第41話: 雪山の奥に英雄の残響
雪深い山を登るにつれて、空気は刃のように冷たくなり、息をするたびに肺が凍りそうだった。
白銀の世界は一見、静寂に包まれている。だがその奥に潜む危うさは、誰もが肌で感じ取っていた。
「ここから先は、村の者でもめったに立ち入らないわ」
セレスが足を止め、鋭い視線を雪嶺の奥へと向ける。
「地形が不安定で、雪崩も多い。……危険は承知よね?」
「もちろん」
悠真は白い息を吐き、短くうなずいた。
「英雄の盾……本当にあるのなら、この目で見てみたいにゃ」
リィナは頬を赤く染めながら笑う。その声は、冷たい風の中で小さく弾んだ。
三人は、ひたすらに雪を踏みしめて進む。
セレスがぽつりと呟いた。
「言っておくけど、毎年ここを歩き回ってる私が見つけられなかったのよ。そう簡単に出てくるはずが――」
その言葉を遮るように、リィナが耳をぴくりと動かした。
「わ、待って! なんか聞こえる!」
凍てつく風の合間に、かすかな「ガラガラ」という低い音が混じる。次の瞬間、頭上から雪の塊が崩れ落ち、斜面の一部がざくりと裂けた。
「雪崩か!? 伏せろ!」
悠真がリィナを抱き寄せ、セレスは咄嗟に地面へ手を突き立てる。
瞬間、鋭い氷の壁が隆起し、三人を覆い隠した。
轟音が大地を揺らす。
まるで山そのものが崩れ落ちてくるかのような圧力。
雪は巨大な獣の咆哮のように空気を切り裂き、氷壁へ幾度も叩きつける。白い衝撃が続けざまに押し寄せ、視界も音も全て奪っていった。
息が詰まりそうになる。
悠真は歯を食いしばり、氷壁が軋む音に耳をすませた。
もしセレスの魔法が一瞬でも遅れていたなら、今頃ここには誰もいなかっただろう。
やがて、地鳴りのような轟きが遠のいていく。
セレスが荒く息をつきながら、氷の壁を解いた。
目の前に広がるのは、雪崩によって削られた新しい斜面。
谷底からは氷塊が砕け落ちる音がかすかに響き、雪煙が漂っている。
「……危なかった」
リィナが小さく息を吐く。頬に触れる雪は冷たく、まだ鼓動が早かった。
セレスはしばらく雪の流れを見つめ、唇をかすかに動かした。
「……ほんの端をかすっただけよ……。中心部にいたら、私の氷壁なんて紙みたいに潰されてたわ」
その言葉に、悠真とリィナは息をのむ。
今の雪崩でさえ、この山は本気を出してはいない――。
そんな実感が、じわりと背筋を冷やした。
雪煙がゆっくりと晴れていく。
崩れた斜面の下層が剥き出しになり、岩肌がざらりと音を立てて崩れ落ちる。
すると、その奥、雪の層が抉れた先に、黒々とした縦の裂け目が浮かび上がった。
「……あれ、穴?」
リィナが耳をぴくりと動かし、首を傾げる。
セレスは眉を寄せ、一歩踏み出した。
「雪崩で雪が削られたのね……。でも、こんな奥に――」
彼女の声が途切れる。
最初はただの岩の割れ目かと思った。
だが、影は次第に形を広げ、縦長の裂け目として浮かび上がる。
そこから漏れる風は、氷の匂いとは違う、古びた鉄の匂いを孕んでいた。
「……まさか」
彼女の瞳に、確信と畏怖が交錯した。
「洞窟だ......」
悠真が低く呟く。
セレスも目を細め、
「なんてこと……雪に隠れていたのね」と小さく息を漏らした。
三人は慎重に足を進め、洞窟の奥へと入っていく。
氷柱が林立する薄暗い空間。
足音が、妙に大きく響く。
リィナが耳をぴくりと立てた。
「……ねぇ、聞こえない?」
悠真も息を殺す。
確かに――
キィン……キィン……
遠く、しかし確実に、金属が軋むような、細い響きが壁を伝って伝わってくる。
音は、奥から、まるで導くように。
それは、風のせいではない。
もっと弱く、もっと儚く、壊れかけた鐘の残響のようだった。
セレスが呟いた。
「……これは、盾の死に絶えた声」
彼女の声は低く、どこか哀しげだった。
三人は無言で進む。
氷柱の間を縫い、凍てついた水たまりを避けながら。
響きは次第に弱くなり、まるで力を失っていくように途切れがちになる。
やがて、通路は急に開けた。
そこに――
雪と土に半ば埋もれるように、一枚の大盾が横たわっていた。
長い年月の間、凍てつく氷と湿気に蝕まれていたはずなのに、不思議とその輪郭だけは力強さを保っていた。
「これが……」
悠真が息をのむ。
もはや盾としての形は保っていない。
だが、その重厚な意匠と刻まれた紋章が、ただの鉄屑ではないことを雄弁に語っていた。
セレスが近づき、目を細める。
「信じられない……確かに、村に伝わる紋章だわ。英雄が使ったとされる盾……でも、こんな場所で朽ち果てているなんて……」
悠真は盾を持ち上げ、雪に反射する光の中でじっと見つめた。
壊れてはいる。しかし、どこか生きているような感覚――微かな鼓動を指先が感じ取る。
セレスは険しい表情のまま続けた。
