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滅亡リストに名前があった世界で ──運命に“削除”された街を、少年が書き換える。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/01

第1話 本日の滅亡


 朝、駅前のスクリーンに“それ”が映った。

 広告と時報の間に挟まる、政府公式の官報ダイジェスト。

 白い背景に、黒い文字がずらりと流れていく。タイトルは無機質な三文字——「滅亡リスト」。


 誰かが息を呑み、誰かがスマホを構えた。

 “今日の”滅亡対象が、箇条書きで淡々と示される。

 ——個人名。団体名。時に、企業。

 そして、その日の最後の一行に、見慣れた漢字があった。


 「白舟市、11月28日 00:00 削除」。


 朝倉凱は、その瞬間、胸の奥が冷たくなった。

 自分が暮らす街の名前が、まるで余命宣告のように並んでいる。


 ざわめきが周囲で連鎖していく。

 通学路の空気が波打つように揺れ、誰もが一瞬だけ“現実を疑った”。

 けれど、通勤アナウンスは変わらず流れ、電車は時間通りに到着した。

 まるで、世界の方がこちらを気にしていないかのように。


 学校に着くと、担任が朝礼で言った。

 「該当自治体の生徒は、必要に応じて早退を許可します。保健室ではブランケットと飲料水を配布中です」

 それは、地震訓練よりもずっと冷静な口調だった。

 “滅亡”は、もはやニュースではなく日常だ。

 名前が消える。家が消える。街が、地図の上で空白になる。

 それが、この国で一年以上続く「削除現象」の日常だった。


 授業中、凱はノートを開きながら、隣の席の灯を見た。

 彼女の机の端には、青い付箋がいくつも貼られている。

 「白舟市史料調査」

 「町内会誌・アーカイブ整理」

 「図書館地下——確認済」

 どれも几帳面な字で書かれていた。


 チャイムが鳴ると同時に、灯が声を潜める。

 「ねえ、放課後、来て。図書館の地下」

 凱は首を傾げた。「また、あのアーカイブ室か」

 「だって、もし本当に白舟が“消える”なら、残せるものを残さなきゃ」


 放課後の図書館は静かだった。

 外では救助隊や報道ドローンが飛び交っているのに、ここだけ時間が止まっている。

 受付の奥、職員専用の階段を降りると、ひんやりとした地下の空気が肌を刺した。

 そこが「市民アーカイブ室」——白舟市民の手で半世紀かけて作られた、街の記録倉庫だ。


 中には、手書きの家計簿、町内会誌、古いチラシ、写真、手作りの地図。

 誰かの暮らしの断片が、百科事典のように並んでいる。

 灯が言う。「白舟が消えるなら、せめてこれだけは持ち出したい」

 凱は首を振った。「持ち出した先で、“白舟”って言葉が無効化されたらどうする? “存在していた証拠”が消える可能性もある」

 「でも、何もしないよりマシでしょ」


 灯の声が震えていた。

 彼女の祖母はこの街の郷土史家で、アーカイブ室の設立メンバーでもあった。

 つまり、この部屋そのものが彼女の家族の記憶だ。


 凱は机に広げられた官報を見つめた。

 白い紙面に黒の文字列。その余白が、妙に気になった。

 彼はペンを取り出す。

 小さな癖——紙の端に、思いついたことを書き留める。

 「白舟市の境界線、古井川の橋を基準に再定義」。

 何の気なしに、そう書いた瞬間だった。


 外でサイレンが鳴った。

 灯がスマホを取り出す。防災速報——「古井川橋で事故発生」。

 が、その十秒後に画面が更新される。

 「事故は未然に回避。通行止めは解除」。

 「……今、書いたばかりだよね?」灯が凱を見る。

 凱は無言のまま、次の一行を加えた。

 「白舟市の名称は歴史的仮名遣い『白舟』のまま固定」。


 それまでネットのニュースでは“白洲市”“白舟しらふね市”と揺れていた表記が、五分後、全て統一された。

 検索結果の見出しも、SNSのタグも、全国ニュースのテロップまでも。


 「……凱、これ、偶然じゃないよね?」

 灯の声は、恐怖と期待が混じっていた。

 凱は、鉛筆を見つめた。

 “書いたことが現実に通る”——そんな馬鹿な。

 けれど、結果は否定できない。


 家に帰ると、母はいつものように夕飯を作っていた。

 湯気の立つ味噌汁の匂いが、逆に非現実だった。

 父はカレンダーをじっと見つめ、赤ペンで28日に丸をつけている。

 「落ち着いて。ニュースで言ってたろ、選挙区の区割りみたいなもんだ。別の市になるだけだ」

 母は笑ってみせたが、父の手は震えていた。

 “削除”は行政用語ではない。誰も正確な意味を知らない。

 ただ、過去に“削除指定”を受けた市は、翌日には地図からも記録からも消えた。

 人も、建物も、写真も。


 凱はその夜、ノートを開いた。

 今日の出来事を時系列に並べ、書きながら考える。

 (なぜ、余白に書いた言葉が現実を変えたのか)

 (紙のどこに、境界がある?)

 (もしかして——世界の方が、すでに「原稿」なのでは?)


 午前零時、家の外で風が鳴る。

 電線が軋む音が、不自然に途切れた。

 その瞬間、机の上の紙が一枚、ふっと浮かんだ。

 裏面に、自分の書いたメモが透けて見える。

 余白にあるはずの文字が、文字ではなく“命令”に見えた。


 翌朝。

 通学路の途中で、同級生が凱を呼び止めた。

 「おい、アサクラ……ガ……イ?」

 言い淀む。

 その響きが、少しだけ歪む。

 凱は反射的に胸ポケットから生徒証を取り出した。

 名前の“凱”の字が、かすれている。

 昨日の“書き換え”の代償か。

 彼の名前の輪郭が、世界の“版面”から削れていく。


 学校では教師たちがざわついていた。

 「市庁舎がデータ通信不能?」

「地理情報システムから白舟の地形データが欠落」

 まるで、少しずつ“下書き層”が消えているようだった。


 昼休み、灯が凱を屋上に呼び出す。

 「見て」

 彼女のスマホにはライブニュース。

 街頭インタビューで、県庁職員が話している。

 スーツ姿の女性、冷たい瞳。テロップに名前が出る。

 ——県庁監査課・氷見野火。

 「削除は、必要な更新です。誤植は正されなければならない」

 その一言に、凱は息を詰めた。

 「誤植……?」

 「そう。滅亡リストは、世界というテキストの“校正稿”なの」

 灯が呟く。「この人、知ってる。県庁の広報動画にも出てた。“正確な世界を維持する”仕事をしてる人」


 画面の中の野火が、ふと目線を上げた。

 まるでカメラ越しにこちらを見ているように。

 「——注記は誤植です。誤植は正されます」

 彼女の声が、直接鼓膜に触れた気がした。


 凱は、立ち尽くしたまま空を見上げる。

 白舟の上を、群青の雲が流れていく。

 “世界の校閲官”が削除を進めているのなら、誰かが逆に書き換えなければならない。

 この街を、名前を、物語を守るために。

 たとえ、自分の名前が薄れていくとしても。


 その夜、再びアーカイブ室へ行く。

 灯がランタンを持ち、凱が机に向かう。

 紙面の余白に、震える指で鉛筆を走らせた。

 「白舟市、11月28日以降も存在を継続する」

 書き終えた瞬間、部屋の照明が一度だけ瞬いた。

 蛍光灯が明滅し、書棚の間で埃が舞う。

 遠くで雷鳴が鳴った気がした。


 灯が顔を上げる。「成功……した?」

 答えの代わりに、凱は自分の名前を確かめた。

 生徒証の“凱”が、さらに薄くなっている。

 代償は、確実に来ている。

 だが、それでも——彼は鉛筆を握り直した。


 世界の余白に、書き続ける。

 誰かの意図で塗り潰される前に。

 「白舟は、まだここにある」


 ガラス越しに見える街の灯が、少しずつ滲む。

 それが消えるまでに、何をどれだけ書けるか。

 その時間との競争が、今、始まった。


第2話 注記の代償


 テストの赤ペンより、鉛筆の灰色のほうが世界に食い込む。そんな滑稽な結論を、凱は朝の通学路で反芻していた。駅前広場の樹の葉は濡れて重く、ベンチの下に小鳥が避難している。空は台風の前触れの色をして、低い雲が連なっている。スマホの通知には気象警報と市内放送の文字列が折り重なり、指先で払ってもすぐに積もった。


 彼は一冊の大学ノートを取り出す。表紙には何も書かれていない。余白の効き目を確かめるには、型を決めなければいけない。思いつきだけで書けば、偶然と錯覚の区別がつかない。検証のための検証を、きちんとやる。


 注記は短く、具体で、主語を曖昧にしない。どの名詞の、何を、どうする。たったそれだけのルールを、繰り返し試す。


 最初の実験は、学校の掲示板の前でやった。野球部の大会告知ポスターの隅、端が少し剥がれている白い三角地帯に、鉛筆で小さく書く。


 雨天時、体育館での代替セレモニーを許可。


 名詞はセレモニー、動作は許可、条件は雨天時。主語は掲示の発出主体——学校。曖昧ではない。凱は鉛筆を戻し、深く息を吸った。書いた瞬間、世界が鳴るような派手な演出はない。紙は紙のまま、掲示板は掲示板のまま、人は忙しそうに前を通り過ぎる。


 翌日、台風が来た。風が廊下に唸りながら通り、窓がびくつく。予定されていたセレモニーは屋外だったはずだが、担任は当たり前の顔で言った。「体育館だ。事前申請が通ってるから、椅子の並べ替え手伝え」


 部員たちは「グラウンド無理って思ってたんだよな」と笑い、教頭はマイクを持って無難な挨拶をした。誰も、直前で決まったはずの動線の滑らかさに違和感を覚えない。現実は、さりげなく修正され、さりげなく人の記憶の中に古くからあったルートとして収納されていく。


 凱は手すりにもたれて体育館の床の光沢を眺めながら、手帳に印をつけた。通る。やはり、通る。短く、具体的に、曖昧を避けた注記は、ちゃんと「世界側」に飲み込まれていく。


