第7話 黒墨の行き先
資料庫を出たときには、外はもう群青色だった。
石造りの廊下を抜けるたび、窓硝子に映る自分の顔が、昼間より少しだけ大人びて見える。古い台帳の湿った匂いと、乾いた紙をめくり続けた指先のざらつきが、まだ彩加の手に残っていた。
消えたはずの保全墨。旧灯台裏荷揚げ場。原板用補修材。
たった数枚の紙なのに、胸の中では重しみたいに沈んでいる。
彩加はギルド会館の外へ出て、きりりと冷えた夜気を吸いこんだ。港のほうから、潮の匂いに混じって油と煤の匂いが流れてくる。昼の賑わいが引いたあとの港は、静かなようでいて、どこか落ち着かない。荷の動く音は止まらないし、夜にしか流れないものだってある。
石段を下りたところで、凌太が隣へ並んだ。
「足元」
短く言って、彼は薄く凍りかけた段の手前を示す。
彩加は苦笑した。
「今日は何回注意されるのかしら」
「数えていない」
「数えてたら怖いわね」
「数えなくても危なそうなら言う」
そう返す声は平坦だったが、彼がわずかに歩幅を落としたのは分かった。彩加が紙束と格闘したあとで足に疲れが出ていると、もう見抜かれているらしい。
夜気の中をしばらく無言で歩く。
ギルド会館の灯りが背後で遠ざかり、前方には港の見張り灯が小さく揺れていた。
彩加は手袋の上から指を握った。
「ねえ、さっきの控え」
「うん」
「当たりだと思う」
「俺もそう思う」
「でも、紙の上で思うのと、実際にそこへ行くのは違うわよね」
凌太は数歩ぶん黙ったあと、低く答えた。
「今夜、見に行く」
彩加は足を止めかけた。
「今夜?」
「旧灯台裏そのものじゃない。まずは荷さばき場だ。黒墨が夜に流れるなら、表の帳場より先に、現場の匂いから辿った方が早い」
「誰と行くの」
「健平が案内を買って出た」
その名を聞いて、彩加は少しだけ肩の力を抜く。健平は口が悪いし、笑い方も荒っぽいけれど、港の裏表を知っている。あの男が一緒なら、知らない路地へ踏み込む心細さはかなり減る。
「買って出たって、素直に?」
「弥織に三回断られて、四回目で押し切ったらしい」
「想像できすぎる」
彩加は吹き出した。冷えた夜の中で、自分の笑い声が白く砕ける。
けれどすぐに、胸の奥で別の熱が持ち上がった。
見に行く。今夜。すぐに。
母の足跡に繋がるかもしれない場所へ、やっと自分の足で向かえるのだ。
その思いが、怖さと一緒にじわじわ広がる。
「工房へ寄って、外套を替える」
凌太が言う。
「トトは?」
「寝てたら置いていく。起きて耳が光るなら、それも手がかりだ」
「働かせる気満々ね、うちの看板獣」
「俺より役に立つかもしれない」
「いまのは夫として減点」
「契約上の評価基準に書いてあったか」
「いま私が決めたの」
そんなやりとりをしているうちに、朝凪刻印房の看板が見えてきた。白い木地に藍の波線を描いた古い看板は、夜になるといっそう小さく見える。それでも、自分の帰る場所だと思えるだけで、彩加の胸は少し温かくなった。
工房の裏口から入ると、乾燥室の木棚からほのかな樹脂の匂いがした。母が使っていた刻印板の棚は静かで、火を落とした作業台は薄暗い。その静けさの中で、丸めた布の中からぴょこりと白い耳が出た。
トトだ。
潮うさぎは眠そうに目を開け、彩加を見るなり布からころりと出てきた。足元を一周してから、凌太の靴のつま先を確認するように嗅ぎ、最後に彩加の外套の裾へ飛びつく。
「行く気ね」
彩加が抱き上げると、トトは胸元で小さく鼻を鳴らした。
凌太は外套を脱ぎながら一瞥した。
「置いていけない顔をしてる」
