「開けた瞬間を押さえなければ、積み替えられる」


 冷たい風が頬を切る。


 納得したくないのに、納得できてしまう。ここで飛び出しても、向こうが一晩あれば証拠は消える。怒鳴った側だけが短気で愚かに見えるように、いくらでも並べ替えられる。


 彩加は目を閉じた。


 晩餐会の夜、自分の名も家の名も、あっという間に「疑い」の言葉ひとつで塗り替えられた。あのときの悔しさが、いま別の形で戻ってくる。


 証拠が薄ければ、真実より先に言い方が勝つ。


 だからこそ、いまは待たなければいけない。


 待つのは、逃げるのと違う。


 彩加は胸の中でその言葉を何度か繰り返し、ゆっくり息を吐いた。


 「分かった」


 凌太の手が、まだそっと彩加の手首に触れていた。彼は彩加が暴れないと分かったところで、ようやく離す。


 その熱が引いたあと、冷えた空気がいっそうはっきり感じられた。


 「倉庫三番の裏口。見張り二人。行政庁付きの雑務役人が現場へ来ている。紋章箱は少なくとも二つ」


 凌太が確認するように言う。


 「今夜はここまでだ。次は出入り記録と鍵番の交代を当たる」


 健平が頷く。


 「それなら俺が昼の顔を集める。夜の顔は隠せても、昼の顔は飯の場所で崩れる」


 「助かる」


 「貸し一つな」


 「高くつきそう」


 「朝凪刻印房の焼き菓子一年分でいい」


 「図々しい」


 彩加が言うと、健平は肩をすくめた。


 「命張っただろ、さっき」


 それを冗談にしてしまうから、余計に返しに困る。彩加はむっとしたふりで彼を睨んだが、すぐに視線を逸らした。胸の中では、ありがとうの言葉がもう形になっている。


 帰り道は、来たときより静かだった。


 夜の港を抜け、石畳の通りへ戻るころには、雪が細かく降り始めていた。街灯の下へ入るたび、白い粒が細い線になって落ちてくる。トトは彩加の胸元から顔だけ出し、空を見てくしゃみをした。


 健平は途中の分かれ道で止まり、片手を上げた。


 「俺はこっちだ。明日の昼、魚市場の裏で会えるなら来い。塩屋の婆さんがよく見てる」


 「人より先に塩屋の婆さんへ話が通るの、どういう港なの」


 彩加が呟くと、健平は笑う。


 「この町で一番こええのは、長官でも監査官でもなく、口の固い年寄りだよ」


 「口の固い人が一番怖いって、矛盾してない?」


 「怖いから固いんだろ」


 もっともらしいことを言って、彼はひらりと背を向けた。雪の中へ紛れる前に、ふと思い出したように足を止める。


 「彩加」


 「なに」


 「さっき、飛び出さなかったのは偉い」


 振り返らないまま、それだけ言って去っていく。


 褒められたのか、子ども扱いされたのか分からない口調だった。けれど彩加は、返事をする前に彼の背が曲がり角へ消えるのを見送った。


 朝凪刻印房へ戻ると、家の中はしんとしていた。


 外套についた雪を払って炉へ火を足す。小鍋へ湯を張り、指先をあたためるための薄い茶を淹れる。夜の調査のあとでは、こういう小さな動きが妙に落ち着く。


 凌太は入口の鍵を確かめてから、居間の机へ簡単な見取り図を書き始めた。倉庫番号、見張りの位置、通路の灯り、木箱の流れ。紙の上で線が引かれるたび、さっきの夜が整理されていく。


 彩加は湯気の向こうからその横顔を見た。


 「ねえ」


 「うん」


 「私、ちょっと前まで、待つのって負けることだと思ってた」


 凌太の筆先が止まる。


 彩加は茶杯を両手で包んだまま続けた。


 「先に言われたら終わる。先に決められたら終わる。そういうの、いっぱい見てきたから。だから、止まるくらいなら動いたほうがましだと思ってたの」


 晩餐会の夜。父の工房へ向けられた疑い。笑って受け流すしかなかった自分。


 思い出すと、まだ喉の奥が熱くなる。


 「でも今夜は、動かなかったから見えたものがあった」


 「ある」


 凌太は短く頷いた。


 「待つのは、放置じゃない。次に確実に取るための時間だ」


 彩加は小さく笑う。


 「監査官の言葉ね」


 「君はすぐ飛び出すから、覚えておいてほしい」


 「夫として減点って言ったの、取り消さないわよ」


 「評価が厳しいな」


 「でも今夜は……少しだけ加点しておく」


 言ってから、彩加は自分の言葉に少しだけ照れた。茶杯へ目を落とすと、向かいからごくわずかに気配が変わる。


 凌太は紙から目を上げていた。


 その視線は相変わらず静かだ。けれど静かなぶんだけ、まっすぐ胸へ届く。


 「少しでいい」


 彼はそう言った。


 たったそれだけなのに、彩加の耳が熱くなる。


 ごまかすようにトトを抱き上げると、潮うさぎは眠たげな顔で丸くなった。耳の青い光はもう消えている。危ないものの気配から離れたのだろう。


 机の上には、夜の港の見取り図と、資料庫で見つけた控えの写しが並んでいた。


 線はまだ細い。証拠もまだ足りない。祥章の家の紋章があったからといって、すぐにすべてをひっくり返せるわけでもない。


 それでも、黒墨の行き先は見え始めた。


 見えたからこそ、次に何を取るべきかも分かる。


 彩加は茶を飲み干し、そっと机へ近づいた。


 「明日は魚市場の裏ね」


 「ああ」


 「塩屋の婆さんって、どんな人なの」


 「健平が怖がるくらいには鋭い人だろうな」


 「それは見てみたい」


 笑いながらそう言うと、凌太もほんの少しだけ口元をゆるめた。


 夜はまだ深い。


 けれど今夜の暗さは、晩餐会の帰り道に知った暗さとは違っていた。足元の影は長いままでも、その先へ進む道筋だけは、はっきりし始めている。


 彩加は見取り図の端へ、誰にも見せないくらい小さな字で書いた。


 《待つ。けれど、諦めない》


 墨が乾くのを見ながら、彼女はようやく、待つ強さというものの輪郭を知った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