第10話 声にならない好き
昼市の公開実演から三日後、朝凪刻印房の居間兼帳場には、紙の乾いた匂いと、薄く冷めた茶の香りが満ちていた。
外はもうすっかり夜で、港の波止場から聞こえてくるのは、遅い船が綱を引く軋みと、見回りの鈴が遠くでひとつ鳴る音だけだ。作業台の上には李々香から借りた荷札台帳、弥織が帳場から写してくれた出納帳の控え、彩加が昼間のうちに書き込んだ癖の強い走り書きの紙片が、幾重にも重なっている。
「三の船着き場、北側倉庫、冬月の十七日……ここまでは合ってる」
彩加は小声で読み上げ、数字の横へ小さく印をつけた。
偽造刻印の流れは、ようやく輪郭を持ち始めていた。
正規の保冷印が必要な香辛料と薬草ばかりが狙われていること。港湾行政の管理札が通る前に、別の札へ差し替えられている箱があること。しかも被害の出る倉庫は、必ず祥章の父が認可を急がせた新しい荷置き場に偏っている。
ただ、偏っていることと、証拠になることは違う。
「悔しいわね……分かるのに、まだ届かない」
帳面へ突っ伏したくなる気持ちをこらえて、彩加は目をこすった。
向かいの机では、凌太が港湾印の写しを一枚ずつ並べ替えている。昼のうちに着ていた外套は脱いでいて、白いシャツの袖だけが灯りの下で浮いていた。何時間も同じ姿勢でいるはずなのに、紙を持つ指先にも、視線の動きにも、乱れが少ない。
「届かせるために、いま積んでる」
低い声が返る。
「積んでる途中に、私が紙の山ごと寝たらどうするの」
「そのときは山を避けて毛布を掛ける」
「なにそれ。やけに具体的」
「想像がつくからな」
彩加はむっとした顔をして見せたが、すぐに口元が緩んだ。
昼の広場では堂々としていられても、夜になると、こうして少しだけ気が抜ける。抜けても大丈夫だと思ってしまう自分が、以前とは違っていた。
炭火の上で温め直していた茶が、ふつ、と小さく鳴った。
凌太が立ち上がり、手際よく茶を注ぐ。その背中を見ながら、彩加は帳面の数字から少しだけ目を逸らした。
昼の市で白い花をもらったときも、彼はこんなふうに誰にも見せるためではない動きをしていた。大げさに褒めもしない。甘い台詞も言わない。ただ必要なところへ、必要な手を伸ばす。
それが彩加には、妙にこたえる。
「ほら」
差し出された湯呑みを受け取ると、指先に熱が移った。
「ありがと」
「砂糖は入れてない」
「子ども扱いしないで」
「眠そうな顔をしてるからだ」
「してない」
言い返しながらも、湯気が目の前で揺れると、体の奥の張りつめたものがゆるんでいく。
彩加はひと口飲み、少しだけまぶたを閉じた。渋みの中に、あとからほのかな甘みが追いつく。弥織が差し入れで持ってきた港外れの茶舗の葉だ。前なら、こういう味の違いまで気づく余裕はなかったかもしれない。
「ねえ、凌太」
「ん」
「契約が終わったあとも、こうやって帳面見ることってあるのかしら」
口にしてから、しまったと思った。
聞きたかったのは帳面の話ではない。
夜更けに同じ灯りの下で紙をめくること。疲れたら茶を淹れられること。自分が眠そうなら、先に気づかれること。そういう細かな時間のことを、彩加は訊こうとしてしまったのだ。
凌太はすぐには答えなかった。
紙を一枚裏返し、そこに残っていた古い押印の跡を見極めてから、静かに言う。
「調査が終わるまでなら、ある」
「……そうよね」
彩加は笑うふりをした。
聖夜灯航祭の翌朝まで。
契約書に並んだ二人の署名が、頭の奥へ浮かぶ。あのときは、恋愛感情の持ち込み禁止という文言に、むしろ助けられた気がしていた。余計なことを考えずに済む札みたいなものだったからだ。
けれど今は、その一文が、胸の内側へ薄い刃みたいに当たる。
好きだと認めてしまったら。
もしその瞬間、終わりの日付まで鮮やかになってしまったら。
そこまで考えたところで、彩加はわざと帳面を引き寄せた。
「ほら、ここ見て。三の船着き場の北側倉庫だけ、検印の押される順番が逆。普通は荷受け札の次に保冷印なのに、ここだけ管理札が先に来てる」
「つまり、管理側が入れ替えの前提で通してる」
「ええ。現場の誰かが勝手にやっただけじゃ、ここまで綺麗には揃わない」
仕事の話へ戻れば、呼吸が整う。
凌太もすぐ同じ温度になる。二人で紙を並べ直し、線を引き、余白へ印をつけていく。声は少なくても、どこへ目を向けるべきかが噛み合っている。その感覚だけで、彩加の胸の奥はまた少しだけ熱を持った。
時刻がさらに進み、暖炉の炭が赤から黒へ沈み始めるころ、彩加はついに筆を持ったまま舟を漕ぎ出した。
まだ書く。そう思っているのに、指先から力が抜ける。
頬が帳面の端へ触れる直前、遠くで波の音がひとつ大きくなった。
