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港町交易ギルドの祝福刻印師は、婚約破棄のその日に契約結婚する  作者: 乾為天女


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第1話 婚約破棄と五七五

 港町リュストルの冬は、塩の匂いと甘い焼き菓子の香りが、同じ通りを並んで歩く。


 十二月初旬の夜。交易ギルド主催の冬告げ晩餐会が開かれているギルド会館は、白い石壁も高窓も、今夜ばかりは蜜色の灯りに溶けていた。玄関ホールには防寒の祝福刻印を重ねた絨毯が敷かれ、冷え切った靴底をやわらかく受け止めている。階段の手すりには常緑枝と赤い実が巻かれ、宴会場へ続く扉の前では、荷主も船主も工房主も、つやのある礼服の裾を揺らしながら笑っていた。


 彩加は、その笑いの輪の中にいた。


 深い藍色のドレスの上から、細い銀鎖のついた刻印筆を飾りのように下げている。令嬢らしい装いではあったが、髪をまとめたうなじの近くには、昼まで作業台に向かっていた名残があった。祝福刻印師の指先は、いくら丁寧に磨いても、ほんの少し墨の気配を残す。


 けれど彼女は、それを恥じなかった。


 朝凪刻印房の娘であることは、飾りではなく商売そのものだ。荷札の防水印、倉庫の防腐印、夜明け前の漁に出る船の誘導灯印。港町の暮らしのあちこちに、自分の家の仕事がある。そのことを思えば、今夜ここに招かれているのも当然だった。


 しかも今夜は、婚約者である祥章と並んで出席している。


 港湾行政長官の息子。よく通る声を持ち、髪一筋乱れていなくて、誰が見ても見映えのする男だった。扉の近くで商人たちに囲まれていても、肩を引き、顎を少し上げて立つだけで、場の中心がどこか分かる。


 その祥章が、給仕の鈴の音が一度鳴って宴席が落ち着いたころ、ゆっくりと前へ出た。


 ただの挨拶ではない、と彩加はすぐに分かった。


 彼はいつも、見せたい場面をつくるときだけ、ああして一拍置く。


 高窓の外で海風が鳴った。


 会場の灯りが、磨き込まれた床の上に細長く揺れる。


 祥章は、彩加を見た。


 その視線が、昨夜まで知っていたものと違っていた。温度を抜いた硝子みたいだった。


 「皆さま。本日は、ひとつ公にしておくべきことがあります」


 場が静まる。


 銀器の触れ合う音まで、奥へ引っ込んだ。


 彩加は背筋を伸ばしたまま、指先だけをそっと握った。いやな予感はした。だが、ここで自分から顔色を変えるつもりはなかった。


 祥章は言った。


 「朝凪刻印房には、偽造刻印への関与の疑いがあります。交易ギルドの調査が入ることになった」


 ざわ、と客たちの呼吸が波立つ。


 彩加の耳の奥で、その音だけがやけに大きく響いた。


 偽造刻印。


 見かけだけは祝福刻印に似せてあるくせに、数日もすれば防腐は切れ、防水は剥がれ、保温は熱を逃がし、ひどいものになると倉庫火災や船底の亀裂まで招く粗悪品。港町の商売を足元から腐らせる、忌まわしい模倣品。


