第5話 港の子どもと潮うさぎ
午後の荷揚げ場は、朝より騒がしい。
石畳に積もった薄い霜は、荷車の車輪に踏まれて細かい白泥のように砕け、海風は容赦なく頬を切っていく。岸壁には東方船と西方船が並び、帆柱の縄がきしむ音、木箱を下ろす掛け声、濡れた麻袋の匂い、乾いた魚と香辛料の匂いが、冬の空気の中で入り混じっていた。
朝凪刻印房から歩いて十分ほど。彩加は厚手の外套の襟を押さえながら、隣を歩く凌太へ横目を向けた。
「ねえ、午後の見回りって言ってたけど、具体的には何を見るの?」
「荷札の流れ。倉庫の入出庫記録と、現場の荷の数が合っているか」
「帳簿の人らしい答え」
「君は?」
「私はね、風の冷たさと、干し鱈の匂いと、あそこの荷車の左前輪が危ないこと」
凌太が視線だけで荷車を見る。
車輪の木枠が少し緩み、石畳の段差を越えるたびにかすかに歪んでいた。彼は一言だけ言った。
「……本当に見ているな」
「刻印師は、割れそうなものを見る癖があるの」
「人もか」
「人は難しいわね。黙ってると特に」
そこで彩加は、わざとらしく肩をすくめた。凌太は何も返さなかったが、少しだけ歩幅を緩めた。
荷揚げ場の入口には、すでに弥織がいた。
灰青色の外套の上から帳場用の細い革帯を締め、片手に木札の束を抱えている。風に髪が乱れても、その人だけは乱れたように見えない。
「遅くない。ちょうどいいわ」
「呼ばれて飛び出て見回り夫婦です」
彩加がそう言うと、弥織は半眼になった。
「その軽口を現場で出せるなら元気ね。いいことよ」
「褒められた?」
「半分だけ」
凌太が短く問う。
「状況は」
弥織は木札を一枚抜き、そこへ走り書きされた番号を示した。
「ここ三日、荷札の紛失が増えているわ。高価な積荷より、保温印や防水印が重ねてある荷札が狙われてる。荷そのものを運び出す度胸はない。でも荷札だけなら、懐へ入れても目立ちにくい」
「転売か、使い回しか」
「たぶん両方。しかも今朝、倉庫番が一人、子どもの影を見たって」
彩加は眉をひそめた。
荷札だけでも、祝福刻印がきちんと入っていれば、それなりの値で取引されることがある。正規の依頼を通さず、布や木板へ貼り替えて使う者もいる。けれど、刻印は持ち主や用途を無視して使えば、たいていろくなことにならない。
「子ども、ね」
「腹を空かせた子は、大人より判断が早いの」
弥織の言い方は冷たくない。ただ、現場を見過ぎた人間の平らな声だった。
そのとき、奥のほうで怒鳴り声が上がった。
「待てっ、おい! そっちへ行ったぞ!」
振り向くと、木箱の影から、小さな体が弾かれるように飛び出してきた。茶色の帽子。擦り切れた上着。十歳になるかならないかの男の子だ。胸元へ何かを抱え込み、荷車の間を縫うように走っている。
倉庫番の男が二人、後ろから追っていた。
彩加は考えるより先に動いた。
「そっち、滑るわ!」
叫んで前へ出る。子どもは彩加を避けようとして進路を変え、その拍子に石畳の霜で足を取られた。小さな体がぐらりと傾く。
落ちる、と思った瞬間、彩加の横を凌太が抜けた。
長い腕が迷いなく伸び、子どもの襟首を危ない角から引き戻す。勢いは殺しきれず、二人とも木箱の脇へ半歩よろめいたが、倒れはしなかった。
抱え込まれていた荷札が一枚、ぱたりと石畳へ落ちる。
白い布札に、淡い朱の保温印が刻まれていた。
倉庫番たちが息を切らして追いつく。
「こいつです、監査官殿! 昼前にも倉庫の裏をうろついていて」
「荷札泥棒なんて、最近じゃ珍しくもねえが、よりによって祝福刻印つきばかり抜くんだ」