「私が?」
「両方」
彩加はトトの額を撫でた。白い毛はあたたかく、指先の緊張を少しだけほどいてくれる。
夜向けの濃い外套へ着替え、髪飾りを外し、銀鎖の刻印筆も目立たない紐へ替える。礼装の残り香を洗い流すように顔を拭き、手袋を新しくしたところで、裏口が二度鳴った。
健平だった。
「おう、遅い。おまえらが着替えてる間に俺が老人になる」
開口一番それを言って、彼は勝手知ったる顔で土間へ入ってくる。厚手の外套の前を無造作に開け、首には煤色の巻布。冬の夜でも動きやすいように、袖口だけが妙にきちんと締めてあった。
彩加は腕を組む。
「そのくらいで老けるなら、元からよ」
「ひど。幼なじみに対する礼儀って知ってるか」
「知ってるわよ。危ない場所へ連れていってもらう相手には、最初に余計な口を利かないこと」
健平は口の端を上げた。
「口だけは元気で安心した」
その一言の奥に、ちゃんと気遣いがあるのを彩加は知っている。晩餐会のあとから今まで、彼は朝凪刻印房へ顔を出していない。噂の中心に不用意に近づけば、かえって彩加の家へ火の粉が飛ぶと分かっていたからだ。
雑に笑うくせに、こういうところで人の首を絞めない。
凌太が壁際から外套の留め具を直しながら言う。
「行けるか」
「おう。ただし今日は俺の後ろを歩け。見回りの灯りが二本増えてる。荷の抜き差しがある夜だ」
「増えた理由は」
「表向きは盗難防止。ほんとの理由は知らん。だから見に行くんだろ」
健平はそう言って、彩加の胸元のトトを見た。
「それも来るのか」
「耳が光ると分かるの」
「便利すぎて悔しいな」
「あなたも耳が光ればよかったのにね」
「そしたら夜勤で重宝されるだろ。港じゅうから引っ張りだこだ」
くだらない応酬を交わしながら、四人と一匹は工房を出た。
リュストルの夜の港は、昼より音が低い。
声を張る者は減るかわりに、綱のきしむ音、波止場へぶつかる水音、木箱を引きずる音が、暗がりの奥で長く響く。石畳の隙間には昼の雪が黒く残り、踏むたび水気を帯びた冷たさが靴底から伝わってきた。
健平は何度も振り返らない。ただ、曲がり角へ来るたび肩を少しずらし、彩加たちが壁の影へ入りやすい位置をつくる。見れば分かるほど露骨ではない。だからこそ、普段からこうして誰かを庇って歩いているのだと分かった。
裏通りへ入ると、酒場の裏口から笑い声が漏れ、樽の山の向こうで荷車の車輪が軋んだ。見慣れた港なのに、夜だけは別の顔になる。
彩加は小声で訊く。
「いつもこんなところ歩いてるの」
健平は鼻を鳴らした。
「港で食うってのは、昼の顔だけ見て済むほど楽じゃねえよ。日が沈んでからの荷で、その日の儲けがひっくり返ることもある」
「それ、正規の荷だけで言ってる?」
「半分はな」
半分は違う。そう言外に示して、彼は足を止めた。
前方に、低い屋根の連なった荷さばき場が見える。昼は魚樽や雑貨の集まる場所だが、この時間は灯りが少なく、風よけの板壁が影を濃くしていた。海に近いぶん潮風が強く、木と麻縄の匂いに、墨のような苦い匂いがうっすら混じっている。
凌太の視線が鋭くなる。
「黒墨か」
「たぶんな」
健平が顎で示したのは、桟橋脇の屋根付き通路だった。二人の男が何かを運んでいる。昼なら保管庫へまっすぐ入れるような小箱を、わざわざ夜に、しかも灯りを落として運んでいる。
彩加の胸元で、トトがもぞりと動いた。
白い耳の先が、ほんのり青みを帯びる。
「やっぱり」
彩加が囁くと、凌太はすぐ手を上げて合図した。いまは近づきすぎない、という意味だ。健平は無言で頷き、板壁の影を選んでさらに奥へ誘導する。