 代わりに、彼の名前がさらに剥がれた。


 放課後、図書室のカウンター横に置かれた卒業アルバムの閲覧コーナーで、自分の小学校のアルバムを見つけた。ページをめくると、六年二組の集合写真。前列左から二人目、笑っていない自分。写真の下にあるキャプションは、すべての名前が行儀よく並んでいるのに、一か所だけ、印刷が欠けていた。


 朝倉—


 そこから先の文字が、薄い、ではない。ない。インクが飛んだように、ただの横棒が一つ、白地に残っている。心臓が一度だけ強く鳴る。これは偶然ではない。書いたぶん、彼の名は削れていく。昨夜、母に呼ばれたときの声にも、ほんのかすれが混ざっていたことを思い出す。名は呼吸だ。呼ばれない音は、世界から漏れやすい。


 それでも、止まれなかった。止まれない理由が増えたのだ。白舟が消える日付は近づいている。街の輪郭を濃くするために、彼は書く。


 灯は動いた。市立図書館の地下、例の市民アーカイブ室に呼びかけを出した。SNSのローカル掲示板、商店街の回覧、学校の掲示。彼女の文面は端的で、人を傷つけない言葉の選び方を知っている。


 白舟を、持てる手で持ち上げる。記録でも、思い出でも、名前の付いたものなら何でも。貸出カードの更新も同時に行います。


 最初にやって来たのは、駅前のパン屋の夫妻だった。古い箱を抱え、粉の匂いをまとっている。中には祖父の字で書かれたレシピノート。紙の端が油で透けている。ページをめくるたび、胡桃の影が染みのように浮かんだ。


 「この街の“白舟パン”って名前、消えるのかな」と妻が言う。「名前までなくなったら、うちの店はどうなるんだろ」


 凱はノートの余白に、小さく、しかしはっきり書いた。


 白舟パンは胡桃の粒が三つで一単位。計量単位は三粒。


 具体性が顔を出す。曖昧な伝統が、三という数字で立ち上がる。夫妻は笑った。「ああ、うちの親父、三つって、よく言ってた。秤じゃなくてね、粒なんだって」


 その笑いの音を背中で聞きながら、次の人が入って来た。造園師の男だ。作業着に土が乾いて白い粉になっている。彼は丸めた図面を広げ、桜並木の植栽計画を見せた。手書きの矢印が柔らかく曲がり、枝張りの予想図が簡潔に描かれている。


 起点をどこにするかが曖昧だった図。その曖昧さは、地図から名前を剥がす手のひらには格好の取っ掛かりになる。


 桜並木は起点を庁舎の向かいとする。第一木は旧庁舎玄関の正対に位置。


 凱が注記を走らせると、男は顎をさすってうなずいた。「そうだ。うちはそういうつもりで植えた。図面に書いておけばよかったのに、口伝で済ませていたな」


 午後、写真部の一年、さくらがやって来る。彼女はラミネートもされていない、プリントしたままの写真を大事そうに抱えていた。雨上がりの駅前のバス停。屋根の端から落ちた滴が地面に作る濃淡の弧が、偶然、虹になっている。電光掲示の時刻はぼやけ、停車中の131系統のバスの行先表示が半分切れている。写真の端に、見切れるように灯の後ろ姿が写っていた。


 「これ、好きなんです。友だちから借りたカメラで撮った一枚目で。時間も、場所も、わたしの中だけの“当たり前”なんだけど、当たり前にも名前があればいいなって」


 凱はうなずき、余白に書く。


 駅前バス停の影の虹は、14時台の路線131の発車後に最も濃い。気温が二十度台、降雨直後、南寄りの風。


 さくらは目を丸くして、それから少し泣きそうに笑った。「うれしい。なんか、写真が本当になったみたい」


 注記を重ねるほど、街の輪郭が濃くなる感覚があった。白舟が“置き換え可能な地名”ではなく、取り替えのきかない顔として世界に主張し始める。薄い透明な膜だったものが、皮膚になり、血の流れを持ちはじめる。紙の上の一行のために、人の暮らしが正座する。書く手は止まらない。


 代償は、同時に確実に進む。


 黒板の出席番号の横、彼の名だけチョーク跡が薄く、数字の十五の隣にあるはずの「朝倉凱」の字形が、消しゴムで軽く撫でられたみたいに曖昧になっている。体育の点呼で、先生は無意識に十四から十六へ飛んだ。何人かの眉がぴくりと動いたが、すぐに戻った。動いた眉の主も、何に反応したのか分からない顔で首を振った。


 夕方、アーカイブ室のドアが開く音は静かだったのに、部屋の空気は一瞬で変わった。冷えた金属を近づけたような、理性の匂い。氷見野火が立っていた。濡れた傘を丁寧に畳み、貸出簿の机にそっと置く。制服でもスーツでもない、淡い灰色のワンピース。役所の人間が休日に着る服。髪は後ろで一つに結ばれている。


 「お邪魔します」


 彼女の声は小さく、それでいて部屋の一番奥に届く。灯が立ち上がり、会釈する。凱も立つ。野火は貸出簿に手を置き、ページを流すように見てから、顔を上げた。


 「注記の乱用は、版面の崩壊を招きます。『白舟』一件のみならず、全国の余白魔術が活発化している。あなたのような逆写は、先に名前を手放す」


 逆写。鏡に映して書き直す人間。初めて聞く言葉なのに、意味はすぐに体に浸みた。彼女は敵意ではなく、統計を話すときの口調で言う。誰の肩も持たない、数字の背に乗った声。


 「あなたは、校閲官なんですか」と灯が問う。


 野火は頷く。「監査課、校閲班。世界は版。私たちの仕事は誤植を減らすことです」


 凱は手元の鉛筆を握りなおし、問う。「誤植って、誰が決める?」


 野火は少しだけ考える間を作り、均等なテンポで答えた。「票と統計と前例。そして、痛みの最小化」


 「名前の痛みは数えられない」


 彼の言葉は、想像よりも弱く出た。胸のどこかが空洞になっていて、声が響かない。


 野火は返事をしなかった。代わりに、鞄から一枚の紙を取り出す。官報のゲラだ。校正記号が赤で踊っている。「見ておきますか。あなたが相手にしている力は、こちらでも扱っています」


 机の上にゲラを広げ、赤を引く。小さな揺れを修正し、同音異義の選択を一本に揃え、日付の表記を国際規格に統一する。野火の赤が一行をなぞるたび、アーカイブ室の蛍光灯が微かに瞬き、遠くの世界が微かに音を立てる。彼女が「白舟市」の表記を一度だけ確かめ、読み上げないまま赤を入れないでおくと、凱の胸の奥で、細い糸が一本だけ切れずに残る感覚があった。


 「今の、見せ物ですか」と凱は言う。


 「説明です。あなたが何と戦っているか、誤解の少ない形で示しておく必要がある。誤植は正されます。正しいかどうかは、多数と統計と前例が決める」


 灯が目を細める。「でも、数の外にあるものは、必ず切り捨てられる」


 野火は視線を灯に移す。「だから、あなたたちは注記を共同執筆している。ひとりが消えたとしても、物語は継続するはず」


 柔らかな言い回しだった。棘は隠されているのではなく、磨かれて光っている。宣告の形をしていない宣告。凱は喉の奥で笑うつもりが、笑いの形を忘れていた。野火はゲラを丁寧に畳み、会釈して部屋を出た。ドアが閉まる音は静かで、やけに長く耳に残った。


 その夜、凱は初めて、自分自身に関する注記を試みた。教科書の余白を避け、真っ白なコピー用紙を選ぶ。清潔な白は、汚すことに躊躇を生む。それでも、書かなければならない。


 朝倉 凱、白舟高校二年三組在籍、出席番号十五番。


 筆圧を上げ、線を重ね、文字の角に息を吹きかける。書いた瞬間、紙の端がじゅっとわずかに焦げた。蜃気楼のような熱の輪が広がり、何も起こらなかった。注記は通らない。自分に関する注記は、利害が強すぎるのか、それとも、世界は自己言及を嫌うのか。紙は紙のまま、彼の名前は薄いままだった。鉛筆の芯が少し砕け、白い粉が机に散った。


 窓の外で風が鳴り、電線の影が壁を横切る。灯からメッセージが届いた。今日のアーカイブの持ち込みリスト。名のあるもの、名を持っていないけれど誰かが呼んできたもの。凱は返事を打つ。明日、また書こう。誰かのための注記は通る。誰かの固有性を、世界にくっきりと刻むことはできる。自分の名は、君が覚えていればいい。


 翌朝。HRで担任が名簿を読み上げる。十四番の名のあと、ほんの半拍の空白を挟み、十六番の名が続いた。名簿を持つ手は止まらず、誰の顔にも困惑の影は定着しない。灯だけが、机の角を強く握っているのが見えた。木口が白くなり、爪の色が変わる。


 「……凱」


 彼女は声に出さない声で、呼んだ。言葉は空気の中でほどけ、誰の耳にも届かない。その代わりに、凱の胸の奥で、細い糸が一本だけ震えた。呼ばれた。届いた。彼は横を向き、灯と目を合わせる。笑ってみせる。笑い方は、まだぎこちない。笑うための筋肉の順番を、一瞬、忘れていた。


 昼休み、屋上。風は昨夜よりも乾いて、空は台風が去った翌日のように高い。実際には台風はまだ北の海上にあるはずなのに、空は自分の都合で天気を進めている。


 「ごめん」と灯が言った。「何に対してか分からないけど、たぶん、全部に対して」


 「謝るなら、明日もここにいてよ」と凱は言う。「僕のことは、君が覚えて。君ひとりの記憶は、統計にはならないけど、注記にはなる。僕はそれで充分だ」


 「充分じゃないよ」灯は首を振る。「充分じゃないけど、今はそれが最優先だって分かってる。注記の文体、もう少し統一しよう。あなたの手癖を真似られる人を増やしたい。今日、商店街の人たちに書き方講座をしたいって話した。変な宗教みたいにならないように、言葉のトーンをそろえる」