子どもは凌太に掴まれたまま、噛みつきそうな目で周囲を見回した。
「返せよ!」
甲高い声が、風の中でひどく尖って響く。
「それ、うちのだろ」
彩加がしゃがみこみ、落ちた荷札を拾った。
荷札そのものは本物だ。だが角が雑に剥がされていて、元は毛布束に付いていたものだとすぐ分かる。保温印はまだ生きている。
「返せないわ。これは荷物の持ち主がいるもの」
「じゃあ妹が凍えてもいいのかよ!」
その一言で、周囲の空気がぴたりと変わった。
倉庫番のひとりが顔をしかめる。
「またそれか。前にもそんな言い訳を」
「言い訳じゃない!」
子どもは暴れた。けれど凌太は必要以上に力を込めず、逃げられない程度に支えているだけだった。
彩加は少年の頬を見た。赤くひび割れ、鼻先も冷え切っている。袖口からのぞく手は、色が悪い。上着の前が少しだけ膨らんでいるのは、くるんだ布のせいだろうか。
「名前は?」
「……言わない」
「じゃあ、妹さんの名前は?」
少年は一瞬だけ目を揺らした。
その揺れ方が、嘘をつく子のものではなく、本当にそこへ触れられたくない子のものだと、彩加には分かった。
弥織が倉庫番たちへ静かに言う。
「囲まないで。ここで怒鳴れば、余計に意地になる」
「ですが」
「荷札は戻ったでしょう。まず事情を聞くわ」
窓口主任の声には、現場を黙らせる力がある。倉庫番たちは不承不承という顔で下がった。
凌太は少年へ目線を合わせるよう、少し膝を折った。
「逃げるか、話すか、選べ」
「逃げたら?」
「今は逃がさない」
「じゃあ選べないじゃん!」
「それでも、口を閉じるのと話すのは違う」
妙に律儀な答え方に、彩加は少しだけ口元を緩めた。少年も一瞬、毒気を抜かれたように凌太を見た。
やがて、ぐっと唇を噛みしめてから言う。
「……湊人」
「妹さんは?」
「紬」
「何歳?」
「五つ」
声が、最後だけ小さくなった。
彩加はゆっくり頷く。
「紬ちゃん、熱があるの?」
湊人は観念したように肩を落とした。
「昨日から咳が止まらない。毛布が濡れてて、乾かないし、夜になると寒いって泣くんだ。炊き出し小屋の毛布は足りないって言われた。だから……保温印のついたやつなら、少しでも」
最後の方は、怒鳴るでもなく、泣くでもなく、ただ擦れた声になった。
彩加は胸の奥で小さく息を呑む。
奪われた荷札の先にあるのが転売ではなく、ひとりの子どもの寝床だと分かった途端、叱る言葉の順番が難しくなった。
けれど、ここで盗みを見逃せば、港で働く人たちの明日の荷まで壊すことになる。
彩加は荷札を掌で裏返し、少年へ見せた。
「湊人。これを勝手に剥がして持っていくのは、だめ」
少年が唇を尖らせる。
「でも」
「でも、じゃないわ。これはね、毛布そのものを温めるためだけの印じゃないの。荷主の名前、送り先、品の状態、その全部に合わせて刻んである。無理に別の布へ貼り替えたら、熱が片寄って、火傷したり、逆にすぐ切れたりすることもある」
湊人の目が揺れる。
「……じゃあ、どうしろっていうんだよ」
その問いは、子どもの癇癪というより、行き場のない疲れに近かった。
彩加は数秒だけ考え、それから立ち上がった。
「弥織さん。炊き出し小屋の古布、まだありましたよね」
「洗い直したものが少し。だけど数は多くないわ」
「一枚でいい。厚手のもの」
「彩加」
凌太が低く呼ぶ。その声には、止める響きはなかった。ただ確認があるだけだ。
彩加は頷いた。
「簡易印ならここで入れられる。長持ちはしないけど、今夜を越すだけなら足りる」
