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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第2話 契約結婚を持ちかけた男

 潮の匂いを含んだ風が、石畳の通りをまっすぐ抜けていった。


 「だから用件だけ言う。彩加さん、俺と結婚してくれ」


 あまりにも迷いのない声だったせいで、彩加はしばらく瞬きを忘れた。


 求婚らしい甘さはひとかけらもない。花束も、気取った前置きも、月明かりを褒める余裕もない。ただ、港町交易ギルドの監査官が、今すぐ必要な手続きの一つとして差し出してきた言葉だった。


 それでも、結婚は結婚だ。


 今夜、人前で婚約を砕かれたばかりの女へ向けるには、ずいぶん乱暴な申し出である。


 彩加は外套の襟を指先で上げ、じろりと凌太を見た。


 「監査官さま、ひとつ確認していい?」


 「何だ」


 「さっき私、会館で派手に捨てられたばかりなんだけど」


 「見ていた」


 「それを見たうえで、このタイミングで?」


 「今夜を逃すと遅い」


 凌太は答えるたびに、余計な言い訳を挟まなかった。


 彩加は半ば呆れ、半ば感心する。


 ここまで不器用に一直線だと、かえって腹が立ちにくい。親切ぶった顔で近づいてこられるより、よほどましだった。


 「ねえ、それ、助ける顔じゃなくて、利用する顔よね」


 「そうだ」


 即答だった。


 「俺は朝凪刻印房に入りたい。君は工房を閉じられたくない。条件が合う」


 「言い切るわね」


 「曖昧にしたくない」


 彩加は小さく鼻を鳴らした。


 この男はたぶん、慰めの会話が得意ではない。その代わり、必要な話を必要な形にまで削る。刃物みたいな話し方だと彩加は思った。冷たいのではなく、余計な飾りがないだけの刃物だ。


 会館の正面階段では、まだ数組の客が笑いながら馬車へ乗り込んでいた。こちらを見ないふりをしている者もいれば、ちらりとだけ視線を寄越す者もいる。長居をすれば、今夜の見世物がもう一幕増えるだけだ。


 凌太は会館脇の細い路地を示した。


 「ここでは話しにくい。ギルドの夜番詰所へ移る」


 「連れ込む宣言が早すぎない?」


 「夜番詰所だ」


 「冗談よ。半分だけ」


 彩加は言い、踵を返した。


 石畳の上を二人で歩く。少し前までは自分ひとりの影しか見えていなかった道に、今はもう一つ、背の高い影が並んでいた。だからといって心細さが消えたわけではない。けれど、完全に一人きりで凍える感じは、さっきより薄い。


 夜番詰所は、ギルド会館の裏手、荷札や緊急通行証を夜間発行するための小さな建物だった。灯りは落ち着いた橙色で、窓辺には古い船鐘が下がっている。非常時に鳴らすためのものだ。


 中へ入ると、暖炉の熱で指先がほどけた。


 夜勤らしい年配の係員が一人、帳面を広げて座っていたが、凌太の監査官章を見るなり黙って立ち上がり、奥の小机を空けてくれた。どうやら彼がここへ来るのは初めてではないらしい。


 彩加は椅子へ腰を下ろしながら、室内を見回した。


 壁に掛かった規約板、木箱に入った封蝋、夜間申請用の記録紙。あまりに事務的で、逆に笑えてくる。


 「本当に、求婚向きの場所じゃないわね」


 向かいへ座った凌太は、手袋を外して机に置いた。


 骨ばった手だった。大店の坊ちゃんの白い手ではない。紙も縄も木箱の角も触ってきた手だと分かる。


 「求婚のつもりでは来ていない」


 「知ってる。そこはもう十分伝わってる」


 彩加は息を吐き、頬杖をついた。


 「じゃあ説明して。どうして私なの。ギルドなら他にもっと都合のいい相手がいるでしょう」


 凌太は数枚の記録票と、簡易規約集を机へ並べた。


 「まず、朝凪刻印房が狙われた理由は、ただの足切りじゃない」


 「それは私も思ってる」


 「偽造刻印の被害はこの二か月で急に増えた。香辛料倉庫の腐敗、船底補修材の劣化、古布市の保温印の早期剥落。どれも一見ばらばらだが、使われた墨の成分に共通点がある」


 凌太の指が、記録票の一枚を軽く叩く。


 彩加は身を乗り出した。


 「見せて」


 差し出された票には、被害報告の下に短い所見が記されていた。塩分濃度の不自然な偏り。鉱灰の粒子が粗いこと。正規墨なら出ないひび割れ方。彩加は目を走らせるほどに、喉の奥が冷たくなった。


