第11話 祥章の再訪
翌朝の朝凪刻印房には、薄い冬の日差しと、乾ききらない墨の匂いが満ちていた。
夜更かしの名残で、彩加のまぶたは少しだけ重い。けれど作業台へ向かう手は止まらなかった。窓辺には荷札の束、乾燥棚には昼までに仕上げる防水印つきの袋、足元では白い潮うさぎのトトが丸くなって眠っている。小さな身体が呼吸のたびにふくらんではしぼみ、耳先だけが暖炉の熱でほんのり桃色を帯びていた。
工房の奥では、凌太が帳場机の上に控えを広げている。昨夜の続きなのか、すでに几帳面な字でいくつも書き込みが増えていた。
「……寝たの、いつ」
彩加が荷札へ保温の下書きを引きながら訊くと、凌太は視線を上げないまま答えた。
「お前よりは後」
「そこ、張り合うところ?」
「張り合ってない。事実を言った」
声はいつも通り淡々としているのに、湯を注ぐ手つきだけがやけに慎重で、彩加はつい目を細めた。昨夜、自分の頬へ伸びかけて止まった指先を思い出してしまう。思い出したくないのに、忘れにくい。
彩加は荷札へ視線を戻した。
「じゃあ事実を言うわね。監査官どの、茶の濃さが変よ」
「……すまない」
「謝るんだ」
思わず笑うと、凌太は一瞬だけ眉を動かした。そこへ表の扉の鈴が鳴る。客にしては、開ける前の間が妙に長い。
彩加は布で指先を拭いながら玄関へ向かった。
扉を開けた瞬間、笑いかける準備だけは無意識に整った。だがその形は、相手の顔を見た途端、すっと消えた。
石畳の先に、濃紺の外套をまとった祥章が立っていた。
冬の朝の光を受けても、彼の身なりに乱れはない。銀の留め具まで磨かれ、手袋の革も新しい。以前なら、その整い方を頼もしいと思ったかもしれない。けれど今の彩加には、寒い港町の空気へ似合わない艶やかさにしか見えなかった。
「朝からずいぶん立派な訪問ね」
彩加が言うと、祥章はわずかに息をのんだ。軽口で迎えられると思っていたのかもしれない。
「……少し、話がしたい」
「うちは刻印房で、談話室じゃないの」
「父の使いじゃない。俺の意思で来た」
その一言だけは、昨日までの彼より少し低かった。
彩加は扉を半分だけ開けたまま、表の様子をちらりと見た。通りの向こうでは、魚屋の小僧が氷桶を運び、隣の古着屋の主人がこちらをうかがっている。追い返せば大声になる。入れれば噂になる。どちらにしても、港町ではすぐ広がる。
「中で三分だけ。工房のものには触らないで」
そう告げて、彩加は一歩引いた。
祥章が中へ入ると、乾燥棚に吊された荷札と、壁一面の刻印板を見回した。その視線には見覚えがある。物の値を測るときの目だ。懐かしさではなく、損得を確かめる目。
帳場机のそばで立ち上がった凌太へ気づくと、祥章の口元がわずかに硬くなった。
「監査官どの。夫婦の住まいに朝から踏み込むのは、礼に欠けるんじゃないか」
先にそう言ったのは凌太だった。穏やかでも挑発的でもない、ただ事実を置くような声だった。
祥章は顎を引き、視線だけで応じた。
「三分で済む。彩加と話したい」
「私はここにいるけど?」
彩加が遮ると、祥章は一拍遅れて彼女を見た。
昔は、こうして自分の言葉を途中で差し返されることに慣れていなかった。今も慣れていないらしい。
「……なら、はっきり言う」
祥章は手袋を外し、胸元で握った。
「戻ってこい、彩加」
工房の空気が、少しだけ薄くなった気がした。
外からは荷車の車輪が石を噛む音が聞こえる。暖炉の薪が小さくはぜる音もする。それでも、その一言だけがやけに近く落ちた。
「今なら、まだ傷は浅い」
祥章は続けた。
「工房の件も、父に掛け合える。取引先だって戻せるかもしれない。君がこんな場所で、こんな……綱渡りみたいな暮らしを続ける必要はない」
彩加は思わず眉を上げた。
こんな場所。
壁に刻印板が並び、母の棚が残り、自分の手で灯りをともす朝凪刻印房を、彼はそう呼んだ。
「綱渡り?」