*
夢を見た。
母の工房で、小さいころの自分が刻印棚の前に立っている夢だった。背伸びしても届かない上段の箱を見上げていると、後ろから誰かがそっと毛布を掛ける。母にしては手が大きいなと思いながら振り返ろうとしたところで、彩加は目を覚ました。
最初に感じたのは、肩のあたりの重みだった。
薄茶色の毛布が、首元まできちんと引き上げられている。
その下で、自分が帳場の長椅子に横向きで寝ていたことに気づき、彩加は一瞬だけ息を止めた。
寝た。ほんとうに寝た。
しかも、紙の山へ突っ伏さずに、きちんと移されている。
恐る恐る顔を上げると、居間の灯りはまだ落ちていなかった。少し離れた机で、凌太がひとり、書類の束を前にしていた。
深夜らしい静けさの中で、紙をめくる音だけが規則正しく続く。
彩加は身体を起こしかけて、やめた。
起きたと知られたら、きっと「まだ寝てろ」と言われる。それが分かるくらいには、もう彼のやり方を知っている。
毛布の端を指でつまみながら、彩加は長椅子の影からそっと彼を見た。
灯りは机の右手だけを明るくしていて、凌太の横顔には濃い影が落ちていた。真っ直ぐな鼻梁。考えごとをしているときだけ少し寄る眉間。紙を押さえる左手の甲に浮く薄い筋。
疲れているはずなのに、雑なところがない。
誰かのために動くことを、当たり前みたいに続ける顔だと思った。
昼市の広場で人波の中に立っていた背中も、旧灯台の写真を見つけたとき先に危険を考えた声も、香辛料倉庫で黙って薬を塗ってくれた手も、ひとつずつ思い出される。
そのたび、胸の奥でやわらかなものが増えていく。
彩加は、毛布の内側で小さく息を呑んだ。
これに名前をつけるのは、たぶん簡単だ。
簡単なのに、言えない。
好き。
その二文字を心の中で形にしかけて、彩加は唇をきゅっと結んだ。
認めてしまったら、契約が終わる朝が急に現実の顔をする。
いまはまだ、聖夜灯航祭まで日がある。調査も終わっていない。証拠も足りない。やることは山ほどある。
だから、まだ駄目。
そう言い聞かせるのに、どうして毛布の温かさがこんなに優しいのだろう。
彩加が身じろぎをこらえた、そのときだった。
凌太がふと顔を上げた。
こちらを見たわけではない。けれど何かに気づいたように席を立ち、長椅子のほうへ歩いてくる。
彩加は慌てて目を閉じた。
まつ毛の裏で、足音が近づく。
すぐそばで止まった気配がした。
次いで、ほんのわずかに、空気が揺れる。
頬の近くへ、指先が来たのが分かった。昼に跳ねたまま気づかなかった墨でもついていたのかもしれない。
そのまま触れられるかと思って、彩加の心臓はやけに大きく鳴った。
だが、指先は触れる寸前で止まり、静かに引いていった。
代わりに毛布の端がもう一度だけ整えられる。
「……無防備すぎる」
独り言みたいな低い声が落ちた。
叱るでもなく、呆れるでもなく、守る相手に向ける響きだった。
彩加は目を閉じたまま、息を殺した。
彼が離れて、再び机へ戻る気配がする。
閉じたまぶたの内側が熱い。
あの手も、あの声も、自分だけに向けられたものだと思ってしまう。それが勘違いでも、契約上の責任でも、今夜ばかりは胸に刺さる優しさが強すぎた。
好きだ。
今度こそ、その言葉は心の中ではっきり形になった。
けれど彩加は、毛布を握る指へそっと力を込めただけで、目を開けなかった。
言えない。
言ったら終わりが怖い。
言わなければ、いまこの静かな夜は、もう少しだけ続いてくれる。
机の向こうでは、凌太が新しい紙を一枚引き寄せた。
彼もまた、しばらく筆を持たないまま、何かを考えているようだった。
やがて小さく息を吐く音がして、紙を整える。仕事へ戻る気配に混じって、飲み込まれた言葉の影だけが残る。
彩加には、それが少しだけ分かった。
きっと彼も、さっきの指先の行き先を、最後のところで変えたのだ。
触れてしまえば越えてしまう一線があると、知っているから。
同じ灯りの下で、同じ終わりの日付を知っていて、それでも手を伸ばしかけてしまう。
そんな夜が、朝凪刻印房の静かな部屋に満ちていた。
外では波止場の鈴が、夜の更けたことを告げるように二度鳴った。
彩加は目を閉じたまま、その音を聞く。
声にならない想いが、胸の内側であまりにも確かに息づいている。
けれど今はまだ、それでよかった。
言葉にしないまま守れるものもある。
言葉にしないまま、育ってしまうものもある。
眠ったふりを続ける彩加の頬へ、暖炉の残り火がかすかな朱を落とす。机に残る凌太の影は長く、静かで、手を伸ばせば届きそうなのに、まだ触れてはいけない距離にあった。
同じ夜を分け合いながら、二人の想いはまだ声にならない。