三人は積まれた空樽の陰へしゃがみこんだ。
板の隙間から見える通路では、男たちが荷を置き、一人が紙片へ印を押している。正規の帳場印ではない。夜の灯りでも分かるほど粗く、にじみの強い黒だった。
彩加は目を細める。
「偽造刻印の墨って、もっと煤っぽい匂いがするのね」
「粗悪な油を混ぜてるんだろ」
凌太が答える。
「発色だけ合わせてる。定着も持続も犠牲にして」
「だからあとで反動が来る」
「そうだ」
その短い会話のあいだにも、荷は次々と運ばれていく。小箱だけではない。奥から、底の深い木箱が二つ出てきた。縄のかけ方が厳重で、上から油布まで巻いてある。
健平が低く言った。
「昼には見ない箱だ」
「中身は」
「重さの割に運び手が慎重すぎる。液体か、割れ物か、隠したいものか」
彩加は板の隙間へ顔を寄せた。
その木箱の側面へ、見覚えのある印が打たれているのが見えた。夜目でも分かる。簡略化された海鷲の意匠。港湾行政長官家の紋章だ。
胸の奥で、何かがはじけた。
「……あれ」
声が尖りかけた瞬間、隣から凌太の手が伸び、彩加の手首をそっと押さえた。掴むほど強くはない。ただ、ここで飛び出すなと伝えるだけの力。
彩加は息を呑む。
木箱の紋章は見間違えようがなかった。晩餐会の壁飾りにも、行政庁の文書封蝋にも使われる、あの紋章だ。祥章の家の箱が、こんな時刻に、こんな場所で、こんな匂いのする荷と一緒に動いている。
頭に血が上る。
いま出ていって、箱を開けろと言いたかった。港じゅうに聞こえる声で、やっぱりおまえたちかと言ってしまいたかった。
だが、凌太の手は静かだった。
その静けさが、かえって彩加の熱を受け止める。
彼は彩加から視線を外さず、ほんのわずかに首を振った。
まだだ。
そう言われた気がした。
荷さばき場では、さらに別の男が近づいてきた。顔を半分布で覆っているが、歩き方で分かる。行政庁付きの雑務役人だ。昼間、正面玄関で見たことがある。
男は木箱の側面を二度叩き、運び手へ何か低く指示する。それから袖口から小さな札束を滑らせた。
健平が奥歯を噛んだ。
「きれいに腐ってやがる」
「声を落とせ」
凌太が言う。
そのとき、不意に通路の端で見張りの灯りが動いた。
誰か来る。
健平は反射みたいな速さで彩加の肩を引き、空樽と板壁の隙間へ押し込んだ。自分は半歩前へ出て、ちょうど風よけ板の一部みたいに立つ。凌太も位置を変え、彩加とトトが灯りの線へ入らないようにした。
見張りが通る。
灯りの輪が、健平の外套の裾をかすめた。
「誰だ」
ぶっきらぼうな声が飛ぶ。
健平は振り返りもしなかった。
「あ? 俺だよ。昼の残りを港番小屋へ回せって言われただろ。忘れたのか」
「……健平か」
「そうだよ。おまえが酒場で二杯目のあとに毎回泣く相手だ」
「泣いてねえ」
「じゃあ今夜こそ泣くなよ。寒いんだから」
見張りは舌打ちして通り過ぎた。
足音が遠ざかるまで、彩加は息を止めていた。胸元のトトまで、ぴたりと動きを止めている。やがて灯りが曲がり角の向こうへ消えた瞬間、彩加は肺の奥から一気に息を吐いた。
健平がようやく振り返る。
「だから後ろ歩けって言ったろ」
「助かった」
凌太が低く言う。
「俺はそのためにいる」
いつもの軽口より、少しだけ素の声だった。
彩加は彼を見上げた。健平はそれに気づくと、すぐまたにやりと口を曲げる。
「なんだよ。惚れるなら荷が片づいてからにしろ」
「誰が」
「顔がそう言ってる」
「夜目が悪いのよ」