弥織は少年と彩加を見比べ、すぐに踵を返した。
「待ってなさい。帳場脇に干してあるはず」
言うが早いか、風のように去っていく。
湊人が戸惑った顔で彩加を見上げる。
「……やってくれるのか」
「その代わり、盗んだ分はちゃんと謝る。次からは走る前に相談する。いい?」
「相談したって、誰も聞かない」
「今日は聞いたでしょう」
「それは」
「私がいたから?」
彩加は片眉を上げた。
「だったら覚えなさい。港には、話せば聞く大人もいるの。少なくとも、この人は聞くわ」
そう言って、凌太の外套の袖を軽く引く。
凌太はほんの少しだけ目を細めた。
「急に巻き込むな」
「監査官でしょ」
「それは断れない理屈だ」
湊人が、初めて少しだけ笑いそうな顔をした。
そのとき、弥織が戻ってきた。腕に抱えているのは、よく洗われた厚手の古布と、紐でまとめた木片だ。
「毛布には足りないけど、掛け布なら十分。木片は机代わり」
「助かります」
彩加は荷揚げ場の隅、風の当たりにくい壁際へ移動した。木片を即席の台にし、革鞄から小さな墨壺と刻印筆を取り出す。冬の外気で墨はすぐ固くなる。だから吐く息で少し温め、指先で粘りを見てから、布の四隅へ細い線を走らせた。
保温印は、ただ熱くすればいいわけではない。
眠る人の体温を逃がさず、湿り気を内側に溜めすぎず、朝には重さが残らないよう、弱く長く巡らせるのがいい。彩加は布の織り目を撫でながら、角と角を細い印で結び、その中心へ小さな環を重ねた。
荷揚げ場の喧騒が少し遠のく。
風が吹くたび、髪の先が頬へ触れる。
彩加の指先だけが、一定の速さで動いた。
最後に印の呼吸を整えるように、ほんの短い祈りを墨の上へ落とす。
「冷たすぎる夜を、越えられますように」
布の表面に、やわらかな朱がじわりと灯った。
湊人が息を呑む。
「……あったかい」
まだ触れただけだというのに、布へ手を伸ばした指先が驚いたように震えている。
彩加は布をたたみ、少年へ渡した。
「簡易印だから、三日も四日もは持たないわ。今夜と、せいぜい明日の朝まで」
「それでいい。……いや、よくないけど、でも」
言葉が追いつかないらしい。
彩加はわざと少し厳しい顔をつくる。
「ただし。次に盗んだら、耳を引っぱる」
「それだけ?」
「両耳」
「増えた!」
弥織が、くすりと笑った。
「湊人、炊き出し小屋には私から話を通すわ。妹さんを連れて、日が落ちる前に来なさい。医師見習いの当番も今日いる」
「ほんとに?」
「嘘をつく暇があるほど暇じゃないの」
きっぱりした答えに、湊人は何度か瞬きをした。それから布を抱え込み、ぎこちなく頭を下げる。
「……ごめんなさい」
倉庫番たちのほうへ向けて絞り出した謝罪は、褒められるほど立派ではない。けれど逃げるよりずっとましだった。
彩加は小さく頷き、荷札を倉庫番へ返す。
「これ、元の毛布束へ戻してください。印の縁が傷んでるから、今夜のうちに私が工房で補修します」
「え、あんたがそこまで」
「盗まれたあとで使えなくなった、なんて言われたくないもの」
倉庫番の男は気まずそうに鼻を掻いた。
「……悪かった。疑いの目で見てたわけじゃねえが」
「疑いの目でしたよ」
彩加がにっこり言うと、男は露骨にたじろいだ。弥織が横でため息をつく。
「本当に元気ね」
「半分だけ褒めるからですよ」
そんなやり取りをしていたときだった。
荷揚げ場のさらに奥、使いかけの木箱が積まれている陰から、かりかり、と妙な音がした。
最初は鼠かと思った。
