04小学生ドリルからの出発
俺はサクラに連れられて、家から少し離れた本屋へ向かった。
「好きなだけ買ってきなさい」
出がけに、おじいちゃんがそう言ってくれた。
軍資金として渡されたのは、数枚の一万円札。
この国のお金は紙でできている。
最初に見たときは、本当に驚いた。
こんな薄い紙が金貨と同じ価値を持つというのだから、不思議な話だ。
本屋へ向かう道すがら、俺は落ち着かなかった。
見慣れないものばかりなのだ。
道の脇に並ぶ店。
行き交う人々。
看板に書かれた文字。
信号という装置。
走り抜けていく車。
俺はきょろきょろと周囲を見回していた。
「落ち着いて。恥ずかしいから」
横からサクラに注意される。
俺は慌てて姿勢を正した。
やがて本屋に到着した。
店に入った瞬間、思わず足が止まる。
「……すごい」
本の量が、とにかく多い。
棚が何列も並び、びっしりと本が詰まっている。
物語。
学術書。
趣味の本。
政治や経済の本。
子供向けから老人向けまで。
あらゆる分野の本が揃っているという。
開いた口がふさがらない俺を見て、サクラは少し呆れた顔をした。
「ほら、こっち」
腕を引っ張られ、店の奥へ連れていかれる。
そこは「参考書コーナー」という場所だった。
サクラは慣れた様子で本棚に手を伸ばし、次々と本を引き抜いていく。
表紙には、かわいらしい動物や植物の絵が描かれていた。
ひとつ手に取り、タイトルを見ると、
「小学一年生 さんすうドリル」
と書かれている。
サクラはそれを、
国語、算数、理科、社会。
一年生から六年生まで。
どんどん選んでいった。
あっという間に山ができる。
「英語は?」
俺がそう聞くと、
「英語は後でいいの」
と、きっぱり言う。
「小学生のが終わってから」
そういうものらしい。
リュックいっぱいにドリルを詰め込み、俺たちは本屋を後にした。
そのまま帰るのかと思ったが、
「寄るところがあります」
サクラが、なぜか真面目な顔で言った。
連れていかれたのは、本屋のすぐ近くの店だった。
軒先の看板には、店名らしき文字が書かれている。
だが、英語なので読めない。
「『ミスタードーナツ』と読みます」
サクラが得意げに言った。
そして俺の腕を引っ張り、店の中へ入る。
店に入ると、甘い香りがふわっと広がった。
サクラは慣れた手つきでトレーを取り、次々と丸い焼き菓子を選んでいく。
「ポン・デ・リングは外せないわね」
そう言いながら、どんどんトレーに載せていく。
そして会計の店員の前に立つと、当然のように言った。
「ドリルのおつり、出して」
俺の方に手を突き出す。
あまりに自然な動作だったので、俺は思わずポケットから紙幣を取り出し、サクラに渡してしまった。
「これは、私への付き添い料です」
サクラはそう言って、さっさと支払いを済ませる。
店内のテーブルに座ると、トレーの上に色とりどりのドーナツが並べられた。
「どうぞ、召し上がれ」
サクラはすでにポン・デ・リングをほおばりながら、俺にも勧めてくる。
俺は目の前の菓子を眺めた。
初めて見る食べ物だ。
丸い形。
色とりどりの飾り。
見た目も美しく、いかにも美味しそうだった。
ひとつ手に取る。
「オールドファッション選ぶとは、手堅いというか、慎重というか」
サクラが呆れたように言う。
そんな言葉を無視して、俺は一口かじった。
――。
「……っ」
うまい。
なんだこれ。
甘い。
サクサクしている。
そして、ものすごく美味しい。
俺は夢中で残りをかじった。
あっという間に食べ終わる。
「おいしい、でしょ」
顔を上げると、サクラがニヤリと笑い、こちらを見ていた。
俺たちはしばらくドーナツを堪能したあと、リュックいっぱいのドリルを背負い、帰路に着いた。
◇
その日から、小学生ドリルとの格闘の日々が始まった。
父さんが昔使っていたという机にかじりつき、毎日ドリルを進めていく。
しかし――
このドリルの紙質。
なんて滑らかなのだろう。
指で触れると、すべすべしている。
羊皮紙やぼろ紙とは、まるで別物だ。
しかも、色とりどりで、ところどころに絵まで描かれている。
動物の絵や、子供が笑っている絵。
図形もきれいに色分けされている。
こんな手の込んだ書物が、一般の人々でも簡単に手に入れられてしまうとは。
驚きだった。
そして――
この鉛筆と消しゴム。
鉛筆は、元の世界で使っていた羽ペンとは比べものにならないほど書きやすい。
インク壺に浸す必要もない。
かすれもしない。
ただ紙の上を滑らせるだけで、すらすらと文字が書ける。
そして、消しゴム。
少しこすると、書いた線がきれいに消える。
まるで魔法のようだ。
