一人で帰ります(男性視点)
仕事帰り、駅前の掲示板の前で足が止まった。
白い紙に黒い文字で、「不審者出没」。通り魔、という言葉だけが妙に目に残る。
改札を抜けると、空気が少し張りつめていた。
人の流れが速い。みんな、早く帰ろうとしている。
「女性の方は、できるだけ男性と一緒に帰ってください」
警備員の声は穏やかだった。
命令じゃない。善意だ。
だから、誰も反論しない。
すぐに動いたのは、同僚の一人だった。
女性の同僚の隣に並び、軽い冗談を言って距離を詰める。
彼女は、少し安心したように笑った。
――正しい光景だ、と思った。
次に、視線がこちらに向く。
俺だ。
一瞬、迷った。
俺は、特別強いわけじゃない。
喧嘩も得意じゃないし、ヒーローでもない。
でも、何もしなかったら。
それはそれで、「冷たい男」になる気がした。
仕方なく、歩み寄る。
「よかったら、一緒に帰ります?」
声は、思ったより低く出た。
断られてもいい、という逃げ道を含んだ言い方だったと思う。
彼女は、立ち止まらずに答えた。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
少し間を置いて、はっきりと。
「一人で帰ります」
その言葉は、拒絶じゃなかった。
でも、俺の役目は、そこで終わった。
何も言えず、立ち止まる。
背中に視線が集まるのが分かった。
心配と、戸惑い。
そして、少しの「理解できない」という空気。
彼女は、振り返らなかった。
その背中を見送りながら、胸の奥がざわつく。
――正直、ほっとした。
守らなくていいと言われたことに。
強い男を演じなくて済んだことに。
同時に、少しだけ恥ずかしかった。
自分が、最初から「役」を引き受けようとしていたことが。
外に出ると、夜は思ったより静かだった。
街灯の位置。人影の間隔。
彼女は、それを自然に見て歩いていく。
落ち着いた足取りだった。
不安そうでも、無防備でもない。
ただ、自分で決めて進んでいる背中。
俺は、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
――強いな。
そう思った瞬間、違和感が走る。
違う。
強い、じゃない。
選んでいるんだ。
守られない役を。
一人で帰る役を。
どちらも、自分で。
それに比べて俺は、どうだ。
守る役を、
やりたいからじゃなく、
やらないといけない気がして引き受けただけだ。
家に着いて、鍵を閉める。
靴を脱いで、息を吐く。
今日、何も起きなかった。
それでいい。
守れなかったわけじゃない。
無力だったわけでもない。
ただ、
役を降ろさせてもらっただけだ。
それでいいと、俺も思っている。