 「主語を明確に、名詞を固有に、動作を限定的に。禁止事項は、否定の注記はできるだけ避ける。何々しない、ではなく、何々をどのように保つ、にする」


 「あと、時間と場所の特定。時計と座標。誤差は許容量の範囲を注記に含める。幅を持たせつつ、名前が薄まらないぎりぎりのところを探る」


 ふたりはノートを開き、枠を作っていく。注記のテンプレート。空欄に特定の固有を埋めるための穴。言葉の版を作ることは、街の版を作ることだ。遠くでチャイムが鳴り、屋上のドアの向こうで誰かが走っている。


 午後、アーカイブ室は昨日より賑やかだった。看板屋、豆腐屋、古本屋の店主、保育園の先生、バスの運転手。誰もが小さな固有を持って来る。看板屋は、白舟の文字の骨格の取り方を。豆腐屋は、朝の水の硬度を。古本屋は、値札の紙の厚さを。保育園の先生は、お昼寝の歌の順番を。運転手は、坂の手前でアクセルを抜くタイミングを。


 凱と灯は、注記に翻訳する。紙の上に、世界の癖が並んでいく。書けば書くほど、部屋の湿度が上がるように感じた。息をする名前が増えると、空気は重くなる。重さは温度だ。温度は輪郭だ。


 夕刻、野火が再び現れた。今度は扉のところで立ち止まり、部屋全体を見回す。彼女の視線は不思議だった。摘むためにではなく、確認するための視線。検査官の手は、いつも何かの上に直接は置かない。彼女はひと拍おいて言った。


 「やり方は、上手い」


 褒め言葉ではない。観測結果の報告。灯が小さく笑って、すぐに消した。野火は続ける。


 「ひとつだけ、忠告しておく。注記は通る。しかし、通った注記が作る世界は、誰かの注記と必ず衝突する。痛みの最小化は、和ではなく、分配です。あなたの注記が守るものの影で、別の固有が薄くなる」


 「その分配の式を、あなたたちが決めている」と凱が言う。


 「私たちは、式を選ぶ者ではない。式の誤記を直す者です」


 言葉がすれ違う。すれ違いは、歩道でぶつからないことに成功したときの安堵に似て、気まずい。


 「最後に」と野火。「あなた、自分の名前に書いたでしょう」


 凱は返事をしない。その沈黙を肯定とみなすのは、校閲の習いだ。野火は頷く。


 「通らない。世界は自己注記を嫌う。あなたに関する注記が通るのは、あなたが“誰かの物語”の所有物になったときだけです。子の名は親が、部員の名は部長が、患者の名は医師が。利害が交差し、関係が裏付けになるとき」


 「じゃあ、あなたが僕の名を書けば、通る?」


 「私があなたに何の関係があるのです。監査課は、関係を持たないために存在します」


 彼女は背を向けた。凱は追わない。灯が、深く息を吐いた音だけが残る。静かになった部屋に、紙をめくる音が戻った。


 夜。机の上の白い紙の上で、凱は鉛筆を転がした。書けるものを書き、書けないものを書きたくなる。利害のない場所に、利害しかない自分を置く。紙は焦げない。名前は薄い。窓の外の風は、街の匂いを運ぶ。粉と豆と古紙と雨の匂い。嗅ぎ分けられるものすべてに、名前が付いているうちに、もう少しだけ、と彼は書いた。


 白舟の西端の古井川にかかる橋は、薄暮時、欄干の影が川面に五本落ちる。


 白舟公園の鉄棒は、冬の朝、掌にくっきり冷たく、子どもは舌を近づけない。


 商店街の赤い提灯は、停電時、豆電球に切り替わり、光が呼吸するように明滅する。


 書きながら、彼の名は少しずつ、少しずつ、薄くなる。薄くなる速度を、街の濃さが追い抜いてくれれば、と祈るのは、祈りの名前を知らないひとがする祈りだ。鉛筆の芯を削る音が、夜更けに長く響いた。


 翌朝、ホームルーム。担任は相変わらず十四から十六に飛んだ。クラスの空気は波立たない。波立たせるために必要な石の名前が、黒板の脇から消えているから。灯は深く座りなおし、手帳を開いて、誰にも見えない最小の字で書く。


 朝倉凱、在席。目視確認。机、窓側から三つ目。


 彼女の鉛筆は、世界の余白ではなく、自分の余白に刻む。通る通らないの話ではない。彼女の中の版面に、凱がいる。彼女はその版を、小さな胸にたたんでしまった。凱は肩をすくめ、笑って見せる。笑い方は、昨日より少し思い出した。


 昼休み、廊下で、野球部の後輩が凱の肩を叩いた。「先輩、昨日のセレモニーの段取り、助かりました。申請、ギリだったらしいっすよ」


 「そうか」と凱は言う。「誰が出したんだ」


 「顧問が前から準備してたって」後輩は首をかしげる。「不思議っすよね。ほぼ雨天決行だったのに、なんか、最初から体育館にする予定だった気がして」


 記憶が遡及的に上書きされるとき、人は違和感に名前を付けない。名前のない違和感は、十秒で消える。十秒の違和感を十秒ごとに積み上げれば、いつか山になるはずだが、人間はそこまで器用ではない。凱は頷き、肩の手を振りほどいて、アーカイブ室へ向かった。今日も注記は待っている。街は、名乗りたがっている。


 階段を降り切る前に、灯からメッセージが来た。短く、具体で、主語がある。


 今夜、校閲官と話をする。場所は川沿いの喫茶店。彼女が指定した。危なくなったら逃げる。


 凱は即座に返す。


 僕も行く。危なくなくても行く。


 送信の音が鳴る。その小さな音に、名前が混ざっていないことに、もう彼は驚かない。名前のない声は、ちゃんと届く。届いた証拠に、数秒後、灯から返事が来る。


 分かった。ふたりで、誤植の話をしよう。


 川は、夕方にかけて風の向きを変える。喫茶店の窓辺の席には、赤いランプがひとつ置かれている。コーヒーは苦く、砂糖はスプーンで二回転半。注記にできるものは山ほどある。注記にしてはいけないことも、山ほどある。線を引くのは誰か。線の上に座るのは誰か。線の外に押し出された名前は、誰が拾うのか。


 凱は鉛筆を握りなおし、もう一ページ、余白を開いた。次の一行が、街のどこに効くのか、まだ分からない。分からないまま、書くことだけが、今の彼にできる最小で最大の抵抗だった。


 彼は小さく書き出した。


 白舟の夜、喫茶店の窓辺に灯る赤いランプは、来客が二人のとき、少しだけ明るい。


 紙は焦げなかった。けれど、窓の外、雲間から一瞬、光が降りて、川面が細く煌めいた。


 世界は、少しずつ読んでいる。こちらの鉛筆がどんな癖の字を書き、どんな呼吸で句点を打つのか。読みながら、向こうも書き直す。ならば、と凱は思う。ならばこちらも、読みながら書き直す。街のために。名のために。名のない者のために。名だけになろうとしている自分のために。


 扉の音。野火が来た。約束の時間より、三分早い。灯が立ち上がり、笑顔を作る。凱は鉛筆を胸ポケットに挿し、背筋を伸ばす。誤植の話は、きっと、誤植では始まらない。はっきりした主語と、具体的な名詞と、限定された動作。三点を満たして、話を始めよう。


 彼は心の中で言う。注記の代償を、言葉で払う準備は、できている。


 そして、席に着いた校閲官は、最初の一言を選んだ。


 「あなたの“十五番”。それは、誤植ではありません」


 凱はうなずき、灯は眉をひそめた。窓辺の赤いランプが、ほんのわずかに明るくなる。店内の時計の針は、秒をまたぐときにかすかな音を立て、外の川は、風の向きに合わせてさざなみを変えた。


 話は、ここからだ。



第3話 校閲官と誤植

 白舟の削除日まで、あと四日。

 朝のニュースは淡々としていた。いつもの男女アナがいつもの声色で、「住民の冷静な退避」を促す。画面下のテロップは、指定避難所の地図を滑らせ、バスの臨時ダイヤを示し、ハザードマップの見方を説明する。

 けれど、この街から退くということは、白舟でない場所へ行くということだ。そこへ行った瞬間、白舟は「なかったこと」になる。地図の上でも、履歴の上でも。

 白舟であること——固有であること——を世界に証明する唯一の方法は、白舟に留まり続けることだった。

 凱は、灯とともに、地下の市民アーカイブ室に長机を並べた。

 机の上には、コピー用紙の束と、よく削った鉛筆、消しゴム、三角定規、方眼紙。貼り紙には、大きく丸ゴシックで「余白ワークショップ」とある。誰でも参加できる、紙と鉛筆の会。ルールはただ一つ、嘘を書かない。あいまいを避ける。主語と名詞と動作を、短く、具体的に。

 最初に入ってきたのは、駅前のパン屋の夫妻だ。エプロンの粉を払う間も惜しんで来たのが分かる。古いレシピノートを差し出され、凱はページに顔を寄せた。紙の端は油で透明になり、胡桃の粒が乾いた跡を残している。

 「うちの“白舟パン”、なくしたくないんです」

 凱は頷き、余白に書く。

 白舟パンは胡桃の粒が三つで一単位。基本配合は小麦粉四五〇に対し胡桃一単位。

 短く。具体に。誰が見ても測れる線で。

 造園師の男が、大きな丸め図面を抱えてやって来た。古い桜並木の計画図。手書きの矢印が柔らかく曲がり、枝張りが想像で描かれている。

 起点は、どこ。図には書いていない。口頭で伝わってきたものは、世界の削除に弱い。

 桜並木の起点は旧庁舎の正対線上。第一木は旧庁舎玄関の真正面。

 注記の字が紙に沈むたび、胸の底で細い鐘が鳴る。通る、かすかな手応え。

 子どもたちは、ランドセルの落書きを持って来た。チョークで描かれた路地の地図。行き止まりに丸印、好きな駄菓子屋に星印。

 「ここ、みんなで“まがり角のトカゲ”って呼んでる」

 なぜ? 「舗装の割れにトカゲがいるように見えるから」

 凱は笑って、書く。

 表面の割れ目がトカゲ状に見える曲がり角の呼称は“トカゲ”。場所はバス通りから西へ二本目の路地、電柱番号A-12の脇。

 呼称は呼称として。地名にならない名前にも、注記は効く。

 写真部のさくらは、写真にキャプションをつけた。

 駅前バス停の影の虹。撮影時刻は十四時一四分、風向き南南西、路線一三一発車後三十秒。

 灯は、持ち寄られた注記を一枚の大紙に配置していく。紙面の空きと要素の密度を均し、視線の通り道を作り、凡例を揃える。

 「ここはパン屋さんの注記の近くに、朝の市場の注記を置く。匂いが近いから。こっちは桜の起点と児童公園の滑り台の注記を並べる。春のルートが見える」

 彼女は、版面を設計していた。白舟という名のページに、白舟という意味の見出しを立てる。

 昼過ぎ、ささやきのような足音とともに、氷見野火が入ってきた。

 「ここまでやるなら、審査を通しましょう」

 穏やかな声で言いながら、彼女は一枚の書類を机に置いた。

 「公開討議です。白舟の固有性の妥当性を証明できるなら、リストの文言に猶予を付けられる」

 灯が息を飲む。凱は立ち上がった。「やる。今夜でもいい」

 野火は首を振る。「準備の時間は必要です。明日、午後七時、市民ホール。誰でも入れる。注記は持参可」

 市民ホールは、いつものコンサートのときよりも静かだった。舞台の奥には白いスクリーン。左右に長机が並び、中央に演台。観客席には、パン屋、造園師、子どもたち、駅前で弁当を売る人、バスの運転手、学校の先生、見知らぬスーツの人たち。

