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新エースの証明

五月の風は、まだ少し冷たい。

でも、胸の奥には熱いものが渦巻いていた。


高校に入って初めての公式戦。

あの時止まった時間を、もう一度動かすためのスタートライン。

観客席にいる凛先輩の姿を目で探す。

ボードを抱えながら、淡々と仕事をしている。

でも、私の目線に気づくと、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

それだけで、呼吸が深くなる気がした。


「次、100m、女子予選第三組!」

コールと同時に、スパイクの紐を結び直す。

手は震えていない。いや、震えないように抑えている。

――中学1年、全国2位。

――中学2年、再び2位。

――そして中3、足首の怪我で最後の全国を逃した。

あの時から、ずっと立ち止まっていた。

だけど、今日このレーンに立てた。

あの日追いかけていた背中のすぐ近くまで来られた。

そして今度は、凛先輩と“並んで”走るために、私はここにいる。


スタブロをセットして試しに走る。思っていたよりも自然と足は出て、いいスタートだった。

いける。そう確信を持たざる負えなかった。


「On your mark――」


スターティングブロックに足をかけた瞬間、

会場の音がすっと遠のいて、世界が自分だけのものになった。

――よくここまで戻ってきたね。

頭の中で、凛先輩の声が聞こえた気がした。

あの人のために、じゃない。

あの人と“一緒に”走るために。

私の足で、私の新たな夢を――。


「Set――」


…………パン!


空気が割れて、私の体が反応する。

蹴り出す足が軽い。空気を切る感覚が懐かしい。

フォームの修正も、リズムも、頭じゃない。体が覚えてる。

気づけばもうゴールが見える。

視界の端に、他の選手の姿はない。

ただまっすぐに、風を裂くように走る。


フィニッシュラインを超えた瞬間、息が切れた。

周りの音が戻ってくる。

歓声。どよめき。そして、少し遅れてアナウンス。

「ただいまの女子100m総合の結果を伝言掲示板に表示しています。

武蔵野女子高等学校、椎名碧さん。11.75―― 」

「大会新記録、一位です!」

ざわめきが広がる。

後ろで拍手が起こる。名前を呼ぶ声が聞こえる。

でも、私はただ一人の視線を探していた。

スタンドの上、凛先輩が立ち上がっていた。

ほんの少しだけ、目を見開いて、

それからゆっくり、胸の前で手を叩いてくれた。

その音が、どんな歓声よりも大きく響いた。


試合後、観客席に戻ると、まだ、私の話をしている人がいた。

「速いって聞いてたけど……マジでバケモンじゃん」

「凛先輩、あの子だけには本気だったもんな」

嬉しくなかったわけじゃない。

でも、それ以上に、ただ静かに胸が満たされていた。

走れた。

戻ってこられた。

そして、私の“いま”を、凛先輩が見てくれた。


その夜、布団の中で涙は出なかった。

代わりに、ずっと心の中でこう繰り返していた。

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