しかも――
これが、あのドーナツより安く手に入るという。
思わず苦笑した。
この国の子供たちは、こんな優れた学習道具を当たり前のように使っている。
なるほど。
これだけの環境が整っているのなら、誰もが学ぶことができるわけだ。
そして、もう一つ。
照明。
天井の明かりが、部屋を明るく照らしている。
夜だというのに、まるで昼間のようだ。
農場では、ゆらゆらと揺れる暖炉の火を囲みながら、夜をゆっくり過ごしていた。
だが、この国では違う。
夜でさえ、煌々と照らされている。
人々は、昼と同じように活動している。
――この国の人たちは、いったいいつ、のんびりするのだろう。
◇
ドリルは、全教科をまんべんなく進めることにした。
算数は、元の世界でもある程度習っていた。
教会学校では、読み書きと並んで、計算も重要な学問だったからだ。
足し算、引き算、掛け算、割り算。
分数や商売の計算なら、むしろ得意な方だった。
だから、
小学一年生や二年生のドリルは、ほとんど迷うことなく進めることができた。
だが、学年が進むにつれ、元の世界では見たことのない内容が現れ始めた。
たとえば、小数。
0.5、0.25、3.14。
最初は意味が分からなかった。
数は整数か分数で表すものだと思っていたからだ。
だが読み進めていくうちに気づく。
これは、分数を別の形で表しているだけなのだ。
なるほど。
これなら計算がずっと簡単になる。
さらに驚いたのが、割合という考え方だった。
「100分のいくつ」で量を表す。
商売の利益や値引きまで、きれいに計算できる。
そして、単位。
長さはメートル。
重さはグラム。
体積はリットル。
すべてが一定の規則でつながっている。
町ごとに単位が違う元の世界とは、まるで別物だった。
さらに、図形の計算。
平行四辺形や台形の面積。
円の大きさまで、数字で求められる。
俺は思わず手を止めた。
こんな体系だった数学を、子供の頃から学ぶのか。
もしこれを王国に持ち帰れたら――
商売も、建築も、測量も、すべて変わる。
◇
理科のドリルには、終始驚かされっぱなしだった。
最初は、虫や植物の観察だった。
チョウやカマキリ、タンポポの絵を見て、特徴を書き込んでいく。
これは、わかる。
農場でも、作物や薬草を見分けることは日常だった。
だが、ページをめくると、少し様子が変わってきた。
「水を温めるとどうなるでしょう」
鍋の絵があり、水が白い湯気になっていく様子が描かれている。
さらに読み進める。
水は温めると水蒸気になり、
冷やすと氷になる。
そして、それぞれを
固体、液体、気体と呼ぶらしい。
俺は手を止めた。
水が凍ることも、湯気になることも知っている。
だが、それをこうして整理して説明するという発想はなかった。
俺はドリルを閉じ、しばらく考え込んだ。
この国の子供たちは、
世界の仕組みそのものを学んでいる。
なるほど。
これだけの科学が生まれるわけだ。
◇
社会のドリルでは、主にここ日本国の地理や歴史について学習している。
日本という国がどんな地形をしているのか。
どんな時代を経て、今の社会が出来上がったのか。
それらが、図や年表で整然とまとめられている。
ここまで研究され、整理されていることにまず驚いた。
内容もとても興味深い。
だが――
それ以上に、俺が衝撃を受けたことがあった。
世界地図だ。
ページいっぱいに広がる、一枚の地図。
そこには、海と陸が描かれ、
無数の国の名前が書き込まれていた。
この世界には、
こんなにも多くの国が存在するのか。
さらに驚いたのは、日本の位置だった。
日本は、大きな大陸の端にある、小さな島国にすぎない。
俺は思わず地図を見つめ直した。
この広い世界の中で、日本はほんの小さな場所に過ぎない。
だが、この小さな国が、
これほどの科学と文明を築いている。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
――世界は、思っていたより、ずっと広い。
◇
国語のドリルは、思ったより順調に進んだ。
もともと、文字を読むこと自体はできたからだ。
文章を読み、問いに答える。
物語の内容をまとめる。
そういった問題は、すらすら解くことができた。
だが――問題は漢字だった。
見たこともない複雑な形の文字が、次々と出てくる。
読み方を覚え、書き順を覚え、
何度も何度も書いて覚える。
これが、なかなか骨が折れる。
正直なところ、あまり面白味は感じない。
それでも、この国では誰もが当たり前のように使っている文字だ。
ため息をつきながら、俺は毎日、ドリルに同じ漢字を書き続けていた。




