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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第3話 朝凪刻印房、仮営業再開

 翌朝の朝凪刻印房は、海から上がってきた白い冷気を、古い木の戸の隙間から少しずつ飲み込んでいた。


 彩加は、まだ薄暗い二階の部屋で目を覚ました。冬の朝は遅い。窓の外では、岸壁の綱が風に鳴っている。昨夜のことが夢ではなかったと知るより先に、布団の外へ出した足が床の冷たさに震えた。


 「うわ、現実が容赦ない……」


 呟いてから、自分で苦く笑う。


 婚約破棄、公衆の面前での辱め、取引停止寸前の工房、そして契約結婚。ひと晩のうちに詰め込みすぎた出来事は、朝になれば少し薄まるかと思ったのに、むしろ輪郭を増していた。


 彩加は掛け布を払って立ち上がり、冷えた水で顔を洗った。鏡に映る頬は思ったより青くない。泣きはらした目でもない。働ける顔だ、と確認して、髪を高い位置でまとめる。


 今日は礼服ではない。厚手の作業着に袖を通し、腰へ道具袋を巻き、細い刻印筆を差す。指先へ油を薄く塗ると、工房の娘としての身体がようやく目を覚ました。


 階下へ降りると、暗い仕事場には、乾いた墨と木箱の匂いが満ちていた。


 母が使っていた刻印棚は、壁一面に細かく仕切られている。防腐、防水、保温、誘導灯、浮力付与。基本の型板が整然と並び、その横には彩加が工夫して増やした重ね刻印用の補助板が吊ってあった。奥の乾燥室には、荷札を干す縄と、湿気を抜くための白石がいつも通り置かれている。


 古い。けれど死んでいない。


 昨夜、扉を開けたときにも思ったが、朝の光の中で見ると、なおさらそうだった。誰かがここを潰そうとしているのなら、それは帳場の数字だけではなく、この棚も、この台も、この家で積み重ねてきた朝と夜まで奪おうとしているのだ。


 彩加は台の縁へ手を置き、低く言った。


 「やらせるもんですか」


 そのとき、表の戸が控えめに鳴った。


 約束通り、早い。


 彩加は表へ出て鍵を外す。冷気と一緒に立っていたのは、濃紺の外套に霜を細かく乗せた凌太だった。片手には帳面、もう片手には小さな包みを提げている。


 「おはようございます、夫さま」


 わざとらしく言うと、凌太は一拍置いてから、


 「おはよう、妻殿」


 と返した。


 「ちょっと。そこだけ堅すぎない?」


 「慣れていない」


 「でしょうね」


 やり取りの端がほんの少し緩んで、彩加は戸を開け広げた。


 「どうぞ。狭いけど、追い出されるよりはいい家よ」


 凌太は中へ入ると、まず濡れた靴底をきちんと拭った。それから工房の中を見回す。視線は速いのに雑ではなく、棚の位置、窓の開き、乾燥室の扉、帳場の引き出しの鍵穴まで、一度で頭へ入れているようだった。


 「古いが、整っている」


 「褒め言葉として受け取るわ」


 「褒めている。仕事場が死んでいない」


 彩加は目を瞬いた。


 同じことを、さっき自分も思ったばかりだった。


 凌太は持ってきた包みを台の上へ置く。中には、焼き色の濃い小さな丸パンが二つと、紙袋に入った乾燥肉、湯気の立つ瓶が入っていた。


 「朝飯だ。表の通りで買った」


 「準備がいいのね」


 「空腹だと判断を誤る」


 「ロマンの欠片もない理由で助かる」


 彩加は笑いながら瓶の蓋を開けた。中は温めた林檎茶だった。昨夜、自分が乾いた果皮の話をしたのを覚えていたのだろう。胸の奥が、ほんの少しだけ不意を打たれる。


 だが照れている暇はなかった。戸がもう一度鳴ったからだ。


 今度は、もっと遠慮のない叩き方だった。


 「朝凪刻印房! 誰かいるか!」


 男の太い声に、彩加と凌太は顔を見合わせる。


 彩加が開けると、そこに立っていたのは香辛料倉庫の番頭だった。毛皮の襟へ赤い粉をうっすら付けたまま、切羽詰まった顔で頭を下げる。


 「急ぎだ。積んである胡椒と乾燥柑橘が、朝になったらまた湿ってきた。昨日、別の工房が保冷印を上から入れたはずなのに、臭いまでおかしい。このままだと昼までに半分駄目になる」