 「……これ、黒墨を安く薄めたときの癖だわ。しかも急いで量をかさ増しした墨。乾きだけ早くて、定着しない」


 「やはり分かるか」


 「分かるに決まってる。こんなの、刻んだ人間を馬鹿にしてる配合よ」


 彩加の声音が低くなる。


 祝福刻印は、派手な奇跡を起こす技術ではない。荷が腐らず、船が濡れず、毛布が朝までぬくい。そういう、小さくても確かな役目を果たすための技だ。そこへ見かけだけ真似た墨を流すのは、人の暮らしを舐める行為に等しい。


 凌太はその変化を静かに見ていた。


 「君の工房が疑われたのは、重ね刻印の使い手が港で限られているからだ」


 彩加は顔を上げる。


 「……私の得意を逆手に取ったの」


 「可能性が高い。持ちのいい印を刻める工房は多くない。だから模倣の流れを正規品に見せかけたい側にとって、朝凪刻印房の名は邪魔にも隠れ蓑にもなる」


 彩加は椅子の背に体を預けた。


 さっき会館で浴びた侮蔑が、別の形で胸へ戻ってくる。ただ見栄えの悪い婚約破棄ではなかった。工房の名ごと、計算して落とされたのだ。


 「ひどい話」


 「ひどい。だから俺は追っている」


 凌太の口調は変わらない。だがその平坦さの奥に、硬い怒りがあるのを彩加は感じた。


 「偽造刻印の流れは、倉庫番一人を締めても終わらない。荷札、墨商、保管庫、認可証、場合によっては行政側までつながっている」


 「大物ですねえ」


 「だから内側に入る必要がある」


 「朝凪刻印房の中へ?」


 「そうだ。帳簿、仕入れ、過去の依頼票、出入りした人間。君の家を疑っているからこそ、同時に君の家を踏み台に使った相手の痕跡も残っている可能性がある」


 彩加は腕を組んだ。


 筋は通っている。腹立たしいくらいに。


 彼がただ思いつきで結婚など口にしたのではないことが、嫌というほど分かった。


 「共同経営者でも保証人にはなれるのよね」


 「形式上はなれる」


 「なら、結婚じゃなくて共同経営でいいじゃない」


 「足りない」


 「何が」


 「港の目だ」


 凌太は規約集を開き、赤い見出しの頁を示した。


 「朝凪刻印房への疑いは、もう晩餐会の場で広まった。共同経営者が後から一人入った程度では、責任逃れと見る者がいる。だが配偶者なら話が違う。生活も財産も名誉も一緒に背負う札になる」


 「札、ね」


 「君を守るには、分かりやすい札がいる」


 その言葉に、彩加は少しだけ目を伏せた。


 守る、という響きは、今夜の自分にはまだ重い。けれど彼が言うそれは、甘やかすことではなく、仕組みとして盾を立てることだった。


 彩加は机の木目を爪でなぞった。


 「あなた、私に惚れてるわけじゃないのよね」


 「ない」


 間髪入れず返ってきた。


 彩加は眉を上げ、次いで吹き出した。


 「そこ、少しは言葉を選びなさいよ」


 凌太がわずかに口を閉じる。


 「ああ……違う。今のは」


 「分かってる。『現時点ではそういう話じゃない』って意味でしょ」


 「そうだ」


 不器用だ。


 けれど、取り繕うための嘘を入れないところは嫌いではない、と彩加は思う。


 彼女は椅子に座り直した。


 「じゃあ、こっちも確認。恋愛ごっこはしない。私、今夜ひとつ破談を食らったばかりで、傷口に砂を塗る遊びをする余裕はないの」


 「同意する」


 「外ではどうするの」


 「夫婦として振る舞う必要がある」


 「必要最低限?」


 「いや。最低限では足りない」


 凌太の目がまっすぐこちらを射抜く。


 「完璧な恋人夫婦に見えた方がいい」


 彩加は思わず瞬いた。


 「ずいぶん難易度の高い注文ね」


 「疑う側は綻びを探す。なら、最初から綻びを見せない方がいい」


 「具体的には?」


 「人前では名前で呼ぶ。並んで歩く。必要なら手も取る。食事の席で不自然に距離を空けない。君の工房へ俺が出入りする理由も、同じ家で暮らす理由も、それで通る」


 「暮らす」


 彩加はその語を繰り返した。


 結婚という言葉より、妙に現実味があった。朝凪刻印房は工房兼住居だ。つまりこの話を呑むなら、目の前の監査官があの家へ入り、食卓も帳場も、下手をすれば屋根の軋む音まで共有することになる。


