第97話:潰走
北部戦線は――崩壊した。
指揮系統は断たれ、陣形は裂け、
統制は消えた。
残されたのは、
包囲をかろうじて抜けた者たちの、
泥を這うような敗走だけ。
「止まるな! 振り向くな!
生き残るんだっ!!」
叫びは冷たい風に散る。
背後で爆音が響くたび、
誰かの命が露のように消えた。
振り向いた兵の視界を、
巨大な黒い影が薙ぎ払う。
影が膨張し、
次の瞬間には兵の姿は呑み込まれていた。
悲鳴すら、残らない。
別の場所では、負傷した戦友を担いだ若い兵士が森へ駆け込んでいた。
「もう少しだ……あと少しで――」
地面から噴き出した蛇が、
その足首を容赦なく絡め取る。
倒れ込みながらも仲間を庇う。
だが、
降りてきた「影」に森の奥は沈み、
血の匂いだけが広がった。
包囲は、完成していた。
閉じた輪の内側。
立ち昇る黒煙の下に、
もはや「戦線」など存在しない。
あるのは掃討。
あるいは「処理」という名の蹂躙だ。
グローデンが歩くたび、
大地が沈み、
抵抗する兵たちが等しく踏み潰される。
盾も、魔術も、誇りすら、
そこでは何の意味も成さなかった。
そして、包囲の外側。
奇跡的に逃げ延びた者たちを待っていたのは――リシュヴァ。
彼女は影を広げ、
森そのものを魔力で侵食していた。
「あぁ、そんなに焦らないで」
無数の蛇が囁く。
「……恐怖っていうのはね、
一番に熟れた『その瞬間』を摘み取るのが、最高に美味しいのよ」
影が枝を縫い、
逃げる兵の足を一本ずつ摘み取っていく。
北部戦線は――この日、
地図から消えようとしていた。
♦︎
森の奥。
空間が裂け、
転移の光とともに悠真とセレスが転がり出た。
「はぁ……はぁ……ッ!」
セレスの顔は蒼白だった。
「……南西三十キロ圏内。
でも、まだ安全じゃない……」
言葉の途中で膝をつく。
魔力の消耗が激しい。
悠真は立ったまま、動かない。
遠く、空を汚す黒煙を見つめている。
「……終わった」
感情が削げ落ちた、空虚な声。
セレスは息を整え、顔を上げた。
「終わっていないわ」
静かに。
揺れはあるが、声は落ち着いている。
「北は崩れた。でも王都は残っている。
中央もまだ持ちこたえている。
戦争は、一箇所で決まるものじゃない」
理性的な声音。
現実を直視しながら、
切り捨てない言葉。
だが。
「北は壊滅したんだ」
悠真が遮る。
声は、ひび割れた鏡のように冷たい。
「兵も、陣地も、全部」
「……リィナも」
沈黙。
風が森を揺らす。
悠真の拳が、
白くなるほど震えていた。
「……助ける」
小さく。
自分に言い聞かせるように。
セレスはゆっくり頷いた。
「ええ。必ず助けるわ」
感情論ではない。決意として。
悠真はかすかに笑った。
壊れたように。
「でも、どうやって?」
返答できない。分かっている。
魔将二人。
完全包囲。
圧倒的戦力差。
現実は重い。
「俺のせいだ」
ぽつり。
「俺が止まったから。
俺が、弱かったから……!」
「違う!」
セレスが叫ぶ。
「あなた一人に背負わせるほど、
王国は軽くない。
あなたは止まってなんていない!
あなたは――」
言葉が詰まる。
「リィナは、捕まった。それが現実だ」
悠真の目が、
濁ったままセレスを射抜く。
「俺は……災厄だ」
セレスの呼吸が乱れる。
「それは因果を飛躍させすぎよ。
あなたが弱かったから捕まったんじゃない。敵が強かったからよ」
理屈は正しい。
だが届かない。
その瞬間。
森の奥で枝が折れる音。
セレスが顔を上げる。
魔力反応。複数。速い。
「……追ってきてる」
低い声。
「転移座標を読まれたわ」
影が木々の間を走る。
黒い気配。魔王軍の追撃隊。
執拗だ。狙いは明確、悠真だ。
「動いて!」
セレスが立ち上がる。
「もう一度跳ぶわ。長距離は無理。
でも刻めば逃げ切れる」
悠真は動かない。
足が地に縫い付けられたように。
「悠真!」
影が迫る。
矢が飛ぶ。
セレスが防壁を展開。衝撃が走る。
「……お願い、立って」
声が震える。
「今ここで止まったら、
本当に全部終わる」
悠真は動けない。
身体ではなく、心が。
リィナを置いてきた。
助けられなかった。
その事実が、足枷のように絡みつく。
「彼女が繋いだものを、
ここで断ち切るの?」
セレスの声が刺さる。
「あなたを生かすために、
あの子は残ったのよ!」
悠真の瞳が、揺れた。
脳裏に浮かぶ、遠ざかる彼女の姿。
(――信じてる。)
無音の言葉が、
胸の奥で火花を散らす。
蛇が幹を這い、牙が目前に迫る。
悠真は、
ゆっくりと拳を握りしめた。
まだ、何も決まっていない。
だが。
「……跳べ」
短く。
セレスが唱えると同時に、
光が走る。
影が食らいつく直前、
二人の姿は掻き消えた。
残されたのは、裂けた大地と、
執拗に匂いを追う黒い蛇だけだった。
♦︎
意識が浮上する。
冷たい、石の感触。
「……っ」
リィナは瞼を開けた。
薄紫の燐光が壁を伝う、
人工的な洞窟。
身体を動かそうとするが、
黒い蛇が四肢に絡みつき、
脈動しながら締め上げていた。
「……最悪」
小さく吐く。
声は震えていない。
恐怖はある。
でも、まだ飲み込まれていない。
「起きたのね」
甘い声とともに、
リシュヴァが現れる。
指先で蛇を撫でる。
「……暴れないで?
