もう一度、走る理由
朝のグラウンドに、まだ夏の名残が残っている。
陽射しは優しく、風は少し冷たかった。
その中で私は、少しだけ呼吸を整えてから、トラックに立った。
いつからだろう。
走る前に「怖い」と思うようになったのは。
でも、それ以上に。
「もう一度、走りたい」と思ってしまっている自分が、確かにいる。
「碧、今日は少しペース上げてみようか」
凛先輩がボードを抱えたまま、こちらに微笑む。
その笑顔はとても自然で、優しくて。
だけど、私には見えてしまう。
その奥にある、走れなくなった人だけが抱える静かな痛み。
「はい、やってみます」
私は答えながら、心の奥でゆっくりと自分に問い直していた。
私は今、何のために走ろうとしているんだろう。
凛先輩の背中を初めて見たのは、小学生の県大会だった。
同じクラブに入り、全中ではずっと一緒に優勝を目指して、走ってきた。
速くて、強くて、でもそれ以上に、真っ直ぐな人だった。
憧れであり、友達であり、ライバル。
彼女に追いつけば、私も強くなれる。
彼女を超えることができたなら、何かが変わると思っていた。
けれど、今。
その背中は、もう走っていない。
あのインターハイの決勝。
ゴール直前で転倒し、立ち上がることなく担架に運ばれた彼女。
テレビ越しに見たその姿を、私は今も忘れられない。
あの瞬間、彼女のすべてが止まった気がした。
それでも凛先輩は、陸上部に残った。
母親の期待、強さを求められ続けた日々、そして失われた夢。
そのすべてを抱えて、今、誰かの支えになろうとしている。
「フォーム、少し右肩が上がってるよ。力んでる証拠」
凛先輩の声に、はっとする。
私は気づかぬうちに、呼吸も心も浅くなっていた。
「ごめんなさい。…」
「ううん。焦る気持ちは分かる。でもね、急がなくていい。走るって、結果じゃなくて積み重ねだから」
その言葉が、まるで昔の自分に向けられたもののように聞こえて、私は何も言えなかった。
練習後、凛先輩は静かに私の隣に座った。
空は高く、遠くで他の部員たちの笑い声が風に流れていた。
「碧はさ、これからどうなりたいの?」
突然の問いに、私は答えをすぐに出せなかった。
以前なら、迷わず「先輩みたいになりたい」と言っていただろう。
でも、もうそれは違う。
「……先輩と、もう一度、一緒に走ってる気持ちになりたいです」
凛先輩がこちらを見る。驚いたような、でも嬉しそうな瞳だった。
「私は、走れないけど?」
「そうじゃなくて……。ずっと追いかけてたんです。先輩の背中。ずっと前を走ってて、眩しくて。
でも、もう追いかけるんじゃなくて……横に並びたいって思いました。
一緒に、同じ景色を見て走れるようになりたいんです」
それが、今の私の夢だった。
凛先輩は、少しだけ顔を伏せて笑った。
「そんなふうに思ってもらえるなんて、贅沢だな」
その声は、少しだけ震えていた。
「じゃあ、タッグを組もうか。碧の走り、私が全部支える。
碧が走ることで、私もまた、走れる気がするから」
私は頷いた。
それは、ただの指導者と選手ではない。
夢を、痛みを、未来を、共有するふたりの始まりだった。
まだ怖さはある。
でも、たとえ少しずつでもいい。
私はもう一度、走る。凛先輩と共に。
その日、風が強く吹いた。
まるで止まっていた時間が、少しだけ動き出したようだった。