 彩加はじっと凌太を見た。


 「あなた、寝相は?」


 「……知らない」


 「そこは自分で把握しておきなさいよ」


 「必要か」


 「共同生活するなら、ちょっとは」


 彼が本気で考え込んだ顔をしたので、彩加はとうとう声を立てて笑った。


 今夜初めて、腹から笑った気がする。


 係員がちらりとこちらを見たが、何も言わない。暖炉の薪がぱちりと鳴った。


 笑いがおさまると、彩加は頬に残る熱を指で押さえた。


 「……変な人」


 「そうかもしれない」


 「否定しないんだ」


 「君もなかなか変だ」


 「褒め言葉として受け取っておくわ」


 彩加は机の上の記録票をもう一度見た。


 工房を守る方法は、たしかにこの男の言う形しかないのだろう。しかも彼には彼の事情がある。ただ善意だけで背負うつもりはなく、自分も必要としている。その点がかえって公平だった。


 だが、条件はまだ足りない。


 「期間は?」


 「聖夜灯航祭の翌朝まで」


 答えは、すでに用意されていた。


 「短いわね」


 「祭りの日に港全体の刻印が動く。偽造の側も必ずそこへ仕掛ける。そこで決着をつける」


 「その翌朝に解消?」


 「状況次第だが、当面の区切りとして妥当だ」


 彩加は考える。


 十二月初旬から聖夜まで。長くはない。けれど工房の信用を立て直し、偽造刻印の流れを追い、同時に『完璧な恋人夫婦』の芝居を打つには、短すぎるとも言えた。


 それでも、期限があるからこそ呑める話でもある。


 際限なく縛られるのではなく、ここまで、と線が引かれている。


 「恋愛感情の持ち込みは禁止」


 彩加はわざと軽く言った。


 「契約の途中で本気になって、泣いて縋るみたいな趣味はないから」


 凌太は少しだけ黙った。


 暖炉の火の明かりが、彼の横顔の輪郭を静かに照らす。


 「……俺も、そのつもりはない」


 何か引っかかったような沈黙が一拍落ちた。


 けれど彩加は拾わなかった。


 今はそこへ踏み込む場面ではない。自分にとっても彼にとっても。


 「家の中のことは?」


 「仕事の妨げをしない。帳簿は共有。君の私物には手をつけない」


 「私もあなたの荷物を勝手に漁らない」


 「助かる」


 「ただし、工房の道具に勝手に触ったら怒るわよ」


 「先に教わる」


 「食事は?」


 「必要なら作る」


 彩加は目を丸くした。


 「作れるの」


 「最低限」


 「最低限って何。焼く、茹でる、塩を振る、くらい?」


 「だいたい合ってる」


 「危ないわねえ」


 「君が危ないと思うなら任せる」


 「任せられても困る日があるのよ、刻印が立て込むと」


 「なら分担だ」


 あまりにも真顔で言うので、また笑いそうになる。


 彩加は机の端へ指をとんとんと打ち付けた。


 不思議だった。つい先ほどまで、会館の前で足が動かなかったのに、今はこんな話をしている。結婚の条件を並べている。人生は時々、坂から木箱を落としたみたいに、ものすごい勢いで転がる。