綺麗な表情が台無しよ。
……そう、今のその顔。
希望が死にゆく瞬間を……もっと近くで、じっくり堪能したいの。」
「拷問? それとも餌?」
リィナは弱さを見せず、
リシュヴァを睨みつける。
リシュヴァが笑う。
「どちらも違う」
一歩近づく。瞳が、楽しげに細まる。
「あなたは鍵よ」
リィナの背筋が冷える。
「……悠真を釣るため?」
「賢い子」
蛇が顎を持ち上げる。
無理やり視線を合わせさせる。
「あなたが壊れれば、あの子も壊れる。
あなたが死ねば、あの子は暴走する。
……どちらも、
最高に美しい結末だと思わない?」
リィナは鼻で笑う。
「残念。あいつは、そんな単純じゃない」
だが、内心は震えていた。
悠真の、あの空虚な目が離れない。
「そうかしら?」
リシュヴァの指が頬に触れる。冷たい。
「あなたが惨めに泣き叫ぶ姿を見せても……それでもあの子は、来ないのかしら?」
沈黙。
リィナは目を逸らさない。
「泣くわけないでしょ」
強がりではない。意地だ。
「……あいつは来ないわ」
静かに。はっきりと言い切った。
リシュヴァの眉が、わずかに動く。
「ほう?」
「これは罠。見え見え。
あいつはもう、戦場を背負ってる。
あたし一人のために、
全てを捨てるようなバカじゃない」
言葉にすると、胸の奥が軋む。
でも続ける。
「来ない。来させない。
それがあたしの役目」
蛇が締まる。
骨が軋む。
呼吸が削れる。
それでも、視線は逸らさない。
リシュヴァはしばらく黙っていた。
「……素敵」
指先が、額に触れる。
「でもね。来る来ないは、
あなたが決めることじゃないの。
それはあの子が決めること」
リシュヴァが微笑むと同時に、
壁面に転移式の紋様が浮かび上がった。
広域伝播魔法。
「あなたの“位置”は、
もう撒いてあるわ。
魔力の波長、血の匂い。
あなたが息をするたび、世界に滲む」
理解する。
狩りだ。
悠真を理不尽な選択に追い込み、
精神を削り殺すための。
「あの子が理性を失えば、それでいい。
来なくてもいい。
焦ればいい。迷えばいいわ」
リシュヴァは愉悦に肩を揺らし、
闇の奥へと歩き出す。
「――いい子で待っててね。
あの子と、
もう少しだけ遊んでくるから」
足音が遠ざかる。
闇が戻る。
静寂の中、
リィナは深く息を吐いた。
来ないで。来てほしくない。
でも――。
リィナは視線を落とした。
黒い蛇のような魔力が、
肋骨を軋ませるほど締め上げている。
息が吸えない。
視界が白く弾ける。
だが。
(違う)
本気で殺す拘束ではない。
締める力に、わずかな“余白”がある。
殺すなら、もっと速い。
もっと確実に潰せる。
なのに――
潰さない。
(ああ、そういうこと)
私は餌だから。
悠真を引きずり出すための。
なら。
私はまだ“使い道がある”。
蛇が締め上げる。
骨が軋む。
それでもリィナは、ゆっくり目を閉じた。
(利用してやる)
第97話、最後まで、ご覧いただき本当にありがとうございます。(^^)
リアクションd(^^) もたくさんいただいて嬉しいです! ありがとうございます!
次回は、
第98話『追尾の魔女』
後方。
影の中からその様子を観察していたリシュヴァは、薄く唇を吊り上げた。
「あらら? 消耗が激しいのかしら。
あんなに綺麗だった術式が、
見る影もないわね」
「……ふふ。このまま殺せちゃうわね」
───────────────
ブックマーク・評価していただけると、
更新の励みになります!
(ブックマークすると次回更新のお知らせが来て便利ですよ〜m(_ _)m)
感想やご意見もいつでもお待ちしています!
みなさんの声が本当に力になります。
よろしくお願いします。
次回もぜひお楽しみに!