だが次の瞬間、倉庫番のひとりが目を見開く。
「なんだ、あれ」
積まれた木箱の間から、白い塊がぴょこんと飛び出した。
手のひらに乗るくらいの小さな体。雪みたいに白い毛。耳は少し長く、先だけが海硝子のように透けている。うさぎに似ているが、鼻先は丸く、尾は短くふわふわしていた。
その生きものは一直線に、隅へ置かれた古びた木箱へ飛びついた。
そして、箱の角を、かじかじとかじり始める。
「ちょ、ちょっと待って。何してるの、あなた」
彩加が近づくと、その白い生きものは逃げない。代わりに耳をぴんと立てた。
次の瞬間、耳の内側が、じんわり青く光った。
荷揚げ場にいた何人かが、同時に息を呑む。
弥織が眉を上げる。
「潮うさぎ……?」
彩加も目を丸くした。
海辺の崖や古い倉庫の隙間でたまに見かける珍獣だとは聞いたことがある。祝福刻印の余光を好み、危ない印や歪んだ印のそばでは耳が変わった色に光る、と。
けれど実物を見るのは初めてだった。
白い潮うさぎは箱へ鼻先を押しつけ、嫌そうに前足で引っかく。青い光が、耳の先で小さく脈を打った。
凌太がすぐに木箱の前へしゃがみ込む。
「その箱、どこの荷だ」
倉庫番の男が慌てて木札をめくった。
「ええと……今朝、北の岸壁から回ってきた雑貨箱です。帳簿では空箱扱いになってますが」
「空箱にしては重い」
凌太が木箱の側面を軽く叩く。
鈍い音が返った。
彩加は箱の縁へ目を寄せた。見慣れた祝福刻印の線ではない。上手く似せてはいるが、線の呼吸が死んでいる。角で無理に繋いだような、急ごしらえの印だ。
「偽造ね」
彩加は即座に言った。
「防水印のふりをしてる。でもこの線、途中で墨が沈みすぎてる。塩の配合も変。雨をしのぐ前に木を傷めるわ」
弥織の目つきが変わる。
「ここで開ける?」
凌太は数秒考え、首を振った。
「いや。立会いを増やす。帳場へ運ぶ」
「逃がさないために印を打つ?」
「打つ」
彩加は頷き、木箱の蓋の合わせ目へ、簡易の封止印を一つだけ入れた。今度の印は温かくない。冷たい線だ。勝手に開ければすぐ分かるよう、青灰色の細い輪が箱をぐるりと囲む。
潮うさぎはその間も、彩加の足元をうろうろしていた。ときどき鼻先を靴へ押しつけ、また箱を見上げる。
「この子、ずっとここにいたのかしら」
弥織が肩をすくめる。
「少なくとも私は初めて見るわ。港猫ならともかく、潮うさぎが倉庫にいるなんてね」
「祝福刻印の余光を食べるなら、荷揚げ場は食堂みたいなものかも」
彩加がそう言うと、白い生きものがぴくりと耳を動かした。
まるで話が分かったみたいで、少しおかしい。
湊人がそっと近寄ってくる。
「それ、飼うの?」
「急ね」
「だって、その顔してる」
「どんな顔よ」
「かわいいって思ってる顔」
即答されて、彩加は口をつぐんだ。
否定しづらい。
潮うさぎは白くて丸くて、しかもさっきから偽造刻印にだけ反応している。可愛いだけでなく、頼もしさまである。
しかし、当の本人は本人で、ぐう、と小さく鳴いた。鳴くのだ、と彩加は驚く。さらに次の瞬間、その子は何の遠慮もなく彩加の裾へ前足をかけた。
抱け、という態度だった。
「えっ」
彩加が戸惑っていると、凌太が淡々と言う。
「持ち上げればいい」
「言い方が雑」
「落とすな」
「急に重い責任」
それでも彩加は両手を差し出し、そっと白い体をすくい上げた。
温かい。
冷たい海風の中にいたとは思えないほど、胸元へ収まった小さな体はほのかに熱を持っていた。指先に柔らかな毛が触れ、潮の匂いと、かすかな墨の匂いがする。