そう返したものの、彩加の胸はまだ速く打っていた。見張りに見つかしかけたからだけではない。健平が冗談みたいな顔で、当たり前みたいに盾になったからだ。
雑に扱われる役だろ、と笑う男が、いちばん雑に人を扱わない。
そのことが、妙に胸へ残った。
通路の向こうでは、木箱がさらに奥へ運ばれようとしていた。桟橋へ向かうのではなく、背後の閉じた倉庫棟へ入るらしい。
凌太が小さく呟く。
「行き先を覚えた。倉庫番号も」
「三番の裏口だな」
健平が続ける。
「昼は塩漬け魚の保管庫って名目になってる。けど最近、やたら鍵番が替わる」
「誰の管轄」
「表は保全部。裏は知らん顔」
彩加はもう一度、木箱の紋章を見た。
風で油布がめくれ、海鷲の輪郭がちらりと光る。
あれだけで十分だ、と言いたくなる。十分に腹が立つ。十分に怪しい。十分に、彩加の家を潰した手に見える。
けれど十分ではないのだと、隣にいる二人の顔が教えていた。
健平は人の流れを見ている。凌太は証拠がどこで繋がるかを見ている。どちらも、怒りだけでは港の腐った部分を掴めないと知っている顔だった。
彩加は唇の内側を噛んだ。
「……箱に紋章があった」
「見えた」
凌太が答える。
「だったら」
「それだけでは、誰かが紋章入りの箱を使った、で終わる」
即座に返る。
厳しい言い方ではなかった。ただ、事実として削られた言葉だった。
「紋章は証明になるようで、証明にならない。むしろ罠にされる。あからさまだからこそ」
彩加は俯きかけ、すぐに顔を上げた。
「祥章の家のものを、誰かが勝手に使ったって言われる」
「あるいは正規の荷だと押し切られる」
「中身が黒でも?」
「開けた瞬間を押さえなければ、積み替えられる」
冷たい風が頬を切る。
納得したくないのに、納得できてしまう。ここで飛び出しても、向こうが一晩あれば証拠は消える。怒鳴った側だけが短気で愚かに見えるように、いくらでも並べ替えられる。
彩加は目を閉じた。
晩餐会の夜、自分の名も家の名も、あっという間に「疑い」の言葉ひとつで塗り替えられた。あのときの悔しさが、いま別の形で戻ってくる。
証拠が薄ければ、真実より先に言い方が勝つ。
だからこそ、いまは待たなければいけない。
待つのは、逃げるのと違う。
彩加は胸の中でその言葉を何度か繰り返し、ゆっくり息を吐いた。
「分かった」
凌太の手が、まだそっと彩加の手首に触れていた。彼は彩加が暴れないと分かったところで、ようやく離す。
その熱が引いたあと、冷えた空気がいっそうはっきり感じられた。
「倉庫三番の裏口。見張り二人。行政庁付きの雑務役人が現場へ来ている。紋章箱は少なくとも二つ」
凌太が確認するように言う。
「今夜はここまでだ。次は出入り記録と鍵番の交代を当たる」
健平が頷く。
「それなら俺が昼の顔を集める。夜の顔は隠せても、昼の顔は飯の場所で崩れる」
「助かる」
「貸し一つな」
「高くつきそう」
「朝凪刻印房の焼き菓子一年分でいい」
「図々しい」
彩加が言うと、健平は肩をすくめた。
「命張っただろ、さっき」
それを冗談にしてしまうから、余計に返しに困る。彩加はむっとしたふりで彼を睨んだが、すぐに視線を逸らした。胸の中では、ありがとうの言葉がもう形になっている。
帰り道は、来たときより静かだった。
夜の港を抜け、石畳の通りへ戻るころには、雪が細かく降り始めていた。街灯の下へ入るたび、白い粒が細い線になって落ちてくる。トトは彩加の胸元から顔だけ出し、空を見てくしゃみをした。
健平は途中の分かれ道で止まり、片手を上げた。
