第62話: どうか笑わずに待っていてほしい。
ルヴェリアの瞳が驚愕に見開かれる。
彼女でさえ成し遂げられなかった精度と速さで、氷壁が完成していた。
だが同時に、
セレスの身体は大きく震えていた。
小さな肩が上下し、
膝が折れそうになる。
借りた力が大きすぎたのだ。
幼い身に精霊の奔流はあまりに大きく、
吐息が白く濃くなる。
そのとき、
ルヴェリアがすぐ背後から抱き寄せた。
「もういい、よくやった……!」
その声は、
初めて聞くほど優しかった。
セレスは霞む視界の中で、
ルヴェリアの横顔を見つめた。
戦いの最中でも、その瞳は鋭く、
髪は雪に濡れながら赤銅色に輝いている。
――ああ、この人みたいになりたい。
その思いだけが胸に浮かび、
あとは意識が遠のいていった。
セレスの身体が力尽き、
雪の上に崩れ落ちた瞬間だった。
祭壇の奥に鎮座する《氷柱の盾》が、
深く澄んだ音を響かせた。
それは氷がきしむ音でも、
鐘のような金属音でもない。
氷精霊そのものの声が、
空気の中に溶け出したかのような音だった。
青白い光が盾の縁からほとばしり、
雪嶺の村全体を包むように広がっていく。
その光は次第に形を持ち、
無数の細かい霜の粒子となって宙に浮かび、やがて村を取り囲む巨大な氷の結界を形成した。
ひび割れ崩れかけていた盾が、
その瞬間だけ、
蒼白の輝きを取り戻したのだ。
まるで、長きにわたる守護の役目を終えるため、最後の一滴まで力を振り絞り尽くしたかのように。
結界は雪嶺の峰々まで届き、
魔物の突進をことごとく弾き返した。
「……っ、これは……」
ルヴェリアが振り返り、目を見開く。
自分の魔法でもなく、
村人の祈りでもない、
セレスひとりの叫びと盾の響応が、
ここまでの奇跡を生み出したのだ。
結界の外では、
なおも魔物たちが咆哮を上げていた。
だが氷の壁は崩れない。
むしろ内側から伸びるように霜の棘が突き出し、群れを押し戻していく。
まるで村そのものが
巨大な氷精霊に守られているかのようだった
ルヴェリアは荒い息をつきながら、
杖を握る指を白く染めた。
雪原に横たわるセレスは、
もう動かない。
祭壇の《氷柱の盾》が生んだ結界は、
なおも村を守り続けていた。
だが――その結界の内側にも、
数体が入り込んでいる。
牙を剥き、
逃げ場を失った獣のように、
凶暴さを増していた。
「……っ来るな……!」
ルヴェリアは杖を振り抜き、
雷光を叩きつける。
紫電が雪を割り、
魔物の一体を焼き焦がす。
しかし息を整える暇もなく、
別の影が脇腹へ飛びかかってきた。
咄嗟に腕で防ぐと、
爪が外套を裂き、血が飛んだ。
鋭い痛みに視界が歪む。
彼女はよろめきながらも杖を突き出し、
炎の奔流を吐き出させた。
爆風が二体まとめて吹き飛ばすが、
衝撃で自分も膝をつく。
「まだ……終われない……」
雪を握りしめ、立ち上がる。
息は白く荒れ、胸は痛み、
魔力が指先からこぼれ落ちそうだった。
それでも足を前へ出した。
ひときわ大きな魔物が、
低い唸り声とともに背を丸め、
突進してくる。
ルヴェリアは後ずさりしながら杖を構え、氷の槍を呼び出す。
鋭い氷槍が幾本も生まれ、
獣の胸を狙う。
しかし獣はそれを砕き、
なお勢いを止めない。
「くっ……!」
避けきれない。
そう思った瞬間、
ルヴェリアは杖を地面に突き立て、
周囲の雪を渦に変えた。
風が唸り、獣の足元を奪う。
バランスを崩した隙に、
彼女は至近距離から光の槍を叩き込んだ。
眩い閃光。
爆ぜる衝撃。
獣が倒れ、雪煙が舞い上がる。
視界が真っ白に霞む。
耳鳴りが続き、立っているのか倒れているのか分からなかった。杖を握る手は汗と血で滑り、吐く息は凍るように痛い。
「あと……少しよ……」
ふらつく足を無理やり踏み出し、