 野火は演台に立ち、事務的に手続きを読み上げると、凱に視線を向けた。

 「始めましょう。まず、あなたたちの注記、三つ。指摘しておくべき誤植があります」

 一。バス路線一三一は三年前に一三二に改番されています——“虹の時刻”の注記は、表現が過去のまま。

 二。桜並木の起点は旧庁舎ですが、現庁舎は移転済み——凡例の座標が現行地図とズレている。

 三。白舟パンの“胡桃三粒”は季節で欠品がある——例外処理の明記がない。

 会場がざわつく。さくらが顔を赤くし、パン屋の妻が胸の前で手を組む。造園師が図面を引き寄せる。

 凱は、喉の奥がからからに乾くのを感じた。甘かったのだ。意味が近いからといって、世界が勝手に補正してくれると思っていた。気持ちの分だけ、通るのだと。

 世界は、そんなに優しくない。通る注記は、正確で、限定的で、検証可能だ。見栄えのする物語だけでは、現実は動かない。

 野火は続ける。「排除のためではありません。通すために必要な修正です。校閲は敵ではない」

 舞台袖で、灯が凱の肘を突いた。行け、という目だ。

 凱は演台に立ち、マイクの位置を少し下げた。

 「修正案、提示します。ここで、今」

 彼は紙を広げ、鉛筆を走らせる。

 虹の注記——路線番号を一三二に更新。便指定、十四時一二分発の次便。風向き南南西、降雨直後、路面温度二〇から二四度。

 桜並木の起点——旧庁舎基準のまま注記に“旧”を明記。地図凡例に、旧庁舎位置の緯度経度を記す。

 胡桃三粒——欠品時の代替条件を明示。「胡桃欠品時は焼印の裂け目が左に一つ入ったものを“白舟パン”とする」。

 書いた瞬間、会場の空気が一段固くなった。紙の上で行が整い、スクリーンの右上の時刻が一秒だけ逆流したように見えた。

 遠くのバス停で、一三一の数字がふっと濃くなり、次の瞬間、静かに一三二へ変わる。電子音は鳴らない。世界は静かに、正しい方へ寄る。

 桜並木の案内板の右下に、小さな“旧”の文字が現れ、地図の端に小さな座標が追加される。

 パン屋のガラス戸に貼られたメニューの隅に、小さな注意書きが一行増える。「胡桃欠品時は焼印切り替え」。

 版面が整う音がした。誰かが意識して聞くから聞こえるような、ごく小さな、紙の鳴る音。

 野火は小さく頷いた。「猶予を四十八時間、付します。ただし条件がある。注記は、誰も傷つけないこと」

 会場に、息を呑む音が連鎖した。

 凱は、苦笑した。

 誰も傷つけない注記。

 世界の注記は、誰かの傷を別の場所に移すからこそ通りやすい。交通量を減らせば商店街の昼が痩せる。川を守れば工場の排水計画が詰まる。住宅地の静けさを守れば、深夜のタクシーが仕事を落とす。

 痛みの総量は、消えない。ならば、配分の仕方を選ぶしかない。

 灯がそっと囁いた。「“誰も”って、どこまで?」

 野火は即答しない。「あなたたちが、いまから示す範囲です」

 彼女は演台から降り、観客席の端で立ち止まった。校閲官は、最後の一行を観客に書かせるのだ。

 討議は夜まで続いた。

 「夜間のトラック音を減らしてほしい」

 「夜間の搬入が止まると、翌朝のパンが減る」

 「学校のチャイムを一分前に鳴らして。遅刻が減る」

「一分前に鳴ると、始業の意味が薄れる」

 注記は、願いの列ではなく、調整の列だ。

 灯は、ホールの壁に模造紙を貼り、タテに「固有」、ヨコに「影響範囲」のマトリクスを描いた。「固有が高く、影響範囲の狭い順に採用する。広いものは、具体条件を足して狭める」

 パン屋は、朝四時の水の硬度をメモに示し、「時間帯指定」を条件に足すことで、他業種への影響を薄めた。

 造園師は、剪定の曜日を動かす代わりに、祭りの週だけは例外を明記した。

 子どもたちは、路地の呼称を地図アプリに載せたいと言ったが、載せると家の位置が特定されやすくなるため、紙の地図に限って公開する注記を作った。

 さくらは、写真のキャプションに「個人が特定される情報は写っていない」ことを条件として添え、公開に関する注記を整えた。

 終わるころには、凱のノートは黒くなった。

 その代わり、彼の「名」は目に見えて薄くなった。

 家に戻って学生証を見ると、「朝倉」の「朝」が、夕暮れの空みたいに褪せている。「凱」の字には、もう輪郭しかない。

 鏡の前で、名前を声に出して呼んでみる。音は出る。耳はそれを受け取る。世界は、受け取らない。

 あと三度。

 強い注記を三度通したら、たぶん自分は、クラスの記録から完全に抜ける。卒業アルバムの横棒は、名字のほうまで伸びる。給食の名札は最初から置かれない。

 紙の上で、自分の「残量」を見積もる感覚は、ぞっとするほど具体だった。

 机の向かいで、灯が言った。「私が書く。凱の分まで」

 凱は首を振った。「君が書いた注記は、世界に通りにくい」

 「逆写の体質がないから?」

 「それもあるけど、君は読み手で編み手だ。君が紙を整えるから、僕の線が生きる。君が書き手に回ったら、版面が崩れる」

 灯は唇を噛む。「でも、君の名前が……」

 凱は、笑ってみせた。笑い方を二話前より取り戻している気がした。

 「君の仕事は、“私たち”を一つの版面にすること。僕の仕事は、その版面に火を通すこと」

 彼は手を差し出した。

 灯も手を伸ばす。

 印刷前の紙に触れるみたいに、指先が熱い。二人の掌の間に、空気が薄くなっていく感覚があった。合図だ。今はまだ、通せる。

 翌日。猶予四十八時間の一日目。

 ワークショップはホールのロビーで続いた。昨日の続きのように人は集まり、昨日よりも少しだけ言葉が短かった。

 野火は客席の最後列にいて、時折、手元の紙に赤を入れる。壇上に上がるわけではない。校閲は、舞台の袖からでもできる。

 昼、バスの会社から担当者が来た。「一三二のダイヤを、注記に合わせて広報に出します。駅の案内板、今夜の終電後に更新です」

 夜、商店街の会議に呼ばれた。搬入時間の調整に関する注記を、商店主たちの前で読み上げ、言葉の角を丸めた。

 深夜、川沿いの工場の事務所で、排水の注記に関する協議。数値と生活の接点が出てくると、言葉は急に硬くなる。灯は、硬い言葉に柔らかい注釈をつけるのが上手かった。「四月と八月を外して」「台風時は自動停止を条件化」——具体が、交渉の形になる。

 家に戻るころには、空が白み始めていた。

 凱は机に座り、鉛筆を握り直す。

 白舟の“顔”をもっとはっきりさせるために、もう一つ強い注記がいる。

 書けば、名は減る。それでも、書く。

 彼は紙の中央に、ゆっくりと字を置いた。

 白舟の夜、二一時から二三時のあいだ、商店街の提灯は停電時に豆電球へ自動で切り替わり、光は呼吸するように明滅する。明滅の周期は四秒。

 紙は焦げなかった。窓の外で、ほんの一瞬、電線が鳴ったような気がした。

 学生証の「朝」の字は、もう輪郭だけだ。

 あと二度。

 そのとき、スマホが震えた。灯からだ。

 野火が、ホールにいる。

 凱は上着を羽織って飛び出した。夜明け前の冷気は軽く、街は削除される四日前の顔で静かにしている。

 ホールの扉を開けると、ステージに赤いランプが一つ点っていた。

 野火は客席の真ん中に立ち、誰もいない聴衆に穏やかに言った。

 「条件を、もう一つ」

 凱は足を止める。

 野火は振り返らない。「あなたたちの注記は、よくできている。固有を守り、影響を狭め、例外を明記する。校閲の観点でも高得点です。だからこそ、最後に確認しておきたい」

 「何を」

 「注記は、誰も傷つけない——と私が言ったとき、あなたは苦笑した。正しい。誰も傷つけないことは、ほぼ不可能です。だから、条件を修正します」

 野火はゆっくりと、演台の上に紙を置いた。

 「痛みを、明記して下さい。痛みの所在を、注記に含める。それを読み、納得の署名を集める。注記は、合意を持って世界に提出される」

 凱は息を飲んだ。

 痛みの所在を明記する注記。

 そこに名を書く人がいる。痛む人に名が戻る。

 彼は、うなずいた。

 「やってみる」

 野火ははじめて、振り向いた。

「それができれば、四十八時間の先を、私は申請できます」

 「あなたは敵じゃないんだね」

 「私は校閲官です。誤植を減らす係」

 そう言って、彼女は小さく笑った。笑顔は、職務の一部ではないけれど、必要なときだけ紙に書き足される。

 凱は、灯の顔を思い浮かべた。彼女はきっと、痛みの欄に、最初に自分の名前を書く。そういう人だ。

 だめだ、と彼は即座に首を振る。彼女の名前は削りたくない。

 削るなら、先に消えかけている名前からだ。

 彼は胸ポケットの学生証を取り出し、もう一度だけ見た。

 「朝倉」の「朝」は、ほとんど白紙。

 「凱」は、輪郭が風にさらわれている。

 あと二度。

 世界の余白は、まだ白い。

 彼は、舞台の薄い明かりの下で、鉛筆を走らせた。

 商店街の提灯の注記に付記——夜間の明滅で眠れない者がいる場合、屋根裏に遮光板を取り付ける。施工費の三分の二は商店会が負担し、残りは注記提出者(朝倉)と署名者で等分する。