 彩加は息を止めた。


 朝凪刻印房へ、こんな朝一番で依頼が来るとは思っていなかった。


 番頭の視線が一瞬だけ揺れる。ここへ来るのを迷ったのだろう。昨日の噂を知らないはずがない。それでも来たのは、品を守りたい気持ちの方が大きかったからだ。


 凌太が横から静かに口を挟む。


 「正式に言う。朝凪刻印房は、交易ギルド監査下での仮営業を認められている。仕事の記録も全部こちらで押さえる」


 番頭は、その言葉でようやく肩の力を少し抜いた。


 「助かる。金は払う。だから見てくれ」


 彩加は即答した。


 「見ます。荷札も木箱も、触る前の状態で残しておいてください」


 道具袋を掴みながらそう言うと、凌太がすぐ隣で帳面を閉じた。


 「俺も行く」


 「監査だから?」


 「それもある」


 それ以上は言わなかったが、今の彩加を一人で行かせる気がないのだと分かった。


 外へ出ると、朝の通りはまだ半分しか起きていなかった。魚を積んだ荷車が石畳を軋ませ、パン屋の煙突からは白い煙が上がり、波止場へ急ぐ人々の息が白く重なる。そんな中を、彩加と凌太は番頭の案内で倉庫街へ向かった。


 香辛料倉庫の前に着いた途端、甘く辛いはずの香りの底へ、湿った布みたいな嫌な臭いが混じっているのが分かった。


 彩加は眉をひそめ、扉をくぐる。


 中では、麻袋と木箱が高く積まれていた。胡椒、丁子、乾燥柑橘、八角、赤唐。湿気を嫌う品ばかりなのに、床近くの荷からじっとりと重い空気が上がっている。


 「上から印を足したのはどれ?」


 番頭が一角を指した。


 彩加は膝をつき、荷札へ顔を寄せる。


 墨の色は一見まともだ。だが光の返り方が違う。正規の祝福刻印は、塩と鉱石を混ぜた墨が木目へ沈むから、乾くと鈍い。ところが目の前の印は、表面だけ妙につるつるしていて、油膜みたいな薄い照りがある。


 爪先で荷札の縁を軽く引っかくと、黒がぱり、と浅く剥がれた。


 彩加は息を吐く。


 「上塗りじゃ駄目だったのね」


 「治せるか」


 番頭の声は硬い。


 彩加は剥がれた欠片を指先で転がしながら答えた。


 「上から本物を重ねても、下にある嘘の印が湿気を抱え込んでる。荷札一枚ずつ、偽物を落として刻み直すしかありません」


 番頭の顔が引きつる。手間も時間もかかると理解したのだ。


 けれど彩加はもう立ち上がっていた。


 「数は多いけど、不可能じゃない。凌太、記録お願い。箱の列と荷札番号を残して。偽造印の入り方に癖がある」


 「分かった」


 「あと、熱い湯と乾いた布を二十枚。できれば細い刃も借りたい」


 番頭が慌てて人を走らせる。


 彩加は袖を捲り、最初の荷札へ刃を入れた。木目を傷めないぎりぎりの角度で表面の偽造墨だけを浮かせ、ぬるま湯を含ませた布で拭い、下地を乾かす。それから本来あるべき温度と湿度を計算して、保冷印を刻み直す。


 単純作業に見えて、集中力を食う仕事だった。


 木箱ごとに置き場が違い、倉庫の壁際と中央では冷え方も変わる。胡椒と乾燥柑橘では必要な保ち方も違う。彩加は指で袋の張りを確かめ、鼻先で香りを拾い、荷札の裏まで見て、一本一本の線を選んだ。


 いつの間にか、倉庫の入口には見物人まで集まり始めていた。


 昨日の晩餐会で噂を聞いた者たちだろう。潰れかけの工房の娘が、何をするのか見に来た顔が何人もある。


 彩加は視線を無視した。


 いま必要なのは弁明ではなく、荷を助けることだ。


 凌太は、彼女の少し後ろで帳面を取りながら、時々番頭へ短く指示を出していた。人を下がらせ、作業動線を空けさせ、刻み直した荷と未処理の荷が混じらないよう縄で区切る。余計な言葉はないのに、場が整っていく。


 「次、十六番列」


 「保冷を一段弱める。乾きすぎる」


 「了解」


 「そっちの木箱、持ち上げないで。底が湿ってる」


 「下から板を入れる」


 息が合う、というのはこういうことかもしれない、と彩加はふと思った。


 契約書へ署名した昨夜より、こうして仕事を並んで進めている今の方が、よほど夫婦らしい。


 やがて一番奥の列まで刻み直しが終わったころ、倉庫の空気が少しずつ変わり始めた。重かった湿気が抜け、胡椒の鋭い香りと乾燥柑橘の明るい酸味が本来の強さを取り戻していく。


 番頭が、おそるおそる木箱の蓋を開けた。


 中の果皮はまだしっとりしていたが、腐りの灰色までは進んでいない。救える状態だ。


 「……戻る」


 男は呆けたように呟いた。


 彩加は最後の荷札へ印を入れ終え、息を吐く。


 「今日のうちに棚の位置を変えて、壁から二寸離してください。下段の荷には白石を追加。湿気の逃げ道を塞がないこと。あと、この偽造印を入れた工房には二度と上塗りさせないで」