 だが転がるなら、自分で向きを決めたい。


 「最後の確認」


 彩加は真っ直ぐ凌太を見た。


 「もし本当に、朝凪刻印房から何か出たら?」


 凌太は視線を逸らさなかった。


 「そのときは俺が責任を負う。君がやったことなら、かばわない。だが君がやっていないなら、誰が相手でも押しつけさせない」


 彩加はしばらく黙った。


 軽い慰めより、その言葉の方がずっと効いた。


 信じている、と甘く言われるより、やったならかばわない、やっていないなら押しつけさせない、と言われる方が、この夜には必要だった。


 彩加は息を吸い、ゆっくり吐いた。


 「……分かった」


 凌太の肩が、ごくわずかに下がる。


 安堵したのだと分かるほどの変化ではない。けれど、硬かった空気が一筋だけほどけた。


 「受けるのか」


 「ええ。受ける」


 彩加は唇の端を上げた。


 「ただし、条件追加」


 「聞く」


 「朝凪刻印房を守るためなら、私も遠慮なくあなたを使う。監査官さまの顔も肩書きも、全部」


 「構わない」


 「それから、外では完璧な恋人夫婦を演じる。でも家の中でまで妙に甘い声を出したら追い出す」


 「出さない」


 「断言したわね」


 「苦手だ」


 「知ってる」


 彩加は笑う。


 もう決めた。なら、震えている時間は短い方がいい。


 夜番の係員が、ふたりの方へ新しい用紙を運んできた。婚姻保証契約の仮登録書。ギルドの押印欄、保証責任欄、共同居住確認欄。恋物語にはまるで見えない、実務の紙だった。


 それでも彩加の心臓は少し速くなる。


 紙の上に、自分の一生がひとつ曲がる音を聞いた気がした。


 係員が咳払いをひとつする。


 「夜間扱いですので、正式登録は明朝一番で本部へ回します。とはいえ、仮効力はこの押印から発生します。お二人とも、内容を確認のうえ署名を」


 お二人とも。


 その呼び方に、彩加は妙なこそばゆさを覚えた。


 机へ置かれた筆を取る。先端は細く、祝福刻印に使う筆よりずっと無愛想だ。けれど紙へ名を書くには十分だった。


 契約書の冒頭に並ぶ二つの名を見る。


 朝凪彩加。

 ギルド監査官・凌太。


 彩加は視線を落としたまま言った。


 「こんな形で並ぶと思ってなかった」


 「俺もだ」


 「少しは気の利いたこと言えない?」


 「考えている」


 「考えてその顔?」


 「難しい」


 彩加は肩を揺らした。


 「まあいいわ。今夜、きれいすぎる台詞には食傷してるもの」


 そして筆先を整え、一文字ずつ自分の名を書いた。


 慣れた筆運びだった。荷札にも台帳にも署名してきた手だ。けれど今夜のそれは、商いの確認とは違う重さを持っている。


 最後の払いを終えたあと、彩加は筆を置いた。


 凌太が続けて署名する。


 無駄のない字だった。硬いが、乱れていない。紙の上の字にも性格が出るものだと彩加は思う。


 係員が書面を引き取り、封蝋を温め、仮押印を押す。


 赤い蝋に、ギルドの紋章が沈んだ。


 その瞬間、唐突に現実が降ってきた。


 もう口約束ではない。今から朝凪刻印房は、この男と名を並べることになる。工房の玄関を開ければ、彼が入ってくる。帳場に置く湯呑みも、食卓に出す皿も、一つ増えるのだ。


 彩加は胸のあたりを軽く押さえた。


 怖いのか、悔しいのか、少しほっとしているのか、自分でもまだ整理がつかない。


 凌太がその仕草に気づいたのか、小さく問う。


 「大丈夫か」


 「大丈夫じゃないけど、倒れるほどじゃない」


 「そうか」


 「そこで『無理をするな』とか言えば、少しはそれらしくなるのに」


 「無理をするな」


 半拍遅れて返ってきて、彩加は吹き出した。


 「言われてから言うなっての」


 係員が押印済みの控えを差し出す。


 彩加はそれを受け取り、丁寧にたたんだ。紙一枚なのに、外套の内ポケットへ入れた途端、体温が少し変わった気がした。


 「これで今夜の即時閉鎖は止まる」


 凌太が言う。


 「明朝、本部で正式処理を通す。そこから先は早い」


 「……本当に、結婚しちゃったのねえ」


 「仮登録だ」


 「そういう問題?」


 「違うのか」


 「違うに決まってるでしょう」


 彩加は立ち上がり、外套の紐を結び直した。


 暖炉の熱から離れると、急に眠気のような疲れが押し寄せる。婚約破棄、取引停止、監査官の求婚、契約署名。数時間のうちに詰め込まれる量ではない。


 だが、立ち止まっている余裕もない。


 「今からどうするの」


 「君を家まで送る」


 「夫っぽい」


 「夫だ」


 あまりにも平然と言うので、彩加は一瞬言葉を失った。


 そして少しだけ視線を逸らす。


 そうだった。この男は、決めたことを言葉の形のまま扱う。照れたりごまかしたりしない。だからこちらの方が調子を狂わされる。


 「……慣れるまで時間がかかりそう」


 「俺もだ」


 「あなたも?」


 「たぶん」


 外へ出ると、夜気はさっきより深く冷えていた。だが空は晴れていて、港の灯りが遠くまでよく見える。岸壁につながれた船の帆綱が風に鳴り、塩を含んだ匂いが頬を撫でた。


 歩き出すと、凌太は自然に車道側へ回った。


 彩加はそれに気づき、ちらりと横を見る。


 「そういうところだけは、ちゃんとしてるのね」


 「馬車の泥は冷たい」


 「知ってる。だから言ってるの」


 会館前の騒がしさから離れるにつれ、通りは静かになった。夜更けのパン屋から、焼き上がり前の生地の匂いが漏れてくる。小さな宿屋の窓には誘導灯印の青白い光が浮かび、波止場近くの路地では、干し網が風に揺れていた。