残る影へ向かう。
魔物が振るった爪が、
頬をかすめた。
温かい血が雪に散る。
だがルヴェリアは怯まず、
杖の先に小さな光球を宿した。
次の瞬間、
それは弾丸のように魔物の頭蓋を貫いていた。
残り一体。
牙をむき、背を丸める影。
自分の魔力はほとんど残っていない。
呼吸を整えることもできない。
それでも杖を上げた。
「お願い……これで……終わって……!」
最後の魔力を絞り出し、
雷氷風をひとつに束ねる。
稲妻の軌跡が雪面を走り、
氷の槍がその背を貫き、
風の刃が首を裂いた。
魔物が絶叫し、雪に崩れ落ちる。
静寂。
ルヴェリアは杖に体を預け、
その場に膝をついた。
視界の端で、
氷の結界が青白く輝き、
村を守り続けているのが見える。
「よかった.....」
顔を上げると、
村人たちが息を呑みながらこちらを見ていた。
誰かが堪えきれずに駆け寄り、
ルヴェリアの肩を支えた。
「ルヴェリア様……
あなたがいなければ、村は……!」
別の者が膝をつき、
血の滲む彼女の袖を見て顔を歪めた。
「こんなに……傷を……」
「もう大丈夫です、休んでください、結界が――」
口々に感謝と安堵の声が飛び交う。
恐怖に震えていた村人たちの目に、
いま初めて光が宿っていた。
ルヴェリアは弱々しい笑みを浮かべ、
肩で息をしながら首を振った。
「……私じゃない……あの子よ」
囁くようにそう告げると、
視線を結界の中心に向ける。
そこには、雪の上に横たわる小さな影
――セレスがいた。
村人たちが一斉にその方向へ目を向ける。
その静かな動きは、
雪崩の前触れのようにゆっくりだが、
確実に広がっていった。
「……あの子が……」
「《氷柱の盾》が……応えたのか……」
小さな囁きが雪のように広がっていく。
長老が杖をついて歩み出る。
セレスに手を伸ばしかけ――
その寸前で、指を止めた。
そして、
何も触れぬまま深く頭を垂れた。
「雪嶺の守り手……
この目で見ることになるとは……」
その言葉に、
村人たちの視線が、自然と雪へ落ちた。
誰に命じられたわけでもない。
そうするのが正しいと、全員が悟ったのだ。
雪の中、
ひとり立ち尽くすルヴェリアは、
震える指先で杖を握りしめた。
血で濡れた外套、裂けた袖、
浅く荒い呼吸。
――あの子の結界が、
わたしをも守ってくれていた。
――もう、あの子は
私を追い越し始めているのかもしれない。
視線の先で、
セレスは静かに眠っている。
声をかけようとは思わなかった。
ただ、守られている村と、
その中心にいる少女の姿を目に焼きつけた。
氷精霊の囁きが、
遠くからかすかに響く。
雪嶺の村に、ようやく静けさが戻った。
だがその静けさは、
もはや以前と同じ意味を持っていなかった。
ーーーーー
――これは、あのとき
雪の上に倒れていた私自身の記憶だ。
あの日から、
もう二年と少しが経った。
時間というものは、氷と似ている。
溶けるのにひどく長くかかるかと思えば、
一瞬で砕け散ることもある。
私にとってルヴェリアとの日々は、
いまだ胸の奥で解けずに残っている氷片のようなものだ。
触れれば痛むし、
同時にどこか甘美でもある。
いや、甘美というよりは、
そうだな……例えるなら、
数式がようやく答えに収束した瞬間の心地よさに近い。
最後に彼女を見たのは、
戦いの後だった。
荒れ果てた大地の上、
血と炎と氷が交じり合う中で、
彼女は微笑んでいた。
あの微笑みは、
何というか……不公平だ。
勝利の証とも別れの合図ともつかない顔で、「じゃあね」と一言だけ残して背を向けたのだから。
私は呼び止められなかった。
いや、呼び止める方程式が頭に浮かばなかったと言うべきか。
どんな言葉を並べても、彼女の歩みを止める係数にはならなかっただろう。