「昔の人々は、この盾が“雪山そのものの力”を宿すと信じていたわ。雪崩や氷嵐の力を受けて強さを増す……そんな伝承もあった。
でも今の姿を見れば……ただの錆びた鉄くずにしか見えない」
その声には、失望と疲れが滲んでいた。
「結局、村を救う力なんて、もう残ってなかったのね……こんなんじゃ、何の役にも立たないわ」
だが悠真は黙ってしゃがみ込み、指先で盾の表面をなぞった。
冷たい鉄に触れた瞬間、背筋を稲妻のような感覚が走る。
「……違う。まだ終わってない」
リィナが首を傾げ、「どういうこと?」と問う。
悠真は立ち上がり、洞窟の出口に広がる斜面を見上げた。
「……感じるんだ。この盾は、まだ息をしてる」
悠真は盾を胸に抱き、目を閉じた。
「雪山の力を喰らい、甦る――それが伝承の真実だ。
盾の意志が、俺を呼んだんだ」
「――次の雪崩を、真正面から受け止める。
盾を抱えて、中心へ飛び込む」
その言葉に、セレスは凍りついたように振り向く。
「雪崩を……? どうして? 何のために? 正気じゃないわ! あの規模の力をまともに受けたら、盾どころか身体ごと押し潰されるだけよ!」
「それでも俺は、やる」
悠真の声は静かで、けれど一点の迷いもなかった。
セレスは食い下がる。
「意味がわからない! 私は何度もこの山で命を賭けてきた。雪崩は大地そのものの怒り……人の力で抗えるような相手じゃない!」
しかし悠真は盾を両手で握りしめ、深い息を吐いた。
「俺には……“進化の力”がある。この盾を甦らせる」
セレスは眉をひそめる。
聞き慣れない言葉に戸惑いを隠せない。
「進化……? 何を言っているの?」
悠真は微笑を浮かべた。
「抗うんじゃない。受け入れるんだ。この盾と一緒にな」
「悠真のこと、信じていいよ。この人は……未来を掴む力を持ってるにゃ」
リィナの無邪気な笑みの奥に、揺るぎない信頼が宿っていた。
「わたしも一緒に行く」
リィナが続ける。
セレスが目を剥いた。
「な、何を言ってるの? 二人ともわかってるの? そんな真似をしたら、雪崩に巻き込まれるだけだわ!」
しかしリィナは笑みを浮かべ、首を振った。
「悠真と一緒なら、平気にゃ」
その笑顔に、セレスの言葉は途切れた。
ふたりの覚悟が、白い息とともに空へ溶けていく。
⸻
「セレス、お前の力が必要だ」
悠真の声に、セレスは唇を噛んだ。
雪崩を操るなど、セレスの魔法の極致。制御を誤れば命を落とす。
それでも――この瞳を見て、拒むことなどできなかった。
悠真は右手を翳し、指先から小さな光を召喚した。透き通る氷の結晶をはめ込んだ銀の環が虚空に浮かび上がり、呼吸をするように蒼く輝いていた。
「……これは?」セレスが目を細める。
「俺の力で創った魔道具だ。《氷霊のレンズ》って呼んでる。
氷魔法を増幅させて、制御を助けてくれるはずだ。」
《氷霊のレンズ》
① 氷属性の魔力を吸収・増幅し、術者の氷魔法を数倍に引き上げる。
② 発動中は魔力の揺らぎを整え、暴走や制御不能を防ぐ作用を持つ。
③ ただし、使用者の体温と魔力を削り取るため、長時間の使用は凍傷や意識喪失を招く危険がある。
セレスは環を手に取り、掌の中で見つめた。
氷霊の囁きが、かすかに耳の奥をくすぐる。
「これを……人間が作ったの?」
彼女の瞳に、驚きと敬意の光が混じる。
「いいわ。受け取る。この力で、あなた達の望みに応えてみせる」
《氷霊のレンズ》を腕に装着した瞬間、風が渦を巻いた。
髪が舞い、空気そのものが凍りつく。
氷の精霊が、遠くで歌っているようだった。
「......なるほど、理解したわ。ただし――命を捨てるつもりで構えなさい。私の“絶氷魔法”は、この山を揺らす」
セレスが両手を掲げ、詠唱を始める。
冷気が迸り、洞窟の天井から氷柱が伸びる。
《氷霊のレンズ》の輝きをまとった掌が蒼光を放ち、山肌へと突き刺さった。
――轟。
大地が軋み、谷全体が唸りを上げる。
雪と氷が振動し、斜面の奥に巨大な裂け目が走った。
白銀の山が牙を剥く。
雪塊が浮き上がり、音を失った世界に、ただ圧倒的な轟音だけが響いた。
――雪崩。
それは雪ではなかった。
氷河そのものが崩れ落ちるような奔流。
大気を押し潰し、大地を呑み込み、すべてを白く塗りつぶす死の波濤。
「来るぞ!」悠真が叫ぶ。
「悠真!」リィナが背に重なり、その手を重ねる。
二人は並んで、迫りくる雪の奔流を見据えた。
世界が、白に飲まれる。
彼らは逃げなかった。
ただ、真正面から――雪崩の中心へと、立ち尽くしていた。
第41話、最後まで、ご覧いただきありがとうございます。嬉しっす。(^^)
次回は、第42話『雪嶺を統べる者"氷鱗王ヴァルスルグ"』
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