第56話: “血染めの執行者”ヴァルド
港の空気が、じわりと変わっていく。
昼が落ち、夕暮れが沈み、夜が街を覆った。
月が昇るにつれ、三日月紋が淡く光をまといはじめる。
石畳、屋根、街灯――
街のそこかしこに刻まれた紋が、
まるで呼吸をするように脈動し明滅していた。
リィナが小さく息をのむ。
「……街そのものが、生きてるみたい……にゃ」
セレスが短く頷く。
「魔力の流れが集まりはじめた。
起動まで、もう時間はないわ」
港に鳴り響く合図の鐘。
ヴァルドの旗艦が、ゆっくりと錨を上げる。
マストに掲げられた月影商会の紋章が夜風にはためき、黒衣の術士たちが甲板に整列する。
漏れ聞こえる詠唱の響きが、海面に溢れていた。
「……始まったな」
悠真が呟く。
セレスは迷いなく一歩踏み出す。
「行くわよ」
三人は倉庫街の裏手へ向かった。
古びた木扉、錆びた鉄鍵――エルムが話していた通りだ。
扉を押すと、湿った冷気とともに地下へ続く石段が現れる。
踏み込んだ瞬間、ひやりとした水音が足元に広がった。
「水路の流れはゆっくりよ。音を立てないで」
セレスがささやく。
リィナが矢を握り直す。
「にゃ……船底まで、あとどれくらい?」
「二百メートル。
途中の分岐を右に曲がれば、竜頭像の真下に出る」
悠真が先頭に立つ。
足首を冷たい水が満たし、
苔むした壁に灯が反射する。
頭上では、船員たちの声と足音が遠く揺れていた。
潮の匂いと鉄の気配が入り混じり、
重苦しい空気が肌にまとわりつく。
「合図を出したら、一気に上がるわよ」
セレスが囁く。
「にゃ……バレたら最後だにゃ」
リィナが小さく肩を縮めた。
悠真は静かに頷くだけだった。
進むほどに、水面に細かい光粒が漂い出す。
セレスが低い声でつぶやく。
「……結界紋の魔力が漏れ始めてる。起動が近い証拠よ」
「間に合うのかにゃ……」
リィナの声がかすかに揺れる。
「間に合わせるの。
一回限りの計算式に賭けるなんて、
我ながら愚かだと思うけど」
セレスの声音は淡々としているが、揺らぎはなかった。
悠真が振り返る。
「それでも......俺たちでやるしかないんだ」
やがて、水路は鉄格子に突き当たった。
その向こうに、船底の補強梁と巨大な竜頭像の影が見える。
セレスが短く呪文を唱えると、
格子が白く霜に覆われ、
ぱき、と小さな音を立てて砕けた。
「今よ!」
悠真とリィナが同時に押し広げ、
きしむ音とともに鉄が裂ける。
三人は水路から、
船底へ身を躍らせた。
足をつけた瞬間、冷たい魔力の風が肌を撫でる。
船体そのものが赤紫に脈打ち、まるで巨大な心臓の内側にいるようだった。
リィナが震える声で漏らす。
「……ここが、結界の核……にゃ」
セレスは掌の紋をかざし、じっと光を確かめる。
「あと一刻で起動する」
そのときだった。
船底の奥から、濁った風が吹き抜ける。
血と鉄が混じった匂い。
重く、地を踏みしめる足音。
「来た……!」
リィナが矢をつがえる。
闇の奥から現れたのは、
黒い外套をまとった異様に長身の男。
全身棘だらけの鎧に覆われた巨躯が、
水路を押し割るように立ち上がる。
顔の下半分を覆う仮面からは、血色の刺青が首筋まで続いている。
背中に突き立つ無数の封釘が、
呼吸とともにかすかに震えていた。
生と異界を行き来する処刑執行人――
それが、ヴァルド。
赤い瞳が三人をひとつひとつ測るように見定める。
「“門”はすでに起動した。
お前たちの足掻きは死への前座に過ぎぬ」
声は凍てついた刃のようで、船底の鉄をきしませた。
セレスが息を呑むように名を呼ぶ。
「……“血染めの執行者”ヴァルド……」
リィナが矢筒に手を伸ばす。
「知ったことか……!」
悠真は雷光の剣を抜く。
細身の刃に魔力が流れ、紫電が走った。
手首を突き抜ける痺れは鋭く、獣の血が一瞬で沸騰した。
セレスが印を組み、呪文を紡いだ。
「やるしかない!」
悠真は一気に踏み込み、雷光の弧を描いた。
「ここで終わらせる!」
だが、ヴァルドは指先の軽いひと振りで、暗い鎖を生み出し、
剣撃を受け止める。
鎖の先端から黒い火花が散り、空気が一瞬ひやりと沈んだ。
リィナが滑り込むように脇を抜け、矢を二連射。
雷を帯びた矢尻が火花を散らし、ヴァルドの肩口をかすめる。
「今にゃ、悠真!」
悠真はもう一度踏み込み、雷撃を叩きつけた。
眩い軌跡が船底を裂くが、ヴァルドの仮面は微動だにしない。