 番頭は何度も頷き、それから周囲に聞こえる声で言った。


 「朝凪刻印房に払う分は、今日中に届ける。助かった」


 入口の見物人たちがざわつく。


 そのざわめきは、昨夜のものとは少し違っていた。


 彩加は聞こえないふりをしたが、胸の奥の冷えていた場所へ、わずかな熱が戻る。


 凌太が、剥がした偽造墨の欠片を紙へ包みながら低く言った。


 「この照り方、会館で見た押収品と同じ系統だ」


 「やっぱり?」


 「癖が近い。証拠として持ち帰る」


 彩加は頷いた。


 仕事を助けることと、黒幕を追うことが、ちゃんと一本につながっている。その感触は、折れかけていた心へ思いのほか効いた。


 工房へ戻ったのは、昼をだいぶ回ってからだった。


 朝の瓶はもう冷えていたが、林檎茶の甘い香りだけは残っている。彩加は道具袋を下ろし、作業台へ手をついた瞬間、指先に遅れて痛みが走るのを感じた。


 「っ……」


 荷札を削り続けたせいで、親指の付け根と人差し指の腹が細かく裂けていた。冬の乾いた木は容赦がない。墨が入り込んで黒く見えるせいで、余計に傷が多く見えた。


 「手を出せ」


 振り返ると、凌太がいつの間にか棚から薬箱を取っていた。


 「え、あるの?」


 「入口の脇に見えた」


 「もう家主みたいな顔しないでくれる?」


 言いながらも、彩加はおとなしく椅子へ座った。


 凌太は膝を折り、彼女の前で薬箱を開く。消毒用の酒精、軟膏、小さな布。慣れた手つきだった。


 「しみるぞ」


 「前置きが優しいのか脅しなのか微妙」


 だが次の瞬間、本当にしみた。


 「いたっ」


 彩加が肩を跳ねさせると、凌太の指がすぐに力を緩める。


 「悪い」


 「謝るくらいなら最初から加減して」


 「している」


 「それで?」


 「これ以上は甘やかしだ」


 あまりにも真顔で言うので、彩加は吹き出した。


 笑うと、張っていたものがほどける。今日は朝から息を詰め続けていたのだと、そこで初めて分かった。


 凌太は傷へ軟膏を塗り広げていく。指の節、親指の付け根、刻印筆が当たる場所。どこをよく使うか知っているみたいに、迷いがない。


 「……細かいところ見すぎ」


 彩加は、わざと軽く言った。


 すると凌太は、手を止めずに答える。


 「見ていないと、監査は務まらない」


 「仕事だから?」


 「仕事でもある」


 その言い方が少しだけ低くて、彩加は言葉を失った。


 冬の午後の光が、乾燥室の小窓から斜めに差し込んでいる。薬草の匂いと、さっきまで握っていた木と墨の匂いが混じる。その真ん中で、自分の手をこの男が両手で支えている。


 契約結婚。

 利害一致。

 恋愛感情の持ち込み禁止。


 昨夜自分たちで決めた条件が、急に薄い紙みたいに頼りなく思えた。


 彩加は胸の奥が妙に騒ぐのを隠すため、唇を尖らせた。


 「監査官って、みんなこんなふうに薬まで塗るの?」


 「塗らない」


 「じゃあ何」


 凌太は軟膏の蓋を閉め、ようやく顔を上げた。


 「朝凪刻印房が今日潰れると困る」


 それは合理的な答えのはずだった。


 なのに、その目が少しやわらかかったせいで、彩加は素直に頷けない。


 「……そう。なら、ちゃんと働くためにも、今夜は私が夕飯をつくる」


 「手を休めろ」


 「片手でも煮込みはできるの」


 「無理をする顔だ」


 「何それ」


 「見れば分かる」


 またそうやって見抜く。


 彩加は困ってしまい、視線を逸らした。乾燥室の縄に吊るした新しい荷札が、午後の光を受けて静かに揺れている。今日刻み直したわけではない、朝凪刻印房の正規の荷札だ。そのひとつひとつが、まだこの家に仕事が残っていると告げている。


 「……ねえ、凌太」


 「何だ」


 「今朝より少しだけ、うち、生き返った気がする」


 凌太は短く息を吐いた。


 「元から死んでいない」


 その言い方は、慰めではなく事実確認のようで、だからこそ彩加の胸へまっすぐ入った。


 彼女は薬を塗られた手を見下ろす。白い軟膏の光が、細かな傷をやわらかく覆っていた。


 昨日の夜、会館の前で自分の影ばかり見ていた娘は、もうここにはいない。


 まだ失ったものは大きい。

 疑いも、噂も、消えてはいない。

 けれど朝凪刻印房には、朝が来た。

 その朝に、一件目の仕事をやりきった。


 彩加はようやく、ちゃんと笑った。


 「じゃあ監査官さま。夕飯は私、片づけはあなた。夫婦の共同作業ってことで」


 「……考えておく」


 「それ、断る人の言い方よ」


 「断ってはいない」


 「ずるい」


 乾燥室の小窓の外で、冬の陽が少し傾く。


 古い工房の中には、さっきまでより確かなぬくもりが残っていた。



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