タイトル未定2025/09/08 00:05
「私、彼氏できたんだー!」
登校時、教室にて。言葉の意味や感情などが空気中に溶け込み、ただ騒々しさだけが俺を包んでいた。その音の全てが、弾む彼女の言葉に一瞬ぴたりと殺された。
当たり前だが、それは俺の妄想に過ぎない。実際には高校生の恋愛話なんて掃いて捨てるほど溢れていて、いつもふたりで行動する俺らの恋愛にまで聞き耳をたてるほど暇な人も恋愛話に飢えている人もひとりもいなかった。
「優斗?」
反応しなければと思うほど口は動かなくなり、とうとう彼女が不思議そうに首を傾げた。「ごめんなんでもない」
「そお?」
いつもはおれがぼーっとしていたらあげつらって笑うのに、と思ってからああそうか、そんなことより彼氏の話がしたんだ、と気づく。勝手に考えて勝手に傷つく、俺の感情も彼女は興味がないようだ。瞳は俺の斜め上ほどにとび、まるで極上の幸せを見ているかのようにうっとりと微笑んでいた。
「ていうかさ、好きな人の話なんてしてなくなかった?」
「だって告られて初めて知ったもん」
「はあ!?」
「好きって言われたら好きになっちゃうタイプなのー!」
軽率なほど軽やかな彼女の言葉に愕然としたのち、とてつもない無力感に襲われた。告白という言葉が頭に浮かぶたび、いやいや成功なんてするわけがない、やめておけと自分に言い聞かせていた。勇気が出ない言い訳だとはわかっていても成功する未来なんて見えない挑戦には飛び込めなかった。他者との関わりに消極的な彼女が周りからどう見えているかなんて知らなかったが、俺にとっては彼女は優しい、明るい、かわいい、その人を飾る多くの褒め言葉の象徴のような存在だった。
手を伸ばせば届くのであれば勇気を振り絞って手を伸ばしたのにーーー。負け惜しみでしかない醜い後悔が全身をつたって、狂おしいほどだった。
「告白されたのはいつ?」
「昨日!」
「あ、そ」
「え、もうちょっと反応してよ!ほら、取り立て新鮮の恋バナだよ」
「魚かよ」
俺たちは休み時間の多くを読書に費やしていた。それが本好きだからかただなにもせずに休み時間が過ぎるのを虚しく待つのが嫌だったからなのかは全くわからなかった。
友達とする話なんてその大半はどうせ明日には忘れているような無意味なものばかりで、本を読む時間のほうがよっぽど価値がある。強がりでしかない持論を抱えて、優越感と劣等感が揺れる秤の上をゆらゆらと生きていた。
彼女と初めて話をしたのは美術の授業、ふたりから4人のグループになってポスターを描きましょうと言われたときだった。
「ごめんね、私も1人になっちゃうからペアになってもらっていいかな?」
彼女は、いつもひとりでいる人間特有の過度な自意識もじめじめとした不安定さもなく、私がひとり教室の端に誰にもばれぬように座っている隣に、がたんと軽やかな音をたてて座ってきた。なにも言えずにいる私を無視して「ポスターか、ポスターねえ」と画用紙をくるくるさせていた。今思えば彼女も緊張していたに違いない。自由でさばさばして見えた行動ひとつひとつは、きっと俺との会話が思いつかなくて困っていたのだろう。
とはいえ、3回の授業というのは人の関係性を変えるのに十分な時間で、
「普段の授業ではペアなんかいなくたってばれなかったんだけどねぇ」
「わかる。英語の授業の『隣の人と話しましょう』とかも、隣の人が友達と話しちゃって手持ち無沙汰になってもとりあえず横向いてれば誤魔化せたし」
「あわっかる!こんなにぼっちが公開処刑される授業マジ初めて」
そんな明るい人がきいたら憐んでしまいそうなぼっちトークで俺たちは簡単に仲良くなった。
それからは、普段は本を読んでのんびり休み時間を消費しながらも、話したいことがあったりペアを組まなければいけなくなったときにぼっちという事実と正面から向き合う苦痛を感じずにいられるようになった。人が35人収まる広い教室の中、彼女の隣だけが俺の居場所だと感じることができた。
彼女を好きになるのにそう時間はかからなかった。
吐き捨てるようなツッコミにも彼女はとても楽しいそうに肩を震わせて笑った。
「でさぁ、その彼なんだけど」
彼女がもったいぶるようにすうと息を吸ったとき、それを遮るように聞き慣れたチャイムの音が響いた。こんなにもチャイムの音に感謝したのは初めてで、苦手な数学の授業がチャイムが鳴っても終わらなくて、なんでチャイムってどこでも一緒なんだろう、工夫がないなと心の中で理不尽にも吐き捨てたことをほんの少しだけ後悔した。
「もう!」
宿題を忘れてくることはしょっちゅうだが基本真面目な彼女は、不愉快そうにしながらも自分の机へ戻っていった。
自分の鞄から筆箱を取り出す。『つけといてつけといて!』大学のサークルで姉が行った縁結びの神様がいる神社、そのお土産の縁結びのお守りが衝動に揺れてちりんと澄んだ鈴の音を鳴らした。授業中に鈴がなったらと気になって仕方がないし煩わしいのでとってしまいたい、それができないくらいには家の中でのヒエラルキーは確定している。姉が筆箱にお守りをつけたら、それが嫌でも抵抗してはいけない。その考えはきっと全国の虐げられている弟共通だと思う。
大好きな人との恋が一生続くことを守るこのお守り。見るたびに筆箱につけるときに姉がつぶやいた「ま、彼女なんてできないだろうけど」という言葉がリフレインして不愉快だ。
誰かの誰かの関係を引き裂く願いも、叶えてはくれるのだろうか。
衝動的に付き合った、それなのに彼女は彼氏と一ヶ月経ってもうまく行っているようだった。
「なんか私って人見知りじゃん?で、彼は友達多いんだけどね、私が大人数苦手だな〜って思いながら彼の友達とファミレスで過ごしてたら、彼それに気づいてすぐ解散ってしてくれて。あんなに明るいのに騒がしいのが苦手な人の気持ちまでわかんのすごすぎるっていうか」
「彼ほんと優しくてね、買い物付き合ってくれてしかも荷物も持ってくれるの!それで車道側歩いてくれるからさぁ。完璧すぎるよね」
「彼『女の子が夜道ひとりって心配だから』って言って帰り道おくってくれるの、家の方向逆なのに!すごくない!?」
私は、虚無な心の中にただなも知らぬ『彼』の情報だけが増えていった。彼女にとって、好きと思った瞬間は他者から受け取った恋が移った紛い物だとしても、もうその気持ち自体は本物であるようだった。
彼女は簡単に別れ、失恋に泣く彼女を慰め励ましていれば今度はこちらを好きになってくれるかもしれない、湯葉より薄い浅はかな思考を笑うように彼女はこの恋で幸せを掴み取っていた。
「幸せ?」
「なに急に。ちょー幸せだよ。君も彼女作んなよ」
その言葉に、曖昧に頷いた。彼女との関係性をずっと穏やかに続けていきたいと願うなら、この恋は潮時かなと考えた。
翌日、朝早く登校した俺は彼女の下駄箱に手紙を置いた。
『すき』
筆跡も変えて名前ものせないたった一言。律儀な彼女はきっとこの手紙を書いた人を探して、持ち前の諦めの良さで無理だとわかったらすっぱりと諦めるだろう。
彼女と彼氏の関係性に、手のひらでちょんと押すような小さな波紋だけでも起こせないだろうか。
俺は、それを期待している。