 痛みの所在。

 痛みの分担。

 合意の署名欄に、最初の名前を置く。

 朝倉——

 線を引く。

 輪郭だけになった名は、紙の上では、まだ線だ。

 灯が横に座り、黙ってうなずいた。

 「大丈夫」

 彼は笑う。「僕のことは、君が覚えて」

 灯は首を横に振った。「私だけじゃ足りない。だから、みんなに“覚える場所”を作る。版面は、記憶のためにもある」

 彼らは、握手した。

 指先の熱は、印刷前の紙を温める小さな灯油ストーブみたいだった。版は乾く。乾いた版は、次の頁を受け取れる。

 外で、朝が始まる。

 四十八時間の砂時計が、静かに落ち続ける。

 凱は鉛筆を握り直した。

 固有を守る注記。

 痛みを明記する注記。

 そして、名のない書き手の、最後に残った二度。

 書けるうちは、書く。

 読めるうちは、読む。

 街が「白舟」であり続けるために。

 彼は、次の行を準備した。

 主語を明確に、名詞を固有に、動作を限定的に。

 三点を満たし、句点を打つ準備をする。

 紙の余白は、まだ、真っ白だ。

 世界は、こちらの一行を待っている。

 そして、舞台袖から、野火の声が聞こえた。

 「開始十分前です」

 公開討議の二日目が、始まる。

 凱は頷き、灯と目を合わせた。

 行こう。

 行って、書いて、残そう。

 誤植ではない言葉で、白舟の名を。



第4話 市民アーカイブ作戦


 削除日まで、残り四十八時間。

 時間の針が、音を立てずに動いていく。時計の秒針よりも確実で、息をするたびに“白舟”の余白が削れていくような気がした。


 その猶予を、凱たちは「作戦」に使うと決めた。

 街を、一冊の本にする。題して「白舟注記抄」。


 アーカイブ室の机の上に広げられたのは、真新しいA3の大判紙。白地がまぶしい。灯は定規で線を引き、さくらはカメラを構え、パン屋の夫妻と造園師、子どもたち、市民たちが鉛筆を手に取った。

 “街の動線、光源、音、匂い、呼称”——それらを、図と注記でマッピングする。

 凱は言う。「これは記録じゃない。世界に“白舟”という版面を焼きつけるための、印刷だ」


 作戦の肝は三つあった。


 一つ目は「同時刻記述」。

 削除の瞬間——つまり“0:00”に対抗して、“人間の同時”を作る。

 指定時刻は明日、午後七時〇〇分。全員がその分に、自分の目で見た“白舟”を紙に書く。誰がどこで何をしていてもいい。同じ時間に記される注記は、街の呼吸を一つにする。


 二つ目は「痛みの配分」。

 注記が誰かの不利益を生む場合、必ず“補償注記”をセットで書く。

 たとえば、「通学路の車両制限→商店会の集配時間に特例窓を設け、青年部が手積み支援」。

 犠牲の上に成り立つ便利さを、数字と条件で均す。白舟という名を誰かの犠牲に預けない。


 三つ目は「名の継承」。

 地図から消える可能性のある固有名詞には、“余名よめい”を付ける。

 たとえば「古井川橋」は、「余名:ふるかわはし(旧白舟橋)」と。

 誰かが口にするたび、別の形で残るように。


 その夜、駅前に光が戻った。

 さくらは“注記撮影所”を開く。通行人の「お気に入りの白舟」を撮り、写真の下に注記を添える。

 「夕焼けのパン屋の匂い」「図書館の時計が五分遅れてるときの安心感」「古井川の風が洗剤の匂いを運んだ日」——みんな、短くて、具体だ。

 パン屋の夫妻は夜通しで仕込みを続ける。胡桃の在庫は尽きかけているが、市民に呼びかけた。「余ってる人、三粒だけでも構いません。白舟パンを焼くために」。

 造園師は桜並木の根元に小さなタグを打ち、起点と終点に“余名札”を括る。「旧白舟の桜一号」「終点・西の枝」。


 灯は地図を広げ、参加者の注記を一つずつ配置していった。

 線と線が交わるたびに、街が立ち上がる。

 「ほら見て」

 指先が紙の上を滑る。「この光の線、駅前から古井川まで、全部つながってる。白舟は、ちゃんと一枚の版面になってる」

 凱はうなずいた。息をしている街。紙の上で、確かに。


 その頃、監査課の野火は庁舎の屋上にいた。

 遠くに灯る駅前の光を見つめ、静かに腕を組む。

 彼女は白舟の削除に反対できない立場にある。だが、内心では“白舟”という語を雑に消そうとする上層部の処理方針に、職業的嫌悪を抱いていた。

 誤植を憎む人間にとって、白舟の削除は“誤字訂正”の暴力だった。


 「校閲官としての私が、黙ってていいの?」

 夜風に消えるような声でつぶやく。答えは風の中に落ち、誰も拾わなかった。


     *


 翌日、午後七時が近づく。

 図書館の地下では、紙の束が積み上がっていた。

 凱は震える手で最終版面に取りかかる。紙の隅には灯が引いた赤い罫線。中央には“白舟注記抄”の題字。

 筆圧が強い。指先の血の気が薄れる。

 「凱、休んで」

 灯が背中をさする。手のひらの温度が、皮膚の奥に染み込む。

 「あと少し。僕が書けるうちに、書いておきたい」

 彼の声はかすれていた。

 学生証を取り出すと、「朝倉」の“倉”が消えている。母が呼んでも、声が途中で途切れる。

 名前の残量が、残りわずか。


 灯は眉を寄せた。「あなたがいなくなったら、私があなたの余名を書く」

 凱は微笑んだ。

 「僕に余名は要らない」

 「どうして」

 「僕は、白舟の余名に溶ける。僕が消えたあと、白舟が残っていれば、それでいい」

 灯は言葉を失い、ただ彼の背をさすり続けた。


     *


 深夜一時、街がざわめいた。

 スマホの通知音が一斉に鳴る。SNSのタイムラインが、荒れていた。

 《注記は詐欺》《白舟を盾に利権化》《青年部が特権を独占》

 真っ赤な文字と怒りの絵文字が、無数に流れた。

 パン屋の呼びかけで始まった“青年部による手積み支援”が、いつの間にか“裏口特権”として誤解されていた。


 駅前に怒号が響く。

 凱と灯が駆けつけたとき、数人の男がパン屋に詰め寄っていた。

 「裏で利益取ってんだろ!」

 「俺らだって白舟市民だぞ!」

 さくらが間に入ろうとして、手からカメラを落とした。レンズが地面に当たり、砕ける。

 破片が散り、ストロボの残光のように“光の記憶”が空気に漂った。


 凱はその破片を拾い上げた。

 掌の上で、微細なガラスが月光を反射する。

 彼は息を吸い込み、鉛筆を取り出して書く。

 『デマ』の語は、白舟の外では“誤解”へ置換。外部への敵対語を中和。


 書き終えると、風がすっと変わった。

 荒れていた声が、次第に低くなり、誰かが呟いた。「……じゃあ、誤解、だったのか」

 怒鳴り声は問い直しへと変わり、パン屋の妻が泣きながら頭を下げた。

 世界が、わずかに滑らかになった。


 代償は、重い。

 凱は胸ポケットの学生証を見た。「朝倉」の“倉”が完全に消えていた。

 母の声が遠ざかる。電話をかけても、呼び出し音しか鳴らない。誰も出ない。

 灯が泣きながら叫んだ。「もう、やめよう! ここまでやった。十分だよ」

 凱は首を横に振る。

 「十分は、“まだ間に合う”って意味だ」

 その声に、灯の泣き声がかぶさる。

 「間に合っても、あなたが消えたら意味がない!」


 彼は笑った。

 「意味は、残るよ。僕の名前より、白舟の方が先に意味を持てば、それでいい」


 灯は俯いたまま拳を握りしめる。紙に涙が落ち、インクが滲む。

 凱は最後の一枚——真っ白な余白を取り出した。


 どこに、最後の一文を置くか。

 それが、勝負を決める。


 彼はゆっくりと鉛筆を走らせる。

 白舟の定義。

 それは、地理でも行政でもない。


 ——同じ時間に息をした人間の集まり。


 書き終えた瞬間、風が止んだ。

 街全体の電灯が一瞬だけ明滅し、そして、静かに灯りを取り戻す。

 駅前の電光掲示板が、一秒だけ真っ白に染まり、再び点灯したとき、そこに映っていた文字はただ一つ。


 〈白舟、記録中〉


     *


 夜明け。

 灯はアーカイブ室の机で、眠るように倒れた凱の肩に毛布を掛けた。

 鉛筆は彼の指の間で止まっている。

 紙の上には、彼の筆跡。

 “白舟注記抄”の最後のページに、かすれた線が残っていた。

 ——「朝」だけが、読めた。


 灯は静かにその隣に、もう一行書き加えた。

 朝、白舟は確かに存在した。


 外で、最初の通学チャイムが鳴る。

 その音も、彼の書いた“動線と音源”の中に、すでに記録されている。

 白舟の地図は、確かに完成していた。

 名前の消えた書き手とともに。


 ——「白舟」は、生きている。


第5話 0:00の校正刷り

 削除予定の夜が来た。

 街は取り決めに従い、真夜中の一分前に一斉消灯する。白舟の住民掲示板には、昼のうちから同じ文面が貼られていた。

 削除の一分前、灯を消してください。

 見えなくするためではなく、見えるものだけを残すためです。

 通りのガラス面には、店主たちが貼った手書きの付記も揺れている。

 返却箱の位置はそのまま。

 パンは夜焼きに切り替え済み。

 桜の根本タグは取り外さないこと。

 午後十一時五十九分。

 駅前のアーチの電球が、最後の呼吸をして消えた。商店街の赤い提灯がふっと暗くなり、住宅の窓が連鎖で黒くなっていく。

 暗闇の中で、カーテンの隙間からこぼれる、ごく小さな光がいくつも残った。スマホの通知。懐中電灯。魚の保温器。受験生のスタンド。誰かが誰かの名を呼ぶみたいに、細く、確かな白い点。