彼女は、外の世界へ進むことを選んだ人だった。
村に残った私は、
氷魔法の鍛錬に没頭する日々を送っている。
鍛錬といっても華やかなものではない。
朝、凍てつく泉で魔力の流れを整え、
昼は畑の雪解けを手伝いながら術式の応用を考える。
夜になると、
ひたすら氷柱を打ち出し、
その形と強度を観察する。
要するに、氷と私、
そして計算ばかりの生活だ。
退屈かと問われれば、
まあ、答えは否だな。
退屈という概念は「目的-手段=0」のときに成立する。
私はまだ解に到達していない。
だから退屈にはなりようがないのだ。
ただ、時折思い出す。
ルヴェリアの背中を。
彼女の術が描いた軌跡を。
そして、私に残した言葉を。
――「またね」。
この曖昧で、
しかし確かに希望を含んだ一言が、
今の私を動かしている。
私は彼女に追いつくと決めた。
方程式で言えば、
私の未来=ルヴェリア+α、
というやつだ。
αは努力でも執念でも、
あるいは未だ解けぬ感情でもいい。
とにかく、解を導き出すために
私は氷魔法を磨き続けている。
村の人々は私を少し変わり者だと思っているらしい。
「理屈っぽい」と笑われることもしばしばだ。
けれど、
自分ではそれほど自覚がない。
私はただ、物事を理解しやすい形に並べ替えているだけだ。
氷の結晶が六角形を選ぶように、
私の言葉も自然に数式めいてしまうのだ。
まあ、正直に言えば、
時々「面倒な性格だな」とは自分でも思う。
けれど、
それもまた私という方程式の一部。
消去するには惜しい。
だって、ルヴェリアはそんな私を否定しなかったのだから。
……そう、彼女は否定しなかった。
戦いの最中も、
私が理屈を並べ立てた時も、
彼女は苦笑しながら受け止めてくれた。
あの寛容さがどれほど貴重だったか、
今になって思い知らされる。
だから私は、
彼女にもう一度会いたい。
ただ再会するだけではない。
胸を張って「ここまで来た」と言える自分でありたい。
追いつき、肩を並べ、その先で新しい定理を描きたい。
いつの日か。
その言葉を、
私は何度も心の中で反芻する。
氷が溶け、水となり、再び凍り、
また形を変えるように、
時間が巡ってもこの誓いは消えない。
ルヴェリア。
あなたは今どこを歩いているのだろう。
遠い地で、知らない誰かと笑っているのだろうか。
それとも、一人で杖を振り続けているのだろうか。
想像するたび、胸の奥がぎゅっと痛む。
でも、
その痛みは私を立ち止まらせない。
むしろ逆だ。
あなたの背中を思い出すほど、
私は足を前に出す。
だから今日も、私は氷柱を打ち出す。
砕け散る音は、未来へと伸びる合図だ。
「努力=私の毎日。
結果=あなたに届く日。
まだ答えは出ていないけれど、
必ず解いてみせる」
氷魔法を操る少女、セレス。
私は、必ず、
あなたが歩んだ先に辿り着く。
この村の片隅で氷と語らう私が、
遠い未来のあなたに並ぶことを、
――どうか笑わずに待っていてほしい。
ーーーー
夜空に凍りつく星々が瞬いた、
まるで、
その声を聞いているかのように輝いた。
次回は、再び、悠真、リィナ、セレスの3人が
ヴァルドレアの冒険者ギルドで
飛行魔物討伐の依頼を受ける物語へと続きます。
第62話、最後まで、
ご覧いただきありがとうございます。(^^)
皆さんのおかげで続いてます。感謝です。
次回は、第63話『中継都市〈ヴァルドレア〉』です。
「ついにあの魔城が――」
「勇者たちもただじゃ済まなかったらしい。」
「……他の前線は総崩れだって聞くぜ」
朗報と惨状が同時に飛び交い、
まるで一枚の布の表と裏のように絡み合っている。
――誰もが真実と噂の境界を見失っていた。
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