07中学の勉強、はじめました
俺は、本格的に中学の勉強を始めた。
まずは、数学だ。
最初、突如現れたマイナスの概念には多少困惑した。
数というものは増えていくものだと思っていたのに、突然「ゼロより小さい数」が出てくるのだから無理もない。
だが、映像授業のおかげでその扱い方はすぐに理解できた。
借金や温度、位置の変化――そういう例を見せられると、なるほどと腑に落ちる。
それからは、階段を一歩ずつ上るように、トントンと進めることができている。
なにより、数学は面白い。
車だけではなく、あらゆるモノづくりに必要となる学問だと感じ取れる。
そして問題を解く感覚は、まるでパズルだ。
ひとつひとつの式が、世界の仕組みを解き明かす鍵のように思える。
昨晩、久しぶりにサクラ一家がやってきた。
そのとき、ケンジおじさんが言っていた。
「最終的には、高校数学の最後に微分積分というのを習うんだが、その内容は車づくりに欠かせないものらしい」
ケンジおじさんは大学で工学系を専攻していたらしく、そのあたりは少し詳しいらしい。
それを聞いて、ますます数学を頑張らねばという思いが湧いてきた。
次に理科だ。
自然界の仕組みを解析し、分類し、そして応用する。
これらを成し遂げてきた、この世界の天才たちには、ただただ頭が下がる。
牛と人間が同じ種類で、哺乳類に分類される――そんな発想、俺のいた世界では思いもつかなかった。
そして、元素記号と化学式を知ったとき、胸が高鳴った。
俺たちの世界では、世界は火・水・風・土の四大元素で構成されていると考えられていた。
だが、この世界の教科書では違う。
この世界は、118個の元素でできているという。
そんなにたくさん!?
しかも、それらを組み合わせることで、さらに膨大な数の化合物が生まれる。
目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだった。
――鉄は、元素なんだ。
ふと、父さんの言葉を思い出した。
「鋼をどうやって作るのか、父さんは知らないんだ」
元素の一覧を見ても、そこに鋼はなかった。
じゃあ、鋼は何なんだ?
そう思ってパソコンで調べてみると、答えはすぐに見つかった。
鋼は、元素ではない。
鉄と炭素からできた合金だった。
画面を見つめながら、思わず呟く。
「父さん。鋼はね――鉄に炭素を混ぜて作るんだよ」
理科も、数学同様、
車を作るために欠かせない学問だ。
社会では、
素材の原産地についての学びに強く興味をひかれた。
父さんが言っていた。
「車を作るには、タイヤも作る必要がある。なので、まずは、この世界でゴムを探さなければならない」
社会の教科書には、そのヒントが載っていた。
ゴムの原産地は、この世界では南米という地域。
そして南米の多くは、熱帯雨林気候だという。
一年中暑く、雨が多く、湿度が高い。
なるほど。
ということは、俺たちの世界でも、蒸し暑く雨の多い土地を探せば、ゴムの木が見つかる可能性があるということだ。
この情報は、大きな一歩だ。
ゴムだけではない。
社会の教科書には、さまざまな素材や作物について、その原産地や生産地、気候との関係がまとめられている。
どこで何が育つのか。
どんな環境で、どんな資源が得られるのか。
こうした知識を総合的に学べるのが地理という学問なのだ。
この知識を持ち帰ることができれば、俺たちの世界を大きく飛躍させることができるだろう。
そして歴史だ。
ここで出てきたのが、産業革命。
機械化。
工業化。
そして、なにより――蒸気機関。
蒸気の力で機械を動かし、工場を動かし、やがて機関車や船を走らせる。
教科書に書かれているその流れは、まるで未来の設計図のようだった。
これは、車づくりに向けて、俺たちが進むべきロードマップを、そのまま示してくれているようなものだ。
繊維工業の機械化から始まり、蒸気機関が生まれ、鉄道が敷かれ、社会全体が変わっていく。
その一つ一つが、技術の積み重ねだ。
もし、この流れを理解し、順番どおりに再現することができれば――。
俺たちの世界でも、同じような革命が起きるかもしれない。
地理も、歴史も。
ただの暗記科目だと思っていた。
だが今は違う。
これは、世界を作り変えるための知識だ。
これほど重要な情報は、きっと他にない。
しかし――。
英語と国語は、いまいち身が入らない。
まず英語だ。
この世界の大国、アメリカの言語。
ケンジおじさんは言っていた。
「重要な技術や研究は、アメリカをはじめとする英語圏発のものが多い。それを読み解くには、英語力が必要だ」
なるほど、理屈はわかる。
だが、どうにも実感がわかない。
パソコンを使えば、日本語でもかなり深く詳しい情報を知ることができる。
しかも英文だって、あっという間に日本語へ翻訳してくれる機能がある。
わざわざ自分で読む必要があるのか?
なにより――。
もし元の世界に戻ってしまえば、英語など二度と使わない言語だ。
重要だとは理解している。
だが、どうしても気持ちが乗らない。
……まあ、たぶん。
アメリカ人の彼女でもできれば、それこそ真剣に勉強しだすのだろうが。
結局、英語は高校受験のためと割り切って勉強を進めている。
そして国語。
現代文は、まだいい。
この国の文学に触れるのは、それなりに面白い。
だが――。
古文と漢文。
日本の古代の言語の読み方など、正直、有用さも面白さも感じない。
なぜ千年前の言葉を、今さら勉強しなければならないのか。
こちらも結局、高校受験のためと割り切って勉強を進めている。
そんな愚痴をサクラに話したところ、
「ますます、中学の勉強の闇を覗き込んだわね」
と、やたらうれしそうだった。
しかも腕を組んで、うんうんと深くうなずいている。
「数学と理科が楽しくて、英語と国語が苦痛。典型的な理系の症状よ、それ」
「安心して。みんな一度は通る道だから」
サクラは楽しそうに笑った。
どうやら俺は、知らないうちに、
中学生という生き物の典型例になりつつあるらしい。
◇
日々、中学の勉強に格闘しているわけだが――。
俺には、ひとつ妙な習慣ができていた。
レクサスのトランクから魔石をひとつ取り出し、それを左手で握りながら勉強することだ。
別に、魔石から魔力を吸収しているわけではない。
ただ、そこにある魔力を感じるだけで、なぜか心が落ち着くのだ。
故郷の気配。
あの世界の空気。
それを思い出させてくれる。
……もしかすると、少しホームシックなのかもしれない。
そんな日々の中で、ひとつ気づいたことがある。
魔石の中の魔力が、ほんのわずかに揺らいでいるのだ。
それは、
まるで呼吸をするように、一定のリズムで増えたり減ったりを繰り返している。
増減の差は、ほんの微量だ。
おそらく、俺たちの世界では気づくことはできないだろう。
あちらの世界は、周囲に魔力が満ちている。
海の中で波紋を探すようなものだ。
しかし、この世界には魔力が存在しない。
だからこそ、この小さな揺らぎが、はっきりと感じ取れるのだ。
俺は、ノートの端にそのことを書き留めた。
中学の理科で習った言葉を使えば、こう表現できる。
魔石に含まれる魔力は、約10秒周期の波として、わずかに増減している。
言葉にすることはできた。
だが、この現象が何を意味するのか――。
そこまでは、まだわからない。