 彩加の喉がきゅっと細くなる。


 けれど祥章は、そこで止まらなかった。


 「したがって、私と彩加の婚約は、今この場で白紙とします」


 誰かが小さく息を呑んだ。


 また別の誰かが、あら、と囁いた。


 その一言一言が、針みたいに飛んできた。


 彩加は祥章を見つめた。彼は視線を逸らさない。けれど、そこに迷いはなかった。少なくとも、表向きには。


 ああ、本当に言うのだ。


 しかも晩餐会の真ん中で。


 せめて人のいない場所で話す程度の情けも、今夜の彼は持っていないらしい。


 胸の真ん中で、熱いものが一度ひっくり返った。


 その瞬間、彩加の頭の中に、場違いなくらい妙なリズムが浮かんだ。


 破談きた。

 聖夜ひとりは。

 いやすぎる。


 五七五になった。


 こんなときに何をやっているのだろう、自分は。


 それでも、そのどうしようもない一首が、折れそうになった背をかろうじて支えた。泣くより先に、笑ってしまえ。そうすれば、今だけは誰にも踏みつぶされない。


 彩加はゆるく首を傾げ、わざとらしいほどやわらかな声を出した。


 「まあ。今夜の主菜より先に破談が出るなんて、だいぶ斬新ですわね」


 数人が、困ったように笑った。


 笑ってよいのか迷った末の、弱い笑いだった。


 祥章の眉がわずかに寄る。


 彩加はその隙に、己の呼吸を整えた。


 「疑い、とおっしゃいましたわよね。でしたらまだ、朝凪刻印房が何かをしたと決まったわけではないはずです」


 「疑いが出た時点で十分だ。港の信用に関わる」


 「港の信用を大事にする方が、公衆の面前で婚約者を切り捨てるの?」


 会場の空気が、ひやりとした。


 祥章は一瞬だけ口を結んだが、すぐに表情を戻した。


 「感情論で済む話ではない」


 「そう。なら、なおさら証拠が必要でしょう」


 彩加は一歩だけ前へ出た。


 スカートの裾が床を撫でる。


 「朝凪刻印房が刻んだ印は、荷札一枚まで記録が残っています。倉庫も船荷証券も調べてくださって構いません。うちがやっていないことだけは、必ず分かります」


 彼女の声は揺れなかった。


 けれど、足先だけが冷えていた。


 祥章の背後で、港湾行政長官がゆっくりと杯を置く。彩加はその動きを見た。会場の中心で言葉を発しているのは祥章だが、流れを決めているのはあの父親だと、今さらのように分かった。


 行政長官は穏やかな顔で言った。


 「調査が済むまで、朝凪刻印房との取引は停止だ。ギルドにもそのように伝えてある」


 その一言で、胸の奥の温度が一気に下がった。


 取引停止。


 婚約より、そちらの方がずっと痛い。


 朝凪刻印房は大店ではない。大きな倉庫をいくつも抱えているわけでも、王都に支店があるわけでもない。父と彩加、それに数人の職人で切り盛りしてきた、小さな工房だ。けれど墨の仕入れも、職人の食い扶持も、毎日の依頼がつないでいる。取引が止まれば、工房はあっという間に干上がる。


 父はいま、地方の工房へ納品調整に出ていて、この場にはいない。


 母はもういない。


 つまり今夜この場で、朝凪刻印房の看板を背負って立っているのは彩加ひとりだった。


 給仕が持つ皿から、焼いた鴨肉の匂いがした。


 甘い葡萄酒の香りもした。


 なのに彩加の口の中は、雪を噛んだみたいに乾いている。


 それでも彼女は、唇の端を上げた。


 「ずいぶん手回しがよろしいこと」


 行政長官は肩をすくめた。


 「港を守るためだよ」


 彩加は返事をしなかった。


 港を守るという言葉が、こんなにも薄く聞こえたのは初めてだった。


 彼女の仕事は、荷物を守り、家を守り、人の明日の商いを守ることだ。冷えた毛布に保温印を入れれば、朝まで眠れる人がいる。倉庫の木戸へ防腐印を重ねれば、春まで持つ荷がある。そうやって誰かの暮らしに直接つながる手触りを、彩加は知っている。


 だからこそ、いま目の前で交わされている立派な言葉が、空箱みたいに聞こえた。


 祥章が最後に告げる。


 「以上です。皆さまには、誤解のないよう」


 誤解のないよう。


 便利な言葉だ、と彩加は思った。


 事実が固まる前に、疑いだけを先に配り終えてしまうには、とても便利な言葉だ。


 拍手は起きなかった。


 その代わり、抑えた囁きが会場の端から端まで走った。


 朝凪刻印房が。まさか。いや、でも。元々あの家は。婚約も。可哀想に。いや、当然かもしれない。


 彩加は一つひとつを聞き分けたわけではない。それでも、自分の名前を肴にした声の流れは分かった。


 もうここに居続けるのは、意味がない。


 彼女はドレスの脇を摘んで、きちんと礼をした。


 「今夜はご親切に、皆さまの記憶へ残る席をありがとうございました」


 嫌味だと分かる者には分かるように、けれど表向きは礼儀正しく。


 そのまま踵を返し、会場を出た。


 背中に視線が刺さる。


 けれど振り返らない。


 玄関ホールへ出ると、外気が扉の隙間から細く忍び込んでいた。給仕係の少年が、彩加の顔を見て慌てて外套を差し出す。


 「ありがとうございます」


 受け取った声が、自分でも驚くほど普通だった。


 その普通さに、逆に泣きそうになる。


 会館の外へ出ると、夜の港町は冷え切っていた。石畳の上に白い息が落ちる。遠くで船の鐘が鳴り、岸壁の灯りが海面に細長く揺れている。会館の中ではまだ音楽が続いているのに、扉一枚隔てただけで、世界はずいぶん静かだった。


