第67話: 伝説の魔物〈ガルザ=ヴェルグ〉
最初はかすかな羽ばたきのように聞こえていた羽音が、次第に低く、重く、谷全体を震わせる響きへと変わっていく。
セレスが喉の奥で息を吐いた。
「……嫌な予感しかしないわ」
リィナは弓弦を軽く指ではじき、
耳を伏せた。
「……だんだん大きくなってるにゃ。
この音、なに……?」
大地の奥から響く重低音が、
足の裏を叩く。
次の瞬間
――谷全体がはっきりと震えた。
雲が引き裂かれ、
断崖に反響する咆哮が空を割り裂く。
耳を塞いでも無駄なほどの轟音が、
猛烈な風とともに襲いかかった。
「グオオオオオオオ――!!」
霧が一気に吹き飛び、
谷の奥が露わになる。
夕陽を背負った超巨大な影が、
雲を裂いて現れた。
翼の輪郭が逆光に透け、
異様な長さと幅を誇示する。
遅れて巻き起こった暴風が岩壁を震わせ、
低くうならせた。
三人は言葉を失い、
ただその威容を目で追った。
現れた影は、これまでの飛行魔物とは格が違っていた。
翼を一度打つだけで風景そのものが歪み、岩の破片が宙を舞い、重力が狂ったように跳ね上がる。
――伝説の飛行魔物〈ガルザ=ヴェルグ〉
全長十メートルを優に超える黒灰色の巨躯。
鎧のように重なり合った硬質の羽毛、
竜を思わせる長大な尾。
谷の絶対的な支配者。
空と風の王。
「ああ……」
悠真は剣を強く握りしめた。
セレスも黙って頷く。
風が、まるで合図のように荒れ始めた。
「で、でかいにゃ……っ」
リィナの声が引きつる。
弓を握る手が、はっきりと震えていた。
ガルザ=ヴェルグは細めた黄金の瞳で三人を見下ろし、金属を削るような甲高い鳴き声を上げた。
そして――翼が力強く打ち下ろされる。
――暴風!!
崖上の岩がごっそりと削ぎ落とされ、
粉塵と破片が弾丸のように飛び散る。
一瞬で視界が奪われ、
三人を飲み込んだ。
「なんて風……っ!」
リィナの声が、風に裂かれて消える。
悠真は即座に前に出た。
「伏せろ!」
両腕を交差させ、
氷柱の盾を召喚する。
氷が軋みを上げながらせり上がり、三人を囲う半透明の防御壁を形成した。
暴風と岩片が容赦なく叩きつけられ、
氷が悲鳴を上げる。
次の瞬間、
ガルザ=ヴェルグが体をひねり、
巨大な尾で断崖を叩き割る。
ドオオオン!!
地鳴りが響き、足元が崩壊。
石が宙に舞い、消えていく。
「にゃあっ!」
リィナが跳ね退いた瞬間、
足場の半分が崩れ落ちた。
悠真はセレスの腕を掴み、
強引に引き寄せる。
「しっかり掴まれ!」
だが風はさらに激しさを増し、
視界は砂塵と霧で真っ白に塗り潰される。
「二人とも、俺が前に出る!」
リィナが矢を放つ。
暴風に踊らされながらも、
一本が怪物の顔面をかすめた。
――だが、効かない。
「……っ、浅いにゃ……!」
セレスは歯を食いしばり、
最後の力を振り絞って氷の礫を放つ。
凍結が翼を覆うが、ガルザ=ヴェルグは一振りでそれを粉砕した。
黄金の瞳が、
はっきりと三人を捉える。
翼が大きく広げられる。
風は竜巻と化し、岩壁を削りながら三人を崖縁へと押し流していく。
「やばい……にゃ……!」
セレスは歯を食いしばり、
魔法陣を素早く編み上げる。
風の流れをねじ曲げ、
崩れかけた足場を無理やり補強した。
しかし、ガルザ=ヴェルグはその努力を嘲笑うかのように、もう一度大きく翼を打ち下ろす。
――ドゴオオオオン!!
風が渦を巻き、防御壁の外側で岩が次々と宙に舞い上がる。
足元が削られ、三人はじりじりと追い詰められていく。
悠真は盾を維持したまま、
剣を強く握りしめた。
剣身に雷が走り、
周囲の空気が焦げ臭くなる。
「……くらえ!」
低く呟くと、
氷の隙間から一歩踏み出し、
全力で振り抜く。
青白い閃光がガルザ=ヴェルグの翼をかすめ、羽毛を焦がした。
だが、分厚い羽根がすぐに熱を散らし、ダメージは浅い。
怪物はむしろ挑発されたように、
喉の奥から怒りの咆哮を轟かせる。
「グロロロロォオオオ!!」
「援護するにゃ!」
リィナが叫び、光矢を連射する。
暴風に軌道を乱されながらも、
一本が肩口に突き刺さった。
――しかし、深くは入らない。
「羽毛が……硬すぎる……!」
セレスが息を詰め、残り少ない魔力を絞り出して補助魔法を展開。
「風の流れ、逆転……っ!」
小さく呟くと、ガルザ=ヴェルグの足元で空気がわずかに揺らぎ、突風を相殺しようとする。
だが、次の瞬間、
あっさりと掻き消された。
「魔力が……もう……っ」
セレスが膝をつき、
顔を青ざめさせる。
ガルザ=ヴェルグが尾を大きく振り上げる。
次の瞬間、突風に混じって鋭い岩片が飛び、氷柱の盾の一部を砕いた。
バキィッ!!