 そのすべてが、この街の最後のモールス信号だった。

 市外環状線の非常駐車帯に、白い監視車が停まっている。

 監査課のロゴ。中には緊急電源と衛星回線、官報送信系統の端末。

 氷見野火は、官報の校了用デバイスにサイン欄を呼び出しながら、指先を握った。

 震えを止めるためではない。震えが、そこにあると確かめるためだった。

 同僚が言う。「定時どおりでよろしいですか」

 野火は首を振らない。「最終確認をする。白舟の版面を、最後まで見る」

 彼女の視線は端末ではなく、暗闇の彼方に向いていた。街の黒の奥で、確かに光る点。誰かの小さな灯り。あれを誤植と言うのは簡単だ。けれど、簡単な言葉で片付けるたびに、世界は雑になる。

 図書館の地下、市民アーカイブ室。

 凱と灯と三原、さくら、そして集まれるだけの市民が、壁一面に貼り出された白い版を前に立った。

 初めは一枚のA3だった紙が、増刷、追記、差し替えを重ね、いまや壁を覆い尽くす校正刷りになっている。

 同時刻記述の付箋がびっしり貼られ、補償注記は赤い糸で結ばれ、痛みの所在は署名と一緒に段落の下に記された。

 灯が最後の貼り位置を見直し、三原が付箋の角を押さえ、さくらが歯を食いしばって新しいカメラのピントを合わせる。レンズは中古だ。さっきまで工房の片隅に眠っていた。

 凱は深呼吸した。

 胸の奥で、名前の残量が砂時計みたいに減っているのが分かる。学生証は半透明になり、クラスの名簿では十五番の数字だけが島のように残っている。

 彼は壁の中央に空けておいた細い余白に、手を伸ばした。

 ここが、最後の行の場所だ。

 灯が、背中に手を置く。

 「息を、揃えよう」

 「うん」

 凱はペン先を紙に乗せ、書いた。

 白舟——同時に息をした人間たちの名前。その総体。

 ペン先が止まる。インクが紙に染み、行は句点で結ばれる。

 その瞬間、アーカイブ室の壁がきしんだ。

 紙面が、世界へ滲む。

 遠くの地下水脈に染みこんだインクがゆっくりと地表へ浮かぶみたいに、白い版の密度が、現実側へ滲出する。

 外で、風が変わった。

 午前零時。

 削除の風が、街に吹き込む。

 路地の看板が白紙になる音がした。プラスチックの表皮を剥がしたときの、乾いた、軽い音。

 道路標識の青が薄まり、家の表札の墨が一層淡くなる。

 遠くで犬が吠え、その名前だけが一瞬、遅れて届いた。

 監視車の端末に、官報の配信タイムバーが表示される。

 野火は眉を寄せ、端末の上で指を止めた。

 「まだ校了前」

 彼女は思わずドアを開け、夜風の中に出た。

 深く冷たい空気に、胸の奥の熱がぶつかる。

 「保留スタンプを」

 助手席の同僚が差し出したデジタル印を受け取り、彼女は官報の余白に、保留の文字を重ねようとした——が、送信ログがわずかに先を行っていた。

 官報は、すでに流通に乗り始めている。

 野火は奥歯を噛み、小さく吐息を漏らした。

 遅かったのではない。世界の方が、焦っている。

 アーカイブ室で、三原が声を上げた。「外、看板が消えてく」

 さくらはレンズを覗く。「駅前はまだ、輪郭だけ残ってる」

 灯は版面の上で指を走らせ、注記のつながりを確かめる。「動線は生きてる、匂いも、呼称も。まだ持つ」

 凱は頷き、壁から身を離した。

 「行く」

 「どこへ」

 「旧桟橋」

 「どうして」

 「白舟の名が初めて刻まれた場所だ。そこに、余名が括ってある。あれを、使う」

 灯は立ち上がりかけて、足を止めた。「私は版を守る。あなたは、行って」

 彼女の両手は紙の端を押さえ、涙の痕で光っていた。

 「戻ってきて」

 「うん」

 凱は駆けた。

 階段を二段飛ばしに上り、夜の広場を抜ける。

 街灯は消えているが、道は身体が覚えている。

 右の曲がり角はトカゲ、左は駄菓子屋の匂い、直進すると古井川へ出る。

 この街は、彼の足の裏の地図をまだ消していない。

 旧桟橋へ出ると、川面から薄い白が立ち上がっていた。

 欄干にくくり付けた余名札が、風に鳴る。

 小さな木札に、平仮名で書かれた読み。

 し・ら・ふ・ね。

 木札の鳴りが、拍を刻む。

 その拍が、彼の名の剥落と同期しているのが分かった。

 朝倉凱、という名の線が、心臓の鼓動とズレ始めている。

 彼はポケットからメモ用紙を取り出し、ペンを握った。

 残っている画数を、街へ渡す。

 その覚悟を、息に混ぜて吐き出す。

 朝を、譲る。

 白舟の朝は、旧桟橋の東側から始まる。

 最初のパンの匂い、川の向き、風速。川面の光は五時台に最初の筋を作る。

 倉を、譲る。

 白舟の倉は、市民アーカイブ室の地下にある。

 書棚の番号、鍵の位置、湿度。開室時は必ず二人以上で入室し、退室時は声に出して確認する。

 凱を、譲る。

 白舟の凱は、勝ち名乗りではなく、呼び合いのことを言う。

 見つけた者が見失った者を名で呼び、名で応える行為を指す。

 ペン先が少し震えた。

 紙の白が、灯りに見えた。

 風が橋を渡り、余名札が鳴る。

 し・ら・ふ・ね。

 鳴るたび、彼の名から一本ずつ線が抜ける。

 朝の月が欠けるみたいに、倉の箱が空くみたいに、凱の勝ち名乗りが誰かの声へ渡っていくみたいに。

 耳の奥で、微かなチャイムが鳴った。

 時間ではない。世界の校正が進んだ合図だ。

 看板の白は、地の白になった。

 それでも、手書きの名前が浮かび上がる。

 紙の上で統一された字形が、そのまま看板に乗ったわけじゃない。バラバラな手が、バラバラな速度で、同じ名前を書いた。それらが重なって、輪郭ができた。

 監視車の中で、野火が官報の画面に赤を入れた。

 削除から改版へ。

 たった一字の違い。けれど、結論は変わる。

 削除は跡を消す。改版は跡を残す。

 彼女はサイン欄に名前を打ち込む前に、ほんの短い時間だけ、画面から視線を外した。

 夜風が、白舟の方向から金属の匂いを運んで来る。川の欄干の匂い。工具の匂い。

 野火は、自分が校閲官である以前に、白舟に二度来たことがある女であることを思い出した。

 表向きの仕事は退避誘導だ。だが、退避の言葉を無傷のまま世界に投げるとき、誤植は増える。

 彼女は迷いをぜんぶ畳むみたいに、赤を重ねた。

 改版。

 送信。

 桟橋の上で、凱のスマホが震えた。

送信済の文字列が、空気の中の線をわずかに太くする。

 街の輪郭は完全には抜けない。

 看板に残った白は地の白になり、その上から各々の手が書いた名前が浮かんだ。

 偏差値のない字。

 でも、読み方はひとつだ。

 息が上がった。

 胸が苦しく、視界の外側が黒くなった。

 学生証はついに透明になり、光を反射しなくなった。

 クラス写真の自分の顔は、背景に溶けた。

 それでも、灯の声だけが、はっきり届いた。

 「凱!」

 橋の袂から、駆けてくる足音。

 彼女の靴音は、白舟の動線にもう記録されているから、聞けばどこにいるか分かる。

 彼は振り返った。

 灯の目が光っていて、頬が濡れていた。

 「戻ってきてって言ったのに」

 「戻ってきたよ」

 「消えかけてる」

 「消えるのは、僕の字の方だ」

 彼は笑った。

 笑い方は、もう完全じゃなかった。

 けれど、笑いの意味は、灯には届いていると分かった。

 最後の注記を書く場所を、探す。

 紙のどこでもない。

 世界の、どこかの余白。

 凱は、灯の指先を見た。

 震えている。

 震えが、ここにあると確かめるための震えだ。

 彼は、メモの端に、小さく書いた。

 灯のいる場所を白舟の中心とする。

 その瞬間、風向きが変わった。

 川面の光の向きがわずかにずれ、旧桟橋の東側に、地図にもインクにも載っていなかった小さな点が生まれた。

 駅前の案内板は真白のままなのに、歩いていく人々の足が自然にその点を通る。

 地図アプリはエラーを出す。

 だけど、間違えない。

 中心は、そこだ。

 灯が立っている。

 図書館の地下では、壁一面の版が一度だけふるえ、定着した。

 紙の端が反り返り、糊が乾き、赤い糸がピンと張った。

 同時刻記述の付箋には、七時〇〇分の息遣いが並んでいる。

 補償注記には、署名と痛みの所在が並び、その末尾には、見慣れない字形がいくつか混じっていた。

 子どもの字。老人の字。

 そして、薄くて読みにくい字。

 朝倉、の、朝。

 それは灯の手で、横に注記された。

 朝、白舟は確かに存在した。

 監視車の端末で、官報の電子版が更新される。

 最新版の見出しに、野火は一瞬、目を閉じてから視線を落とした。

 白舟市——改版。

 改版の欄には小さな注釈がついている。

 位置情報の微修正、表記ゆれの統一、固有呼称の補遺。

 削除の欄は、空白だった。

 彼女は胸の奥に小さな痛みを見つけ、それに名前を付けた。

 安堵。

 けれど、終わりではない。校了はつねに次の版の始まりだ。

 桟橋で、灯が凱の手を握った。

 「戻ろう。紙、乾く前に」

 「うん」

 歩き出すと、欄干の影が川面に五本落ちた。

 白舟の定義は、もう紙だけのものではない。

 呼び合いの声が、住宅の隙間から何度も返ってきた。

 ねえ、いる?