潮うさぎは抵抗もせず、彩加の腕の中でくるりと丸くなった。
そして、青く光っていた耳がゆっくり白へ戻っていく。
「……なんだか、落ち着きが早いわね」
「君の刻印墨の匂いがするからかも」
凌太がそう言った。
「余光を食べるなら、刻印師の腕の中は居心地がいいのかもしれない」
彩加は胸元の白い塊を見下ろした。
こちらを見上げる丸い目は黒くてつやつやしている。あまりに無防備で、荷揚げ場の真ん中にいることを忘れそうになる。
「名前、いる?」
湊人がまた言う。
「もうそこまで行くの?」
「だって飼う顔だし」
「その判断基準、どうなの」
彩加は少し考えた。白い毛玉は腕の中で丸まりながら、とと、とと、と小さな足音の名残みたいに鼻を鳴らしている。
「……トト、かな」
「適当じゃない?」と弥織。
「かわいいからいいの」
「半分賛成」
湊人は頷き、胸に布を抱え直した。
「トト。覚えた」
そう言って、少しだけ誇らしげに笑う。さっきまで追いつめられていた顔とは別人みたいだった。
彩加はその表情を見て、胸のどこかがやわらかくなるのを感じた。
盗みは褒められない。港の決まりも、荷主の都合も、無視していいわけがない。
それでも、今日ここで拾ったのは荷札だけではなかったのだと思う。
凍えた夜を越えるための布。話せば届くと知る子どもの顔。偽造刻印を嗅ぎ分ける白い小さな獣。そして、荷揚げ場の真ん中で、朝凪刻印房の手がまだ誰かの役に立つという事実。
弥織が帳場の方を振り向く。
「箱は私が立会人を呼ぶ。凌太、記録を」
「分かった」
「彩加、あなたはその子を連れて帰りなさい。もう完全に腕の中で寝る気よ」
言われて見れば、トトはすでに半分目を閉じていた。
「寝るの早いわねえ……」
「仕事が済んだんでしょ」と弥織。
「私より有能かもしれない」
「否定しづらい」
彩加が唇を尖らせると、弥織は珍しく少しだけ笑った。
凌太が木箱へ封止印の確認を書き込みながら、彩加へ視線を向ける。
「工房へ戻ったら、毛布束の補修を頼む」
「分かった。トトの寝床も作る」
「先に仕事だ」
「ええ、夫さま」
わざとらしく返すと、凌太は困ったようにほんの少しだけ目を細めた。
その顔を見て、彩加はまた胸の奥が温かくなる。
荷揚げ場へ来る前より、少しだけ。
湊人は炊き出し小屋へ向かう前に、もう一度だけ彩加へ頭を下げた。
今度はさっきより深い。
「……ありがとう」
「紬ちゃんに、あんまり湿った毛布を重ねないように言って。朝になったら干して、昼のうちに医師見習いのところで胸の音を聞いてもらうのよ」
「うん」
「あと、次は走る前に相談」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこで濁すのね」
湊人はようやく年相応の顔で笑い、駆けていった。
海風が、その小さな背を追い越していく。
彩加は腕の中のトトを見下ろし、それから帳場脇へ運ばれていく封止済みの木箱を見た。箱の側面に残る偽造刻印は、もう見逃せない形でそこにある。
今日の騒ぎは、ただの荷札泥棒で終わらない。
そう分かっていても、不思議と足は重くなかった。
自分の手で温めた布を抱えて走る子どもがいて、隣には無駄口の少ない監査官がいて、腕の中には潮うさぎがいる。
こんな午後なら、悪くない。
彩加は外套の前を閉じ直し、白い息をひとつ吐いた。
「さあ、帰りましょうか。うちの新入りさん」
トトは返事の代わりに、腕の中でもぞりと丸くなった。
朝凪刻印房の冬は、どうやら少しだけ賑やかになるらしい。