冷気が吹き出し、
氷の破片が四散する。
「持たない……!」
セレスが叫ぶと同時に、
リィナが素早く身を低くした。
悠真は必死に氷柱の盾を再構築しながら、雷光を纏った剣を振り上げる。
だが、盾には無数のひびが入り、
修復がまったく追いつかない。
リィナの矢が食いさがる。
五射、六射、七射――。
矢は風を裂きながら怪物の眼前をかすめ、その注意をわずかに逸らす。
しかしその間にも崖は削られ、
三人の立てる場所は刻一刻と狭まっていく。
「悠真、足場が――!」
「分かってる!」
――咆哮!!
風の王が大きく口を開き、
渦巻く空気の塊を吐き出した。
《ファイア・ボール》
――圧縮された灼熱の弾丸だ。
音すら歪ませる熱風が三人を直撃。
リィナの髪が激しく持ち上がり、
セレスのローブがビリビリと裂ける。
氷槍を形成しようとしたセレスの指先が震え、魔力の光があっさり霧散した。
「うわあああっ!」
「きゃああっ!」
崖縁から見下ろせば、下は果てしない霧と暴風。
何百メートル落ちるかわからない暗闇。
後ろは崖、前は怪物。逃げ場はどこにもない。
ついに――
崖縁。
三人の足元で、岩がパキパキッと音を立てて崩れ落ちていく。
ガルザ=ヴェルグの巨大な影が頭上を覆い尽くす。
黄金の瞳が、逃げ場のない獲物を冷酷に見下ろしていた。
次の瞬間、谷全体の空気が震え――
一瞬の静寂が訪れる。
暴風が、ふっと向きを変えた。
押し潰すような風圧がわずかに緩み、
代わりに“吸い込まれる”感覚が三人を襲う。
谷の空気そのものが、ガルザ=ヴェルグの周囲へと猛烈に引き寄せられていく。
「……来る」
セレスがかすれた声で呟いた。
悠真も肌で感じ取っていた。
これはただの突風じゃない。威嚇でもない。
――本気で“決めに来ている”。
ガルザ=ヴェルグは翼を大きく広げ、
ほとんど動かずに空中に留まった。
羽ばたきはない。
それでも、
あの巨体は微動だにせず浮いている。
――風そのものを踏み台にしているのだ。
谷全体が、息を止めた。
次の瞬間――圧縮された風が一気に解き放たれた。
先に衝撃が叩きつけられ、遅れて爆発のような轟音が追いすがる。
ドゴオオオオオオオン!!
「――伏せろ!!」
悠真が叫ぶ。
氷柱の盾が激しくきしみ、
無数のひび割れが一気に走った。
岩壁が削り取られ、
砕けた石が弾丸のように飛び交う。
衝撃は盾の裏側にまで突き抜け、
三人の体を強く揺さぶった。
リィナが短く息を呑む。
「……弓、もう――」
言葉の途中で、
ビチッという嫌な音がした。
飛来した岩片が、まるで狙ったかのように弦を直撃し、瞬時に断ち切っていた。
折れた弦の端が風に煽られ、
霧の中へ消えていく。
張りを失った弓は、
ただの木の棒と化した。
「くっ……!」
リィナは即座に短剣を抜くが、
距離も風も悪すぎる。
遠距離武器を失った今、
できることはほとんどない。
セレスは魔力を完全に使い果たし、
膝をついて肩で息をしていた。
冷気が集まらない。
集めても、次の瞬間には風に削られて消えていく。
「……もう、回らない……」
自分に言い聞かせるような、
弱々しい呟きだった。
悠真は歯を食いしばり、
盾を必死に前に突き出す。
だが、感覚でわかる。
――次の一撃は、耐えきれない。
そして、ガルザ=ヴェルグが再び動いた。
上空で静止していた巨体が、
突然翼を畳み、低く鋭く傾ける。
谷を切り裂くような速度で、
一直線に滑空してくる――!
飛行魔物の王。
その黄金の瞳が、冷酷に輝いていた。
狙いは、盾ではない。
悠真の背後にいる、二人の少女だった。
「……悠真……っ」
セレスの声は、風にかき消される。
ヴェルグの巨大な爪が、
鋭い弧を描いて襲いかかる。
悠真は前へ躍り出て剣を振り抜いた。
雷光が爪先を弾き、火花が散る。
だが、その隙を狙っていたかのように、怪物の巨体が後方へ回り込み、二人の背後に影を落とす。
「しまっ――!」
悠真の叫びより早く、ガルザ=ヴェルグの尾が岩を叩き割り、崖縁が崩壊した。
ゴゴゴゴッ!!
リィナとセレスが一気に体勢を崩す。
「リィナ、セレス!!」
二人の身体が、宙に浮いた。
その一瞬が、
悠真には永遠のように感じられた。
無防備――。
ガルザ=ヴェルグの巨体が覆いかぶさる。
黄金の爪が、二人を薙ぎ払う軌跡を描いた。
――間に合わない。
次回は、
第68話『魔族の集う暗黒殿堂』です。
その勢いのまま崖下へと落ちていった。
谷底へと吸い込まれていく。
――落ちる。
世界が逆さまになる。
轟音。
風。
景色が流れ、谷底の闇が口を開けて迫ってくる。
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