 この町で生きてきた。


 朝凪刻印房の娘として、ここで手を動かしてきた。


 奪われるなら奪われるで、ただ泣いて明け渡すつもりはない。


 彩加は歩きながら、外套の上から控えの入った胸元を軽く押さえた。


 「ねえ、凌太」


 「何だ」


 「明日から、うちに入るなら覚えておいて。朝凪刻印房は狭いけど、悪くない家よ」


 「分かった」


 「台所の右の棚には乾いた果皮を置いてる。お茶に入れると温まるの。寒い日は勝手に使っていい」


 「それは助かる」


 「あと、看板の蝶番が少し鳴く。夜遅くに帰るなら、そっと閉めて」


 「了解した」


 言いながら彩加は、自分がすでに『二人で暮らす家』の話をしていることに気づいた。


 妙なくすぐったさが胸に走る。


 けれど、嫌ではなかった。


 朝凪刻印房の前まで来ると、通りの灯りはだいぶ少なくなっていた。木の看板は夜露を吸い、工房兼住居の二階窓は暗い。父はまだ戻っていないらしい。


 彩加は玄関の前で立ち止まる。


 たった一晩で、帰ってくる意味が変わった気がした。


 ここはまだ、自分の家だ。

 そして明日からは、この男が出入りする家でもある。


 凌太が隣で低く言う。


 「明朝、正式処理の前に迎えに来る」


 「早いわね」


 「噂が広がる前に先手を打つ」


 「なるほど。じゃあ、夫婦一日目の朝は寝坊できないのか」


 「できない」


 「夢がない」


 「最初からない契約だったはずだ」


 その返しがおかしくて、彩加は肩を揺らした。


 けれど次の瞬間、不意に真顔になる。


 玄関扉へ手をかけたまま、彼女は振り向いた。


 「……ありがとう、とはまだ言わない」


 凌太は黙って彼女を見る。


 「だってこれは助けてもらっただけじゃなくて、あなたも私を使う契約だもの。でも」


 彩加は唇を引き結び、それから少しだけ笑った。


 「明日、ちゃんと使いでのある妻だって証明する」


 凌太の目元が、ごくわずかに和らいだ。


 「期待している」


 今度は、その言葉がまっすぐ胸に落ちた。


 彩加は扉を開ける。暗い玄関から、乾いた木と墨の匂いが流れてきた。いつもの匂いだ。どんなに夜がひっくり返っても、この匂いだけは嘘をつかない。


 扉の内側へ一歩入ってから、彼女はもう一度だけ振り返った。


 石畳の上に、凌太の影が長く伸びている。会館の前で、自分の影だけを見て立ち尽くしていた時間が、遠いもののようだった。


 まだ何も終わっていない。

 むしろここから始まる。


 婚約は壊れた。

 工房の信用も傷ついた。

 けれど、自分の手はまだある。


 そして明日の朝には、この家へ監査官であり、契約上の夫でもある男がやってくる。


 なんて無茶な夜だろう、と彩加は思う。


 それでも胸の奥には、消えかけの炭みたいに、小さな熱が残っていた。


 「おやすみ、監査官さま」


 「おやすみ、彩加」


 名前で呼ばれて、心臓がひとつだけ大きく打つ。


 それをごまかすように扉を閉め、背を預けると、暗い玄関の中で彩加は小さく息を吐いた。


 明日は忙しい。

 たぶん、とんでもなく忙しい。


 でも泣くのは、もう少し先でもいい。


 彼女は外套のポケットから仮登録の控えを取り出し、玄関の灯りの下でそっと見つめた。


 赤い封蝋の紋章が、じんわりと目に沁みる。


 「……ほんとに結婚したんだ」


 誰もいない家で呟くと、ようやく実感が追いついてきた。


 彩加は控えを胸に当てたまま、少しだけ笑う。


 その笑みはまだ不安定だったが、さっき会館を出たときのものとは違った。


 悔しさだけではない顔で、彼女は工房の奥へ歩き出した。



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