 いるよ。

 呼ばれた名に、応える声。

 それが白舟の凱だ。

 勝ち名乗りではない。

 確かめ合いの声だ。

 図書館に戻ると、三原が親指を立てた。「持ったぞ。紙、落ち着いた」

 さくらが新しいカメラで、完成した壁面を撮る。

 シャッター音が、以前よりも軽い。けれど、写ったものは軽くない。

 灯は壁の中央に立ち、目を閉じた。

 凱は隣に立ち、壁に触れず、空気だけを撫でた。

 自分の名の輪郭が、完全に消えたのが分かった。

 でも、消えたからといって、いなかったわけじゃない。

 灯が覚えている。

 街が覚えている。

 紙が覚えている。

 午前零時一分。

 街は消えなかった。

 ただ、別版になった。

 地図の上で、白舟は微妙に位置をずらし、旧桟橋の東に小さな点を得た。

 官報の電子版はそれを追認し、検索サイトの地図はしばらく困惑し、そして、ゆっくり追いついた。

 誰かが言った。「ここ、前からこうだったっけ」

 誰かが笑った。「前から、こうだったんだよ」

 野火は監視車の窓にもたれ、夜明けの色を見た。

電話が鳴る。上席だ。

 「やったね」

 上席の声は冗談めかしている。

 「やりました。改版です」

 「責任は」

 「私にあります。校閲官として」

 短い沈黙ののち、ため息が返ってくる。「書類を回しておく。現場は解散していい」

 通話が切れると、野火は静かに笑った。

 笑顔は職務の一部ではない。けれど、必要なときだけ紙に書き足される。

 彼女は助手席の同僚に「コーヒー」とだけ言い、鞄から一本の赤ペンを取り出した。

 ペン先は、まだ熱を持っている。

 誤植は、これからも減らせる。

 アーカイブ室では、灯が椅子に座り、細い声で囁いた。

 「おはよう」

 凱は答えた。

 「おはよう」

 朝は、旧桟橋の東側から始まる。

 その注記は、もう街のものだ。

 彼の名の朝ではない。

 白舟の朝だ。

 パン屋の裏口から、甘い匂いがした。

 ドアが開き、白舟パンが焼き上がる。

 胡桃三粒。欠品時は焼印の裂け目が左に一つ。

 焼き立ての紙袋に、鉛筆で短く書いてある。

 余名:朝のパン。

 凱は、笑った。

 ちゃんと、うまい。

 灯も笑った。

 ちゃんと、ここだ。

 さくらが写真の裏に小さく書き添える。

 時刻〇〇:〇一、風向き南。改版後、最初の一枚。

 三原がペンを取り、署名欄の最後に名前を置く。

 固有の重さは、紙を通して、世界に渡る。

 今日、白舟は、確かにここにある。

 凱は壁の版を見上げ、目を閉じた。

 呼ばれれば、応える。

 それで充分だ。

 灯の手の温度が、もう一度、背中を押した。

 作戦は終わりではない。

 版はつねに、次の版を呼ぶ。

 呼び合いは続く。

 白舟の校正刷りは、今夜もまた増刷される。

 彼は、静かに息をした。

 同時に、街も息をした。

 同時に、名前たちが息をした。

 世界は、少しだけ読みやすくなった。

 その読みやすさのぶんだけ、誰かの痛みは行の下に注記され、署名が添えられた。

 それでいい。

 それがいい。

 壁の余白は、まだ残っている。

 次の一行の場所は、灯が知っている。

 凱は、彼女を見る。

 彼女は頷く。

 行こう。

 行って、書いて、残そう。

 誤植ではない言葉で、白舟の名を。



第6話(終) 余白に残る名前


 朝のニュースは、言葉を探していた。スタジオの明かりはいつも通りだったが、アナウンサーの目は台本とカメラの間で何度も往復する。テロップは短い文をいくつも試して、少しずつ形を変えた。


 白舟、削除回避

 白舟、再定義

 白舟、改版


 映像に映るのは、駅前のアーチと、旧桟橋の欄干と、図書館の外階段。どれも昨日までと同じに見えるのに、画面の奥の空気は、紙の匂いがする。インクの乾ききっていない感じ。言葉が世界に貼られたばかりの、わずかな湿り。


 監査課は午前九時、公式に声明を出した。担当の男性職員が硬い声で読み上げ、背後のボードには四文字が掲げられる。市民の模範的協力。退避誘導に反した行為は確認されたが、混乱の拡大はなかった、と添えられた文言が、やたらと長い。読み終わったとき、記者のひとりが「まとめると、どういうことですか」と問う。職員は丁寧に言い換えようとして、少しだけ詰まった。


 校閲官の氷見野火は、その頃、庁舎の小会議室で任意聴取を受けていた。机の上には、印刷した官報の最新版と、昨夜の送信ログ。野火は手帳を開き、赤ペンをペン差しから抜いて、紙の上に置く。赤い線は引かない。目はずっと相手を見ている。


 「あなたは中立に反した」


 「私は誤植を減らしました」


 「削除を改版に書き換えましたね」


 「はい。削除よりも正確だと判断しました」


 「正確の基準を、あなたが決めた」


 「基準は私ではありません。現に、街は存在しています。名の扱いは、正しいほうへ寄せるべきです」


 淡々としたやりとりは、十分で終わった。処分は減給。職は続行。紙には二重線が残る。二重線は誤りではなく、経過の記録だ。野火はペンを戻しながら、胸の中でひとつだけうなずいた。校閲官は、次の版を準備する役だ。ここで落ち込む時間はない。


     ◇


 学校に行くと、出席簿の十五番は空欄のままだった。担任はいつも通りに点呼し、十四の次は十六を呼ぶ。教室の空気は穏やかで、窓のほうから風が入る。廊下で誰かが走り、ドアの外側にひとつだけ白い消しゴムのカスが転がった。


 午前中の授業が淡々と進み、昼休み、灯は弁当を早めに食べてから図書館へ向かった。地下への階段を降りると、昨日の熱気が嘘みたいに静かだ。壁一面の「白舟注記抄」は、端から端まで乾いていて、赤い糸はゆるんでいない。机の上には、第二版の扉にする大きめの用紙と、新しい目次案。鉛筆を転がす音が、よく響く。


 表題はもう決めてある。白舟注記抄・第二版。副題は、未定。揺れている候補の紙片を指でつまんで、灯はひとつずつ読んだ。固有の記録。痛みの所在。同時刻記述。余名と継承。どれも大事だが、扉に乗せる言葉には慎重でいたかった。


 階段の上から、足音が降りてくる。最初は遠く、次第に近い。テンポは少し早めで、途中の段で一回つまずき、すぐ立て直す足運び。灯の耳が反射的に音の意味を拾う。図書館に通い慣れている人の歩調。急がない人の急ぎ方。


 見知らぬ男子が、入口に立っていた。制服のジャケットのボタンは留めていない。髪は昨日の風で乱れて、直した形跡もない。顔はやせていて、目はよく笑う形をしているのに、いまは笑っていない。彼はぎこちなく笑ってから、会釈した。


 「配達です。パン」


 言いながら、肩のバッグから紙袋を二つ取り出す。白舟パンの焼印が入った袋。胡桃の焼印が右に二つ。昨日決めた“欠品時の代替印”のルールに沿っている。灯が「ありがとう」と言って受け取り、袋の底の熱が掌に移る感触を確かめる。袋には鉛筆で小さく時刻が書いてある。十一時四十七分。焼き上がりの時間は、注記に近い。


 男子は机の端に袋を置き、辺りを見回した。壁、版面、赤い糸、扉。目が迷わずに、扉に止まる。そして、何も言わない。かわりに、ペン立てから鉛筆を一本抜き取り、刃先を親指でなぞる。握り方が安定していて、筆圧を親指の爪の色で調整しているのが分かる。余白を見てから、書く場所を決める癖も、灯は見ていた。


 凱だ、と灯は気づいた。立ち方。ペンの持ち方。余白の捌き方。何より、ここに立っているときの呼吸。名はない。けれど、名のないところで残るものを、灯は知っている。


 「ありがとう。助かる」と灯が言うと、男子は頷いた。ひとつひとつのうなずきに、音が乗っている。ささやかな返事の代わりに、目の奥が柔らかくなった。


 灯は彼のための注記を書こうとした。余白に、細い字で。朝倉凱、ここにいる、と。でも、手が止まる。紙面の上で、鉛筆の先が震えて、白地にかすかな傷だけが残る。


 これは、彼の喪失をきれいに並べてしまう注記になりかねない。誰かの代償を、物語の飾りにしてはいけない。紙の上に誰かを美談として固定することは、書き手に「そうであること」を強いる。灯は鉛筆を置き、扉のほうに向き直った。


 扉に、一行を書く。彼のためだけではない言葉。ここにいる“私たち”のための言葉。


 この本は、ここにいる私たちの本で、誰か一人の犠牲の本ではない。


 書き終えてから、灯は指で紙の端を押さえた。紙は少し反ったが、元に戻る。男子はその文を読んで、ゆっくりと笑った。名のない笑顔。けれど、呼ばれている顔。


     ◇


 午後、庁舎の裏口で野火が息を吐いた。制服ではない。柔らかなニットに、細いストライプのスラックス。髪は後ろでひとつにまとめ、うなじは風に冷えている。昼の光は、庁舎の壁の白さを強調する。


 図書館へ行くと、灯が階段の上に立っていた。動きやすいスニーカー。ポケットに入っている鉛筆が四本。一本は短く、一本は硬く、一本は柔らかく、一本は今日の色。野火を見つけると、灯は一瞬だけ驚いて、そのあとで微笑む。