 彩加は数歩進んで、立ち止まった。


 ここから家へ帰ればいい。


 そう思うのに、足が動かない。


 帰ったところで、何が待っているのだろう。


 帳場に積まれた未処理の依頼票。乾燥室に吊るした荷札。父の机の上の仕入れ帳。取引停止が本当に通れば、その全部が、明日にはただの紙と木片になるかもしれない。


 婚約が消えたことより、そちらの方が胸を抉った。


 祥章のことを好きだったのかと問われれば、簡単ではない。


 隣に立つ未来を、疑わずにいたのは本当だ。港で生きる者同士、立場は違っても同じ方を向けると思っていたのも本当だ。けれど今夜、彼は彩加の手を取る代わりに、人前で切り離した。


 その事実だけで十分だった。


 石畳に、会館の灯りでできた自分の影が落ちている。


 細く長く伸びた影は、ひどく頼りなく見えた。


 母がまだ生きていたころ、よく言っていた。


 家柄に頼れなくなっても困らないように、役に立つ手を持ちなさい、と。


 彩加は両手を見下ろした。


 祝いの席のために薄く香油を塗った指先に、まだ刻印墨の黒がわずかに残っている。きれいなだけの手ではない。冷たい板へ印を刻み、乾いた荷札を束ね、火傷に気をつけながら窯の近くで墨を煮てきた手だ。


 だったら、ここで膝を折るな。


 そう思うのに、息を吸うたび胸が痛む。


 「……最悪」


 誰に聞かせるでもなく零した声は、白い息に混じって消えた。


 そのとき、背後から足音が近づいた。


 急いでもいない、ためらってもいない、まっすぐな歩幅だった。


 彩加は振り返る。


 会館の玄関前の灯りの下に、一人の男が立っていた。


 黒に近い濃紺の外套。飾り気の少ない冬服。胸元には交易ギルドの監査官章。高価な装いではないのに、雪の前の夜気みたいに、周囲を静かに引き締める立ち姿だった。


 凌太。


 港町交易ギルドの監査官として、名前だけは知っていた。倉庫の抜き打ち監査でも、積荷の帳簿照合でも、彼が入った先では誤魔化しが利かないと言われている。無駄口が少なく、情で判定を曲げない。その代わり、誰かが規約の穴に落とされそうになっているときには、穴の位置まで正確に指さす男だとも聞いていた。


 彩加は目を細めた。


 「……今夜の見物料なら払いませんよ。高いので」


 凌太は眉一つ動かさなかった。


 「見物しに来たわけじゃない」


 低い声だった。よく通るのに、いらないところへ踏み込まない声。


 彼は彩加の数歩手前で止まった。


 近くで見ると、想像より若い。けれど目元の疲れの薄い影が、昼も夜も働いていることを教えていた。


 「朝凪刻印房の件で話がある」


 「ないと言ったら?」


 「今夜のうちに話した方がいい」


 「親切?」


 「利害の一致だ」


 その言い方に、彩加は少しだけ笑った。


 さっきまで会館の中で浴びていた綺麗事より、よほどましだった。


 「ずいぶん正直な方ね」


 「回り道をしている時間がない」


 海風が強まり、彩加の髪の後れ毛が頬へ張りついた。凌太がそれを気にした気配はあったが、手を伸ばしはしない。ただ、玄関脇の風よけになる壁際へ、さりげなく立つ位置を変える。