その後方で、セレスはひたすら詠唱を紡ぎ続けていた。
青白い逆式の紋が、彼女の指先から床へと広がっていく。
(……集中、集中よ……一度でも途切れたら終わり……)
額を汗が伝う。別の魔術を組む余裕など、もうどこにもなかった。
悠真とリィナは、セレスを守るように戦い続ける。
雷光が走るたび、矢が放たれるたび、セレスの周囲に生じる揺らぎが削り取られていく。
「小賢しい……」
ヴァルドが片腕を払うと、漆黒の鎖が数十本、一斉に伸びた。
リィナが身をひるがえし、三連射で軌道を逸らす。
悠真は剣で切り裂く。
だが一本がセレスへ迫り――
悠真が咄嗟に飛び込んだ。
「悠真っ!」セレスの声が震える。
鎖がちぎれ、雷光が弾けた瞬間、彼の腕に深い裂傷が走った。
「くっ……大丈夫だ……!」
悠真は歯を食いしばり、剣を握り直した。
ヴァルドは微笑むことなく、淡々と歩を進めてくる。
「門はまもなく“ひらく”。お前たちの小細工など、塵ほどの価値もない」
その言葉どおり、船底の紋様が赤く、激しく脈打ち、空間が軋む。
海上の月が正中へ差しかかり、結界全体が赤い光に染まり。
ヴァルドは片手をかざすと、空気そのものが硬質化したかのように三人を押し潰した。
「重圧――!」
リィナの放つ矢は空中で折れ、火花のように散る。
悠真の斬撃は青い稲妻となって走るが、ヴァルドの指先の一振りで掻き消された。
「人間が、この結界の中核に触れようなどと――笑止」
声と同時に床板が裂け、
魔力の触手が伸びる。
三人は一斉に飛び退き、すぐに反撃に転じた。
リィナは足場を軽やかに蹴り、
宙返りしながら二連射。
悠真は氷柱の盾を展開――
触手を受け止め、反射の凍結反撃。
凍結の勢いを盾で押し上げ、
船底そのものを凍らせてヴァルドの足を止める。
だが――
ヴァルドの強さは、圧倒的だった。
氷をひと踏みで砕き、
放たれた矢も片手で払う。
「無駄だ。
門はすでに“彼方”とつながった。
お前たちの足掻きなど、砂粒にすぎぬ」
海上に広がる巨大な魔法陣が赤く脈打ち、
空が低く唸った。
リィナが必死に矢を放ちながら叫ぶ。
「にゃ、もうヤケくそにゃ……!」
セレスが声を張り上げる。
「悠真! 時間がない!」
ヴァルドが咆哮し、
魔力の鞭が船底を裂いた。
「小さき命ども、祈るがいい!」
港全体が震え、
光の柱が立ち上がる。
月が真上へ昇り、
三日月紋が燃え上がった。
――門が、開いた。
赤い空が裂け、
都市の上空に巨大な歪みが広がる。
見たことのない異界の風景が一瞬のぞき、
無数の影が蠢いた。
セレスが顔を上げ、震える声で叫ぶ。
「始まったわ……!」
リィナが矢を握り締める。
「にゃ……今しかないにゃ!」
「うおおおお!」
悠真が全身に雷光をまとい、
一気に突進した。
鎖がいくつも迫る。
身を捻り、剣で弾き、足を止めずに進む。
セレスは逆式の詠唱を止めず、声を張り上げた。
「あと数呼吸……“門”の中心に触れれば……!」
ヴァルドの鎖が最後の一撃として振り下ろされる――
その瞬間、
悠真は左腕を掲げた。
氷柱の盾――
短時間の巨大な氷壁を展開し、
仲間を包み込む防御障壁として機能する。
バキバキと凍る音とともに、
青白い壁が鎖を受け止めた。
「今だ、走れ!」
そのわずかな隙に、
リィナとセレスは駆けだし、
導点へ飛び込んだ。
赤黒い光が渦を巻く中心、
その導点に二人の掌が触れようとする――
悠真は氷盾を押し広げ、
最後の力でヴァルドを引き離した。
そして、瞬間的に振り返り、
二人に向かって掌を突き出した。
「犠牲になるのは俺だけでいい!」
青い閃光が弾け、
二人の身体が後方へ弾かれた。
悠真は血走った瞳で叫ぶ。
「ここから先は――
俺がやる!」
雷光が、
悠真の全身を包み込んだ。
第56話、最後まで、ご覧いただきありがとうございます。ほんと嬉しいのです(^^)
次回は、第57話『黎明の導印』です。
ヴァルドがかすれた笑いを洩らす。
「……愚か者め……門は主を選ぶのだ…… 。貴様になどに従うものか!」
リィナもよろめきながら声を上げた。
「だめっ……悠真、離れるにゃ!」
「まだだ……まだ終わっていない……っ!」
ブクマ、評価、して頂けると励みになります。m(_ _)m。
ぜひ応援よろしくお願いします。
いろいろなご意見、感想もお待ちしています。感想もお願いします。