 「来ると思ってました」


「処分は減給。でも、仕事は続けます。誤植を憎むのは、私自身だから」



 「誤植って、そんなに悪いですか」


 野火は少し考え、言葉を選んだ。


 「悪い。“間違い”が悪いんじゃない。“雑さ”が悪い。名を雑に扱うのは、世界への犯罪です。人の名前でも、街の名前でも、写真のキャプションでも」


 灯は頷いた。胸の奥の何かが、野火の言葉で位置を得る。編集という仕事が、誰かの代わりに世界の雑さを受け取って、言葉の面取りをする作業だと、体が理解する感覚。


 「第二版、手伝いますか」と灯が言うと、野火は少しだけ笑って首を振る。


 「校閲官は、著者にならないほうがいい。あなたが書いて、私が後で赤を入れる。仕事はそういう距離にしておくほうが、次の版にとって健全です」


 灯は笑って、階段を降りた。野火は踊り場に残り、手すり越しに壁の版を眺める。いくつかの行に小さな二重線がある。昨夜の焦りの跡だ。焦りの跡を消さないのは、いい。誤りを残すことで、正しさの色が濃くなる。彼女は胸ポケットに指を入れて、赤ペンを確認する。今日は線を引かない。今日は、読むだけ。


     ◇


 夕方、市民がまた集まった。商店街の裏側、小さな広場。パン屋の奥から甘い匂いがし、豆腐屋の軒先で水が落ちて、子どもがそれを手のひらで受ける。造園師が軽トラから苗木を一本降ろし、土を掘る。地面の匂いは、朝よりも湿っている。さくらは新しいレンズに慣れてきて、構図を作るのが早くなった。夕暮れの虹が薄く出た。駅前のバス停と、薄く濡れた路面の視線の角度が合うときにだけ現れる、短い弧。


 パンの胡桃は四粒になった。市外の知人が持ってきてくれた。袋には丁寧な字で「余名:朝のパン」と書かれている。欠品の代替印は右に二つ。焼印の裂け目は昨日よりもはっきりして、子どもが指でなぞって笑う。造園師は植えた苗の横に小さな札を立てる。余名:あとから来た桜。さくらは虹を撮り、キャプションを付ける。時刻十七時五十二分、風向き東。路線一三二の発車後。写り込みに個人特定情報なし。


 灯は広場の隅で扉紙の最後の調整をして、最後に一行だけ書いた。行間を広く、右側の余白を大きく残す。書かないことを、書く。


 白舟の余白は、これからも開いている。


 書いたあと、灯は鉛筆を置き、深呼吸をした。胸の中の紙が、ふくらむ感じ。男子は少し離れたところで、パンの配達を手伝いながら、その一行を見て笑った。名前がない。けれど、呼ばれている気がする。新しい名前ではなく、誰かが心の中で呼ぶ音の方向に、体が向く。視線が合う。彼は軽く片手を上げ、灯も同じように返した。


     ◇


 夜、旧桟橋の東の点に、灯は立った。昼間よりも風が強い。川面かたまり、欄干の影が長くなる。点は地図にはまだ小さく、それでも足は迷わない。昨夜に決めた中心。呼べば、返る場所。


 灯はそっと囁いた。


 凱。


 名前は風にほどけ、余白に吸い込まれる。耳ではなく、胸で聞こえる。吸い込まれたものは、喪失ではない。共有だ。灯は目を閉じ、昨夜の紙の手触りを思い出す。乾く前のインク、赤い糊、付箋の角。紙の上にあった彼の線は、もうどこにもない。けれど、線が通っていた場所は、まだ温かい。


 背中で小さな足音が止まる。誰かが桟橋に上がってきた気配。振り向かない。振り向かなくても、分かる音。そこにいるだけで、呼応が生まれる距離。


 灯は、ポケットから小さな紙片を取り出した。余名の札だ。今日書いて、誰にも見せなかったもの。裏に短い注記を書いてある。誰かに読み上げてもらうためではなく、自分のために。


 余名の取り扱い。余名は、本人の不在を飾るために使わない。余名は、名前を呼ぶ練習のために使う。余名は、忘れたときの合図で、忘れないためのごまかしではない。


 紙片を胸に戻し、灯は深く息を吸った。川の匂いは鋭く、風は少しだけ暖かい。街の灯は昨夜よりも明るい。きっと、同時刻記述のせいだ。同時に息をするための練習が、別の同時を呼ぶ。誰かがふざけて、誰かが怒って、誰かが譲って、誰かが笑う。その並列の中に、凱の立っていた場所が、薄い影になって残っている。


     ◇


 翌日、第二版の校正が始まる。灯は編集台の前に座り、見出しの大小、本文の字間、余白の幅、脚注の配置を決める。ページ数の都合で泣く泣く削る行も出たが、削った行を「削除」扱いにはしない。巻末に「落丁拾録」として残す。拾録の先頭には、昨夜の一行だけを載せた。


 灯のいる場所を白舟の中心とする。


 巻末のページに置かれたそれは、本文より小さな活字になり、紙の端に寄っている。その遠慮深さが、かえって意味を濃くする。中心は、誰かひとりに固定されない。中心は、呼べば移動する。だから、巻末に置く。


 野火は午後の休憩時間に図書館へ顔を出した。カウンターで貸出カードを書いている職員に軽く会釈してから、地下へ降りる。灯は軽く手を挙げて迎え、野火は壁の前で立ち止まる。


 「雑さに抗う編集」と灯が言うと、野火はうなずいた。


 「雑さは、放っておけば増える。熱が逃げるのと同じ。抗うのは、地味で、時間がかかる。だから、複数人でやるのがいい。ひとりの精度より、複数の継続」


 「続けられるように、版を軽くします。重い本は、二度と開かれないから」


 「そう。重い正しさは、読まれない」


 ふたりは顔を見合わせて笑う。笑いは短く、次の行の前に置くべきちょうどの長さ。


 野火はポケットから小さな封筒を取り出した。中には、昨夜の官報の余白から切り取った切片。裏に赤で小さく書いてある。


 削除から改版へ。校正者名:氷見野火


 「これ、あなたが持っていてください」と野火は言う。「私が持っていると、ただの仕事になる。あなたが持っていると、次の版の材料になる」


 灯は受け取り、封を確かめて、机の引き出しにしまった。引き出しの中には、余名の札がいくつも重なっている。札と札の間に、薄く空気が挟まって、紙が鳴った。


     ◇


 夕方の広場で、第二版の仮製本が配られた。コピー用紙を黒い背テープで綴じた簡易な冊子。表紙には「白舟注記抄・第二版」とだけある。副題はやめた。副題は、読み手が決める。各自の余白で。


 パン屋の夫妻がページをめくり、豆腐屋がページを指でたたいて読み、造園師が写真のキャプションの字体に感心する。子どもたちは「トカゲ」の項を探して、電柱番号のところに指を置く。運転手は時刻の欄を正確に指で追い、さくらは撮影場所の地図記号を自分のノートに写す。


 男子は配達の手を止めて、遠くからその光景を見ていた。呼ばれている気がする。名はないのに、呼ぶ声がいくつもある。今はまだ、返事をしない。返事の仕方は、もう知っているけれど、返すべき相手の数が多すぎて、順番が決められないから。


 灯は最後のページをめくり、余白を見た。右側が大きく空いている。そこに、今日の終わりの一行を置く。置くというより、少しだけ触れる。紙の上で、次の版の場所を予約するように。


 白舟の余白は、これからも開いている。


 彼女は軽く息を吐き、表紙を閉じた。紙の手触りは、昨日よりも安心する。冊子を胸に抱え、桟橋の方を見た。東の点は、まだそこにある。人影がひとつ。振り向かない。「いる?」と問えば、きっと「いるよ」と返る距離。


 夜になり、街の明かりが増える。昨夜と同じやり方で消され、昨夜と同じやり方で灯る。違うのは、灯す理由が少し増えたこと。カーテンの隙間からこぼれる小さな光のひとつひとつが、紙の上に座る場所を得ている。光に名前はない。けれど、呼ぶための言葉がある。余名という名札が、光の近くに置かれている。


 灯は旧桟橋の東の点に立ち、もう一度そっと囁いた。


 凱。


 風が返事をして、川が運ぶ。耳ではなく、胸で聞く。囁きは喪失ではない。紙の外の共有。灯は目を開け、夜の色を見渡す。版は世界だ。世界は版だ。けれど、版は刷り直せる。私たちが、何度でも。削除の線は、二重線にできる。二重線は、次の行への道になる。


 遠くで、監査課の車が一度だけライトを点滅させて去っていく。野火の赤ペンは鞄に収まり、次の現場へ向かう。広場ではパンが売れ続け、胡桃の焼印は今日も右に二つ。造園師は水をやり、さくらは三脚を畳み、子どもが「トカゲ」に小さなシールを貼る。呼び合いの声が、住宅の隙間でゆっくり巡回する。


 灯は胸の前で、薄い冊子を抱き直した。紙の重さは、ちょうどいい。ひとりで持てて、ふたりで広げられる重さ。背テープの手触りが指に残る。階段を上がる足音が、二人分。灯は振り返らない。振り返らなくても、分かる音。ここにいる人の歩調。


 帰り際、図書館の自動ドアが静かに開き、灯りが一度だけ強くなった。扉の横に小さな掲示がある。貸出時間、返却方法、閉館時の注意。掲示の端に、鉛筆で細い字が書き足されている。気づいた人にしか読めない大きさで、気づいた人だけが読めばいいように。


 呼ばれれば、応えること。応えられないときは、呼び続けること。名前は、名乗りと呼び合いでできている。


 灯はその一行を指先でなぞって、外に出た。夜風が頬に当たる。遠くで犬が吠え、少し間を置いて、名前を呼ぶ声が重なる。呼ばれた名に、応える声。白舟の凱の注記は、紙から離れて、街の空気に定着している。


 見知らぬ男子が、広場の端で片手を上げた。灯も片手を上げて返す。たぶん、明日も配達に来る。たぶん、明日も扉に一行が増える。たぶん、明日も誤植は出る。たぶん、明日も赤が入る。そうして、次の版ができる。


 白舟は、今日もここにある。

 余白は、今日も開いている。

 名前は、今日も呼ばれている。

 返事は、今日も届いている。


 世界は版だ。だが、版は刷り直せる。私たちが、何度でも。


 終。


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