「違うのか。偽造刻印の疑いをかけられた家に、監査官を婿に入れて体裁を保っているだけだろう」
祥章の視線が、作業台の上の荷札、乾燥棚の袋、そして帳場机の控えへ順に落ちる。
「君は本来、こんなふうに手を荒らして帳簿に埋もれる必要はない。前みたいに、人前で笑って、必要な場で隣にいてくれればそれで――」
そこで、祥章は言葉を止めた。
止めたのではなく、止まらざるを得なかったのだと、彩加には分かった。
自分で口にした言葉が、いま何を切り捨てたのか、さすがに遅れて気づいたのだ。
彩加は、ゆっくりと自分の手を見下ろした。
親指のつけ根にうっすら残る墨。人差し指の節の細かな傷。保温印の細線を何本も引いた朝の痕跡。
ずっと、ここにあったものだ。
婚約していたころから、ずっと。
ただ、彼は一度も正面から見ようとしなかっただけで。
「つまり」
彩加は顔を上げた。
「私はまた、綺麗に笑って、あなたの横で見映えよく立っていればいいってこと?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味」
声が思ったより静かで、彩加は自分でも驚いた。怒鳴ってやりたい気持ちはたしかにあるのに、それより先に、冷えて固まった部分が言葉になった。
「私の手のことは。刻印のことは。工房の看板のことは。母が残した仕事のことは。あなたの話のどこに入ってるの」
祥章は唇を引き結んだ。
返事が出ないこと自体が、答えだった。
彼は彩加を取り戻したいのではない。
自分の人生から、綺麗に外れてしまった駒を、元の場所へ戻したいだけだ。
父に認められる息子として。人の噂に傷をつけない婚約者として。港町で見栄えのする並びの片側として。
彩加は、その事実に不思議なくらいはっきりと終わりを感じた。
胸が痛まないわけではない。昔、彼に選ばれたことを未来だと思っていた自分は確かにいた。あのころの自分まで消えるわけではない。
けれど、もう戻れない。
戻りたくもない。
「断るわ」
彩加は言った。
「私はここで働く。朝凪刻印房で食べていく。誰かの荷物を守って、毛布を温めて、船を無事に帰すための印を刻む。あなたの隣で綺麗に笑うために、手を隠すつもりはない」
祥章の顔から、いつもの整った余裕が一枚ずつ剥がれていく。
「彩加。意地を張るな」
「意地じゃない」
「なら何だ」
彩加は少しだけ息を吸った。
喉の奥に、言い慣れない硬さがある。けれど今なら、はっきり言える気がした。
「選ぶってことよ」
工房の窓から差し込む冬の光が、作業台の角を白く照らしている。乾燥棚の荷札が小さく揺れ、トトが眠そうに耳を動かした。
「昔の私は、あなたに選ばれることが幸せだと思ってた。でも今は違う。私は、自分で選ぶ。どこで働くかも、誰の隣に立つかも、何を守るかも」
その言葉が終わったあと、工房の中は奇妙なほど静かだった。
祥章はすぐには返さなかった。
彩加を見ている。いや、正確には、見知らぬ相手を見るように見ていた。
たぶん彼は、いま初めて理解したのだ。
婚約破棄の夜に立ち尽くしていた娘は、もういない。
軽口で場をつなぎ、傷ついた顔を見せないまま、最後には自分のほうへ戻ってくるはずだと思っていた相手は、もう戻らない。
その事実が、祥章の喉に引っかかっているのが見て取れた。
「……あの監査官の影響か」
ようやく絞り出した声は、怒りよりも、確かめたい焦りに近かった。
彩加は小さく首を振った。
「違う。私が自分で歩いただけ」
それが決定打になったらしい。
祥章は目を伏せ、握っていた手袋へ爪を立てた。真新しい革がわずかに歪む。
「そうか」
それだけ言うと、彼は一歩下がった。
玄関へ向かう足取りは乱れていない。けれど背中だけが、今まで見たことのない重さを帯びていた。
扉の前で止まり、祥章は振り返る。
その視線は、今度は彩加ではなく凌太へ向けられた。
敵意を隠す気のない、冷たい目だった。
「監査官どの」
声だけは丁寧に整えている。