 その動きが妙に自然で、彩加は少しだけ息を整えた。


 「で、監査官さま。朝凪刻印房は偽造刻印の犯人なんですか?」


 凌太は即答した。


 「そうは見ていない」


 胸の奥が、ほんの少しだけ持ち上がる。


 「……ずいぶんきっぱり」


 「証拠の流れが不自然だ。誰かが印象だけ先に広めた」


 「それを今ごろ教えに来るなんて、優しいのね」


 「優しくするためじゃない」


 彼は外套の内側から数枚の紙を取り出した。ギルドの簡易記録票らしい。風に煽られないよう片手で押さえながら、淡々と続ける。


 「朝凪刻印房にこのまま調査が入れば、営業停止の仮処分が出る可能性が高い」


 「ええ、さっき皆さまの前で聞きました」


 「ただし、止める方法が一つある」


 彩加は黙った。


 凌太の声には、慰めようとする響きがない。だからこそ、嘘もなさそうだった。


 「ギルド規約では、調査対象の工房に正規保証人が入れば、即時閉鎖は保留にできる」


 「保証人?」


 「工房の負債と違反責任を連帯して負う立場だ」


 彩加は小さく息を呑んだ。


 それは、名義だけ貸すような軽い話ではない。工房が沈めば一緒に沈むという意味だ。


 そんなものを、今の朝凪刻印房に差し出す人間がいるはずがない。


 「共同経営者か、配偶者だけが認められる」


 そこまで聞いて、彩加は笑った。


 あまりにも今夜らしい、冗談みたいな条件だったからだ。


 「配偶者。さっき捨てられたばかりの女に、ずいぶん景気のいい話をするのね」


 「冗談では言わない」


 凌太は記録票をしまった。


 その仕草のきっちりした速さが、逆に本気を伝えてきた。


 「朝凪刻印房を守りたいなら、そして俺が追っている偽造刻印の流れを止めたいなら、方法はある」


 彩加は彼を見上げた。


 夜気の中で、監査官章だけが小さく光っている。


 「方法って?」


 凌太は一拍置いた。


 会館の中から、遅れて笑い声が漏れてくる。さっきまで自分がいた場所とは別の世界みたいだった。


 その笑い声を背に、彼は言った。


 「俺が、朝凪刻印房の保証人になる」


 彩加の目が細くなる。


 「見返りは?」


 「君の工房に入って調べる権限」


 「やっぱり利用する顔じゃない」


 「そうだ」


 否定しない。


 彩加は口元を歪めた。


 目の前の男は、きれいな慰めで近づいてこない。その代わり、取引の形を隠しもしない。それがいまの彼女には、むしろ呼吸しやすかった。


 「共同経営者になるの?」


 「その形でもいい。だが港で疑いを抑えるなら、もっと分かりやすい札がいる」


 「札」


 「夫婦だ」


 風が止んだ。


 止まったように思えた。


 彩加は瞬きを忘れたまま、凌太を見た。


 彼は冗談を言った顔ではない。仕事の説明をするときと同じ、まっすぐな目をしている。


 今夜いちばんひどい言葉を会館の中で受けたあとに、今度はいちばん突拍子もない言葉を玄関先で受けることになるなんて、誰が想像しただろう。


 彩加はゆっくり息を吐いた。


 白い息が、二人のあいだへほどけていく。


 「……監査官さま」


 「何だ」


 「そういう台詞は、普通、もう少し雰囲気を選ぶものです」


 「急いでいる」


 「知ってる」


 彩加は唇に笑みを乗せた。


 さっきまで会館の中で浮かべていたものより、少しだけ素に近い笑みだった。


 胸はまだ痛い。悔しさも消えていない。けれど石畳に落ちていた自分の影だけを見ていた数分前より、足元が戻ってきていた。


 仕事を守る話だ。


 朝凪刻印房を潰させないための話だ。


 だったら、逃げて終わりにはしない。


 「続きは、立ち話じゃなくて聞くわ」


 彩加は外套の前をかき合わせた。


 「ただし、甘い求婚を期待しているなら、相手を間違えてる。私は今夜、そういうの全部、床に落としてきたところだから」


 凌太はわずかに目を細めた。


 それが笑ったのだと分かるまで、彩加にはほんの一拍かかった。


 「安心しろ。俺も甘い言葉は得意じゃない」


 そして彼は、港から吹いてくる冷たい風の中で、あまりに端的に告げた。


 「だから用件だけ言う。彩加さん、俺と結婚してくれ」



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