「俺はこっちだ。明日の昼、魚市場の裏で会えるなら来い。塩屋の婆さんがよく見てる」
「人より先に塩屋の婆さんへ話が通るの、どういう港なの」
彩加が呟くと、健平は笑う。
「この町で一番こええのは、長官でも監査官でもなく、口の固い年寄りだよ」
「口の固い人が一番怖いって、矛盾してない?」
「怖いから固いんだろ」
もっともらしいことを言って、彼はひらりと背を向けた。雪の中へ紛れる前に、ふと思い出したように足を止める。
「彩加」
「なに」
「さっき、飛び出さなかったのは偉い」
振り返らないまま、それだけ言って去っていく。
褒められたのか、子ども扱いされたのか分からない口調だった。けれど彩加は、返事をする前に彼の背が曲がり角へ消えるのを見送った。
朝凪刻印房へ戻ると、家の中はしんとしていた。
外套についた雪を払って炉へ火を足す。小鍋へ湯を張り、指先をあたためるための薄い茶を淹れる。夜の調査のあとでは、こういう小さな動きが妙に落ち着く。
凌太は入口の鍵を確かめてから、居間の机へ簡単な見取り図を書き始めた。倉庫番号、見張りの位置、通路の灯り、木箱の流れ。紙の上で線が引かれるたび、さっきの夜が整理されていく。
彩加は湯気の向こうからその横顔を見た。
「ねえ」
「うん」
「私、ちょっと前まで、待つのって負けることだと思ってた」
凌太の筆先が止まる。
彩加は茶杯を両手で包んだまま続けた。
「先に言われたら終わる。先に決められたら終わる。そういうの、いっぱい見てきたから。だから、止まるくらいなら動いたほうがましだと思ってたの」
晩餐会の夜。父の工房へ向けられた疑い。笑って受け流すしかなかった自分。
思い出すと、まだ喉の奥が熱くなる。
「でも今夜は、動かなかったから見えたものがあった」
「ある」
凌太は短く頷いた。
「待つのは、放置じゃない。次に確実に取るための時間だ」
彩加は小さく笑う。
「監査官の言葉ね」
「君はすぐ飛び出すから、覚えておいてほしい」
「夫として減点って言ったの、取り消さないわよ」
「評価が厳しいな」
「でも今夜は……少しだけ加点しておく」
言ってから、彩加は自分の言葉に少しだけ照れた。茶杯へ目を落とすと、向かいからごくわずかに気配が変わる。
凌太は紙から目を上げていた。
その視線は相変わらず静かだ。けれど静かなぶんだけ、まっすぐ胸へ届く。
「少しでいい」
彼はそう言った。
たったそれだけなのに、彩加の耳が熱くなる。
ごまかすようにトトを抱き上げると、潮うさぎは眠たげな顔で丸くなった。耳の青い光はもう消えている。危ないものの気配から離れたのだろう。
机の上には、夜の港の見取り図と、資料庫で見つけた控えの写しが並んでいた。
線はまだ細い。証拠もまだ足りない。祥章の家の紋章があったからといって、すぐにすべてをひっくり返せるわけでもない。
それでも、黒墨の行き先は見え始めた。
見えたからこそ、次に何を取るべきかも分かる。
彩加は茶を飲み干し、そっと机へ近づいた。
「明日は魚市場の裏ね」
「ああ」
「塩屋の婆さんって、どんな人なの」
「健平が怖がるくらいには鋭い人だろうな」
「それは見てみたい」
笑いながらそう言うと、凌太もほんの少しだけ口元をゆるめた。
夜はまだ深い。
けれど今夜の暗さは、晩餐会の帰り道に知った暗さとは違っていた。足元の影は長いままでも、その先へ進む道筋だけは、はっきりし始めている。
彩加は見取り図の端へ、誰にも見せないくらい小さな字で書いた。
《待つ。けれど、諦めない》
墨が乾くのを見ながら、彼女はようやく、待つ強さというものの輪郭を知った。