「君が何を調べているか知らないが、港には触れてはいけない綱もある。巻き込まれて後悔する前に、手を離したほうがいい」
脅しとも忠告ともつかない言葉に、凌太はまばたき一つしなかった。
「手を離すつもりはない」
短い返答だった。
それ以上でも以下でもない。けれどその一言には、帳簿の数字へ向けるときと同じ揺るがなさがあった。
祥章の眉がわずかに動く。
彩加は、その横顔を見てしまった。
負けを認めた顔ではない。まだ何かを抱えたままの顔だ。父への怯えも、保身も、怒りも、たぶん全部が混ざっている。
だからこそ、少しだけ苦かった。
彼は最初から怪物だったわけではない。
ただ、自分の価値を確かめる方法を、ずっと間違え続けてきただけなのだ。
扉が閉まり、外気が一筋だけ流れ込んで消えた。
通りではまた日常の音が動き始めている。魚屋の呼び声。荷車の車輪。遠くで鳴る船鐘。朝凪刻印房の中だけが、しばらくのあいだ、波が引いたあとの浜みたいに静かだった。
彩加は、そこでようやく息を吐いた。
指先が少し震えている。
泣きたいわけではない。怖いわけでもない。ただ、長いあいだ首に巻きついていた見えない紐を、自分で切ったあとの感覚に似ていた。
足元でトトがぴょこんと跳ね、彩加の裾へ鼻先を押しつけてくる。白い耳は青く光っていない。少なくとも、いまこの場に偽造刻印の気配はないらしい。
彩加はしゃがみ込み、その背をひと撫でした。
「ありがと。見張ってくれてたの?」
トトは胸を張るでもなく、ただくしゃりと鼻を鳴らした。
そのとき、少し離れた場所で足音がした。
振り向くと、凌太が湯気の立つ茶を二つ持っている。いつの間に淹れたのか分からないくらい、動作に無駄がない。
「三分は過ぎた」
言いながら、一つを彩加の前へ差し出した。
彩加は受け取り、思わず笑った。
「律儀ね」
「約束は守る」
湯呑み越しに触れた指先が、朝の冷えで少しだけ温まる。
凌太は何か慰めの言葉を探すような顔はしなかった。ただ、彩加の震えが収まるまで待つつもりでいる顔をしていた。
その不器用さが、いまはありがたい。
「……私、ちゃんと断れた」
ぽつりとこぼすと、凌太は短くうなずいた。
「聞いていた」
「格好つけすぎたかしら」
「いや」
彼はほんの少しだけ目元をやわらげた。
「よく似合ってた。自分で選ぶと言う顔が」
彩加は、今度こそ言葉に詰まった。
褒め慣れていない相手にそう言われると、どんな甘い囁きより効く。
茶の湯気が頬へあたり、昨夜とは違う熱がじわりと広がる。
外では、冬の薄い陽が石畳を白く照らしていた。
朝凪刻印房の扉は閉まっているのに、閉じ込められている感じはしなかった。ここは帰る場所であり、働く場所であり、たぶんもう、逃げ込むための場所ではない。
彩加は湯呑みを両手で包みながら、壁際の棚を見た。そこには母のアルバムが、昨夜のまま布にくるまれて置かれている。
もう後ろへ引き戻されるために過去を見るのではない。
前へ進むために、まだ知らないことを確かめるのだ。
「凌太」
「何だ」
「今日の仕事、昼までに片づけたら……あのアルバム、もう一度見ましょう」
凌太はすぐに意味を察したらしく、視線だけで棚をたどった。
「旧灯台の頁か」
「ええ」
彩加はうなずく。
祥章が去ったあとで、かえってはっきりしたことがある。自分の向く先は、もう誰かの用意した舞台の上ではない。母の残した跡を自分の足でたどり、自分の手で仕事と町を守る、その先だ。
湯呑みの中で茶の表面が小さく揺れる。
彩加はそれを見下ろし、静かに息を整えた。
昔の恋が完全に痛まなくなる日は、まだ先かもしれない。
それでももう、戻りたいとは思わなかった。
朝の光の中で、朝凪刻印房の棚も机も乾燥札も、ひとつずつ確かな輪郭を持って見える。
彩加は湯呑みを持ち直し、作業台へ向かって歩き出した。
その背を、今度は誰のためでもなく、自分の意思でまっすぐ伸ばして。




